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ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』三位一体、二人の女 

だいきの講談
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今日はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』です(Shunsuke Sanadaさんからリクエスト頂きました)。今回はキリスト教の教義である三位一体説(正教では至聖三者説)に引き寄せて読みました。三位一体説とは、神の実体(本質、本體)は一つであり、神の位格(個位)は三つ。父なる神(神父)子なる神(イエス・キリスト、神子)聖霊(神聖神)という説です。それぞれの対応は以下。(女性陣はサブの属性も持っていますがそれに関してはいずれまた)
【子なる神】:感情:ドミートリイ(長男)、グルーシェニカ
【父なる神】:理性:イワン(次男)、フョードル(父)、カテリーナ
【聖霊】:霊感:アレクセイ(三男)、リーザ
言い換えれば、愛の実践によって神に到達しようとしたのがドミートリイ、理詰めでやったのがイワン、教えを信じ、説いて回ったのがアレクセイです。結局僕が言いたいのは、そこには優劣とか上下とか弁証法的発展の前後関係とかはないんじゃないかということです。少なくともドストエフスキーは自分が造形した三兄弟をみな等しく愛していたと思います。
イワンとフョードルを同じカテゴリに入れたのはイワンの台詞「ひょっとすると親父に一番似てるのは俺かもしれんな」を根拠にしています。フョードルは一見ふざけた道化で非理性的にも映りますが、あれは全部計算された合理的な振る舞いです。二人に共通するのは虚無を覗いた者特有の冷徹さです。

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18 сен 2024

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Комментарии : 28   
@ドストエフスキーの肖像
カラマーゾフの兄弟を紹介していただき、ありがとうございます。長い小説ですが、こんなにおもしろい小説は他にないと思います。ミステリーでもありますよね。
@だいきの講談
@だいきの講談 3 года назад
コメントありがとうございます。いろんな読み方ができる小説で読むたびに新しい発見がありますよね。
@xya-j9v
@xya-j9v Год назад
ヤハウェ I HVH ヨッド、へー、 ブァウ、へー。火水気地。 父母息子娘。10+5+6+5=26= GOD=7+15+4. A to Z ;1-26 参考までに。 ドストエフスキー、読みたくなりました。
@lahabana2007
@lahabana2007 3 года назад
好感の持てるいい動画だと思います、まだこれが初めての感想ですが。
@だいきの講談
@だいきの講談 3 года назад
ありがとうございます。しかし僕は意外と記憶力がいいですよ。
@lahabana2007
@lahabana2007 3 года назад
@@だいきの講談 さん。 (笑)70にもなると記憶が覚束なくてね。半世紀以上前に見た「エロス+虐殺」に、ここで出会うとは、、感無量だよ。
@だいきの講談
@だいきの講談 3 года назад
なかなか、お薦めでもされないと、見つけられない映画です。
@Theology21C
@Theology21C 5 лет назад
面白いですね
@だいきの講談
@だいきの講談 5 лет назад
ありがとうございます。テーマのリクエストも受け付けていますのでなにかありましたらよろしくお願いします。
@shunsukesanada6876
@shunsukesanada6876 5 лет назад
リクエストのアンサーありがとうございました! 三位一体の知識はあまりないのですが(というか聖書の知識が乏しいのですが)、感情・愛のドミートリイと理性のイワンに対してアリョーシャの聖霊的なものというのは一体どのようなものなのでしょうか? 理性や感情と比べるとイマイチピンときません… ただ作中のアリョーシャは他の主要キャラと比べて派手さがないのにもかかわらずとても神がかった存在に感じました…とくに他者の心を読み取る能力が
@だいきの講談
@だいきの講談 5 лет назад
コメントありがとうございます。ううむ、これは難しい質問ですね。僕らにもなじみのある言葉に言い換えれば〈第六感〉とでもなるでしょうか。それはある種の閃き、ないし直感です。 イワンは論証するようにして考え行動します。ドミートリイは怒りや喜びを基準に行動します。そしてアレクセイはそのどちらでもありません。 彼の行動原理は基本的には聖書の教えに則しています。ですが聖書は現実に起こる問題すべてに具体的な解答をもたらしてはくれません。修道院を出るか否か、神の創った世界を認めないと宣言するイワンとの論争、ドミートリイにかけられた殺人の嫌疑、これらの問題をどう考えるかはアレクセイ自身が考えなくてはなりません。 で、実際彼がどうしたか見ていくと、泣きながら大地に接吻、イワンに接吻、沢山の状況証拠を無視、とまあこんな感じなわけです。 そこには計算に基づく合理でも、感情の暴力的な迸りでもない、第三の行動原理がうかがえます。それが聖霊の声であり、言い換えれば直感です。 彼がその神がかり的な直感を体得したのはひとえに修道院での修業の成果です。直感で選ぶことは、サイコロで決めるのとは違って、意識されないアナロジー(類推)を基にしています。 で、そのアナロジーは普段考えていること、彼の場合は聖書を拠り所にしています。聖書には神の精神が宿っていますから、必然アレクセイの行動も一種の神がかりに見える、そんな感じです。 宗教になじみのない我々はアレクセイの原理を理性と感情の混ぜ合わせとしてしか理解できません。でもそれは日本語に適当な語彙がない(たぶん)ので仕方のないことです。
@shunsukesanada6876
@shunsukesanada6876 5 лет назад
だいきの講談 丁寧に説明していただきありがとうございます! なるほど、お話を聞く限り三位一体の中で聖霊が最も宗教的というかスピリチュアル的?な概念であるかんじがしました。 現代の日本人にはこのような宗教性はたしかに馴染みが薄いかもしれませんね。 けれども明治から現代まで多くの日本人にドストエフスキーが愛読され続けた事実や鎌倉仏教をはじめとした宗教的運動が盛んになった歴史を鑑みると日本人も(キリスト教とはいくらか異なったものかもしれませんが)第六感的な霊性に心打たれる素養を持っているような気が個人的にはします… まあでも、とはいえ今のご時世では、日本人がキリスト教に限らず宗教的な概念に触れる機会などほとんどないでしょうから(感覚的にも単なる知識としても)、アリョーシャは謎めいて見えるだろうなと思います笑 カラマーゾフの兄弟を読んで面白かったていう人もどちらかといえばドミートリイやイワンのキャラに魅了されてる人が多い印象がしますし…
@だいきの講談
@だいきの講談 5 лет назад
聖霊がスピリチュアルというのはたしかにそうです。聖霊は英語でスピリット(Spirit)ですからね。 たしかに生活の様々なシーンにエートスが根を下ろしている以上、「宗教になじみがない我々」は語弊がありました。 僕が言いたかったのは、現代日本において宗教はもはや支配的なイデオロギーではない、ということです。今は科学ですね。学校教育でも仏教とか神道とかは教えていません。 僕らは科学の用語と方法論で世界を説き明かします。それは言い換えれば科学の用語と方法論で世界を認識するということです(もちろん今僕の念頭にはソシュールとフーコーがいます)。 で、アレクセイ的な閃きが我々に降りてくるか否かというと、これは人によるでしょう。それを決めるのは良質な物語にどれだけ触れたかだと、僕は思います。 ドストエフスキー自身も冒頭の前書きで、アレクセイを主人公にした理由が理解されないんじゃないかとやたら心配していましたね。たぶんイワンとかドミートリイの相対的な派手さに自覚はあったと思います。
@shunsukesanada6876
@shunsukesanada6876 5 лет назад
だいきの講談 なるほど…! 良質な物語に触れることが宗教的閃きにつながるってのはたしかにそうかもですね。 私ももっとたくさん優れた作品を読んでいきたいと思います ありがとうございました!
@shunsukesanada6876
@shunsukesanada6876 5 лет назад
ムイシュキン公爵とアレクセイの違いってなんだと思いますか? 一見同じ系列の人物に見えますがどうでしょう?
@だいきの講談
@だいきの講談 5 лет назад
たしかに一見同じように見えます。決定的な違いは病気の有無でしょう。ムイシュキンの無垢さが病気に由っていることは、それが偶然の産物であることを意味します。しかしアレクセイは自分の意志で無垢であろうとしている。二人はドストエフスキーが構想した理想の人物像であると思われますが、アレクセイはその理想が意志によって実現可能だとしている点で一歩進んでいるように思います。
@shunsukesanada6876
@shunsukesanada6876 5 лет назад
だいきの講談 ご返信ありがとうございます。 たしかに…。 自分の意志の有無という点でアレクセイのほうがより実存的ですね。 ムイシュキンもアリョーシャも神がかりですが、アリョーシャの方が等身大 の人間であるかんじがします。 だからこそアリョーシャは我々が目指すべき人間であるものとしてドストエフスキーによって提示された存在なのだと思います。 ところで仰るようにドストエフスキーの描く人間の理想像としての完成形がアリョーシャだと思うのですが、仮にこのような理想的な人物が21世紀の現代に現れたとしたらまともに社会で生きることはできるでしょうか? その問題を扱ったのが白痴という作品なのだと思いますが、20〜21世紀は19世紀末とはまた違った形に変容・発展していると思います。 うまく言えませんが、とくに現代における個人はその人生で消費と労働以外やることのない社会だといえると思います(これはアレントの受け売りですが)。 あらゆる職業的生産や趣味、恋愛、結婚などなどすべてが消費と労働に還元されてしまうような社会に、宗教的な人間が生きる余地はあるのでしょうか? つまりアリョーシャのような人間は現代社会に適応することはできるでしょうか? またアリョーシャのような人間が現代社会に現れればどのような事態が生じると思いますか? 私としては、現代社会においてはこのような人間は、本人が望まなくても社会と対立することになってしまうのではないかと感じているのですがいかがでしょうか? 長文乱文失礼しました。
@だいきの講談
@だいきの講談 5 лет назад
厳密な議論をする紙幅はないので、アレクセイを宗教的人間、社会の変遷は脱宗教化の性格をもつとしておおざっぱな話をします。 現代社会でアレクセイのような宗教的人間が生き辛さを抱えるというのは肯けます。ただ仮に逆の純宗教的社会のようなものを仮想したときに、そこで宗教的人間が生き易くなるかというと答えは否だと思います。そこにおいて宗教的人間はむしろ消失するでしょう。 かなり強引な言い方になりますがアレクセイ的人物の本質は苦悩にあると思います。個人と社会との間で起こる軋轢、すれ違いが苦悩をもたらし、弁証法的発展(cf.ヘーゲル)によってアレクセイ的人格を形成する。ここの対立なしにそもそもの問題意識は起こらないし、アレクセイ的人物の成立はあり得ない。ですからドストエフスキー的な苦悩の主題が成立した時期が、社会意識の先鋭化の時期と一致していることにはそれなりの必然があると思います。 現代社会においてアレクセイ的人物がどのように振る舞うか? そもそも存在しうるか? 僕は存在しうると思います。苦悩は死をもたらすほどには苛烈ではないからです。存在しうるとすればどのような形で? 恐らくそこを苦悩し続けるのがアレクセイ的ということでしょう。具体的な所作でこれが正しいと胸を張るのはアレクセイ的ではないですよね。だからどう振る舞うかを明確に提示することは原理的にできません。
@shunsukesanada6876
@shunsukesanada6876 5 лет назад
だいきの講談 分かりやすい説明ありがとうございます。概ね納得しております。 苦難こそがアレクセイ的人間(真に宗教的人間)を形成するうえでの必要条件ということでしょうか。 たしかにその人間個人の問題としてはそうだと思います。 ただアレクセイ的人物とその周りを取り巻く人々との関係に着目すると、現代を生きる私には懸念のようなものが残るのです。 カラマーゾフの兄弟の登場人物らはアレクセイに限らず、現代人よりも苦悩、葛藤し、自己に絶望しているように見えました。 そういった絶望している人々に手を差し伸べられる人物こそがアレクセイであったと思います(1本のネギを差し出す模範を示していた)。 だからこそ、ゾシマ長老はアレクセイを修道院から外の社会へ送り出したのだと私は思っていました。それは本人の宗教的人間としての成長だけでなく、絶望している人々をケアするような役割があったからこそのものだったのではないかと…。 ところが現代の社会環境では、カラマーゾフの兄弟の登場人物のように自身の絶望と向き合う人間自体かなり稀なのではないかと思います。 これほど娯楽や科学的な医療、ハウツー本的テクニックなどのコンテンツが溢れている現代では、個人の絶望というのは実存的、宗教的問題になる前に、科学的な病に還元されてしまい、ハウツー的に解決されるものとして扱われてしまう。どんなに辛くてもしかるべき専門機関で治療されて終わるのがオチだと思います。 上手く表現できなくて申し訳ありませんが、このような社会ではアレクセイの出る幕はないのではないでしょうか。 というのも現代人は自己の絶望を深く直視し、宗教的見地にたどり着く前に病院や娯楽的趣味などに興じて、自分の日常に帰るからです。 自分が絶望していることに気づかない人間はアレクセイ的人間を必要としないし、またその存在にも気づかないと思います。 なにせ自分の絶望を意識する前に病院か娯楽施設に行くでしょうから、アレクセイ的人物が彼らをサポートする機会はないのかなと…(アレクセイ的人間がカウンセラーなどの職に就けば多少は希望があるかもしれませんが)。 もちろんアレクセイ的人間個人の問題としては苦難を乗り越えて宗教的人格を形成するという価値あるものになると思いますが、それは彼の個人の人生の中で完結してしまう問題に過ぎないのではないかと思います。 現代の社会環境ではイワンのように悩める人物は現れない。それどころかフォードルやグルーシェニカのように絶望する者も稀だと思っています。 なぜなら、目を開くと自分の絶望をごまかせる手段、景色が溢れているからです。 だから、極端な話ラキーチンのような人間が現代ではマジョリティなのではないかと思います(みんなあんなに性格悪いとは思いませんが、自己に対して鈍感にならざるを得ない人間が大多数なのではないかと思います)。 結局何が聞きたいのかよくわからなくなってしまい恐縮なのですが このあたりどう思われますか? 分かりづらくてすみません。
@だいきの講談
@だいきの講談 5 лет назад
僕も現代しか生きたことないので確かなことは言えませんが、人間は今も昔も大して変わらないと思います。昔の人間が全体的に今よりも、なんというか、ロマン的に思えるのは同感です。しかし恐らくこれは昔の人間について僕らが小説や映画の形式を通して知ることが多いからではないでしょうか。アレクセイ的人間は稀有、これは今も昔もだと思います。 現代人も愛とか幸福について色々考えてると思います。神とか罪とかについて考える人はあまりいないように思えますが、これも問題が細切れにされ別の名前で呼ばれるようになっただけで相変わらず考えられていると思います。結局僕が思うのはやはりドストエフスキーが取り扱った問題はいまだにアクチュアルだということです。 現代社会に、苦悩を誤魔化すミスリードがたくさん存在するということ、それらの手段が巧妙化していること、これらはたしかに一理あると思います。 ただ、ドストエフスキー作品に見られるように、昔にも撞球突きや居酒屋など娯楽はありました。思想的逃げ道も無神論や快楽至上主義など色々ありました。このあたりもあまり昔と変わってないと思います。 それともこういう話ですか? 現代において苦悩は劣等や病気のレッテルを貼られてしまうと。苦悩は持っているほうがおかしい、そういう風潮があると。「もっと楽しもう!」「 明るくなれよ!」「考え過ぎさ!」苦悩を病気や劣等だとする(社会がそう煽る)のは、そうすることで商機が生まれるからです。商品は欠乏なら埋めることが出来ます。故にこの方面の欺瞞が現代資本主義社会では多発する、それはたしかにありそうです。 ですがそれも僕に言わせれば、その程度で誤魔化されてしまう奴はアレクセイLv.が足りない、所詮その程度の器だった、という感じです。社会全体の生活水準は昔よりあがっているはずですから、色々考える余裕は増えているはずですしね。
@_a_k1954
@_a_k1954 5 лет назад
私が登録してから増えましたよね
@だいきの講談
@だいきの講談 5 лет назад
おかげさまで少しずつ増えてはいます。
@tadashihiroshige749
@tadashihiroshige749 4 года назад
ヤーウェだ。勉強しなおせ!
@だいきの講談
@だいきの講談 4 года назад
ありがとうございます
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