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大河から学ぶ日本史
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このチャンネルでは大河ドラマで出てきた疑問や裏設定などを優しく解説するチャンネルです。
もしわからないことなどがあればお気軽にコメントしてください。
愛を貫いた悲劇の夫婦
17:34
4 месяца назад
「光る君へ」12話振り返り
10:13
5 месяцев назад
Комментарии
@怠惰な貧乏神
@怠惰な貧乏神 23 часа назад
道長について調べるほど 道長一人というより周りの人間の凄さがわかるっていう
@かき氷-b8m
@かき氷-b8m День назад
もしも信玄が機内に居たらどうなっただろう。
@MrYoshichan
@MrYoshichan День назад
生存?アホらしい。
@user-qh2vt2hm7i
@user-qh2vt2hm7i 2 дня назад
明子が藤原氏を恨むとしても、ドラマのように兼家を恨むのは筋違いなんだよな。 明子の父を追い落としたのは兼家の伯父である藤原実頼だからな
@kaetzchenweiss5793
@kaetzchenweiss5793 2 дня назад
宇多天皇の曽孫に当たる倫子 子孫には戦国時代に活躍する 六角氏等を輩出する佐々木氏の 近江原源氏がいます。 倫子は道長よりも格が上で 道長の求婚の様子は栄花物語にも 記載されています。 ただし身分違いの求婚の為、 栄花物語の記述は道長を 持ち上げる為の創作の可能性が 高いとされています。 結婚後道長は左大臣の屋敷を 自身の本邸とすることになり 倫子は実家の力を存分に使い 道長を援助し躍進して行く。 晩婚であった倫子は長女彰子を 産み43歳になるまで二男四女を 産んで四女を全て入内させた。 時に道長よりも精力的に活躍した 摂関政治の立役者。
@user-fq5cj6xo9e
@user-fq5cj6xo9e 3 дня назад
ろくな最後を迎えてない。
@kaetzchenweiss5793
@kaetzchenweiss5793 3 дня назад
与謝野晶子さんは源氏物語は 桐壺から書かれずに弐巻の帚木 から書かれたと記している。
@kaetzchenweiss5793
@kaetzchenweiss5793 3 дня назад
源氏物語の後半一部は紫式部の娘 大弐三位が書いたという逸話がある
@user-du3bf3qy2l
@user-du3bf3qy2l 3 дня назад
具体的に官位を教えて!
@user-ws9yo7po6z
@user-ws9yo7po6z 3 дня назад
酒井家はそもそも松平の本家筋みたいなもんじゃ。
@user-zv8do5jz9i
@user-zv8do5jz9i 3 дня назад
恐妻家は夫の方ですよ
@あけまる-r6i
@あけまる-r6i 3 дня назад
平安の世だから 出来たのでしょう☀️ 天皇なら出来るでしょうね
@user-tf4qu8bh2k
@user-tf4qu8bh2k 5 дней назад
道長の役の柄本佑さん最高です。目元から色気。佇まいにも声にも色気。身長も高くて男性俳優で彼ほど魅力のある男性はいないと思っています。
@user-wo4ve2nd9l
@user-wo4ve2nd9l 5 дней назад
道長のアタマの中はまひろで一杯❤
@user-kd8we4dq4k
@user-kd8we4dq4k 6 дней назад
よく信玄は戦国最強とか天下をとってもおかしくなかったなど言われ、勝頼は愚将など言われてますが、勝頼は運が悪かっただけ。滅亡に関しては、嫡男義信を死に追いやった信玄が原因なのでしょう? 嫡男義信がもしかしたらもしかするかもしれなかった。信玄が滅亡を早めたかもしれません。
@masao750
@masao750 6 дней назад
北条と上杉の同盟が出来るか否かで命運が変わる。
@user-lh7bl1xz4d
@user-lh7bl1xz4d 7 дней назад
この世の出来事はすべて夢うつつである。何が嘘で何がホントなのか?そんなことは受け取った者が感じることだ。要は愉しいか楽しく無いかだ。
@jun-5303
@jun-5303 10 дней назад
Amazonのお姐さん。バスで帰宅すると、Amazon primeの品物が届いてました。(笑)
@maruchan6541
@maruchan6541 12 дней назад
織田家次男の信雄がうつけと言われていたのが、恒興が織田家を見限った原因でしょう。意味もなく安土城を燃やす信雄と、天才的な軍略で中国美濃大返しをした秀吉とでは、器が違いすぎます。せめて信雄も中国美濃大返しの半分の事ができる器だったら、恒興は織田家を見限ることはなかったでしょうけど。
@maxjun1825
@maxjun1825 12 дней назад
二人の関係性は「花子とアン」では吉高が黒木の姉やんであったw
@otoi3628
@otoi3628 12 дней назад
乳母がいない人だったからな。 父秀吉公が乳母を持たせなかったらしい。 淀殿に怒り、エリート育児に必要な乳母を許さなかったとか。
@user-suzuchan
@user-suzuchan 12 дней назад
😂😂😂 賢くあほになるのが、都で生き延びるコツ🤭
@user-yk3vb2cz1c
@user-yk3vb2cz1c 13 дней назад
秀秋は豊臣からの待遇が悪くなったから家康に鞍替えしただけで裏切りじゃないよ 秀秋は8才位から酒飲み始めた大酒喰らいでそれが原因で早死しただけだよ
@daisuke5755
@daisuke5755 14 дней назад
織田信長によって京が平和になったのに将軍の足利義昭を軽んじて勝手に秩序を乱そうとした武田信玄は悪党。
@daisuke5755
@daisuke5755 14 дней назад
武田信玄は自分は先が長くないと判断したから西上作戦を行っている。少なくとも徳川家康を完全につぶしてしまえば、自分が死んでも武田家はなんとかなると思ったのだろう。
@user-wy1vb3up2i
@user-wy1vb3up2i 14 дней назад
90歳まで生きるのも最強だなと……
@user-vv5vw6dk6l
@user-vv5vw6dk6l 14 дней назад
この時代は後ろ盾なんだなあと思う次第。明子も実家が没落した後もうまくいった方だし、何より天皇家の血を引いていたことが身を助けた気はするが、それでも財力も地位もある倫子にはかなわなかったということね。倫子の父親が右大臣であり、家もよく、財力があったことが、道長の出世に重要だったから。
@kaetzchenweiss5793
@kaetzchenweiss5793 17 дней назад
女性としては寂しい人生であった かも知れないが政治と家族の繁栄に 生涯を尽くした女性。 兼家の血を濃く受け継いだ娘と 存じます。 道長にとっても詮子にとっても お互いに必要な存在で大切に 思っていた存在ですね。 彼女なくして道長の栄華はなかったと 存じます。道長がそれを理解し 大切な姉上として手厚く信頼を していた事でしょう。
@sasaakih
@sasaakih 17 дней назад
かなりの美人である。 それだけでキャスティング成功と言えるが、史実上どう表現されているのだろうか? 天皇の孫なので見たくれは悪いはずはないとは思うが!!!!!
@user-wz2ou8ww6g
@user-wz2ou8ww6g 18 дней назад
あるタイピング練習サイトには源氏物語の内容を練習問題にしてるのがあるのですが 言葉が昔基準なので慣れないうちはかなりタイプミスしました
@武郎出居
@武郎出居 19 дней назад
瀧内公美さんが美人だから、ドラマが成立する。 黒木華は平安絵巻顔。
@toyo-rex4899
@toyo-rex4899 19 дней назад
公任が出世できなかったのは、性格に難があったからでしょう。 円融天皇の中宮・遵子(公任の姉)と女御・詮子をめぐる「素腹の后」のエピソードはあまりに有名ですが、1歳年下の藤原斉信に位階を越されたのを不服として半年以上も宮中への出仕を止めたのも、出世に少なからず影響したと思います。
@20cen.66
@20cen.66 19 дней назад
えー、京都では何をおっしゃられましても、それ、裏の意味がありました?と、気を使いますので、そういうことですね。
@user-xm1vs6zt3u
@user-xm1vs6zt3u 21 день назад
母の元で父親も居なくなってしまったのに、無事育ち長生きして、そこそこ、そ幸せそうで、良かった…😅
@kurebase5468
@kurebase5468 21 день назад
信長包囲網なんて元亀元年に始まってるし、上村合戦(武田対織田)も三方ヶ原の直後には起きてる(従来説では元亀元年)。長篠より前の岩村城の戦いも無視してるし。いくらなんでもペラすぎる。
@user-nj2fe9qk6o
@user-nj2fe9qk6o 23 дня назад
徳川家康の255万石、正二位内大臣って凄いね!
@do6vp1jf28
@do6vp1jf28 23 дня назад
娘が母親と違う性格に育つのは、 母親を見て、不満も持ちながら育ったからですよ…お父さんに似てしまうは必然、母親を憎んでないなら、それもいいではないですか…?
@user-tgLj3mpgdjm
@user-tgLj3mpgdjm 26 дней назад
唯一? 紫式部日記は?
@user-bm8mr1qv6p
@user-bm8mr1qv6p 26 дней назад
資金面で 信長に敵わない
@heavensdoor815
@heavensdoor815 26 дней назад
当代随一公任
@user-rr5zw8gb9y
@user-rr5zw8gb9y 26 дней назад
紫式部を母に持ち、才能もあり、自由奔放の人生。最高ですね❤ 羨ましい😂
@kenichiokochi1233
@kenichiokochi1233 27 дней назад
本能寺はかつては規模も小さく、川沿いではなかった。それを、信長はわざわざ川沿いの 川を挟んだ対岸のより広い敷地に新たに建てさせていたという。信長ほどの知恵ものであり、しかも京都での自らの宿泊所とする目的で、わざわざ建立した新本能寺には、当然秘密の地下道を作り隣接する川に抜けられる様な通路と、小舟が用意されていたと考えても不思議ではあるまい。光秀、秀吉の何もが信長の忠実なる家来であったことを思えば、全て、事前に謀議を重ねた策略であったという説を私は好む。比叡山の焼き討ち、雑賀衆や一向一揆打ち据え、本願寺を降伏させて1000年の長期に渡る僧兵勢力の一掃を成し遂げたの信長も、流石にこれだけの仏教勢力を敵に回してしまったことで、自らが天下をとったところで、浮かぶ瀬もなきと思い、自らを業火の元で消滅させる様に仕組むことで、自らの厄払いを演出すると同時に、下級浮浪民出身の秀吉に天下統一を任せたののであろう。光秀は此の一大悲劇の助演男優として働いたことで役職を纏うし、おそらくうまく逃げ延びたことであろう。一兵卒の竹藪から不意に突き出された竹槍に射抜かれて一命を落とすほど光秀も愚か者ではあるまい。いやー、こうしたダイナミックな策略のもとに身をくらませた信長は、まさに天才というべきであろう。もちろん推測の域を出るものにあらず、、、ではあるが。
@久美子-u2i
@久美子-u2i 28 дней назад
結局、暗殺と策略の繰返しの闘争だったんでしょう😢子孫に、たたりがないといいけど、、
@user-lp7oy7pg3s
@user-lp7oy7pg3s 28 дней назад
いやぁ?信長は、スペインの甘言にそそのかされて、むざむざ、朝鮮半島や大陸中国にスペインの先兵として出兵していたでしょう。光秀を使って、信長を殺害させた秀吉は、その事を判っていたので、都から遠くの長崎の出島だけを、スペインその他の国々との交易口に絞り込んだ。
@mema4577
@mema4577 29 дней назад
上地さんの演技が良い
@user-rk8fv4uy6s
@user-rk8fv4uy6s Месяц назад
豊臣家のしくじりは秀吉が甥の秀次を蔑ろにした事、そして淀殿が家康に反逆した事が原因ですね。
@user-rk8fv4uy6s
@user-rk8fv4uy6s Месяц назад
秀長がそうですね、後20年生きていたら豊臣家は確実に安泰だった筈。😅
@user-rk8fv4uy6s
@user-rk8fv4uy6s Месяц назад
勝頼は、三国志の袁紹や何進みたいに優柔不断な所があった事、自惚れてた事が原因だった。
@okeisan322
@okeisan322 Месяц назад
呪詛してくださいまし!呪詛は殿の御実家の得手でございましょ。 怖い😅
@user-lw4co2xt3t
@user-lw4co2xt3t Месяц назад
夏目広次は