わ組 平野町 上杉謙信の兜 1869年・明治2年 十番曳山
10番曳山平野町(ひらのまち)「上杉謙信の兜」 縦町筋の米屋町、八百屋町、新町と交差する南端の横町筋が平野町である。平野町も当初の唐津十二ヵ町に見られない町であるが 名護屋城下にも平野町があり これが移ったともいわれるが定かではない。大久保時代の絵図から登場する町名である。新町と同じく職人が多い町筋であった。当初は 下級武士の住む武家地であったものに 後に職人たちが移住し町人町になったものか。
現在唐津神社にある「白玉稲荷」は かつて木浦山千量院という当山派の山伏が祀っていたもので 平野町にあった。後に米屋町本勝寺に吸収されたが、名護屋六坊のひとつ、了休坊と呼ばれた真宗派の伝明寺という寺院もあったが、明治中頃には消失した。
また、平野町には伊勢の御師の出張場である伊勢屋もあった。文化年間の規模は41軒、131人と記録されている。十番曳山「上杉謙信の兜」は明治二年(1869)制作された。兜曳山四台のひとつである。九番曳山「武田信玄の兜」に対抗して制作されたという。
外観 獅子頭の装飾が特徴の兜曳山である。この獅子は角があることから雄獅子を題材としていることがわかる。獅子頭につながる眉庇には三羽の雀が乗っている。眉庇の両側に位置する吹返しには上杉家ゆかりの紋がデザインされている。錣の縅(おどし)は赤一色に統一されている。制作年は 明治二年(1869)制作者は細工師:冨野武蔵 塗師:須賀仲三郎
制作時の背景 平野町の「上杉謙信の兜」も、木綿町の「武田信玄の兜」に対抗して制作されたといわれているが、詳しいことは伝わっていない。
上杉謙信の兜を制作するにあたっては、浮世絵や歌舞伎、人形浄瑠璃などで知られていた絵柄を基にしたと考えられる。当時、上杉謙信に関する軍記物としては「越州軍記」、「川中島合戦記」があるが、江戸庶民としては辻講釈や江戸時代末から明治時代に全盛期となる講談としての「軍談川中島」などが知られていたものと考えられる。
上杉謙信の兜を制作するにあたっては、浮世絵や歌舞伎、人形浄瑠璃などで知られていた絵柄を基にしたと考えられる。当時、上杉謙信に関する軍記物としては「越州軍記」、「川中島合戦記」があるが、江戸庶民としては辻講釈や江戸時代末から明治時代に全盛期となる講談としての「軍談川中島」などが知られていたものと考えられる。
形は兜鉢に獅子が食らいつく、「獅噛形(しかみなり)」のもので、獅子は一本角の雄獅子形をとるものである。
眉庇や吹き返しの文様、兜頭部の獅子の頭髪などに制作から塗り替え改修を通じて変化が見られる。町には、台車を制作した場所(平野町1601番地)と「金具を使わずかくし木栓で作ったものであった」ということが伝えられている。
御指摘を頂きました。
唐津市役所ホームページより でしたが
編集のミスがあって 頂いた資料より
令和4年唐津くんち 10番曳山 上杉謙信の兜 平野町 総集編の文中
現在唐津神社にある「白玉稲荷」は かつて木浦山千量院という当山派の山伏が祀っていたもので 平野町にあった。
と有りますが、白飛稲荷神社で、今は呉服町がお祀りしています。
白玉稲荷は新町です。
との事です。令和5年11月22日
宜しくお願い致します。
ありがとう ございました。
#唐津くんち #唐津 #曳山#ユネスコ無形文化遺産#上杉謙信#エンヤー
15 окт 2024