Тёмный

【ゆっくり日本史解説】院政ってなんだ? なぜこんな仕組みが出来上がったのか?その歴史を簡単に解説 

ふきのゆっくり歴史館
Подписаться 26 тыс.
Просмотров 30 тыс.
50% 1

Опубликовано:

 

29 окт 2024

Поделиться:

Ссылка:

Скачать:

Готовим ссылку...

Добавить в:

Мой плейлист
Посмотреть позже
Комментарии : 35   
@laughingswordfish3665
@laughingswordfish3665 Год назад
現代でも形を変えて存在するであろう形態だし、これからも大なり小なり存在すると思う。 たとえば実質的に会社を支配している会長とか、政治では「田中曽根内閣」とか…
@panda688
@panda688 Год назад
天皇の後見という名目と最大の荘園領主という財力が合わさっての院政。
@engawanoneko2435
@engawanoneko2435 Год назад
寄進系荘園の集中が治天の君の力になって院政を生み出す要因の1つになった流れ ちょっと順番が逆になってますね
@takanori645
@takanori645 Год назад
勉強になりました。
@gc8zacc3
@gc8zacc3 Год назад
明治生まれのばあちゃんが、先祖は北面の武士だって言ってた。高等教育受けてるはずもなく、 どこでそんな言葉を知ったんだろって
@丸山康平-l2f
@丸山康平-l2f Год назад
昔は講談という素晴らしい 学習法がありましたし
@伝説の麻婆豆腐
@伝説の麻婆豆腐 Год назад
信長さんが正親町天皇に上皇を勧めたのは、朝廷の権威向上とその莫大な費用を出しますよってことと 今では聞きますが、残念な結果に
@るるむ-r6d
@るるむ-r6d Год назад
譲位したい正親町を必死に押し留めていたのが信長
@二見裕司-r6t
@二見裕司-r6t 8 месяцев назад
​​@@るるむ-r6d後陽成天皇に譲位した正親町天皇崩御後に、豊臣秀吉がうまく立ち回る。
@ravilsan1987
@ravilsan1987 Год назад
嵯峨天皇以来上皇は内裏に入らないという慣習法ができたから内裏への連絡役として結局摂関家の力を借りることになったんだよな 白河院といえば平清盛の伊東四朗がやってたやつ結構好きだった。「そちにこのももののけの血が流れておるからじゃ(迫真」
@コーティー
@コーティー Год назад
もし平清盛が白河院の落胤であれば桓武平氏ではなくて白河平氏だったわけですね。
@ヒロミ北
@ヒロミ北 Год назад
病で無くなるとかいう暗殺
@ANDOHSOHON
@ANDOHSOHON Год назад
治天の君は上皇であっても現天皇の父や祖父でなければならない。それで理解できるのが崇徳院が嵌められたという話。崇徳天皇が鳥羽上皇に皇位を譲れと言われて、譲ったのだけど、その条件は次の近衛天皇を崇徳上皇の養子にし「皇太子」とするもの。ところが譲位の宣命には近衛天皇は崇徳上皇の「皇太弟」と記されていた。これでは崇徳上皇は治天の君にはなれない。これで嵌められた、騙されて譲位してしまった意味が通じる。
@34mitsu34
@34mitsu34 Год назад
太上天皇はsenior emperor 現在の上皇はretired emperor という事かな?
@Sugiura_Kenji
@Sugiura_Kenji Год назад
AI(:Google Bard) に聞いてみた処、以下のような回答を得ました: 上皇の英語表記は、宮内庁の決定により、天皇を表す "His Majesty the Emperor" の後に「名誉退職の」といった意味を持つ "Emeritus" を付ける "His Majesty the Emperor Emeritus" としています。 平安時代の上皇は、現役の天皇の父親や兄などの親族が退位して上皇となったため、senior emperor または retired emperor と訳されます。 ( 尚、AI って ちょくちょく間違えるので この回答を過信しないでください。)
@Sugiura_Kenji
@Sugiura_Kenji Год назад
今、”His Majesty the Emperor Emeritus” でググってみたところ、宮内庁の公式ページにこの記述がありました。
@丸山康平-l2f
@丸山康平-l2f Год назад
すこしニュアンスが違うのが 我々のややこしさ
@hiroshisato7885
@hiroshisato7885 Год назад
ゆっくりしていってね~♪ (代わりに言っといた)
@schimitch3277
@schimitch3277 Год назад
徳川家康の将軍在位はわずか3年、あとは大御所として死ぬまで政局を操ったのと同じ構図ですよね。 「制度上のトップ」と「実際のトップ」だと後者の方が自由度が高いから起こる現象なんだろうなあ。鎌倉幕府みたいに執権が実権を握ったのもベクトルが逆になっただけのことで。スルタンが世俗の権力を握ったイスラム世界のカリフみたいに、君主に宗教的要素がありすぎるから起こるのかな、と勝手に想像します( ゚Д゚)
@戸田賢司
@戸田賢司 Год назад
家康の場合は、家康ではなく徳川家が天下人と分からせる必要があったからな。単に駿府に行きたかっただけかもしれないが。
@superinamix
@superinamix Год назад
5世紀くらい未来の歴史の先生が 「平安室町の上皇と平成令和の上皇は別物。ハイここテストに出るよー」 とか言ってそう。
@Sugiura_Kenji
@Sugiura_Kenji Год назад
「摂政」も、聖徳太子・中大兄皇子の摂政と、平安時代の藤原家の摂政とは違っていて、大正時代の皇太子(その後の昭和天皇)の摂政は、元に戻ったもの。
@two-hoo_man
@two-hoo_man Год назад
譲位後政務を執らなかった上皇もいるのだから、今の上皇陛下と昔の上皇は違うと色分けしなくても いいと思うなあ。
@一切れ八宝菜
@一切れ八宝菜 Год назад
今でも院政やらないかな❓🤔
@江戸城の正成像
@江戸城の正成像 Год назад
そもそも現在は天皇自体政治には関わらず国の象徴として外国の使節に挨拶する程度ですから
Далее
History of Africa from the 16th to the 20th Century
3:39:03
後白河法皇ってどんな人?
13:12
Просмотров 93 тыс.