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【ゆっくり解説 】古代史最大の戦い!!白村江の戦い!!! 

古代史ヤバイ【ゆっくり解説】
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「やばい古代史」では、古代史に焦点を当てて歴史を紐解いていく番組です。
我々はどこから来たのか。その鍵を古代史から読み解きます。
※この動画は、過去に起こった出来事をわかりやすく伝えることを目的としています。視聴者に衝撃を与えるような目的はございせん。
※動画内に、死を連想させるような言葉を出てきますが、関係者を冒涜したり行動を助長するような意図は一切ございません。
※動画内の素材は全て引用であり、著作権や肖像権を侵害する目的は一切ございません。
著作権などに関するお問い合わせはこちらのアドレスまでお願い致します。
yabaikodaishi@gmail.com

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11 сен 2024

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Комментарии : 76   
@chiha2525.
@chiha2525. 3 месяца назад
敗戦の後、古代山城として残る複数の城を突貫工事で1~3年で作り上げるという慌てぶりを見れば、邪魔者を負け戦で始末するという考えでは無かったでしょう。むしろ本当に人材を失って他の者が国政を担うことになったのでは。 ちなみにハクスキのキは城で、白江の城(または白洲の城)をハクスキと呼び、これに白村の字を充てたと言われてたと覚えています♪(城というか軍事拠点で、人が集まり村のようになっていた、という感じかなと思っています)
@youtuber-lz7kr
@youtuber-lz7kr 3 месяца назад
動画で言われているように遣唐使や遣隋使は現地に到着できるかどうかギリギリの賭けなのに、後の秀吉の時も戦争となると当たり前のようにミッションコンプリート(勝ち負けは別として)するのは母数が違うとは言え人類の業のような気がする。
@user-ow1ww6cf7p
@user-ow1ww6cf7p 3 месяца назад
遣唐使が命掛けだったのは新羅との仲が微妙で朝鮮を経由せずに直接大陸に渡ったからでは? 日本から朝鮮半島のルートはタイミングさえ間違えなければそこまで危険ではなく渡海できたのだと思います。
@youtuber-lz7kr
@youtuber-lz7kr 3 месяца назад
@@user-ow1ww6cf7p なるほどそうなんですね。すごく納得しました。
@user-52-mickey
@user-52-mickey 3 месяца назад
user-ow1ww6cf7pさんが言われてるようにルートの問題と。 秀吉の時代には造船技術がレベルアップしてて鉄甲船がありました。
@youtuber-lz7kr
@youtuber-lz7kr 3 месяца назад
@@user-52-mickey なるほど、造船技術も進歩したんですね、ますます納得ですね。
@user-in2jy7ov6n
@user-in2jy7ov6n 3 месяца назад
日本書紀では一切触れられてないが白村江の戦いでは倭王が唐の捕虜となり666年に唐の高宗の封禅に新羅王等と供に参加してるんだよな。
@user-qw3sb1my6e
@user-qw3sb1my6e 3 месяца назад
倭王は九州でしょうか、大和でしょうか。
@user-in2jy7ov6n
@user-in2jy7ov6n 3 месяца назад
@@user-qw3sb1my6e 九州が倭でしょうね 大倭が畿内
@silversurfer512
@silversurfer512 3 месяца назад
​@@user-qw3sb1my6e この時代にはもう九州は大和朝廷によって平定されているので、九州には王は居なかったでしょう。 この時代の倭王と言えば大和朝廷の王のことのはずですよね。
@user-qw3sb1my6e
@user-qw3sb1my6e 3 месяца назад
@@silversurfer512 白村江で負けてから、皇室も鎌足とその仲間に乗っ取られたのかも。 時系列が少しズレますが、大昔だから正確ではないかもです。
@Kappa-Lub
@Kappa-Lub 3 месяца назад
@@user-qw3sb1my6e 多分九州の地方政権 文献には倭人と(その他の倭人=大和朝は)倭種と記述されてる
@user-ow1ww6cf7p
@user-ow1ww6cf7p 3 месяца назад
百済と日本の関係って不思議ですよね。 日本は百済のために任那の一部を渡したり、異常に支援している気がする。 何か史書に載っていない関係があったのだと思う。
@user-ql4ri8nx5x
@user-ql4ri8nx5x 3 месяца назад
韓国側の歴史書には「ならくだら」と書かれていたのを御存知ですか?
@user-ow1ww6cf7p
@user-ow1ww6cf7p 3 месяца назад
@@user-ql4ri8nx5x 知りません。 どういうことですか?
@user-ql4ri8nx5x
@user-ql4ri8nx5x 3 месяца назад
韓国の人と日本の人では見方が違うのでうまくは言えませんが、百済は「夫餘」が建国したことになっています。夫餘はいわゆるツングース系の騎馬民族です。今では否定されていますが、かっては日本も「騎馬民族征服王朝説」を唱えた人達がいました。江上波夫氏達が唱えた説です。なので日本と韓国は(国としては別ですが)同じ騎馬民族がたてたと言う説があります。その説を唱える人達と韓国人は「奈良百済」と言って日本も百済も同じ国だったと主張するようです。
@user-pm9yi4vc7r
@user-pm9yi4vc7r 3 месяца назад
血縁関係があった可能性もあるが、婚姻となると史書にも記録されるはずだから、よくわからないな
@user-ql4ri8nx5x
@user-ql4ri8nx5x 3 месяца назад
史書には載っていませんが、日本書紀には載っていますよ。百済の武寧王や扶余褒章です。武寧王は佐賀県の呼子(合併して今は唐津の一部です。)で生まれました。オジサンとお母さんが倭国に来ている時です。その後も倭国と交流が有ったのではないでしょうか?扶余褒章も同じです。人質として送られてきたと言うことになっていますが、百済の危機の際にはお供を連れて安全に帰っています。人質って(特に母国がダメになって人質としての価値が無くなった場合は)そんなに大事にしてもらえるとは思えません。人質ではなく斉明天皇や天智天皇の客人だったのではないでしょうか?僕は武寧王は日本人だったのではないかと思っています。だから斉明天皇は無謀とも思える白村江の戦いに自ら赴いたのではないでしょうか?武寧王は前王の悪行のせいで民にかつがれて王になったそうです。継体天皇みたい?
@Kappa-Lub
@Kappa-Lub 3 месяца назад
対外戦争戦える力があったということは事実だな
@user-on3jl4xu1k
@user-on3jl4xu1k 3 месяца назад
不思議に思うべき事がある。白村江の戦いに敗れて本土上陸の危機に際し、なぜあそこに水城を作り大野城と築き、基肄城を基山に造ったのか。何を守りたかったのかが不思議だと思うだろう。自分の答えを言うなら大本営があったところ、斉明天皇の「橘の広庭の宮」。ここは伊弉諾の大神が禊ぎをした地「筑紫の日向の小戸の橘のあはきの原」の地でもある。ここを守りたかった。ここには斉明天皇の陵がある。
@user-dd3qi8og9l
@user-dd3qi8og9l 3 месяца назад
中大兄皇子は最初から唐と組んでいたのではないのか。というような展開。
@ponkittan777
@ponkittan777 2 месяца назад
後半のBGMがクソすきる。
@kaiganseki5201
@kaiganseki5201 Месяц назад
私が中学生の頃は白村江を「ハクスキノエ」と習いましたが、最近「ハクソンコウ」と言ってるのを聞きましたが、どちらが正しいんですか?
@BakinDaigo
@BakinDaigo 2 месяца назад
Like... very much
@s-yo
@s-yo 3 месяца назад
韓国ではこの戦をどのように伝え教えているのかも知りたいです。
@yoshifu5652
@yoshifu5652 2 месяца назад
BGMがうるさい
@lullaby000kawa
@lullaby000kawa 3 месяца назад
だからBGM二重やめろって
@silversurfer512
@silversurfer512 3 месяца назад
「日本は、」「日本が、」と言ってますが、日本ではなく『倭国』ですよね。 日本という国名が出来るのは、後のことです。 唐とか新羅とか、それぞれ当時の国名で呼んでいるのだから、日本ではなく倭国と呼ぶべきでしょう。
@Kappa-Lub
@Kappa-Lub 3 месяца назад
日本を公式に呼称しだしたと言う前置きだけどな 倭というおの小人=中国では優れた人はたいじん大人たーれん 見下すときは小人シャーレンというはすで見下す意味の倭 蔑称ですよ
@ytsnn3
@ytsnn3 2 месяца назад
藤原氏は、藤が真名で、藤=トウ=唐 倭国を日本国に改名したのは、先の戦争を主導した唐の則天武后 新羅を率いたのは、文武王 天智天皇の後、壬申の乱によって権力を得て即位したのが天武天皇 その次の次が文武天皇 ただし、天皇の名が隣国の王の名と同じだからと言って、その方が同一人物かどうかは判らない。 天皇の名とは後世の知識人が名付けたもので、当時そのように呼ばれていたわけではないからだ。 中大兄皇子あたりが唐のスパイとしてクーデターを起こして権力を奪取したと思われる。 そのころ唐は西域での戦争に集中していて、東方に割ける余力がなかった。 そのころ東方諸国では相次いでクーデターが起きている。
@user-cl8tx4qj7l
@user-cl8tx4qj7l 2 месяца назад
※画像の百済王「豊璋」は唐の「高宗」が正しい。則天武后の夫に当たります。
@user-vt7kz9ut5f
@user-vt7kz9ut5f 2 месяца назад
五摂家と公家は子孫だったりして。
@keya9735
@keya9735 3 месяца назад
対外的にはほとんど交易と朝貢くらいしか出てこない日本史で、海外の領土を巡って派手に外交と戦争をやらかした古代日本の特異点みたいな時代やな。次に海外に派兵するのは1000年後
@user-ql4ri8nx5x
@user-ql4ri8nx5x 3 месяца назад
up主さんはすごく勉強して詳しいです。たいしたものだと思います。なのでさらに勉強して次のことを教えて欲しいです。世の中の学者先生は「水城は天智天皇が天智天皇3年(664年)に大宰府防衛の為に1年と言う短期間で造った」と言います。でも日本書紀を読むと天智天皇3年には「筑紫に大堤を築いて水を貯えた。これを水城と言う。」とは書かれていますが「大宰府を守る為に」とは書かれていません。近年の発掘調査により大宰府は7世紀後半に築かれたようです。つまり水城ができた時にはまだ大宰府は無かった可能性があります。同じく日本書紀天智天皇3年の5月を読むと、「夏五月十七日、百済にあった鎮 将(占領軍司令官)の劉 仁願は、朝散大夫郭務惊らを遣わして、表函(上奏文を収めた函)と献物を奉った。」と書いてあります。郭務惊は兵2000人を連れてきています。今ならばたった2000人ですが、当時ならば大軍です。それどころか10月には郭務惊を招いて大宴会を開いています。楽しそうに。郭務惊はとても楽しかったのか、翌年の9月にも来ています。日本書紀にはっきりと書いてあるのだから間違いないでしょう。水城は唐に対する防衛にはなっていないのでは?日本側の書いた日本書紀にさえそう書いてあるのに、学者先生は何故「水城は大宰府の防衛の為に造った」と言うのでしょう?後世にはつまり大宰府ができたあとには実はちゃんと防衛施設として機能しています。たとえば元寇の時です。でも大宰府を作る前なら、大宰府の防衛機関の水城は1年で頑張って作らなくても大宰府の建設に合わせてゆっくりと作れば良いのでは?ちなみに唐は筑紫に筑紫都督府(大宰府ではありません)を置いています。真相は何なんでしょう?
@Deai-i7w
@Deai-i7w 3 месяца назад
いや、自分で調べろや。
@MedakaNoBoo
@MedakaNoBoo 2 месяца назад
白村湾は潮の干満の激しい低湿地帯で、中世の大坂と同じように大型船は座礁しやすく小型でも操船が難しい場所だった、このため浅い砂浜を示す『江』と呼ばれる、が、実際は硬い岩盤の上を流れる川底が日本からきた船底を次々と削り座礁させたと考えられている。 勝手に沈んでいきやがるwwwワロタぁ乙、といったところか 船数が多いことが禍災を招いた。皮肉なことに『気候・風土(潮の不規則な満ち欠け)を把握』していれば難攻不落の城郭都市だったが、内部対立で風水を操るものが処刑され、あっけない最後だったことだろう
@gray_swan
@gray_swan 3 дня назад
朝鮮半島南部も日本統治領土だったよね。そうでないように歴史改ざんする人の多いこと。。 なお、コメントへのコメントはお断りします。
@lupinthe3rd629
@lupinthe3rd629 3 месяца назад
今はくすきのえって教えないんだってね
@犀馬
@犀馬 3 месяца назад
「はくすきのえ」という読みの話ですよね? 白村江の戦いを教えない、ということではなくて。 今は「ハクソンコウ」という読みで教えていると聞いたことありますが、私は「はくすきのえ」の読みで学生のときに習ったので、この動画は「はくすきのえ」読みだからちょっと嬉しい😃
@user-fw7sn8ot6l
@user-fw7sn8ot6l 3 месяца назад
教師によるとしか…
@Kappa-Lub
@Kappa-Lub 3 месяца назад
@@user-fw7sn8ot6lそれなあるある 過去否定する主義系
@s-yo
@s-yo 3 месяца назад
この戦もだけど乙巳の変、壬申の乱と磐井の乱と言われる継体の変(笑)も日本の歴史が大きく変わった戦だと思う。 明治維新(明治の変w)and日本歴史を作った第二次世界大戦(乱) さて、ここで問題です。変と乱の違いを動画でお答えください(笑)
@aiueiueo
@aiueiueo 3 месяца назад
史実として残っている戦いですが大和王権が勝てなかったのは半島に兵站が無かったからだと言えます。 大和王権が弱くて負けていたならばその後唐が対馬や北九州を攻めたはずだと言えます。 ところが史実上は662年の白村江の戦いの後、665・667・669年と遣唐使が続いていたので、日本が屈服したと考える方がおかしいです。 逆に蘇我氏を排除した後も日本国内で混乱が続いていた中で、蘇我氏が日本の朝鮮半島南部の権益をウリ渡した可能性が高く、景教勢力だった可能性が非常に高いと言えます。
@silversurfer512
@silversurfer512 3 месяца назад
倭国が強かったのか弱かったのかは別として、倭国と百済の連合軍が、白村江で唐と新羅の連合軍に負けて、朝鮮半島から撤退したのは、紛れもない事実でしょうね。 そして唐はその後、倭国を攻めるどころか、朝鮮半島の征服すら出来ていないので、倭国の征服を企てるどころではなかったはずですよ。 動画の最後の方でも触れられていますが、白村江の戦いの後に唐が遣唐使を受け入れたり、倭国との外交を活発化させたのは、新羅を牽制する意図があったと見る方が自然ですよね。
@aiueiueo
@aiueiueo 3 месяца назад
@@silversurfer512 実は朝鮮半島南部の日本勢力圏が危機にさらされたのは400年代中盤からだと言えます。 それは蘇我氏が勢力を伸ばしていくのと見事に一致していると言えます。 磐井の乱の話などを見れば蘇我氏が外国と通じて大和王権の邪魔をしていた事は明らかです。
@user-ow1ww6cf7p
@user-ow1ww6cf7p 3 месяца назад
それは過去の日本を過大評価しすぎでは? 唐が攻めて来なかったのは新羅と仲違いしたからでしょう。 そして当時の技術では唐側も渡海して日本を攻めても兵站が維持できなかったでしょうしね。
@aiueiueo
@aiueiueo 3 месяца назад
@@user-ow1ww6cf7p 日本国内で内応していた蘇我氏がいなくなっていた事で断念したと言えます。 本来柵封地域の朝鮮半島で日本が唐に敵対したのに放置したのはおかしいのです。 それは三韓討伐時の西晋の行動にも通じるものがあります。
@2990117
@2990117 3 месяца назад
むしろ遣唐使が続いてたって事は唐と大和王権は友好関係が続いてて、唐の側に攻め込む理由が無かったってだけでは?
@s-yo
@s-yo 3 месяца назад
あ。そうそう。 この戦は倭の戦だよね?日本じゃないからってヤマト日本はしらばっくれて無かったっけ?(笑)
@user-ow1ww6cf7p
@user-ow1ww6cf7p 3 месяца назад
どこのトンデモ歴史ですか?
@user-on3yo1kz8m
@user-on3yo1kz8m 3 месяца назад
どうしてこのようなデタラメを言うのか。
Далее
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