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【漫画】龍造寺隆信の生涯~最も不名誉な最期を迎えた戦国大名~【日本史マンガ動画】 

連載終了漫画家・徳永サトシ
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#連載終了漫画家 #徳永サトシ #漫画 #歴史漫画 #日本史 #マンガ #漫画動画 #教育

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17 окт 2024

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Комментарии : 219   
@tokunaga_manga
@tokunaga_manga 4 месяца назад
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@えある-g6u
@えある-g6u 4 месяца назад
徳永サトシさんのおかげで歴史が好きになりお母さんに本を買ってもらいました。寝る時にいつも聞いています。動画新しいの楽しみにまっています。
@ソルトキャット
@ソルトキャット 3 месяца назад
お幾つかは存じ上げませんが、歴史好きなお若い方(だと思う)が増えて嬉しいです。
@えある-g6u
@えある-g6u 3 месяца назад
わたしは4年生で9歳です😊
@ソルトキャット
@ソルトキャット 3 месяца назад
@@えある-g6u 9歳の方で歴史が好きとは、将来がとても楽しみですね。 ご自分でお出かけができるようになったら、ぜひ、ご興味を持った偉人の縁の地をぜひ訪れてみてください。 本の中だけでは体験できない雰囲気を味わったり、自分なりの知見を持つことができるようになるかと思います。 お若い方の将来が、幸多きことを願っております。
@九戸牧市
@九戸牧市 4 месяца назад
隆信もだけど家兼爺さんがすごすぎ
@killimbo3800
@killimbo3800 4 месяца назад
90過ぎて戦場に出るバイタリティやばい そうさせるまでの復讐心も…
@weekly_pcengine
@weekly_pcengine 4 месяца назад
家兼爺さんもノブヤボでよくネタにされるよね(高齢武将の代表格)。母親の慶誾尼も含め、身分はともかく、血統は優秀!
@トーマスナイト
@トーマスナイト 4 месяца назад
1:33 ここで言ってることが後にまんま跳ね返ってくるとは… ただ、離反するものが増えたのは事実だけど五人揃った四天王のように 最後まで忠義を尽くした面々がいたのもまた事実なんよなぁ
@zodiacdc7078
@zodiacdc7078 Месяц назад
初心に帰る事も大事だなぁ……
@HIZAKIRI
@HIZAKIRI 4 месяца назад
龍造寺は鍋茂という有能家臣がいても、太って動けなくなるほどの慢心がどうしようもない
@Q-Finch
@Q-Finch 4 месяца назад
輿に乗ってても、立花道雪と龍造寺隆信では扱いが真逆やな。
@はやおさん-man
@はやおさん-man 4 месяца назад
大名が野戦で討たれるって本当に混乱してたんやろうし、島津が異次元だったんだろうな…成仏しておくれ…
@samuejinbei
@samuejinbei 4 месяца назад
龍造寺隆信に「広大な領地を持ってた龍造寺家のボンボン」ってイメージしてたから、亡命した後に家を再興させた苦労人と知って驚いた。そしてそんな人間にも惨めな最期を迎えさせる慢心や油断は怖いと思った。
@youyah7440
@youyah7440 2 месяца назад
むしろ隆信の子供の頃に父、祖父、叔父達と軒並み主家に殺されたんだよなぁ
@ssoejima1301
@ssoejima1301 2 месяца назад
確か、竜造寺って本家の領地5000町歩「石高に直せば五万石」と言われた有力国人の家です この時代の少弐氏は本拠の筑前を大内氏に取られて、肥前に逃げてた状態で実質的には一国人に落ちぶれてました 竜造寺氏排斥と言うのも、反竜造寺の国人に少弐氏が担がれたという側面があると思います 主君筋の少弐氏に騙し討ちにされた事で人間不信はまあ分かるんだけど でもこの人って二度も助けられた筑後の蒲地氏を滅ぼしたりして本当に非情なんですよね 大友氏だって、二度も滅ぼせる機会があったのに降伏受け入れてるんですよ 誰も信じないって誓った人が、その通りの生涯送ったのかなと
@umakara55
@umakara55 4 месяца назад
沖田畷で龍造寺隆信が家臣に見捨てられた原因のひとつに、戦前に柳川の有力国人、蒲池一族を敵との内応容疑で処刑していたことが挙げられる 蒲池家は家兼が落ちのびてきた時(2:47)、隆信が内紛で肥前を追われた時(5:20)の二度も龍造寺をかくまっており、恩義ある蒲池を滅したことは家臣の反発を招いた ちなみにその蒲池の末裔が久留米市出身の蒲池法子、つまり松田聖子の本名であり、神田正輝と結婚した際には白無垢に蒲池の家紋である左三巴が記されていた
@h-bomber1468
@h-bomber1468 4 месяца назад
???:『許さない・・・父上、絶対に許さない!!!』
@ションションチャンチャン
@ションションチャンチャン 4 месяца назад
主君の少弐家を滅ぼした隆信だけど、子孫はこの後少弐家の分家筋である鍋島家に下剋上されるのは因果応報だよね
@Moko_Hanshin
@Moko_Hanshin 4 месяца назад
鍋島直茂と貴信は異母兄弟よ
@takuya316
@takuya316 4 месяца назад
下剋上というか今で言う経営を譲る感じじゃあなかったけ?
@shoteocha6557
@shoteocha6557 3 месяца назад
鍋島って少弐氏の分家か。
@youyah7440
@youyah7440 2 месяца назад
@@Moko_Hanshin 鍋島直茂の義母が隆信の実母 実母は隆信の叔母だから2人は従兄弟であり、義兄弟でもある
@onseanimal9363
@onseanimal9363 4 месяца назад
これで竜造寺家は一気に凋落し、佐賀の大名の座は家臣の鍋島家に取って代わられた。竜造寺隆信の子供たちも竜造寺の名前を捨てて次々に鍋島姓に名前を変えていった…。
@鳥居元忠
@鳥居元忠 4 месяца назад
身を守る為には仕方ない。 龍造寺家を名乗る事は自殺行為ではあっただろうし。 ただ子供達は自分の本当の姓を名乗れない無念さはあっただろうなって思う。
@ウルフ-o7k
@ウルフ-o7k 4 месяца назад
置いていかれて死ぬとは、相当な死に方でそりゃ無念だろうな
@平木下和馬
@平木下和馬 4 месяца назад
伝令が間違えて攻撃を指示して大敗したらしいな 本当は物見を優先してたのに先走った行動が全滅につながった
@山口賢-j6r
@山口賢-j6r 4 месяца назад
これで竜造寺滅びるかも、と言うところから生き延びさせた鍋島さん、好き。
@海上-w5q
@海上-w5q 4 месяца назад
いつの時代も人望は多い方が良いが、体重は少ない方が良い。と言う事と調子に乗ってはいけない。と言う事ですね。
@久保篤士
@久保篤士 4 месяца назад
不名誉でもここまで当時の九州で成り上がったのはすごいよ。 島津の釣り野伏せのネタにはなってるけど島津は攻めにくいんだよね。 待ちに徹されるときつい。
@浜野高伸-t9t
@浜野高伸-t9t 4 месяца назад
九州に好きな武将多いから最近は特に楽しみです。相良氏とか伊東氏、あと他の三大勢力の家臣も見てみたい。
@ニクタ-u6u
@ニクタ-u6u 4 месяца назад
個人的には、ケンペル、ツンベルク、シーボルトの人生も知りたい。
@ohmifunazushi4418
@ohmifunazushi4418 4 месяца назад
阿蘇氏の家老(でしたっけ?) 甲斐宗運の動画も上げて下さったら嬉しいですね(*´∀`*)♪
@kita_akio
@kita_akio 7 дней назад
主人公の誕生シーンが好きです。今回も「たかのぶー」というかと思ったら「龍造寺!」に笑った
@弘前力学
@弘前力学 4 месяца назад
名前のカッコよさではトップクラス
@filament1504
@filament1504 4 месяца назад
絵と編集がいいですね!
@MrYoshichan
@MrYoshichan 4 месяца назад
人間、これだけ苦労して這い上がっても、成功すると慢心するんだなあ。
@WSemba
@WSemba 4 месяца назад
「肥前の熊」の呼称と島津軍に「釣られて」討ち取られた最期が合わさってネットでもネタにされたりもしているンですよねぇw
@morichan9390
@morichan9390 4 месяца назад
肥前の熊と恐れられた龍造寺隆信 晩年は肥満で馬にも乗れなくなってました。 肥前国の統治は義弟の鍋島直茂の助けで何とかなってましたが暴君ぶりに家臣には人気がなく島津氏との最期の戦い、沖田畷の戦いでは足軽にも見放され攻め込んできた島津軍の敵中に輿ごと置き去りにされ最期を迎えましたね
@Oresumeshi
@Oresumeshi 4 месяца назад
曾祖父さん強すぎるってww
@福田恒一朗
@福田恒一朗 4 месяца назад
龍造寺隆信は、宇喜多直家に似ている部分があるな。何故ならば両者は幼い頃から青年期に裏切りを直に喰らい、一族が殺されてしまう程酷く苦労し、その経験から虐殺を使っても良いという考え方を持つきっかけとなる。違う点は、宇喜多直家は天寿を全うできたが龍造寺隆信は、因果応報な最期を遂げた点です。
@フォード-i1w
@フォード-i1w 4 месяца назад
直家もビクビクしながらの最期だからなぁ…→劣勢に立って織田家中でまた毛利に寝返った!って噂立って信長からの信用を失い、毛利からもお前を二度と信じない!と降伏拒否されて、焦って伊賀久隆暗殺したせいで美作国人の不満が爆発して美作の城が複数落ちるのを見ながら失意の病死
@SiR-sz9lv
@SiR-sz9lv 28 дней назад
⁠@@フォード-i1wまぁ一応秀吉の庇護下だったし取り敢えず落ち着けたんじゃない?実際宇喜多秀家は好待遇だったし
@Seto_yasu1987
@Seto_yasu1987 4 месяца назад
有馬氏が龍造寺から島津に寝返ったのは1582年のことでそこから何度も龍造寺方と交戦しています。1584年の島原出陣は龍造寺方国衆を有馬島津方が攻めたため後詰めとして出陣した戦いであり、地域権力たらんとする戦国大名として当然の軍事行動です。
@Seto_yasu1987
@Seto_yasu1987 4 месяца назад
また沖田畷の戦いで釣り野伏が使われたという話も、近年島津方研究者の方や龍造寺方研究者の方双方から否定されているため注意が必要です。
@Seto_yasu1987
@Seto_yasu1987 4 месяца назад
龍造寺隆信や沖田畷関連では近年では「戦国武将列伝九州編」や、新名一仁先生の「島津四兄弟の九州統一戦」、歴史群像2019・10月、2020・4月の中西豪先生の記事などが参照しやすく学びやすいと思いますので、これらを参考にしていただくとよいと思います。
@nbuob19
@nbuob19 4 месяца назад
2:37 この表情すきwwwww
@パーム-o9b
@パーム-o9b 4 месяца назад
お疲れさまでした。 来週はいよいよ直茂・・・!
@ニクタ-u6u
@ニクタ-u6u 4 месяца назад
勝茂と共にずるい人ってイメージです。
@user-ej4ue8df5w
@user-ej4ue8df5w 4 месяца назад
佐賀藩の藩祖なんで この人がいないと幕末の 「薩長土肥」が成り立ちません。
@マッドマン-g9n
@マッドマン-g9n 4 месяца назад
信長の野望で ステータスが異常にいい人。
@yh6146
@yh6146 4 месяца назад
​@@ニクタ-u6u 初期は鍋島の石高が低かったから苦労した。
@アンドロイド派
@アンドロイド派 4 месяца назад
江戸時代になってある男が幕府に「自分は龍造寺の嫡流だ!龍造寺家を再興させてほしい!」と訴えた。幕府は元龍造寺家の家臣で、当時◯◯家(ネタバレ防止の為伏字)の家老を呼んで確認しようとしたが「そのような者が嫡流と言うなら私の方が余程嫡流です。」と相手にしなかったらしい。隆信がどれだけ嫌われていたかがわかるエピソードだな。
@yn.勇
@yn.勇 4 месяца назад
家老で誰かわかりました!
@中西豪-y2v
@中西豪-y2v 4 месяца назад
またいい加減なことを。「鍋島騒動」として有名なことじゃないか。 隆信の嫡孫高房は龍造寺の家督は継いだが領主権は豊臣政権に認められず、徳川政権下で鍋島直茂の尽力により徳川秀忠の近習に取り立てられるが鬱々として楽しめず自殺同然の死を遂げる。これで龍造寺家は断絶するところ、幕府は龍造寺一門の意見も徴して鍋島直茂が高齢なため勝茂に家督を相続させ鍋島佐賀藩が正式に成立。ところが高房の死後にその私生児がいたことが発覚、直茂はこれを龍造寺一門に預けて養育させる。出家して隆信と同じく中納言円月と名乗ったこの高房遺児が長じて佐賀を出奔し龍造寺伯庵と名乗って幕府に佐賀の正統な領主は自分であると訴え出たのが「鍋島騒動」。 この伯庵と幕府評定所で対決したのは佐賀藩御親類格「龍造寺四家」の筆頭、多久領主・多久安順(旧名龍造寺家久。隆信の実弟長信の子)。
@中西豪-y2v
@中西豪-y2v 4 месяца назад
勿体つけているけれど、有名な「鍋島騒動」じゃないか。 龍造寺隆信の孫・高房は龍造寺家の家督は継いだが豊臣政権に佐賀の領主権は認められず(龍造寺領の統治・豊臣政権の軍役は鍋島直茂が代行)、徳川政権下で鍋島直茂の尽力で徳川秀忠の近習に取り立てられるが鬱々として楽しまず、自殺同然の死を遂げる。これで龍造寺家は断絶するところ、幕府は龍造寺一門の意見も徴して本来なら鍋島直茂に家督を継がせるところだが直茂は高齢のため勝茂に龍造寺家の家督を継承させた。ところが高房の死後にその私生児がいたことが発覚、直茂は龍造寺一門にこれを養育させる。出家して隆信と同じく中納言円月と名乗ったこの高房遺児が長じて佐賀を出奔し龍造寺伯庵と名乗って幕府に自分こそ佐賀の正統な領主であると訴え出た。幕府評定所で伯庵と対決したのは佐賀藩の家老を勤める龍造寺一門(「御親類格四家」多久・武雄・須古・諫早)筆頭の多久安順(旧名龍造寺家久。隆信の実弟・長信の長子)。
@長尾相模守
@長尾相模守 4 месяца назад
そのエピソードは隆信関係ないのでは…
@山猫-f7p
@山猫-f7p 4 месяца назад
何が言いたいのか全く分からなくて草
@samuraitaisyo
@samuraitaisyo 4 месяца назад
やっぱり軍が多くても家臣が強くなきゃ負けるよね、
@HONO-b8h
@HONO-b8h 4 месяца назад
お疲れ様です!! この武将の方、苗字がかっこいいんだよな〜
@ss-vi2os
@ss-vi2os 4 месяца назад
地元の武将を紹介して頂きありがとうございます!!!
@腹痛亭芸太
@腹痛亭芸太 4 месяца назад
隆信も好きだけど家兼マジで好きだわ
@shark74scr
@shark74scr 4 месяца назад
戦国大名で他に戦場で討ち死に(首を取られた)と言えば、第一次国府台合戦で北条家に敗れた足利義明とかですかね〜
@カイロス-t7l
@カイロス-t7l 4 месяца назад
伊藤義祐「わしも見捨てられたんやけど…」
@youyah7440
@youyah7440 2 месяца назад
お前は完全に自業自得よ まだ息子が頑張ったから復活したけど
@rosan6179
@rosan6179 4 месяца назад
今川義元も合戦で討ち取られたが、家臣が首の返還を信長に要求している。 首の受け渡しを拒否されるとは人望のなさが致命的です。
@youyah7440
@youyah7440 2 месяца назад
名門の家柄と下剋上の家柄の差よ
@ニクタ-u6u
@ニクタ-u6u 3 месяца назад
隆信や道雪、宗麟といい、九州の武将の幼少期はかなり壮絶ですね。だからこそ、胆力が桁違いなのかなと思いました。
@orientallocal9988
@orientallocal9988 4 месяца назад
痛みを知りながら同じ傷を「敵」に与えた罰なんだろう
@ikedasingo5074
@ikedasingo5074 4 месяца назад
戦場で首を打たれたのは今川義元と竜造寺隆信の2人だけって、そういや2人とも最後の戦いで輿に乗ってたのも同じような…?
@Gekitakubaibai
@Gekitakubaibai 4 месяца назад
長宗我部の倅は
@湯口貴之
@湯口貴之 4 месяца назад
​@@Gekitakubaibai 総大将が、な
@yh6146
@yh6146 4 месяца назад
輿は室町時代には幕府から認められた一部の大名しか使用できなかったから今川義元の場合は信長に格の違いを見せつける為だった。龍造寺隆信と違い義元は最後まで立派に戦った。その証拠に義元を討ち取った毛利新介は義元に指を噛み千切られたし、その前に斬り付けた服部小平太は膝を斬られた。
@Gekitakubaibai
@Gekitakubaibai 4 месяца назад
@@yh6146 勉強になります
@youyah7440
@youyah7440 2 месяца назад
今川義元の輿は後世の創作説が有力 本人は普通に馬に乗ってる
@村正-e4y
@村正-e4y 4 месяца назад
竜造寺隆信を討った島津家久の祖父忠良(日新斎。1492-1568)は、家臣教育のために書いた 「島津忠良いろは歌」で 不勢とて敵を侮ることなかれ 多勢を見ても 恐るべからず (数が少ない敵を侮るな。敵の大軍を見ても恐れるな) 心こそ軍する身の命なれ そろふれば生き 揃はねば死す (士気こそ侍の命である。皆の心が揃えば生き、揃わなければ死ぬ) 弓を得て失ふことも大将の こころひとつの 手をばはなれず (戦いに勝つも負けるも大将の心がけ一つである。) 少しきを足れりとも知れ満ちぬれば 月もほどなく 十六夜の空 (少し足りないくらいで満足しよう。 満月も次の夜から欠け始めるのだから) と、龍造寺隆信が聞いたら耳を塞ぎたくなるような名言を残しています。
@毛利モトナリー
@毛利モトナリー 4 месяца назад
😻
@黒一輝
@黒一輝 4 месяца назад
隆信の最期の言葉「紅炉上一点の雪」は島津家家臣川上忠堅に「大将の首を討つ作法を知ってか」と問いかけ、それに対する忠堅の「いかなるかこれ剣刃の上」という答えに返したもの。この川上忠堅は出陣に際して「自分が龍造寺隆信を討ち取る」と公言し、それを実現させた。 尚、龍造寺隆信を討ち取ったにもか関わらず、何故か忠堅には目立った恩賞は与えられていない。 沖田畷の戦いに際して島津家の軍配者川田義朗は、自軍の勝利のみならず龍造寺隆信の敗死まで予言し、的中させている。 龍造寺隆信が人望を失う事になった最大の要因に柳川の蒲池家を滅ぼした事がある。蒲池家の先代蒲池鑑盛は肥前から脱出してきた龍造寺氏を二度にわたって匿い、肥前への復帰を支援した龍造寺氏にとって最大の恩人といえる人物だったが、隆信は鑑盛の子鎮並を謀殺した上、その一族家臣を非常に悪辣な方法で滅ぼしている。これによって隆信は豊かな柳川の地を手にしたが、周辺の領主は勿論、龍造寺家の一族家臣にも反発する者が有ったという。
@凡人-g1s
@凡人-g1s 4 месяца назад
待ってました!実は、私が一番好きな武将です!
@あるある-n2m
@あるある-n2m 4 месяца назад
母の実家には龍造寺隆信の陣太鼓があります。
@kasa1183
@kasa1183 4 месяца назад
今度、蒲生氏郷の生涯を見てみたいです!
@小野澤親
@小野澤親 4 месяца назад
「爆笑問題」の田中裕二さんのご先祖様は田中播磨正晴氏という龍造寺家の家臣でした。 龍造寺家が滅ぼされてからは、流浪の身となりましたが、現在の福岡県小郡市に流れ着き、その地を開拓して発展させました。
@イトーヨーcard
@イトーヨーcard 4 месяца назад
一代で巨大範図を築いた英雄(名君)の一方、兵数で圧倒的有利な戦で惨敗して首級を取られた愚将の両面を持つ稀有な武将😤
@垣内成夫
@垣内成夫 4 месяца назад
つまり肥前は、少弐→龍造寺→鍋島となるわけですね。 少弐は鎌倉時代からの名門、鍋島は江戸時代を通じてお肥前佐賀35万石の大名ですが、その間に挟まれた龍造寺氏の隆盛期はあまりにも短かった…(^^;) …というわけで「続編」となる次回の鍋島直茂も非常に楽しみ(^^)/
@yh6146
@yh6146 4 месяца назад
ただし龍造寺の本家は滅亡でも分家は複数残って鍋島の重臣として残った。
@youyah7440
@youyah7440 2 месяца назад
@@yh6146 佐賀藩の1/4ちかくを龍造寺4家が治めた
@みっちゃん-j4r
@みっちゃん-j4r 4 месяца назад
クマちゃん 登場
@manwong9931
@manwong9931 4 месяца назад
豐臣秀吉曾經講過龍造寺隆信最偉大的地方就是重用鍋島直茂👍
@ch-bo1kv
@ch-bo1kv 4 месяца назад
そのとおりだ😂
@まったりビト
@まったりビト 4 месяца назад
戦国時代に野戦で大名が討ち取られたのは、龍造寺隆信か桶狭間の今川義元しかいないからね‥。 ただ、隆信も義元もなんでこんなにタイミングが悪いんだという、天に見放された感が酷い。
@user-SpiceChoco9Addiction
@user-SpiceChoco9Addiction 4 месяца назад
ここまでやらかしてたら、敵も味方も知らないうちに結託状態(敵:ヤツは必ず討つ!/味方:面倒だから適当なとこで敵に討ってもらおう)だった可能性 残っていた忠臣が出撃反対したのも、敵が強いというより『味方に殺される(謀殺含む)可能性』を危惧してのものだったでしょうね
@momogarasu
@momogarasu 4 месяца назад
数的有利という魔物 自軍が万で敵が数百となれば勝ち確、だがそんな後ろでハナクソ穿ってるだけで報奨が貰える戦にも前線は存在する むしろそんな勝ちの決まった戦で〇にたくはない、逆に相手は少数であればあるほど命を捨てて攻めてくる そんな理由で少で大を打ち破る例は特に珍しくない
@user-kr1bu6rl2q
@user-kr1bu6rl2q 4 месяца назад
どんなガダルカナルですか
@山田海人-e5t
@山田海人-e5t 3 месяца назад
僅かなミスが原因で無残な死に方をする武将なんていくらでもいる。 本当の龍蔵寺隆信の凄い所は類稀な辛抱強さと巧みに時世を読み取れる頭脳にあったのは確かで、 武力も島津義弘に引けを取らなかったとされているんだから、相当な努力家だったと言える。
@宴は終わったが
@宴は終わったが 4 месяца назад
動画ありがとうございます。 次週の鍋島直茂の方が個人的には興味をひきます。何せ唐津藩の藩祖ですからね。
@鈴木孝也-c1k
@鈴木孝也-c1k 4 месяца назад
沖田畷で釣り野伏せにかかった龍造寺勢の先陣は混乱を起こします💦 ところがこの時、隆信は後方にいて状況が分からなかったらしいのです(まだ着陣の状況に無かったらしい、要は『行軍状態』)     (;゚д゚) この時、合戦で非常に大切なのが伝令……… 他家では【母衣武者】と呼ばれているデッカイ矢避けの袋を背負ったその家で最高の強者ですが……… よほど龍造寺隆信に人望が無かったのか?人材が枯渇していたのか? この伝令が酷いチョンボをやらかしました    (・・;) 全軍の進撃が止まり、先陣が動かないのを訝しんだ隆信は   「様子を見てまいれ!」 と命じたのですが、何を考えたのかこの伝令が 「早く進め(闘え)との下知で御座る!」 と伝えてしまいます(;゚д゚) 深田を巧みに利用した釣り野伏せで動きがままならない龍造寺勢先方は完全に怒ってキレてしまい……… 「我らに死ねという御下知か!?」 とほんとに圧倒的不利な中、救援も無く……闘い続けて壊滅してしまいます💦 精鋭の先陣を潰された龍造寺勢は、次々と後続が共崩れを引き起こす事になりました💦 今川義元も輿に乗っていたそうですが、龍造寺隆信もこれでは逃げられませんね😢
@藤間裕章
@藤間裕章 4 месяца назад
いつか大河ドラマで放送してほしい。
@微糖-d1v
@微糖-d1v 4 месяца назад
15:07 龍造寺隆信も今川義元も馬じゃなくて輿に乗っていたな。 輿じゃあ逃げるのも一苦労だし、担いでいる家来が逃げ出したら殺られるよね。
@youyah7440
@youyah7440 2 месяца назад
隆信は輿だけど義元は馬だよ 輿は後世の創作
@ソフィア通りこころ
@ソフィア通りこころ 4 месяца назад
息子たちも居るのに、ここまで家臣に嫌われるとは… 同じ輿に乗って居ても最期まで尊敬を受け続けた立花道雪とはあまりにも違い過ぎますね。
@yh6146
@yh6146 4 месяца назад
道雪の家臣はどんなに不利でも輿に乗った道雪を置き去りにしない。
@hisaka5351
@hisaka5351 4 месяца назад
阿蘇家の忠臣、無敵チート狂人爺の甲斐宗運をお願いしたいです🥺 阿蘇家が長らく強者揃いの九州三国志で生き残れたのは甲斐宗運のおかげ!
@ああ-p1l6t
@ああ-p1l6t 4 месяца назад
隆信が討たれたのは釣り野伏せではないですね。 単に田地の利を活かして攻勢限界を迎えさせて猛攻で反撃しただけです
@たまご-y5r
@たまご-y5r Месяц назад
「くっ!沼で動けない!」的なやつだっけ
@kwanoudou
@kwanoudou 4 месяца назад
なまじ知識も腕力も秀でていたために自信を持ちすぎて家臣を顧みなかったのかもしれませんね ちょっと古代中国の項羽を彷彿してしまいました
@猫の組織合同委員会
@猫の組織合同委員会 4 месяца назад
この隆信を凡愚に見えてしまうような才能を持つ鍋島直茂
@koumj9129
@koumj9129 4 месяца назад
政家がなぁ…。父親と比較すると何とも言えない…。
@クンよし
@クンよし 4 месяца назад
以前『戦国武将列伝』という雑誌で 島津戦記に龍造寺が出てたのですが すっごぉ〜く!やな奴でした😏
@フォード-i1w
@フォード-i1w 4 месяца назад
脳筋に見えて結構内政の人でもあるのよね 佐賀県多久市は木材の生産地でそこに小城郡の国衆・多久氏に弟の長信を入れて発展させたり、更に村のリーダーである庄屋に給料を与えて軍事活動・在地支配を一気に広めたそうで  有馬氏らの敵=キリスト教の敵だったけどフロイスからも「カエサル(即決という点で?)」と称えられる人でもあった(デブは中傷っぽい) かつて後継候補で周家・隆信親子の対立軸で擁立されてた龍造寺鑑兼の子・家晴が筑後進出で鍋島と一緒に活躍して名声上げてたのと、隆信が一度肥前から追い出された経験もあるから家晴派の発言力を削ぐために隠居して子の政家の権勢高める必要があったがその矢先に…
@divref4416
@divref4416 4 месяца назад
秀吉と同じで晩年に家臣らの信頼を落としてしまったか...
@穏やかな心を持ちながら激しい怒
出陣でお世話になってます
@吉井冬児
@吉井冬児 4 месяца назад
悲しい最期だった😢悲しい😢
@義和菊池
@義和菊池 3 месяца назад
彼の最期は武将として情けないし恥ずかしい…。
@土屋真一-r1p
@土屋真一-r1p 4 месяца назад
そう、その後肥前 (長崎+佐賀) は鍋島のものへ。 豊臣時代は名目上龍造寺のものだったけど。
@ジャガー猫弟
@ジャガー猫弟 4 месяца назад
まさに戦国時代、下克上の世の中ですね
@zodiacdc7078
@zodiacdc7078 4 месяца назад
龍造寺家も充分化け物だったろうけど 島津家は次元の違う化け物👹
@プレモル爺
@プレモル爺 4 месяца назад
蒲生氏郷お願いします!
@たまご-y5r
@たまご-y5r Месяц назад
戦国無双4やってますが、島津軍の軍略と自身の脆さで圧勝さらてましたね
@伊達教宗
@伊達教宗 4 месяца назад
竜造寺隆信は、戦国時代屈指の脳筋武将。別名・肥前の熊っ!!
@tamurasouryuful
@tamurasouryuful 4 месяца назад
1:31 フラグが立ってて草 「慢心」 肥後の熊といわれ恐れられてますが、太りすぎてついた渾名とも言われてますね。 それだけ最期が情けない限り。
@シュン7958
@シュン7958 4 месяца назад
首の受取を拒否された、兄弟分であり第一の腹臣だった筈の鍋島直茂が次第に主家を傀儡化してやがて取って代わってしまった。それらを考えると晩年の隆信が如何に人望人心を失っていたか?がよく判る。隆信が肥前統一を果たした頃の様な慕われた君主のままだったなら例え不様な討死を遂げていたとしても息子たちが臣下に母屋を奪われる事態にはならなかっただろうな。
@もつ-r8s
@もつ-r8s 4 месяца назад
龍造寺と言えば龍造寺四天王(5人)のイメージ
@yasunori_suzuki
@yasunori_suzuki 3 месяца назад
曽爺さん凄すぎだけど、さすがに93歳じゃあ寿命が尽きるよな・・・
@迅-jinjinjinjin
@迅-jinjinjinjin 4 месяца назад
あ!5人揃って龍造寺四天王ところの殿様釣られたクマーさんだ! 追記)吉川元春、小早川隆景、穂井田元清を見たいです!元就の息子たちという形でも良いので……!
@瀬戸正光-s1j
@瀬戸正光-s1j Месяц назад
隆信は筑後蒲池家の温情で佐賀に帰ることができたのに、その大恩ある蒲池家を騙し謀殺したことが哀れな最期につながつている。
@武闘派のび太
@武闘派のび太 4 месяца назад
祖父と父を謀略で討たれた生い立ちが心を荒ませたのは想像に難くないが、家臣に追放・反乱されたり粛清したりと同じ轍を踏み続けた感がある。その最期も島津にというより己自身に敗れたと評するのは酷評が過ぎるだろうか。
@義和菊池
@義和菊池 4 месяца назад
戦国の英雄にしては最期が情けないし恥ずかしい…。戦で敵に首を跳ねられる悲惨な最期だとしても今川吉義元みたく最期の瞬間まで戦って欲しかった。
@manbaken879
@manbaken879 3 месяца назад
戦国時代でも特に九州地方は戦死率が高かったらしい。30年ほど前に福岡支店によく出向いたが、単純で悪気は無いが、喧嘩腰や暴力を感じされる九州男児が普通だった。
@gun_mastar4971
@gun_mastar4971 4 месяца назад
龍造寺隆信といえば「五人いる龍造寺四天王」等でも有名?ですが、家臣筆頭は次回動画の鍋島直茂(四天王ではない)。有能な家臣を抱えながら、あっさり(大名としては)滅んでしまった辺り、今川義元にも通じる所があります。
@yn.勇
@yn.勇 4 месяца назад
いつもYUKIMURA CHANNEL見てるんだけど大内義隆が陶隆房に謀反起こされてやられるというのを知って驚いた。
@腹痛亭芸太
@腹痛亭芸太 4 месяца назад
あと少しで大寧寺の変も来そうで楽しみですね
@yn.勇
@yn.勇 4 месяца назад
@@腹痛亭芸太 あれは大寧寺の変というのですか
@腹痛亭芸太
@腹痛亭芸太 4 месяца назад
@@yn.勇 大内義隆が陶に殺されるやつは大寧寺の変ですね
@yn.勇
@yn.勇 4 месяца назад
@@腹痛亭芸太 教えてくださってありがとうございます
@haru-entmotaku
@haru-entmotaku 4 месяца назад
勇猛だが人望の無かった隆信。肥前を引き継いだ鍋島家が幕末の有力家となり、有能な家臣団によって海外の技術を国産化して維新の原動力になったと思うと感慨深いです。
@さくらん-c6o
@さくらん-c6o 4 месяца назад
鍋島が部下に居たからなあ‥そこらで持っていた可能性‥ 日本酒の鍋島はお隣福岡県住みにありがたい美味くてリーズナブルなものから大吟醸になるとかんがえるだけでもヨダレが笑 今でも多方面で活躍される鍋島家、名家は理由があって続くんだなあ
@アーク-m8t
@アーク-m8t 4 месяца назад
家臣に追放されて筑後に行った事があったんですねー蒲池に助けられたのいつなんだろうとずっと思ってた 勉強になりました。ありがとうございます🙂
@ユーベさん
@ユーベさん 4 месяца назад
この人の不運は島津忠良から始まる貴久、4兄弟が異常に優秀だったことやね 大友宗麟は自爆したのはラッキーだったけど
@フォード-i1w
@フォード-i1w 4 месяца назад
宗麟は既に政務引退済で、義統の初陣が島津で世代交代した矢先だったのもある(発端は国境の土持氏という豪族の調略+義昭の檄文 義統は信長を見習え!という方針→家臣らへの恩賞の捻出のため英彦山等攻撃 元から大内・毛利に味方したり宗麟の嫁実家の奈多宮&一門の田原氏と対立してた敵対武装勢力だったのもある)し、元々「対毛利最前線の筑前」以外に自分の家臣を置かずに在地国衆に経営委託する方針という守護大名体制のまま戦国大名やれてしまったってのが響いた
@ユーベさん
@ユーベさん 4 месяца назад
​@@フォード-i1w 確かに歴史家の先生が移行に失敗した家は滅びてるって言ってましたね
@安永建吉
@安永建吉 4 месяца назад
不名誉な死でも今川義元マシですね。(家臣に憑かれてた義元。)
@pontarou01
@pontarou01 4 месяца назад
3:37 92歳だと病っていうより殆ど老衰でしょうね
@西条大河
@西条大河 2 месяца назад
今川義元と同じく輿に乗っての戦で戦場で撃たれるのは共通してるな❗
@neriwasa08
@neriwasa08 4 месяца назад
いつの世も心は変わらない・・・難しい問題だね。
@6110btd
@6110btd 4 месяца назад
龍造寺隆信はでかくて強くて、戦場に出ちゃう人やったと聞いたことある。
@BEKU02
@BEKU02 4 месяца назад
容貌雄偉・眼光炯々と言われ、戦支度の迅速さもかのルイス・フロイスに 『カエサルとてそれ以上の迅速さと知恵を持って企ててないかと思われた』と称されていました。 実際はこんな酷い有り様だったんですね、 最初から太ってたと思ってたら途中から酒に溺れて太ったんですね、なんか後漢の董卓みたいだ😅
@ひとみ-g6v
@ひとみ-g6v 4 месяца назад
心って難しい、、、😢
@まりあの-t2y
@まりあの-t2y 4 месяца назад
龍造寺隆信の墓っていろんな所にありますよね。 うちの近くにも首塚あるし、玉名と佐賀の墓も行きました。 首の受取拒否とかあったから、遺体も散らばったんだろうか?
@勘歩ジョン
@勘歩ジョン 4 месяца назад
そうなるのもわからないではないとか、戦国のならい他家でもやってたりするよねとかはあるけど、「やり過ぎ」。 本当にそうしないと生き残れないのか?という疑問がつきまとう。そうしないと生き残れないのであれば最初から詰んでる。
@weekly_pcengine
@weekly_pcengine 4 месяца назад
龍造寺、影の権力者は母の慶誾尼! 何かとお伺いたてるので一部でマザコン説あるとかないとか。
@yh6146
@yh6146 4 месяца назад
センゴク権兵衛のプロローグでは出陣前に隆信は母親に挨拶して母親の手作りの握り飯を食べていた。
@sio-m6m
@sio-m6m 4 месяца назад
勢力を拡大してからの残虐な行動は三国志の董卓と似てるな
@nanasi8915
@nanasi8915 4 месяца назад
本能寺で信長が死んだ時「小倉まで赴いて隙をついて切り殺したかったわm9(^Д^)プギャー」的なこと言ってたらしい 隆信の能力の高さはカエサルに比肩すると言われていたとか
Далее
ROBLOX TRAND AGAIN. Part 7☠️🗿🙋🏻‍♀️
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