~険しい山道、草履の鼻緒も切れる~
天正二年、徳川家康は武田方天野軍の追撃を受け撤退を余儀なくされる。
鵜殿光成も討死し、長く続いた雨がぬかるみ、山を一層険しくする。
そんな中、一人の足軽の草履が限界を迎える。
歴史紹介
「鵜殿の渕」
天正二年(1574年)四月、徳川家康は兵二千を率い、犬居城を指して信州街道を北上した。一之瀬より大久保、田能を経て、気田川のほとり、犬居の瑞雲寺に本陣を張った。たまたまその夜から雨が降り出し、折からの梅雨時で激しい雨は二日二夜降り続いた。気田川は増水し各所で氾濫した。
徳川軍は、帰路の悪化と腰兵糧の事態を考え、軍議の末、信州街道を一之瀬さして撤退することとなった。
一方、犬居城の天野軍は、武田方の軍監、謀将真田昌幸の指揮のもと、一旦は気田に退いていたが、徳川軍の動きを一早く察知するや反撃に転じ、猟師姿の兵を山林内に出没させ、撤退する家康軍におそいかかった。
徳川軍の武将は善戦したが、不案内な地形と山岳戦に手をやき、敗走を続けた。ついにこの一之瀬の地で徳川方の武将「鵜殿藤五郎光成」は戦死をとげた。時に天正二年四月六日であったと「三河物語」は伝えている。
11 окт 2024