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あのアントニオ猪木が、どうしても受け付けない男が3人いた。
1人目は、もちろんジャイアント馬場である。猪木にとっては常に目の上のタンコブであり、相容れない存在だった。タッグを組んでいた「BI砲」の時代からずっと、「馬場・猪木」という序列が変わることがなかった。
2人目は、武藤敬司である。かつて猪木がその素質に惚れ込んでいた天才レスラーは、自分が掲げた格闘技路線に異を唱えて新日本を離脱し、あろうことか馬場が創設した全日本プロレスに新天地を求めた。
そして、3人目が、今回のテーマの大仁田厚である。
「あいつは危険だ。自分から『俺は弱い』だの『強さを求めてない』だの、大仁田のプロレスに勝敗は関係ないんだから。試合で負けてもあいつの存在感は消えることがないから厄介だよ」
猪木は長州に、吐き捨てるようにこう言ったことがという。
1998年9月2日、大仁田は札幌の京王プラザホテルで記者会見を開き、自身が立ち上げたプロレス団体「FMW」からの離脱を宣言した。
引退と復帰を繰り返しながらも、あくまでFMWの中心に居座ろうとする大仁田への拒絶反応は凄まじく、ハヤブサ、田中将斗、ミスター雁之助、黒田哲弘といった生え抜きの面々も大仁田離れを希望していた。
その空気を読んでいた大仁田は、FMWを去るにあたり、誰もが予想もしなかったとんでもないことを考えていた。
「新日本か全日本に上がりたい。できれば新日本に上がって、引退した長州と試合がしたいんだ」
大仁田は、プロレス専門誌『週刊ゴング』のFMW担当記者を通じて、副編集長の金沢克彦氏にこんな相談を持ちかけてきた。
大仁田厚と新日本プロレス、大仁田厚と長州力……プロレス業界において、絶対に交わりようのないものの代表例である。長州の大仁田嫌いは度を越している。同じプロレスでひと括りにされること自体が許せないという感覚なのだ。
#プロレス #格闘技 #アントニオ猪木
3 окт 2024