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「ここで同僚の遺体を焼き続けた」《長崎スタジアムシティ建設地》被爆の記憶 

NBC長崎放送
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ことし10月、長崎市にサッカー場・アリーナ・ホテルなどを備えた複合施設「長崎スタジアムシティ」が開業します。かつて三菱の軍需工場があり、原爆の直爆を受けた場所です。79年前この場所で何があったのか?10月14日に開業予定の「長崎スタジアムシティ」。ジャパネットホールディングスが手掛ける複合施設で、メイン施設である2万人収容のサッカー場は「ピーススタジアム」と名づけられました。「JR長崎駅」から北に800m、そして「爆心地」から南に1.7キロ。79年前、ここには「三菱重工業長崎造船所幸町工場」がありました。総従業員数1250人~1550人。長崎中学校、東陵中学校、市立高等女学校らの学生たちも学徒動員で働いていました。閃光と同時に衣服が燃えだした1945年8月9日に、何人がここにいたかは分かっていません。ただ、戸外にいた人の衣服は閃光と同時に燃え出し、頭髪も燃え、皮膚が焦げて垂れさがっていた。正常な姿の者は誰一人としておらず、傷つき、血を流し、ボロボロの半裸の姿で何か叫びながら走り、阿鼻叫喚の光景が広がっていたーとする証言が伝えられています。(長崎原爆戦災誌より)佐世保市の老人ホームに、当時幸町工場で働いていた人が暮らしています。山下正英さん、99歳です。船の機関部やプロペラなども作る「鋳造工場」に勤務していました。幸町工場に勤務していた 山下正英さん(99):
「戦艦『武蔵』のスクリュー…あれなんか鋼で作ったもんね」山下さんは当時は20歳。工場長の命令で、8月9日は浦上川を挟んだ対岸の雑木林に避難していました。連れて行って…女の人を置き去りに山下正英さん(99):
「あさ9時頃警戒警報が鳴ったから山の中に隠れとった。バーンと側に落とされたかと思って出てみたらね…もうみんな燃えて対岸は見えないような状態だった」「『山下くーん山下くーん』って言って工場長が来て『決死隊をつのれ!』と言う。私は同僚5人引き連れて泳いで渡った、幸町に」何が起こったのか分からないまま、山下さんは同僚5人と川に飛び込み幸町工場へー。そこで目にしたのは、熱線と爆風で滅茶苦茶に破壊された工場と、呻き苦しむ同僚たちの姿でした。山下正英さん(99):
「工場は屋根もないし吹っ飛んでしまっとるからね。入って行けるくらいの(目茶苦茶な)倒れ方しとる。中で倒れた人おったけどどうすることもできない…。連れて行ってくれっていう女の人…連れて行けなかった。もうなんもできんで…」翌朝は…死屍累々 同僚の遺体を焼き続けた原爆投下からおよそ30分後には火の手も上がり、工場は全壊・全焼。折れ曲がった鉄の骨組みだけとなりました。唯一、爆風と並行に立っていた「赤レンガの塀」だけが原型をとどめました。幸町工場で被爆・犬山春吉さん(被爆時32歳)※1973年取材
「子供、女の悲鳴ですたいね。あちこち声がしまして大混乱じゃったですたいね」幸町工場で被爆・中江八束さん(被爆時29歳)※1976年取材
「翌朝はもう…死屍累々。とにかく人間らしい形相じゃないんですからねもう…黒焦げだから。発見される死体は全部そこに持ってきて、翌日の晩から焼き始めたんですね。幾晩焼いたか今ちょっと覚えてないんですけど」「自分の同僚を焼くんだから…。もう恐怖心通り越すわけですね、どうせ死ぬんだと。あの人たちと一緒に俺も死ぬんだと。沢山の同僚を、我々の手で…戦場でもないのに死体を焼くわけだからですね…悲惨ですね」亡くなった人のほとんどは「身元不詳」幸町工場で被爆し、大けがを負いながらも生き延びた八木改造さんは、警察と一緒に「遺体の検案」に携わったと証言していました。●幸町工場で被爆・八木改造さん(被爆時21歳)※2001年取材
「(死体検案書)本当何百枚書いたことでしょうかね。そしてやっぱり身元が分からない人が大半でしたね。氏名不詳、住所不詳、死亡年月日昭和20年8月9日11時5分と。時間は5分という風に指定されてあったんですよ、よくまだ時間が分からなかったから。本当にこの人も家族があったと思うと…」働かされていた「捕虜」たちも被爆唯一残った「赤レンガ塀」は、幸町工場の敷地内にあった捕虜たちの収容所「福岡俘虜収容所第14分所」でした。戦後、同じ場所で操業を続けた幸町工場に、捕虜だったオーストラリア人、レネ・シーファーさんらが訪れ、機械を前に涙する姿が記録されています。(1980年)シーファーさんは当時の取材に「80人の友を亡くした。思い出すとたまらなくなって涙が出た」と話していました。長崎市の平和公園内には、外国人捕虜を追悼する記念碑が建てられています。長崎原爆戦災史によると、「福岡俘虜収容所第14分所」には、インドネシア人、オランダ人、イギリス人、アメリカ人らおよそ400人が収容され働かされていて、推定60人~80人が即死、生き残った300人のうち200人は重軽傷を負ったとされています。幸町工場全体の推定死者数は学徒、捕虜、従業員合わせて100人~150人、およそ90人がこの場で火葬されました。(長崎原爆戦災誌より)「何かの工場」とは知っていたけど…V・ファーレン長崎 高木琢也取締役兼C.R.O:
「幸町が何かしらの工場というのは知ってましたけど…」長崎スタジアムシティ内の「ピーススタジアム」に本拠地を移す地元サッカークラブ「V・ファーレン長崎」。高木琢也取締役兼C.R.Oは、初めて見たという幸町の被爆時の様子を踏まえ、被爆地のクラブとしての思いを語りました。V・ファーレン長崎 高木琢也取締役兼C.R.O:
「(79年前に何があったのかー)しっかり認識した上で活動していくものかなと思う。我々サッカーは『ピーススタジアム』、プロバスケットボールチーム・長崎ヴェルカは『ハピネスアリーナ』と、平和をイメージできるようなネーミングにもなっているし、クラブとして発信していくことも含めて『役割』だなと感じます」79年前、核兵器の直爆を受けた場所に本拠地を移すV・ファーレン長崎と長崎ヴェルカ。サポーターはどう感じているのか?平和祈念マッチが行われた8月3日、観戦に訪れた人たちに当時の幸町の写真を見てもらいたずねました。「ピースタ」がそういう場所にできているV・ファーレン長崎 サポーター:
「(写真を見て)新スタジアムの所じゃないんですか?工場の跡地…。今からすると全然想像ができない感じですね。今でも戦争とかあってるので『長崎から平和を』発信していかないといけないと思いますよね」「…感慨深いですね非常に…。間違いなく『ピーススタジアム』の名前でサポーターとしても納得というか。広島のスタジアムも『ピースウイング』と名前がついている。原爆に関わった町として平和を発信していけるような場所であって欲しいと思っています」「長崎県民の僕たちが『ピースタ』がそういう場所にできてるんだよって伝えていかないといけないと思います」「どこだろう…あー幸町?やっぱりかみしめとかないといけないですよね、過去にここで何があったかというのを忘れないように。『ピーススタジアム』って名前がついたのは素晴らしいことだと思います」ジャパネット創業者・髙田明さんの思い長崎スタジアムシティを手掛けるジャパネットの創業者である髙田明さんは、「スポーツが持つ平和の力」を訴えて続けてきた人でもあります。開業を前に、いま思うことは?ジャパネット創業者 高田明さん:
「爆心地近くの軍需工場があった所もこれだけ生まれ変わりましたよって。『人間は変わっていかなければいけない』事を表現するためにここは建ったと思うんですよ」「大変な悔しい思いでこの世を去られた方とかには…『任せて下さい』と。必ず皆さんの思いは私達の世代からまた次の世代に引き継がれて実現していきますよってことを信じて欲しいと思いますね。『見守って下さい』って思います」幸町工場に勤務していた山下正英さん(99):
「僕たちがおった所だよ、あそこはーって、時々言ってますね。僕はもう動ききれないから行けないけど、(スタジアムシティになることは)よかったと思います。何で戦争をせないかんか…愚かだったなと思いますね」苛烈な被爆の実相を刻み、幸せの熱狂を分かち合う場所へー。核兵器使用の脅威が高まる中、世界に発信すべき「長崎の記憶」がここにあります。
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19 авг 2024

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