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特集「キャッチ」 証言から紐解く福岡県糸島市の爆撃機一大拠点 

FBS福岡放送ニュース
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特集キャッチです。ことしで終戦から77年です。大戦末期、福岡県糸島市に玄界航空基地という爆撃機の一大拠点があったことは、あまり知られていません。当時を語り継ぐ人、その思いを引き継ぐ人、当時を生きた人の証言から、かつての航空基地を紐解きます。
福岡県・糸島半島の南西に位置する海岸線です。引津湾と船越湾に挟まれたこのエリアに、かつて旧日本海軍・最大規模の水上航空基地がありました。
その名は『玄界航空基地』です。しかし、基地に関する公的な情報はほとんどが廃棄され、その存在は長くベールに包まれてきました。
■中田健吉さん(79)
「ここが玄界航空基地、跡の記念碑です。」
基地の詳細が明らかになったのは、平成になってからです。
1945年(昭和20年)3月、太平洋戦争の戦況悪化に伴い、旧海軍は、敵に知られない新たな航空基地の拠点を必要としていました。
水の上で発着できるため滑走路を持たない水上爆撃機の基地として、計画も極秘で進められた新たな秘匿基地の設置です
従事した兵員約1000人のほとんどが近くの民家や旅館に分宿し、本土防衛のための攻撃を繰り返しました。
■中田さん
「大きく言えば昭和史の欠落部分。身近に言えば郷土史の1ペ
ージを、ここに記したと。」
記念碑建立に立ち上がったメンバーの一人、福岡県糸島市志摩船越に住む中田健吉さん(79)は、これまで20年以上にわたり、玄界航空基地について調査を続けてきました。
そのきっかけとなったのが、地元の町史に残されたある記述でした。
■中田さん
「これは間違っていると思って。」
戦後27年経って作られた志摩町史には、“海軍特別攻撃隊船越基地”とありました。つまり、特攻隊の基地だったと記されていたのです。
■中田さん
「間違っていると言うには、資料をそろえなくてはいけない。」
中田さんは、数少ない旧海軍の記録や、元隊員や住民の証言を集め、調査を重ねました。
■中田さん
「この糸島半島の西海岸から、水上飛行機が飛び立って行って、沖縄周辺の敵艦船の攻撃のために出撃して行ったと。魚雷を装着して、雷撃機として対抗しようと、合計合わせて100機になる。」
玄界航空基地の主力となったのが、爆撃機能を備えた水上偵察機“瑞雲”です。
機体はふだん松林などに隠し、木の枝などでカモフラージュして格納され、砂浜から海に敷かれたレール上の台車に乗せて陸揚げされていました。
出撃は日が暮れてから行われ、玄界航空基地のあった船越湾から奄美大島の古仁屋基地を経由して、沖縄周辺の敵艦船への夜間攻撃を繰り返したといいます。出撃回数は延べ111回にのぼり、そのうち20機が帰還しませんでした。
現在、中田さんが集めた資料など玄界航空基地に関する企画展が志摩歴史資料館で行われています。(9月4日まで開催)
■博物館係・稲富聡さん
「水上機で急降下爆撃をさせようなんて飛行機は、世界でもこの“瑞雲”だけです。」
基地の設立当時、海軍は、航空機で体当たりする特攻作戦で戦果をあげていました。そうした軍上層部の特攻命令を拒否した航空隊でもありました。
■稲富さん
「特攻隊ではないので、必ず戻ってくるようにと。一人で何回も出撃して、何度でも敵を沈めるんだと、何隻でも沈めるんだとという(瑞雲隊の)方針があった。」
兵舎などはなく、代わりに地域の民家が使われました。
記念碑の近くには、隊員たちの食事を一括して作った烹炊所のカマド跡が残されています。
過酷な任務の中、隊員たちの安らぎとなったのが、分宿する住民たちとの交流でした。
福岡県糸島市志摩新町に住む大部節子さん(85)の家は、玄界航空基地の整備兵4人の宿舎となってました
節子さんは当時9歳で、隊員たちとの交流は戦後も続きました。
■大部節子さん(85)
「(隊員の受け入れに)父はお国のために働いている兵隊さんのためにと言っていましたし、(兵隊さんは)やさしかった。みんな、特に宗重さんという方はね。大きい声を出して挨拶されるけど、気持ちのやさしい方で。」
ほとんどが、二十歳前後の若者でした。
隊員たちは寝泊まりするだけでしたが、軍から支給される食事の少なさに家族は心を痛めました。
■大部さん
「あの若い兵隊さんがあのくらいで足りるわけがないと、それが祖母の口癖。それで夜、すいとんを作って、差し入れしていた。」
基地の存在が長くベールに包まれた理由を、節子さんは次のように証言します。
■大部さん
「(終戦)後に何回か訪ねられたときに聞いたら、自分が整備した飛行機がどこに飛んで行って何をして帰って来たか、そういうのは一切わからない。父は語らなかった。父は永いこと終戦後も言いませんでした。(Q.なぜ言わなかったと推察する?)やっぱり言ってはいけなかった、言ってはいけない。」
滑走路も格納庫も隊員の宿舎もなく、記念碑の他に玄界航空基地の名残はありませんが、隊員たちを写した写真の多くに心情を伝える笑顔が、残されています。
■大部節子さん
「(隊員はみんな)ここで死ぬんだと覚悟を決めていた。(郷里に帰ってからも)いつも毎朝のように、ここの夢を見ますと。朝方いつもここの海の夢を見ると。」
■稲富さん
「やはり生きて帰ろうと、そういった希望も持てたのではないかと。そういった隊員たちの心持ちが、こういった写真の笑顔に、自然な笑顔に現れていると思う。」
■中田健吉さん
「まず正しく歴史を知った上で、平和も合わせて考えてほしい。(歴史は)考える時間を与えてくれるんじゃないかなと。」
終戦を伝えた玉音放送の直後に撮られた写真があります。
軍務を解かれ帰郷した隊員たちは、その後も、家族を連れてこの地を訪れたといいます。
戦後77年、当時と変わらない美しい風景は、いまも無言の語り部として平和の意味を教えています。
#FBS福岡放送 #めんたいワイド

Опубликовано:

 

13 сен 2024

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Комментарии : 2   
@高砂剛
@高砂剛 Год назад
素晴らしい!
@user-je4jl8jn9s
@user-je4jl8jn9s 2 месяца назад
知りませんでした🙏
Далее
Китайка и Зеленый Слайм😂😆
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