明治初期の行政の混乱期、千日前を繁華街にするため墓地を更地にするため墓地近くの巨大な人骨灰山は肥料問屋に売却したそうです。一番高い灰山の高さは六間(一間は約1.818mなのでその6倍)当時の火葬は薪なので今より火力が弱く、遺体の焼き残りや木の燃えかす多かった。また周辺の土地柄、貧民浮浪者行き倒れの人たちの火葬もしてたでしょう。
30 дек 2023