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どうすりゃ勝てたの? 関ヶ原の戦い  Help 石田三成!!【ゆっくり歴史解説】 

かぐら ゆっくり実況
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私のついったー / iw1ub7bneegehpj
初の戦史系動画です。
戦争については以前上げたセルジューク・トルコの動画(現在はその動画は削除)で取り扱いましたが
戦争そのものを扱った動画はこれが初めて。
石田三成にとって関ヶ原の戦いというのは無謀な戦いで、
これをひっくり返して逆転勝利できたら
歴史好きにはたまらないロマンなのでしょうが……。
※当チャンネルはゆっくり動画にこだわったチャンネルです。
ゆっくりの人口音声はAquesTalkを使用(ライセンス取得済み)
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7 сен 2024

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Комментарии : 686   
@Rouis614
@Rouis614 4 года назад
関ケ原の敗因は、西軍内部および豊臣恩顧であるにもかかわらず東軍についた勢力が多かったこと。関ケ原の準備で失敗したというより、秀吉生前から有力武将と信頼関係を構築してこなかったことが尾を引いてるので、この段になって挽回しようと思っても厳しかったようには思う。吉継が無理と言っていた理由(人望のなさ)が全て
@user-ey8uu5gv8p
@user-ey8uu5gv8p 3 года назад
豊臣恩顧の大名が家康に付いたのは、勿論秀頼様に弓を引く意味ではなく、単に三成が嫌いだったからだったんでしょうね。
@wh0000000
@wh0000000 3 года назад
この時点では三成も家康も豊臣の家臣。 もっと言うなら家康は秀吉に指名された秀頼の後見人。 毛利輝元に大坂を占拠されてるけど淀殿も秀頼も反家康の立ち位置を明確にしていない。 だから豊臣恩顧を理由に西軍につかなきゃいけない理由なんてないし むしろ「秀頼さまを人質にして反乱を起こしている」逆賊は三成とも言える。
@user-ep5qg8og3x
@user-ep5qg8og3x 3 года назад
そもそも、関ヶ原の戦いは西軍と東軍の戦いでは在っても、豊臣家と徳川家の戦いではないですからね。単純に、秀吉子飼いの大名たちからすれば、今後の豊臣政権内でどっちが主導権を握るかどうかに過ぎないから、豊臣政権内での格の違いがモロに出るのは当然かと。
@user-yq1ln3qt4f
@user-yq1ln3qt4f 2 года назад
前田利家が家康より先に死んだ時点で詰んだと思いますね。
@user-hd3hi3sl1x
@user-hd3hi3sl1x 2 года назад
この話の本質はあくまでも豊臣の天下を望んだ理想主義者三成と実力者家康を頼って豊臣の名だけでも残そうとした合理主義者加藤福島等の考え方の違いだと思う
@user-gl1se9pj5z
@user-gl1se9pj5z 4 года назад
30分の長い動画うれしいです、ありがとうございます!
@user-wo9oy8vb2r
@user-wo9oy8vb2r 4 года назад
天下人に成る前の秀吉は「人たらし」と言われるほど全国の大名や重鎮に気遣いしていましたが、晩年の秀吉は人が変わったように傍若無人ぶりがあったから、三成の人望の無さだけでなく豊臣家への忠誠心も薄れていたと思います。
@user-qz3go1ft3p
@user-qz3go1ft3p 3 года назад
秀吉の晩年はまるで別人のように 良い事を一つも成して無い 梅毒で頭おかしくなってた説さえ あり得る感じ
@user-sp1jv4fq2j
@user-sp1jv4fq2j 2 года назад
@丸山康平 特殊な事のように言ってるけど、家康も若い頃に兄弟の処分を行なっているし、息子を処分した事もある。 毛利、細川、大内、龍造寺、上野長尾、浅井、伊達などの例を見ても、秀吉の残虐な一族殺害とそれで多くの恨みを買うのは異例の事態ではないと分かる。 全国統一の覇者として一族の処分を行うのは秀吉が初めて(家康秀忠は秀吉という前例から学ぶ事ができる)で、経験前例も無く、大事件として注目もされた。 あと動機とその後の振る舞いから憶測すると、秀吉1人ではなく淀殿の意思が関係してたかも?豊臣の利に反する行動で一貫してる。
@MsSyage
@MsSyage 2 года назад
建前を横におけば、そもそも豊臣政権は織田家の当主と後継者が死んだのをいいことに秀吉が幼君をたてて簒奪した、という形。豊臣家自体も別に貴種でもないし、秀吉死後の豊臣家はまさに本能寺後の織田家とにたような状況だった。となれば実力ある家臣(徳川家)が同じように豊臣家を扱っても不思議ではない。諸大名にとって関ケ原は豊臣の内戦という建前の下、次の天下人をきめるポスト賤ケ岳であったということじゃないかね。
@user-wo9oy8vb2r
@user-wo9oy8vb2r 2 года назад
@@MsSyage そう言う事をいっているんじゃないんですよ。戦国時代は、正統性よりも実力主義ですから。 信長だって、織田本家を滅ぼし、主君であった斯波氏を追放しているので、秀吉に限った事ではないです。 私が言っているのは、「秀吉が晩年も ”人たらし” のままであったら、豊臣家を守ろうとする勢力が強大な筈だった」と言う事です。
@rjuj1356
@rjuj1356 2 года назад
@@user-wo9oy8vb2r 秀吉が人たらしでなくなったというより、人間的魅力で籠絡する必要のある人間がいなくなったのだと思います。豊臣家に恩顧は感じているものの、損得勘定を抜きにして加勢するほどでもない大名が多かったのでしょうね。
@user-yt7fw8go6f
@user-yt7fw8go6f 4 года назад
前田利家がぽっくり逝っちゃったのが痛すぎるよね。
@BEKU02
@BEKU02 3 года назад
利家はどうも五大老に任命される前から、病気がちで引退を考えていた程らしい 時間の問題だったし、生きていたとしても止められていただろうか・・・?
@user-ep5qg8og3x
@user-ep5qg8og3x 3 года назад
まぁ、年齢考えればいつ逝ってもおかしくない高齢者でしたからね・・・ まだ、丹羽長重にイチャモンつけて大幅減封せず、重用して秀頼の後見頼んだほうが、マシだったかも?
@user-bm6ql2wt7u
@user-bm6ql2wt7u 4 года назад
三成方で本気で徳川ぶっ潰そうと考えていたのは、上杉景勝、宇喜多秀家くらいだと思う あとは、多かれ少なかれ成り行きみたいなもんでしょ
@user-cf4sn2cj8n
@user-cf4sn2cj8n 3 года назад
その上杉景勝も東軍主力が西へ移動したのを見て対峙してた東軍勢と適当に手打ちして、飛び地接続の為に最上義光領に侵攻したけどな 情勢に対して自分の都合で動くのは戦国時代あるあるだ まぁ大方関ヶ原の勝敗が成り行きだというのは当たってると思う
@user-gr7je8hm3d
@user-gr7je8hm3d 4 года назад
西軍の武将には裏切られた石田三成ですが、三成自身の家臣からは一人も裏切り者は出てないんですよね。石田三成の事を理解してくれてる人がもう少しいたら、どうなっていたんだろうと思います。
@user-jc3lr7ds9m
@user-jc3lr7ds9m 3 года назад
三成の家臣からすれば三成の「豊臣LOVE」は分かり切ったことで、三成は豊臣に滅私の奉公してるわけだから三成が自分の身可愛さを理由に家臣を切り捨てるということが無いのを理解していたんだと思う。 ただ三成は豊臣以外の他家への扱いは悪かったわけで、他家からしたら三成はほとんど敵のような存在だったかもしれないね。
@user-ep5qg8og3x
@user-ep5qg8og3x 3 года назад
まぁ、そもそも戦場に居合わせた西軍の諸将からすれば、三成は総大将でも盟主でもなく、せいぜい友軍止まりの認識ですから、三成を裏切ったという認識はなかったんじゃないですかね? しかも、関ヶ原の戦い自体、豊臣家の主導権争いであって、家康による簒奪を抑え込む戦いではないわけですし。 むしろ、島津・毛利一門・長宗我部辺りからすれば、毛利輝元が総大将と聞いたから、渋々味方したけど、佐和山18万石の茶坊主上がり如きの指図を受けるいわれはないと思っていたかと。
@REKI-AKAHOSI
@REKI-AKAHOSI 4 года назад
吉継も豊臣家に忠義を尽くしたというより友情に殉じただけなのでは……
@ERJ-170_NKM
@ERJ-170_NKM 4 года назад
確かに。大谷刑部にとっては三成>豊臣家だったのだろう。実際、ハンセン病でずっと豊臣政権から離れてた訳だし。
@REKI-AKAHOSI
@REKI-AKAHOSI 4 года назад
@@ERJ-170_NKM 意図してそう言わせたのかはわからないけど、その人の心のわからなさ(忠誠心第一主義のような廉直さ)が大谷吉継は好きだったんだと思う
@user-co4uy9zu1s
@user-co4uy9zu1s 4 года назад
吉継はどっちかって言うと親家康だからね 関ヶ原だって東軍参加の予定だったし 三成とは個人的に親しかったってだけで豊臣家とはそんなに昵懇では無かった
@user-js3kd7fe4h
@user-js3kd7fe4h 4 года назад
@@user-co4uy9zu1s 吉継はらい病に罹る前は秀吉に可愛がられていたんじゃないの?
@マイケル-h7
@マイケル-h7 4 года назад
利家と家康が一悶着あって戦争寸前になったときに家康邸と利家邸に集まった大名は東と西のメンツはほぼ同じだったけど違ったことは西陣営に加藤清正が居て東陣営には大谷吉継が集合したんだよな
@user-gh8hd2pj8y
@user-gh8hd2pj8y 4 года назад
あと、松尾山は元々毛利勢が布陣するはずだったのに、先に小早川勢がそこに布陣してしまい この時点で小早川は裏切っていたのでは無いか?という説があるらしい。
@keiyama2758
@keiyama2758 4 года назад
三成も何もしてなかったわけじゃないんだろうけど、合戦に到るまでがまずすぎた。 ドリフターズで信長が言った「合戦そのものはそれまで積んだことの帰結。合戦に到るまでに何をするかが戦」ということ
@user-tb7ed4rz6n
@user-tb7ed4rz6n 4 года назад
銀河英雄伝説のヤン・ウェンリーも同じようなことを言っていましたね。確か勝敗の九割は戦場の外で決まる、と。
@user-jc3lr7ds9m
@user-jc3lr7ds9m 3 года назад
何時どこで誰と戦いを行うか?をデザインする事を「戦略」と言います。兵站計画や準備も当然含みます。 戦略は戦場の外、平時でこそ発揮されるものですよね。
@gionsyouji5831
@gionsyouji5831 3 года назад
戦う前に勝っていないとね。
@user-sp1jv4fq2j
@user-sp1jv4fq2j 2 года назад
kei yama 味方を作る時にまず大事なのは戦勝後の恩賞の保証。これが無い三成方はほとんどまともに動かなかったし家康方の結束はより固まった。
@hiroyukikita1722
@hiroyukikita1722 4 года назад
豊臣家、家康、三成への切り口が新鮮で30分があっという間でした。 楽しい動画をありがとうございます。
@ssa6045
@ssa6045 4 года назад
前田利家がもうちょっと長く生きてたらまた変わってた気がする
@user-et9bp1vs8g
@user-et9bp1vs8g 4 года назад
豊臣にとって、豊臣秀長、蒲生氏郷、前田利家と続けざまに失ったのは痛い。 ただ家康には若さがあった。他の大物達より時間があったのが勝因
@user-yg8qu4bx3z
@user-yg8qu4bx3z 4 года назад
寧ろそのタイミングを狙って関ヶ原が起こったのかもなぁ
@gionsyouji5831
@gionsyouji5831 3 года назад
家康はずっと時期を待っていたよね。
@user-ru3wu9nn6w
@user-ru3wu9nn6w 4 года назад
0:31 まさにガチャこそは21世紀の阿片だよね は名言だとおもった。
@nichirowar
@nichirowar 4 года назад
まあ最近だと、岐阜城の戦いで流れは決し、関ケ原の戦いはほぼ敗戦処理状態で半日で終了し、 小早川も開戦と同時に東軍についたというのが主流になりつつあるらしいが
@user-iw4gi7og6d
@user-iw4gi7og6d 4 года назад
三成が普段から刑部みたいに感じ良く振る舞っていたら勝てたかも…
@user-rd6ne7wq3p
@user-rd6ne7wq3p 4 года назад
三成はせめて時間を味方にすべきだった。家康は秀吉に臣従して機会が到来するのを待った。三成も家康が死ぬまで力を蓄えるべきだったと思う
@user-su7bu3vt8p
@user-su7bu3vt8p 3 года назад
司馬遼太郎の関ヶ原でも 「太閤秀吉は才気活発であったが待たねばならぬ時には石にかじりついても待った。三成にはそれがない」というくだりがありましたね。
@sugisinfkk
@sugisinfkk 3 года назад
秀忠いるから無意味な気が
@user-rd6ne7wq3p
@user-rd6ne7wq3p 3 года назад
@@sugisinfkk 家康没後、秀忠と忠輝を争わして徳川家の弱体化を図るのはどうでしょうか?
@user-yz5dw7hw9n
@user-yz5dw7hw9n 4 года назад
今川義元や太原雪斎に学んで武田信玄や武田勝頼との戦いで鍛えられた徳川家康の指揮能力に石田三成が対抗するのは厳しすぎるだろ
@sjfaow
@sjfaow 3 года назад
島津義弘、島左近、大谷吉継がいたのに毛利勢がなんも動かないんじゃ負けるわな
@kuritamobiletruth
@kuritamobiletruth 2 года назад
勝頼はそんなに強く無いでしょ。謙信がお情けで戦を避けていたくらいだし。
@21121293dora
@21121293dora 4 года назад
近年では三成は使いぱしりで関ヶ原は徳川と毛利の戦いと言われてますね 岐阜城が落ちた時点で毛利がやる気なくして三成生け贄にしたと
@afo3738
@afo3738 4 года назад
emon pika 使いパシリというか三成が人望なかったから輝元を総大将に推した説でしょ?
@user-cp8nx9gn8e
@user-cp8nx9gn8e 4 года назад
輝元は日和見だと言われているが、実は積極的に戦に参加し、その後の豊臣政見内での権力の中心になろうとしたような動きを見せていたらしいですね。ただ家臣である吉川広家が主君の輝元に黙って徳川と交渉していたため、ああいう結果になってしまったと。
@stone3944
@stone3944 3 года назад
実際は毛利輝元は鳥取の銀山などをめぐって家康に徹底抗戦している。 家康にとっては輝元の西国での経済基盤は本当に厄介なものだったに違いない
@tsuyonagasawa1882
@tsuyonagasawa1882 4 года назад
田辺城の戦いに西軍の15000が釘付けされてるんですよね。西軍には籠城してる細川幽斎の和歌の弟子とかもいて、士気が上がらなかったとも言われてますが、それでも攻城戦する戦意がある部隊が15000ももしも関ヶ原にいたらって思いますよね。
@yh6146
@yh6146 3 года назад
そもそも、細川幽斎の弟子には天皇の弟がいたからさすがに幽斎を殺す訳には行かないから包囲の為の最小限の兵を置くだけで良かった。大津城攻めも西国最強の立花宗茂を派遣しないで関ヶ原に配置すれば良かった。所詮三成は武将では無かった。
@THEEMBRYON
@THEEMBRYON 4 года назад
三成が天才で生真面目、そして忠義心に厚い人間だったのは間違いないですよね。 ただ天才独特の凡人と違った思考回路と頭の回転の速さが回りには理解されなかった。 加えて三成の人当たりの悪さ(と官僚に近い立場)が手伝ってしまいかなり人望がなかったのではないかと私は推測しています。 実際三成は同じく生真面目な人間からは信頼が厚かったようですし。 大河では題材によってコロコロと人格を変えられていますが真田丸のときの三成像が割と史実に近いのではないかと思っています。 関ケ原と秀吉については…。 語りたいことがありすぎてここでは書ききれないですw それくらい問題とか疑問とかがあるんですよ、この戦い。
@afo3738
@afo3738 4 года назад
桜維新 三成がただの八つ当たりの相手にされとる。
@user-dr4qx2xh6c
@user-dr4qx2xh6c 4 года назад
例え裏切りもなく勝利したとしてもまた別の権力闘争があるだけだと思うな
@user-ks7gb3kz7k
@user-ks7gb3kz7k 2 года назад
徳川が毛利になるだけ 石田三成は待てばよかった
@user-qs7ws8lh7u
@user-qs7ws8lh7u 4 года назад
最新の説だと関ヶ原の戦いは一瞬で終わって輝元も寝返ってたというさらに絶望的な状況に、、
@user-jl1ux3nb6k
@user-jl1ux3nb6k 4 года назад
家康と輝元が義兄弟の契り結んでたとかいう話あったらしいし、小早川も実は他の武将と争って奪ってたという説があり大谷吉継が布陣した理由も小早川の裏切りよりそもそもの押さえだったのかも・・・。
@user-et9bp1vs8g
@user-et9bp1vs8g 4 года назад
間違いました。 毛利秀元勢は、山頂付近に布陣し、その出口は吉川勢が押さえていました。攻めようとする秀元勢を抑え込んだのは吉川です。 その南側にいた長宗我部勢も動けなくなりました。
@user-cf4sn2cj8n
@user-cf4sn2cj8n 3 года назад
関ヶ原開戦前後で輝元が裏切っていたのはないと思うけど 前線の南宮山の毛利軍が東軍の大垣城包囲軍に牽制されて動けなかったいうのがある。 吉川広家が東軍への攻撃を主張する毛利秀元に反論したのは西軍主力への攻撃部隊と大垣城の包囲部隊に挟撃される危険があったからだと考えられる。 あと吉川広家が裏切ったと言われるのも東軍との外交窓口になっていたからだと思う。
@extratrek99
@extratrek99 3 года назад
豊臣恩顧の大名より豊臣「怨」顧の大名の方が多かったようだ
@baatarismbaatarism9209
@baatarismbaatarism9209 4 года назад
上杉が江戸に攻め込んでいたら関ヶ原の戦いはなかったのかもしれないけど、それをさせないために家康は伊達や最上に手を打っていたからなあ。
@user-cf4sn2cj8n
@user-cf4sn2cj8n 3 года назад
上杉も上杉で西進する東軍を横目に北の最上義光領に侵攻してたけどな やろうと思えば江戸まで攻め込めただろうけど領地保全を優先した感じだな
@omi03watanabe
@omi03watanabe 3 года назад
伊達は上杉家臣の本庄の爺さんにボッコボコにされてますよ。 北の関ヶ原こと福島城松川の合戦で大敗してる。
@toshiyam2853
@toshiyam2853 3 года назад
関東守備軍、家康次男の結城秀康以下1万8千を忘れてるだろ。別に江戸までがら空きじゃないぞ。上杉が4万動員したとして、最上や伊達への備えで合計1万5千は欲しい。残る2万5千で守備に徹する1万8千を突破できる訳がない。佐竹が全力で協力しないと無理
@user-cf4sn2cj8n
@user-cf4sn2cj8n 3 года назад
@@toshiyam2853 そのリスクがあったからこそ実際上杉軍はその東国守備隊と適当に手打ちして北進したわけですからねぇ
@wh0000000
@wh0000000 3 года назад
結果論だけど上杉は家康を追撃、挟み撃ちにしなきゃいけなかった。 関ヶ原は1日で終わってしまったという大誤算があったとは言え。 後方で反乱起こされて後手に回ってるはずなのに西軍の調略完了してる腹黒家康と比べると 詰めが甘さが目立つ。
@ryojisuga496
@ryojisuga496 4 года назад
関ヶ原合戦自体を秀頼 元服迄先延ばしに出来る胆力と智略があれば、 大坂の陣+関ヶ原の 大規模決戦が出来た可能性って無いですかね? 小出しにガス抜きされて自滅した感が拭えませんwww.
@ufj24
@ufj24 4 года назад
前田の件がなければな
@toshiyam2853
@toshiyam2853 3 года назад
史実の挙兵は最後のチャンスだぞ。上杉が徳川に屈服すれば、残る大大名は毛利しか残らない。毛利の経済力は徳川に匹敵するが流石に大勢が決している。豊臣家筆頭大老の資格で大盤振る舞いに恩賞をばら撒いて豊臣家直轄領を減らして弱体化させるだけだ。手遅れ過ぎる
@user-ep5qg8og3x
@user-ep5qg8og3x 3 года назад
石田三成の挙兵のタイミングを先延ばししたのなら、まず上杉が順当に滅亡。この時点で五大老制は完全に崩壊するでしょうから、豊臣政権内で家康に対抗できる勢力は居なくなり、史実の関ヶ原の戦いほどの規模の勢力で挙兵すること自体が無理になったと思います。
@user-nf4us9ei2p
@user-nf4us9ei2p 4 года назад
家康は、秀吉の妻の北政所に加藤や福島といった反三成の武断派の中堅クラスの大名や上杉と違って秀次事件などで反豊臣の最上や伊達とつながりを持っていました。この人達は、反三成(豊臣)などの利害関係から目の前の敵に本気であたっていました。一方の三成方は、家康の懐柔、大名間の豊臣家への忠義の少なさ(島津といった嫌々豊臣家に従った大名など)などから殆どの大名が「やる気無しの状態」でした。 つまり、三成さんに勝ち目は 無い・・・
@user-qo4dm4zl4x
@user-qo4dm4zl4x 4 года назад
輝元が関ヶ原に来ていれば何も問題はなかった 毛利のために内通していた吉川広家も輝元の目の前で戦わないわけにはいかない 広家を先陣とした南宮山の毛利軍は山を駆け下り家康本陣に切り込む 家康本陣で戦闘が始まったことで小早川秀秋は東軍形勢不利と判断、寝返りは中止する
@user-sp1jv4fq2j
@user-sp1jv4fq2j 2 года назад
謎の冒険者 まあ、輝元が来た場合、徳川が察知して善後の策を構えた可能性はあるから、布陣図はガラッと変わっていたかも。
@user-js3kd7fe4h
@user-js3kd7fe4h 4 года назад
14:55  秀頼と淀殿が西軍に味方しても、福島正則は西軍に着くことは出来なかった。     三成挙兵の知らせを聞いて行われた小山評定で、家康方と三成方のどちらに着くかの話し合いの席で真っ先に徳川方に着くと表明したのが福島正則。     もっと家康からしたら三成の挙兵は想定のうちで、それを待っていた節すらある。そうなった時に会津征伐の部将らを引き入れて三成と対峙するのも計画のうち。     そのキーマンとなるのが福島正則で、どちらに着くか話が膠着したら正則が家康側に付くと発言し他の部将を徳川方に導く使命を家康から承っていた。     福島正則は豊臣秀吉に恩義はあるけど、秀頼の母・淀殿には恩義を感じて居ない。むしろ小姓の頃から面倒を見てくれた高台院側の見方だ。     さらに家康とは親戚関係にあった。前年に福島正則の養子と家康の養女が婚姻を済ませている。そして決定打として、福島正則は石田三成を嫌っており恨んでいた。     三成に人望が無かったとは思わないけど、人に好かれるカリスマ性はゼロに等しい。部将の妻たちを人質にとり、細川ガラシャを死に追いやったのも拙かった。     家康の口車に乗せられて会津征伐の時に大阪を離れ佐和山城に籠っていたのもダメ。その間に家康は着々と計画を進行していた。     家康は表向きは豊臣家の幕臣として、豊臣家から金を出して貰い、豊臣家の幕臣を引き連れて謀反を起こした上杉景勝を討ちに会津征伐に出た事になっている。     家康が豊臣家の逆臣を討ちに大坂を離れた隙に、大坂に舞い戻って、豊臣家の家臣たちの妻子を人質にしたんじゃ、三成も逆臣の誹りを受けても仕方がない。     この時点では淀殿も家康が裏切ったとは捉えていない。少なくとも表向きは会津征伐はあくまで豊臣家の命を受けて向かったことになっている。     よって淀殿が秀頼を西軍の大将に立てる必要はない。そんなことしたら家康が勝った時点で秀頼は死罪となり、豊臣家はお取り潰しとなる。           20:08  小早川秀秋は豊臣家の親族とは言っても、秀頼の血縁では無いよね。 秀秋は秀吉の正妻の高台院の甥で、秀頼は秀吉の側室の子供。しかも、その側室が居なければ     秀秋が次期将軍に成ってた可能性もある。 秀吉の正妻の高台院と秀吉の側室の淀殿の仲が良好であるなら、秀秋も淀殿側に付く可能性もあるが、不仲であったなら     淀殿側に味方する筋合いもない。もともと高台院は秀秋に徳川方に着いた方が良いとアドバイスを授けていた可能性もある。          関ケ原の戦いは、後世からみると天下分け目の戦いだけど、その場で戦っていた人たちの何割が天下分け目の戦いになると認識できて居たんだろう?     そうなると解っていたのは、徳川家康ただ一人だったんじゃないだろうか?
@user-uj8gn4jr6y
@user-uj8gn4jr6y 4 года назад
ぶっちゃけ参加した将のほとんどが天下分け目と認識出来たのって長篠の戦いくらいだと思う
@afo3738
@afo3738 4 года назад
水枕 長篠は天下分け目ではない。
@afo3738
@afo3738 4 года назад
たまてばこ 少なくとも三成も思っていたよ。だからこそ大垣城から出て関ヶ原に布陣した。
@user-js3kd7fe4h
@user-js3kd7fe4h 4 года назад
@@afo3738 宇喜田秀家らが関ケ原で陣を構え東軍と対峙したので関ヶ原を決戦の場と決め出陣したけど、 関ケ原の戦いを天下分け目の戦いと思っていたかどうか? 秀頼からすれば家康は許嫁のおじいちゃんだし、淀殿からすれば妹の旦那の親で身内の間柄になる。 この時点での関ヶ原の戦いは、豊臣軍によるクーデターを起こした三成一派の殲滅でしかないと思うけど・・・
@user-cp8nx9gn8e
@user-cp8nx9gn8e 4 года назад
@@user-js3kd7fe4h 秀吉自身も家康を身内として扱い、官職も大老衆の中では頭2つ高いですからね。
@user-bi2rl7qc2c
@user-bi2rl7qc2c 3 года назад
以前読んだシミュレーション小説に石田三成が百万石の身代だったら、というのがありました。実際秀吉に百万石やる、と言われたこともあったらしいので、この仮定が確率が高かったんじゃないか、と思います。
@ryjr4018
@ryjr4018 3 года назад
毛利家に関することですが 関ヶ原の戦いを関ヶ原での一戦のみに限れば何もしてなかったのは間違いないんですけど 全国で見れば近畿や四国の東軍勢力を攻め、九州には大友の残党を動かして領地の拡大を狙ったりとやることはやってるんですよね 関ヶ原って別に「美濃(岐阜県)の関ヶ原で大戦やるからみんな集まれー!」ってわけじゃないしそもそも籠城線じゃなくて合戦になったこと自体家康はともかく三成は考えてなかったんじゃないかな 普通野戦一発で情勢が変わることはそうそうないから大坂城で秀頼を抑え続けるのは判断として間違ってないんじゃないかと 戦いが長引けば長引くほど西日本は毛利の支配下になって豊臣や徳川に代わり毛利が天下を握れる可能性もあります(毛利元就の遺言には背きますがねw) まあ結果を出せなかった時点で輝元がダメダメだったという評価は変わらないんだけどねw 岐阜城が速攻落ちてしまった時点で西軍のプランが崩壊しちゃってる
@inahonetomi60
@inahonetomi60 4 года назад
豊臣家を滅ぼしたのは秀吉なんですよね。秀次事件以外にも色々やらかしています。 秀勝が死んだあと織田家の力をそぐことに執着し、信雄、信包らを大した理由もなく改易し丹羽長秀、蒲生氏郷らの旧臣達も当人死後大した理由もなく改易。織田家の血を引く秀頼にとって頼るべき親戚や旧臣がいない状況に追い込んでいます。 ちなみに高台院(ねね)は三成の味方をしていたようです。それでも長政、清正や正則が東軍についたのだから何をやっても家康の勝利は動かなかったでしょうね。
@user-ux4tg1mr8g
@user-ux4tg1mr8g 4 года назад
饅頭がどうやってガチャをw なんで「マチコ先生」が出てくるんでしょ(年代バレバレw) 三成が勝つには………「家康を早期暗殺」しとく…とか
@yh6146
@yh6146 4 года назад
後、三成はごちうさが好きなのか。
@user-ux4tg1mr8g
@user-ux4tg1mr8g 4 года назад
@@yh6146 殿>まぁ…ぴょんぴょんできて、とりあえず成仏できたので…大団円ということで?
@afo3738
@afo3738 4 года назад
河内院 暗殺は利家がしようとしたけど、結局しなかったらしいね
@user-ux4tg1mr8g
@user-ux4tg1mr8g 4 года назад
@@afo3738 殿>家康上洛の時にやっとけば…のちのち苦労することもなかったのに…。
@giantnioinoba2023
@giantnioinoba2023 4 года назад
『葵 徳川三代』第1回「総括関ケ原」見てたら、この動画いい復習になります。 それほどよく出来たストーリーです。吉川広家はなべおさみ。いい人選だw
@user-pk9lb6gj9o
@user-pk9lb6gj9o 4 года назад
なべおさみって渡辺晋のスパイだったんでしょう⁉️ 流石のキャスティングだな🥴
@user-dn6un4ze9t
@user-dn6un4ze9t 4 года назад
少なくても「関ヶ原の戦い」に挑んだ時点で負けは動かないと思う。 ・秀次事件を防ぐ、秀頼の出生を大幅に早くする、秀長や利家が超長生き、小牧・長久手の戦いやその他で秀吉が家康をフルボッコなどの歴史改変 ・三成に異常なまでの人望と戦の才能がある ・立花宗茂や細川攻めの軍の接戦参戦、毛利軍も全力で西軍加担 ・家康の暗殺や病死 ・家康が生きていたとしても衰えまくってまともな謀略や指揮ができない ・西軍全兵士が薩摩隼人のヤバいやつら このどれも無理だと思うんで(強いて言うなら長生き系か小牧・長久手の戦いを国力などでゴリ押しか)西軍は勝ち目ないと思う。少なくてもまともな手段では。
@KOME1990
@KOME1990 4 года назад
最新の調査によれば関ヶ原の合戦の経緯は全く我々の知ってるものと異なってるらしい 小早川秀秋は戦闘の途中で裏切ったのではなく、そもそも開戦の時には裏切ってたとか 激戦はほとんど行われないで関ヶ原に到着前にほぼ合戦の趨勢は決していたと言われてます。 我々の知ってる関ヶ原の合戦の経緯はほとんど江戸時代に作られたものである可能性が高いようです。 徳川家康についても勝者の視点で我々は家康がすべてを知っていてまるで家康の思うがままに 計画は進んでいたかのように見えますが 実際は家康も暗中模索で石田三成がこのときに挙兵することも想定外であったのではないかと言われます。 また東軍と西軍と言う色分けがはっきりしてたと言う考え方で関ヶ原を見たらわかりやすいですが 実際は東軍と西軍などと言うはっきりとした色分けは存在しません。 東軍でも西軍でもないグレーな存在もいましたし、また自分たちの勢力が天下を狙いたいと言う勢力もいました。 石田三成にできたことは関ヶ原合戦を泥沼化させることです。関ヶ原の合戦がもし一日で決しないで応仁の乱のように長期の戦闘になったら各地の勢力は 各々勝手に戦い始めて戦国時代の状態に戻った可能性があるのではないでしょうか? 関ヶ原が応仁の乱のように長期戦にならならかったのは関ヶ原で激戦が行われたのではなく 関ヶ原に布陣した時点で勝敗は決してしまったので石田三成たちにとっては負け確の消化試合になってしまったことかもしれません。
@user-se6fp3bb2c
@user-se6fp3bb2c 4 года назад
マチ子先生懐かしい…。そもそも三成が、秀次事件の時に秀次を助命するよう多少動けば、人望が少しは集まったんじゃないかなぁと…。秀吉大好きな三成がするかどうかわかりませんが。
@user-gu5nu2si6z
@user-gu5nu2si6z 4 года назад
しないでしょうねぇ…。
@user-lf8lz9dy9p
@user-lf8lz9dy9p 4 года назад
やらずに秀頼の成長まで我慢する、これしかないでしょう
@user-co4uy9zu1s
@user-co4uy9zu1s 4 года назад
@桜維新 実際家康に難癖つけられて 五奉行の座を追われて蟄居中でしたからねこの時
@wh0000000
@wh0000000 4 года назад
家康は反三成派に暗殺されかかってた三成を 自分の城に匿ったりもしてる。 対抗相手にはなり得ないと思ってたんじゃないかと。 だから三成処刑は無いと思う。
@user-fx8fq6ys2c
@user-fx8fq6ys2c Год назад
我慢している間に、上杉・毛利を潰されて、そのまま大阪冬の陣へ…かな?? 三成は、真田昌幸みたいに村へ軟禁…
@ajhjped
@ajhjped 4 года назад
隆慶一郎の「影武者徳川家康」みたく凄腕の乱波を使うしか手は無いのでは…
@tevalleyluckman8746
@tevalleyluckman8746 4 года назад
あの時、本当に本物の家康が殺されて、影武者が変わりを務めていた疑いを感じるので、その意見に説得力を感じない。
@manzokusan
@manzokusan 4 года назад
真田も上田で秀忠軍足止めできたときは 西軍勝ったと思ってただろうなぁ 戦術では真田でも戦略では家康ってことか
@daisuke5755
@daisuke5755 2 года назад
徳川秀忠は遅参したのではなく、中山道を東に進むかもしれない西軍を待ち構えていただけ。
@user-cp8nx9gn8e
@user-cp8nx9gn8e 4 года назад
最近の研究では、そもそも小早川秀秋は西軍を裏切ったのではなく、最初から東軍陣営とみなされていたとどこかで見た覚えがある。
@user-et9bp1vs8g
@user-et9bp1vs8g 4 года назад
三成陣営の指示に従わず、勝手に動いていた時点で戦力にならないとわかっていたし、裏切りに備えて大谷勢が陣をひいていました。
@Cherry-uv8tj
@Cherry-uv8tj 3 года назад
石田三成は戦下手ではないと思う。賤ヶ岳合戦では先駆け衆として名が残っているし、忍城の水攻めは秀吉の命令であって三成は水攻めには内心反対していた事が、秀吉との手紙に残っている。朝鮮の役では明軍の大軍を前に籠城策を唱える各将の中、三成は鉄砲隊を高所に配置し、負傷しながらも日本軍の危機を救っている。関ヶ原は運が無かったにつきる。石田三成家臣団は殆んどが関ヶ原で戦死している。家臣を愛した証だと思う。
@megane-tetugaku
@megane-tetugaku 4 года назад
もしも、三成が勝っても、豊臣はもうバラバラに近いでしょう。 大陸への出兵したけど、恩賞は無しほとんどの大名は嫌気がさしたのでしょう。 勝っても、豊臣は長く持たないから下手したら戦国へ逆戻りするかも。
@user-cp8nx9gn8e
@user-cp8nx9gn8e 4 года назад
@桜維新誰もが秀吉の出自の卑しさを知っていて、心の底では軽蔑してたんでしょうからね。あの島津家でさえ信長には従順なのに、秀吉には徹底抗戦でしたからねえ。
@tora-tora-s44
@tora-tora-s44 3 года назад
仰る通り。晩年の秀吉はただでさえ少ない親族を秀頼の為に処刑したりと悪手が多く、五奉行五大老も泥縄で機能していなかった。次の盟主に力ある家康が出てくるのは武家の習わしとして自然なこと。なおこの時代の大陸出兵の失敗(連戦連勝で戦線が伸び切り、結果兵站不足で壊滅)を二次大戦で日本軍は繰り返すことになる。
@user-co4uy9zu1s
@user-co4uy9zu1s 4 года назад
ちなみに西軍の総大将は石田三成ではなく毛利輝元です 戦場での総大将は宇喜多秀家です(豊臣軍総帥) 三成は挙兵の言い出しっぺだから総大将みたいに思われてるけど これは家康が「三成を大将って事にすれば福島や黒田は三成につかないだろう」 って事を見越してわざと「西軍の総大将は三成」と流布したにすぎない
@user-wz8ce3ez2q
@user-wz8ce3ez2q 4 года назад
確かに、それは一理ある。 宇喜田側は黒田家と福島家とは縁がある。 例えば、 過去、宇喜田家は黒田家(赤松氏族)と犬猿の間柄だったが、 元は同じ赤松氏族の一族関係者ばかり。 (宇喜田家の明石氏族は黒田氏族とは縁深い。) 福島や加藤といった秀吉子飼い武将達は宇喜田家とはかなり縁深いし、又、宇喜田家関連の豪族達もかなり縁深い。 だから、宇喜田秀家が本気で中央突破するような攻撃をすれば徳川家康側は壊滅する事になる。
@gavan1735
@gavan1735 4 года назад
そうはいって三成が首謀者で事実上の総大将である事に変わりはないだろ。輝元は大阪城に引きこもり戦場に来もしなかった能無しのでくの坊で、宇喜多秀家なんて家臣の統率も満足にできず戸川や花房などに見限られた脳みそ空っぽのあほボンで総大将とか冗談顔だけにしろよって感じ。
@user-ni8zx1uf8k
@user-ni8zx1uf8k 3 года назад
最近では戦い始まって二時間で決着したらしい。
@user-ep8yo7zy9m
@user-ep8yo7zy9m 3 года назад
どっちかというと武断派が三成殺したすぎて全部三成のせいになった感 三成の親族にも優しいし徳川家は案外三成のこと嫌いじゃなさそう あと当時の一般民が関ヶ原を見て「徳川家康と宇喜多秀家の戦いだ」と言った通り 普通に宇喜多が総大将で三成は単に近江と美濃の地理に詳しいから駆り出されたところを敗戦の責任にされた可能性はありそう 西軍が勝ったとしても毛利と宇喜多が政権の主導権握るだけで三成にそこまで旨みないでしょうし
@user-fg3wq2gl3k
@user-fg3wq2gl3k 2 года назад
この時に仕掛けるのは三成に天下を狙う下心ありだと思う。清正、正則は付いていかんはなぁ。
@TaSuKi7180
@TaSuKi7180 4 года назад
毛利輝元が仮に関ヶ原に着陣したのなら布陣する場所は南宮山じゃなくて松尾山城なんですよね…。
@TaSuKi7180
@TaSuKi7180 4 года назад
あと、秀忠の軍勢に着目してる割には大津城の勢力をみてないのがなぁ…
@harutora1500
@harutora1500 4 года назад
予想以上に無理ゲーやったんやな…
@done-s
@done-s 4 года назад
『関ヶ原で戦わない』って手もある。 そうすれば関ヶ原で負けない。
@afo3738
@afo3738 4 года назад
どん西郷 けどそれで勝っても秀吉の二の舞、また乱世が起こる。その場合は政宗や真田あたりが天下を納めてたかもね。
@user-ng3sk5jr2y
@user-ng3sk5jr2y 4 года назад
@@afo3738 いや、多分それ とんちの類だと思うw
@afo3738
@afo3738 4 года назад
どらやき あぁ……すんませんw
@tb-nl1cn
@tb-nl1cn 4 года назад
いい考え!!関ヶ原前に夜襲奇襲していればまた変わった
@ポコピー
@ポコピー 4 года назад
真田幸村が参加してたら関ヶ原の戦い勝ってたかもね
@kobayashitommy6521
@kobayashitommy6521 4 года назад
大津組や丹後組が間に合わなかったのもかなり痛い
@user-og4wt7bj4u
@user-og4wt7bj4u 4 года назад
北政所も重要人物ですよ 小早川秀秋、福島正則、加藤清正など、当時の重要武将の育ての親で 家康側に助力していたと言われていますよ
@osakakawachi
@osakakawachi 4 года назад
北政所が家康側に助力という説は最近は否定される事が多いですよ。 最近は淀殿は家康側に助力、北政所は三成側に助力という見方が主流になっています。
@afo3738
@afo3738 4 года назад
osakakawachi 輝元を動かさなかった張本人だしなぁ
@user-rz5ed3ni9n
@user-rz5ed3ni9n 4 года назад
西軍が負けたあと豊国社に貴重品持って逃げ込んだところを見ると少なくとも東軍よりではないですね しかも西軍よりだった義演准后の屋敷に逃げ込んでるところを見るとほぼ確定で西軍よりの立場だったと思います
@kenohzu5518
@kenohzu5518 4 года назад
立花宗茂が関ケ原に間に合うかどうかってのもあるよね
@user-nz7tt4eh6q
@user-nz7tt4eh6q 3 года назад
立花宗茂 「いや、無理でしょ。関ヶ原当日に、蛍大名(京極高次)へのお仕置きが終わったんだから。それに私達だって無傷で大津城を抜いたわけでもないし、戦後処理を怠るわけにはいかない。」 小早川秀包 「アスファルトで舗装された現代の安全な道路でも、大津城~関ヶ原間は、徒歩で16時間かかります。食事、休憩、偵察、戦闘を挟むと更に時間がかかります」 末次元康 「私ら毛利・立花連合軍、合わせて15000。それでも開城には一週間かかったよ。小勢だったが京極には手を焼かされたな」 宗茂・秀包・元康 「裏切り者は制裁しないと示しがつかないし、後方との連絡線を断ち切られても困る。石田殿の判断自体は間違いではない。京極の動きを封じるだけなら15000も要らないとは思うが…無下に断ることもできぬ」 「なんにせよ、大坂城の引き籠りが、本戦終結後に一抜けしたから、我々も矛を収めるしかなくなったわけだ。嗚呼、隆景公がご健在なら…」 輝元 「ヘックショーイ。花粉症かな?」
@user-qh1bb8qz7z
@user-qh1bb8qz7z 4 года назад
かぐらさん、関ヶ原での戦闘そのものが石田三成の誤算だったという説があります。つまり家康に関ヶ原に無理やり引きずりこまれたという説があります。『真実の「日本戦史」』とういう書籍があります。陸上自衛隊の方が監修なさっています。 是非読んでいただきたい一冊だと思います。ざっくりですが、そこには「三成は関ヶ原で決戦するつもりはなかった。」 「戦場は大垣城を中心にするつもりで、家康を大垣に引き込み長期戦に持ち込み、岐阜城で背後かく乱し、上杉景勝に家康のいない関東を蹂躙させる。」と、そしてこうも書かれていました「ドイツ軍人メッケルは「関ヶ原の布陣図では東軍の勝利はありえない。」と発言したと」と。是非読んで頂ければ幸いです。私は日本史専攻だったので、世界史に関し出ては大まかしか判りませんが、資料集の布陣図観てゲヘゲヘいってた人間ですので。次回、楽しみにしております。
@atushiogawa4489
@atushiogawa4489 3 года назад
ぜひアートディンクの関が原をプレーして欲しいですね(ProjectEGGにあるので) 上杉景勝に参陣させるという荒業がありますw
@user-eq9jw8vh8v
@user-eq9jw8vh8v 4 года назад
「関ヶ原の戦い」が歴史上必ずあるとして考えた場合 ポイントになったのは、「前田利家の死」と「毛利の分裂」だったと思うんですよ。 利家は国力こそ家康には劣るものの、人望と実績は十分すぎるほどであり 身体が元気であれば絶対関ヶ原にも自ら出ていたはず。 信長にも秀吉にも重用された人物は、若い血気盛んな武将に少なからず影響を与え 豊臣側(多分、三成の出る幕は無かったでしょう)についていった者が出てきた可能性もあります。 その一方で、毛利は吉川、小早川を従えることができた存在。 その最高責任者たる輝元が(常識的な武将として)関ヶ原の現場にいれば 両川に睨みをきかせて勝手な行動はさせなかったはず。 これだけで家康を追い詰める要素は十分あったと考えます。
@user-hv7yk6ds4f
@user-hv7yk6ds4f 4 года назад
マッチングまちこ先生 で話の全てが三成と共に消えた😂 オモロカッタ 本編も含めてね👍
@puwakyani
@puwakyani 4 года назад
家康が三成の親族を族滅まで持っていかなかった理由は、「三成のおかげで自分達は天下が取れたから」って言ったとか言わなかったとか…… すんげぇ皮肉ですよね あと西軍は京極高次が毛利や立花を足止めしたのも非常に大きかった。 高次は戦後、京都にめちゃ近い領土を与えられています。
@asakazefuji
@asakazefuji 4 года назад
その京極高次に嫁いだのが、淀殿の妹の初であるという皮肉も有る まあ江よりは・・・かもしれないけどね
@yh6146
@yh6146 4 года назад
三成の次男は津軽家の重臣で三女は津軽二代藩主の側室で三代藩主の母親。ちなみに二代藩主の正室が家康の養女。次女の孫が家光の側室になって長女を生んでその長女が尾張二代藩主に嫁いでいる。
@user-bm1sf6wi1t
@user-bm1sf6wi1t 4 года назад
仮に三成が指揮官でなく、大谷吉継など実践経験の豊富な武将が指揮官でも結局は局地戦の勝利で終わると思う。 まして、東軍が敗戦しても全滅ってことはないし徳川方の戦力が残っているから次の戦いで結局敗北して終わりだと思う。 ただ、三成とかは生き残って減俸とかで家名は残りそう。
@user-wz8ce3ez2q
@user-wz8ce3ez2q 4 года назад
今回のこの動画は最初~最後までフィたwww だけど、 うぷ主さん、 少し忘れている事がある。 関ヶ原合戦の際、 石田三成側である西軍側で唯一善戦している部隊がある。 それは一番中央にいた宇喜田の部隊である。 序盤戦、 井伊隊率いる少数の鉄砲部隊が不意討ちされたが、 後から福島の部隊が抜け駆けされた事を腹いせに宇喜田部隊へ突撃するけど、 その福島部隊を散々押し返しているのは宇喜田部隊のみ。 途中、宇喜田部隊の内部でこの勢いのまま徳川家康の部隊まで突撃出来ると考えていたようだが、 何かしらの理由により、宇喜田部隊はそれ以上の攻撃をしなかった。 (石田三成は小早川部隊を進めて動かせたら、後は、宇喜田部隊で徳川家康の首を取ろうとしたと思われる節があります。) (実際、宇喜田部隊は序盤戦の井伊部隊の不意討ちのみで差ほど被害は出ていない。又、福島部隊がいくら強いからといっても部隊数の差が4倍以上も差がある宇喜田部隊が本気で攻めて来たら福島部隊は即壊滅→そのまま徳川家康部隊へ突撃すれば徳川家康は完全に詰められる事になる。←この時の徳川家康の部隊は数だけ揃えたほぼ空巣状態の部隊。徳川家の有名家臣部隊は石田三成側に向かって攻撃しているから、宇喜田部隊の単独突撃するだけで西軍勝利確定だった。)
@omi03watanabe
@omi03watanabe 3 года назад
関ヶ原と言うより 引いた家康の背後を景勝が突いていたら状況違ってた気がする。
@keikoku4303
@keikoku4303 4 года назад
戦いだけを見て考えると西軍は布陣が悪いですよね 西軍は東軍を大きく包囲するように構えてるけど寄せ集めの軍で指揮系統もバラバラ、更には総大将不在で何故この布陣なのか 戦力分散、全軍の半分以上が遊兵では勝てない 石田勢と毛利勢の位置が逆、もしくは宇喜田勢と毛利勢の位置が逆で毛利輝元が戦場にいれば吉川勢も裏切れなかったのではないかと思いますね まぁ西軍が勝っても延命って感じにしかならなかったと思いますが…
@user-bk7op5ks2b
@user-bk7op5ks2b 4 года назад
当時の大名は領地を守る事、増やすことが大事だったため、勝ちそうな方につく。だから軍事的優位にたてば西軍の小早川なども恐らく寝返らないし、東軍の方からも西軍に寝返るものが出てきただろう。 軍事的優位に付くには早急に大井川西岸まで進軍して陣地を築き、持久戦に持ち込めばいい(これは東西の違いはあるが幕末、小栗上野介が考えた戦法でもある)。 東軍の福島、黒田、細川は西側に領地があるため、徳川が養わなければならず経済に負担をかけることができる。西軍の敗因は伏見城攻略後軍事的行動をせず、岐阜城まで落とされて、三成の本拠佐和山近くまで進軍されてしまったことだと思う。
@shiiwa6031
@shiiwa6031 4 года назад
こうすれば勝てたのではというifを考えるのは楽しいけど徳川幕府が無かったifを考えると「これ以上はやめよう」ってなるよね
@user-kf1eo5wg7c
@user-kf1eo5wg7c 4 года назад
三成はやれること以上の手は打ってるしなそれでも負けたのは正直回りの危機感のなさの結果であって 三成に全責任を押し付けるのは日本らしいわ
@asakazefuji
@asakazefuji 4 года назад
日本の戦国時代は100年ちょいだったが、 中国や欧州思えばそれ以上の混乱続いててもおかしくはなかったからねえ 日本人イコールヒャッハーだった時代ももっと長かったかもしれないほど
@gavan1735
@gavan1735 4 года назад
@@user-kf1eo5wg7c そもそも元々大多数の大名に尊敬されていない成り上がり者の豊臣家が、朝鮮出兵や利休・秀次粛清等下手を打ちまくり大多数の大名に見限られた結果が関ヶ原だろう。危機感云々以前に豊臣家が天下人の資格を失ってるんだよ。
@user-sp1jv4fq2j
@user-sp1jv4fq2j 2 года назад
でも長期政権の開祖でその手の下手を打ってない人物って、日本史世界史でもむしろ少ないぐらいだしなあ。 何も無くて2代目で打ち倒された政体は普通に多いし。
@user-sp1jv4fq2j
@user-sp1jv4fq2j 2 года назад
@gavan でも、言う通り元々長期継続のための基盤が緩かったのは間違いない。 秀吉自身、身内一族の将来を見据えるタイプとは対極で、今を楽しむ、今を豊かにする現世主義的な思想が強かったようには思う。 豊臣が慣らした天下の平定に徳川が栄えたのは、豊臣秀吉が招いた必然であって他の誰かが悪いわけではない。 五大老制とか朝廷政策とか、あれもこれもムチャクチャだし。
@nobusumi4
@nobusumi4 4 года назад
立花宗茂も出して欲しかったな、
@user-cs2mz6ox6t
@user-cs2mz6ox6t 4 года назад
豊臣秀次暗殺が悪手すぎる 秀次と仲の良かった伊達政宗、秀次の嫁であり自分の娘を殺された最上義光が味方になる確信になれた 長期化しても家康は背後を考えず戦えるのは相当でかかったと思う
@sabasanma
@sabasanma 4 года назад
小早川が寝返って形成が無茶苦茶になったってダウンタウンの松っちゃんが言ってたな。
@nykoike
@nykoike 4 года назад
平地にいる部隊が塹壕でも掘って防御に徹すれば何とかなったかも(^-^; 高地は西軍が全て押さえていたので持久戦なら補給で有利なのは西軍だし。
@user-sp1jv4fq2j
@user-sp1jv4fq2j 2 года назад
それはあると思う。 大谷吉継は戦場で何日も過ごせないほど病気で弱ってたらしいから、それもあったと思うけど。
@user-df2ik7xm7l
@user-df2ik7xm7l 3 года назад
秀吉ってどういうやつなのって質問に朱元璋みたいなやつって答えるの、このチャンネルくらいだろうなw
@user-de8uf4rp6l
@user-de8uf4rp6l 4 года назад
そもそも関が原は諸説ありすぎてIFとかやりにくいんだよなあ。
@user-sp1jv4fq2j
@user-sp1jv4fq2j 2 года назад
おまけに徳川派と非徳川派(浪人系、外様系)が史料を処分したり、自分たちに都合の良い解釈をたくさん残したりして混迷してる。
@user-eh6qp6yn5v
@user-eh6qp6yn5v 4 года назад
毒舌をやめてみんなと仲良くして、きちんと丁寧に話し合いをしていたら、、、
@user-sz4wj6rb3n
@user-sz4wj6rb3n 4 года назад
どんなに有能だろうと「官僚」に国政を仕切らせてはいけないって話のようにも感じたなあ。 岐阜城救出が遅い(と言うか間に合わず落ちた)、大垣城にこもっていればいいのに関ヶ原で野戦やっちゃう。 秀頼に変わって織田秀信を何となくトップっぽいポジションにでっち上げる寝技が出来ればワンチャン有ったかもって思ったこと有るわ。
@Daiichigi998
@Daiichigi998 4 года назад
関ヶ原の戦いの総大将は毛利輝元(もうりてるもと)ですよ
@gavan1735
@gavan1735 4 года назад
それは、名目だけの話だろ。輝元は大阪に引きこもって関ケ原に来てないじゃないか。現場で指揮も執ってないくせに何が総大将だ。(苦笑)
@user-cf4sn2cj8n
@user-cf4sn2cj8n 3 года назад
前線での総大将と言えるのは格で宇喜多秀家でしょうね 一方で石田三成が首謀者と言われてきたのも毛利が彼を自分達の責任を回避するためのスケープゴートにしたからだと思います。 ただその毛利もその後の調査で主体的に敵対行動を取っていたのがバレて取り潰しの危機に陥りましたけど。
@user-sp1jv4fq2j
@user-sp1jv4fq2j 2 года назад
@gavan まあ、全国で同時多発した両陣営の一連の戦いを「関ヶ原の戦い」と総称する場合が多いっていうややこしい事情がある。 その意味での総大将が輝元で、本拠地大坂城に入って総司令官として鎮座している。
@2h914
@2h914 2 года назад
勝てたというか、負けないというのであれば最初から秀頼が戦場に向かってれば、家康のお題目が外れて和睦でしょう。 とは言え、ここでどうあれ、三成では家康に傾いた時代の天秤は止められなかったと思います。 秀頼&淀殿の豊臣家が取れる最善は、そもそも最初から三成でなく家康を選ぶことだった気がする。 正直、言われてるほど家康自身が豊臣を滅ぼしたかったとも思えないので。
@user-ji3tx1is5g
@user-ji3tx1is5g 4 года назад
西軍の総大将を秀頼にして秀頼が関ヶ原に参戦すれば結果は違ったかもしれない
@tomas8851
@tomas8851 4 года назад
10歳にもならない子供でしたが?
@user-vx4zc7vz3p
@user-vx4zc7vz3p 4 года назад
@@tomas8851 寧ろ10歳の方が西軍への寝返りを期待出来そう。
@-13Kumagawa
@-13Kumagawa 3 года назад
@@tomas8851 豊臣家の当主が総大将として出てくるのに意味があるんだよ。
@user-sp1jv4fq2j
@user-sp1jv4fq2j 2 года назад
@グッドルーザー球磨川 たしかに、東軍の半分は反豊臣派ではなく、豊臣派を自負してた…
@user-hi5fg6tw1m
@user-hi5fg6tw1m 4 года назад
素直に部隊編成を見直して武功の高い武将を関ヶ原本戦に参加させるべきだったと思います
@user-oc8ri9ch1l
@user-oc8ri9ch1l Год назад
秀吉が生きていたら…とか 秀頼が出てくれば…とか もし三成が勝ったら今も日本は西側が中心だったのか…?ifを考えるには楽しいですね。 圧倒的に不利だったろうに豊臣を最後まで裏切らず戦ったその思いは… 霊夢に成仏させられた三成 秀吉、秀頼に会えたでしょうかね。
@komatsu2199
@komatsu2199 Год назад
三成は秀吉に怒られていそうです。
@kuronyan1997
@kuronyan1997 4 года назад
ぶっちゃけ西軍には勝ち目がないのは確かなので家康が引き返すとこを上杉が背後から襲う…てのがいちばんの近道じゃないかな
@gavan1735
@gavan1735 4 года назад
それやったら、上杉は伊達や最上に背後を突かれるだけですが。そんなゆとりがあるなら直江兼続辺りが景勝を説き伏せて実行していますよ。
@kuronyan1997
@kuronyan1997 4 года назад
@@gavan1735 まあ実際庄内統治の兼ね合いで上杉と最上は揉めていましたし仮になかったとしても宇都宮に結城秀康らが残っているので無理ですね
@user-sp1jv4fq2j
@user-sp1jv4fq2j 2 года назад
@gavan その兼続なんだよなー。 そもそもこの西軍劣勢と東軍優勢は三成と兼続の合作みたいなところがある。 最近英雄視されるけど、かなり重要人物。
@user-vg2yr9ck4h
@user-vg2yr9ck4h 4 года назад
時間はかかりますが、 戦術的勝利を重ね その功をもって 自軍のカリスマ性を上げていくしかないと思います。
@user-vp9ig3yx7s
@user-vp9ig3yx7s 3 года назад
誰と戦うんだよw
@yamashinaotuka
@yamashinaotuka 2 года назад
三成があらゆる所へプライドを捨てて頭下げていけば何か変わったかも。
@sugisinfkk
@sugisinfkk 3 года назад
関ケ原は今も交通の要衝 (国道21号と国道365号が関ヶ原西町交差点で交差する)
@user-ys2hj8qo5f
@user-ys2hj8qo5f 4 года назад
輝元にだったら力づくでひっぱってでも秀頼最前線に連れてこんかいって言えるけど、三成くんだりじゃどうにもなあ。
@user-ln9iy1uw7y
@user-ln9iy1uw7y 4 года назад
三成が成仏できて良かった
@user-ic3dd7fl9i
@user-ic3dd7fl9i 3 года назад
死因:まいっちんぐマチ子先生www
@user-bk5qj3yh4v
@user-bk5qj3yh4v 2 года назад
30分もあったの?というくらい、面白かったです😅👍🌟 関ヶ原の合戦は、小早川が裏切ってしまったら、もうダメですよね💧しかし、秀忠が間に合わなかったので、勝負になる可能性はあったとも思います。勝ち馬に乗ろうという魂胆の武将も何人か居たでしょうから(後から寝返った組)、小早川が「家康が負けそう」と思って裏切るのを止めるくらい、序盤で勝っていたらなんとかなったかもと思ったり。。。。まあ、家康が相手ではそれは無理か?
@hirosat5269
@hirosat5269 4 года назад
淀殿が消極的なら、いち早く大坂城に大軍を入れてしまい、武力でむりやり秀頼引っ張り出すなり、大坂城の金庫ぶち破るなりすればよかった。 後年大砲撃ち込まれてヘタれるんだから、三成が兵諫を躊躇しないとわかれば、淀殿は嫌々でも承諾せざるを得なかった可能性が高い。 それが出来ないなら、家康が死ぬまで待つしかなかった。
@user-th6tx3qz8x
@user-th6tx3qz8x 3 года назад
まいっちんぐまちこ先生で成仏できた三成は幸せ者である!
@user-oz2ve4fo8g
@user-oz2ve4fo8g 3 года назад
立花宗茂が関ヶ原ノ戦いに参戦してたら多分西軍の勝利かもよ
@user-ih6cu6fw5e
@user-ih6cu6fw5e 2 года назад
三成が日頃の行いを良くする これに尽きる
@user-ty8ur2ks2f
@user-ty8ur2ks2f 4 года назад
どうすれば勝てたか?戦略的な敗北を戦術面では覆せないのだから、最良の選択は「戦わないこと」でしょう。最低5年、出来れば10年程度は家康の挑発と暴虐に耐える。表面上は家康に逆らわない態度を堅守し、裏で反家康の勢力を蓄える。家康ならまだしも、息子の秀忠では諸将を従わせることは出来ません。一方で10年も経てば秀頼は元服します。そうすれば豊臣と徳川の求心力は逆転します。 これが最良の選択だと思いますが。
@obunowagaseha
@obunowagaseha 4 года назад
星季徳 そもそも最近の研究じゃ三成が首謀者ってのが怪しくて明確な中心人物が居なかったなんて説もあるぐらいなので 挙兵せずに耐えるってのもなかなか難しそうです
@user-sy4ke9ei3z
@user-sy4ke9ei3z 3 года назад
調べるほど、小早川に豊臣側につく理由がないという。
@user-uq1lp9yl3t
@user-uq1lp9yl3t 4 года назад
関ヶ原を局地的に見れば、そうだが 家康との争乱と考えると長谷堂城と大津城の結果も大きいと思うのです。 また石田三成が徳川家康に勝つ(関ヶ原の戦いではない)といった視点ならば 徳川家康の相手は三成であって豊臣家ではないということが重要ですね。 つまり、大垣城にこもる三成をわざとスルーして野戦を仕掛けたというのも、攻城戦が大変というよりも、決着をつけたいという意思が強かったと思います。 つまり、暫く籠城後徳川軍が進軍を続けるのであれば無視して東方へ 関ヶ原で待ち受けるのであれば、畿内の軍と大津城の軍を待って戦うなど勝てる確率を上げるべきでした。 どちらにしろ真田が秀忠を引きつけ続けるという大前提ですが… 負ける戦いはしないとはよく言ったもので、ここが部将であった三成と大将であった家康の差でしょうか。
@user-yb2df6iw8y
@user-yb2df6iw8y 4 года назад
西軍が勝つには・ 1関ヶ原では戦わない・・上杉征伐に行っている徳川家康・・だったら家康が越後に向かうまで何年も待ち上杉軍と共に戦う・・・実際裏切った諸将の中には、「上杉と一緒に戦うはずだった」と思っていたものもいたでは? 2実質的な総大将を石田三成以外のだれかにする、石田三成は「なんでも器用に使いこなすけど、部下の島左近と佐和山城は使いこなせてない」と言われるほど戦下手で通っている、そんな、石田三成の指揮で戦をしなければならないと思うと裏切りたくもなる
@user-rd6sl9fr6u
@user-rd6sl9fr6u 4 года назад
岐阜城が一日で落ちなかったら西軍が圧倒的に有利になるぜ
@user-yb2df6iw8y
@user-yb2df6iw8y 4 года назад
岐阜城・・・信長が春日山城の斉藤氏を破り岐阜城と改めた城?
@user-yb2df6iw8y
@user-yb2df6iw8y 4 года назад
稲葉山城でした春日山城は上杉謙信の居城でした・・春日山城の間違いではと続けるはずでした
@xinlee2005
@xinlee2005 4 года назад
大谷吉継、義将だと再認識させられる 感動した
@southfield-os7sk
@southfield-os7sk 4 года назад
関ケ原から徳川方についたところで、そういう外様大名たちを待っていたのは、 ひたすら取り潰しの機会を狙う徳川幕府からの強圧だったんだけどな。 ホント、身の振り方って難しい。
@yh6146
@yh6146 4 года назад
西軍の大名は大名として残った家は幕末まで残っているのに、東軍の大名はかなり改易になっている。
@nokokoneko22
@nokokoneko22 4 года назад
豊臣に尽くそうとしたから、まぁそうなるわ
@user-rz5ed3ni9n
@user-rz5ed3ni9n 4 года назад
輝元が自軍の裏切りを知らなかったことは無いと思います。輝元自体が関ヶ原の戦い前日の14日に吉川、福原を通じて家康と和睦結んでますし、そんなことを独断でやろうものなら首が飛びます。そしてそもそもな話として吉川が毛利を代表して交渉する権力がない時点で輝元から何らかの申し含みがあったと見てもいいと思います。 ただしこの話は吉川家文書が主なので怪しい部分もあるんですけども
@宴は終わったが
@宴は終わったが 4 года назад
ジェームス三木の「葵徳川三代」の解釈だと、毛利は内々吉川を通じて家康との間で自分の本領安堵を目論んでいたというものしたね。腰が定まらない毛利に三成がイライラするも実は老獪な態度で臨んでいた、と。この解釈は、恵瓊が毛利の外交層ですから外交担当の恵瓊を無視してというのも不自然だなとも思いますが、恵瓊は単なる外交の専門で政治的なことは別という可能性もあるので、実際のところはわかりませんが。 いずれにせよ、毛利家中が分裂状況では仮にうpさんの言うように輝元を大阪城から出せたとしても、家臣団や吉川広家辺りから戦況は家康側が有利だと説得されたら、東軍に寝返る可能性もあると思います。
@user-kf1eo5wg7c
@user-kf1eo5wg7c 4 года назад
毛利家なんだよなぁ全てが 結局土地を大幅に削られてるんだから 毛利が目覚めるのが250年遅かった
@jarasan1
@jarasan1 Год назад
小牧長久手、地震の影響さえなければ・・・
@user-dn1gc9zr8r
@user-dn1gc9zr8r 4 года назад
秀頼が産まれてなければ未来は変わったと思うんだよね
@gavan1735
@gavan1735 4 года назад
というか、秀吉が若いうちに子供を作らなかったのがまずいんだよね。もっと言うなら数少ない身内の秀次を死に追いやってしまったのもまずかったな。
@user-gu5nu2si6z
@user-gu5nu2si6z 4 года назад
英秀次事件がないか、秀永公が長生きされていれば兄の大閣の暴走も阻止出来た可能性のあるのだが…。
@user-gu5nu2si6z
@user-gu5nu2si6z 4 года назад
もとい秀次事件が無ければです…。
@user-et9bp1vs8g
@user-et9bp1vs8g 4 года назад
秀吉には子種が無かったと考えています。 秀吉から身長180を越える聡明な秀頼が生まれるのは無理がある。 豊臣秀長、前田利家、蒲生氏郷などあいつぐ大物の死も痛いが、家康は若く時間があったと考えています。
@user-sp1jv4fq2j
@user-sp1jv4fq2j 2 года назад
@gavan 秀吉の男児何人かは全員早世してるっぽい。 正室側室の子で三歳越えて文字に残った男児は秀頼が初めて。
@user-uk5eo3ey5m
@user-uk5eo3ey5m 4 года назад
最初から最後まで島津義弘に任せておけばもしかして…
@user-ep5qg8og3x
@user-ep5qg8og3x 3 года назад
そうすると、今度は島津に豊臣政権の主導権をとられる可能性があるから結局は・・・
@daisuke5755
@daisuke5755 2 года назад
石田三成は徳川家康が上杉景勝と戦い始めてから、軍を動かせばよかったのに経験不足で、すぐに美濃を配下に置こうとしてしまった。徳川家康は特に西に進軍せずとも、のんびり待ち構えていれば、豊臣家臣同士が割れることがわかっていた。しかし、思いのほか石田三成の動きが早いので、石田三成側が各方面で東側を攻め始めたら、徳川家も危ういので美濃に向かった。
@chiakik1472
@chiakik1472 4 года назад
別サイトで大谷吉継の解説動画見たばかりだったのでデジャブった。
@TheSarukosaruko
@TheSarukosaruko 4 года назад
秀次事件なければもう少し西軍側増えた気がする
@ryo74197842
@ryo74197842 4 года назад
伊達政宗、最上義光、浅野幸長など、秀次関係で処罰されたりされかかったりと、恨み辛みがありますからね。
@TSUDATOSIYKI
@TSUDATOSIYKI 4 года назад
そうなるとそもそも関ヶ原の合戦が起きない可能性が…。
@user-cp8nx9gn8e
@user-cp8nx9gn8e 4 года назад
秀次事件があったために、家康を封じるために配置した東海道の大名たちがすべて東軍についてしまったというところがもうね… そして最古参の前野長康をも切腹に処させられたことで、豊臣家臣たちはかなり動揺してしまった。
@user-cf4sn2cj8n
@user-cf4sn2cj8n 3 года назад
@@user-cp8nx9gn8e その東海道も元々は徳川の領地でしたし、徳川と敵対した時点で領国の統治すらままならなくなるというのもある
@user-cf4sn2cj8n
@user-cf4sn2cj8n 3 года назад
秀吉が最上、伊達等のその事件で割を食った大名達を家康に押し付けた感じがしますね。
@moromiti
@moromiti 3 года назад
毛利輝元は本当に只のぼんぼんで戦国武将としての才覚が全くなかったと分かりました。
@toshiyam2853
@toshiyam2853 3 года назад
せめてウィキペディアで関ヶ原を調べてから書いてくれ。輝元は結構な悪党だぞ
@user-sp1jv4fq2j
@user-sp1jv4fq2j 2 года назад
moromiti よくぼんぼん言われるのは毛利秀元の方
@kenn3420
@kenn3420 2 года назад
輝元の眼は関ヶ原じゃない、四国や九州に向いていた
@Mark-kn8nr
@Mark-kn8nr 4 года назад
徳川が上杉征伐で北上したのを、三成が我慢して、行ければ戦況が最初から変わってたかも?名門上杉と徳川との戦争…面白い結果になっていたかも
Далее
IT'S MY LIFE + WATER  #drumcover
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