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閉山3年後の足尾銅山。昭和51年5月3日、初めての足尾銅山。 Walked the ASHIO Copper Mine on May 3 1976. 

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鉱山に興味を持ったのは昭和50年3月に栃木県の葛生に行ったときからだろうか。葛生に何度か行き、そして翌年は足尾に行ってみたのだった。当時は情報も少なく、予備知識もなく、とにかく行ってみた時の写真だ。
トロッコ好きだから、足尾の鉱山鉄道の跡でもないか、まだ線路が残っていないかとという下心である。しかし、何もわからないので、とにかく終点の間藤駅まで行き、足尾線沿いを歩けば、足尾銅山が見えてくると思ったが大間違いだった。
足尾は深かった。それに気づいた日だった。
そして、足尾の全てを歩きたくなったのだった。

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4 апр 2022

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Комментарии : 25   
@小林成約
@小林成約 Год назад
10数年前に埼玉県中部から足尾まで自転車で1泊旅行に行き、見て回ったことがあります。宿泊した民宿ももう営業していないようで残念です。 当時ですらほとんどの建物が残っておらず大変貴重なお写真を拝見できたこと、感謝致します。 偶然お祭りの日だったようで参加させていただきましたが、盆踊りに採掘の動きが入っていて非常に興味深く印象に残りました。
@atsushinobusan6676
@atsushinobusan6676 Год назад
ありがとうございます。私も2013年に一度足尾本山へと行っています。知人の父親が撮ったという昭和44年の写真があり、そこと同じところを見て回りましたが、長屋の多くが姿を消し、本山坑前では大規模な道路(?)工事が行われていました。 足尾銅山というところは悪いイメージが強く、「臭い物には蓋をしろ」的に、様々な機器、施設が荒れるに任せ、荒れて崩れると撤去するという形で、大半が撤去されてしまいました。でも、東洋一の銅山でしたからね。日本で最初の公害もありますが、その反対側には日本で最初に最新技術で公害を防いでいった歴史もあると私は思っています。そして、景気の良い鉱山でしたので、働く人々は豊かだった面もあります。 そのような日本を代表する鉱山が、何も残さず消えていくのは悲しいものがあります。
@おさむちゃん-l9v
@おさむちゃん-l9v 9 дней назад
私が14才の時の貴重な動画ありがとうございます。その当時の母の実家が写っていて家族一同感激しています。2:53頃写っている渋川の橋の右側松原1丁目の家が私の母親の実家で鈴木金物店をやっていました、昔の記憶が走馬灯のようによみがえっています。祖母は10年前104才で亡くなりましたが良く橋の左にある食堂には連れて行ってもらいました・・・懐かしい・・・本当にありがとうございました感謝します。(家族一同より)
@atsushinobusan6676
@atsushinobusan6676 5 дней назад
私も16歳の頃の写真。もう50年近く前になるのですね。だもの足尾の風景も変わりますね。松原といえばマルサンの喫茶店や、ラーメン屋の「ふくしま」に21世紀になってから何度か寄りました。また、フィルムを引っ張り出してデジタライズしたらアップします。期待しないで待っていてくださいな。(笑)
@atsushinobusan6676
@atsushinobusan6676 Год назад
2023年2月28日で、足尾銅山閉山後50年が経ちました。50年ですから半世紀。そりゃ姿を変えるはずですね。また、昭和50年代の閉山後間もない時代の写真をデジタル化してアップしたくなりました。
@海斗-i9f
@海斗-i9f 8 месяцев назад
私は桐生出身なので、足尾も馴染み深いです。 昔は宇都宮に次ぐ人口だったこともあったようですが、私が物心ついた時には、寂しいものがありました。 夕張に近いものも感じることもあり、一つの産業に頼りすぎていると、それが破綻すると急激に衰退するのかなと思いました。
@atsushinobusan6676
@atsushinobusan6676 8 месяцев назад
「栄枯盛衰」ですね。エントロピーの「形あるものは必ず壊れる」にも似た、仕方ないことですよね。でも、もっと残念なのは、東洋一の銅山の遺構の多くが、自治体や企業の手により失われたことですね。歴史に名を遺す「足尾銅山」の良い面でも、悪い面でも、遺構を残すべきだったと思うのですが。教訓のためにも。
@user-ep7hj8yt2h
@user-ep7hj8yt2h 3 месяца назад
銅が取れなくなったから仕方ない
@meg-ex5lc
@meg-ex5lc 2 года назад
初めまして、地元に住むものです。 足尾を紹介して下さってありがとうございます! 銅山の資料や写真はたくさん残っているのですが、当時の街並みの写真はほとんど見た事がなかったので貴重な写真が見れて良かったです。 感謝しております!! 近々、この写真と比較しながらお散歩しようと思います😊
@atsushinobusan6676
@atsushinobusan6676 2 года назад
コメント大変ありがとうございます。今思えば、閉山3年後の足尾は、まだ当時の姿がたくさん残っていましたね。当時の写真をデジタル化しましたら、またアップしますね。
@平山一夫
@平山一夫 Год назад
貴重な動画ですね!
@旅の吟遊詩人哲也
@旅の吟遊詩人哲也 2 года назад
俺もこの長屋で一升瓶片手に鉱夫を演じてみたかったなー 因みに隣の群馬でも木材を切り出して足尾に 収めていました、その集落には分校ができる程 人が集まったと聞いています。
@atsushinobusan6676
@atsushinobusan6676 2 года назад
根利山と云われた砥沢ですね。小滝に行くと砥沢からの鉄索のトンネルが残っていますね。今は木々が茂って見えないかもしれませんが。 私は毎月、根利山の南の根利宿があったところに遊びで通っています。砥沢も興味がありますが、何か遺構が残っているでしょうかね…。
@旅の吟遊詩人哲也
@旅の吟遊詩人哲也 2 года назад
@@atsushinobusan6676 そーですかあの辺りだと南郷温泉しゃくなげの湯とかですか? 伐採で少し開けた土地と分校が残っているだけだったと思います。
@atsushinobusan6676
@atsushinobusan6676 2 года назад
@@旅の吟遊詩人哲也 様、私のチャンネルで昭和55年の根利宿の写真もアップしています。毎月行っているのは、しゃくなげの湯から行くと根利小学校(廃校)手前を左に根利川沿いに下った先です。下るとすぐに宿場があり、その先の昔の根利小学校跡地に建つ林業機械化センターです。ここには林業機械として昔の森林鉄道の車両たちが保存されているので、その修復、維持、保存活動をしています。また、根利山の南側からしゃくなげの湯にかけて、森林鉄道も存在しました。しゃくなげの湯の辺りに広い平場がありますが、そこが元々は森林鉄道の貯木場、原木置き場でした。 これらの動画もアップしていますので、お暇なときにご覧ください。デハ。
@旅の吟遊詩人哲也
@旅の吟遊詩人哲也 2 года назад
@@atsushinobusan6676 ありがとうございます 根利を通るのでしたら熊には注意してください 鹿は普通に見かけますが稀に母熊とその子供に 出くわす可能性大です。
@atsushinobusan6676
@atsushinobusan6676 2 года назад
@@旅の吟遊詩人哲也 さん、ありがとうございます。 2006年からほぼ毎月根利に行ってますが、毎年、野生動物に注意するように言われます。今の活動は、10人から20人のグループでやっています。時折山に入りますが、林業関係者、地元の方などに同行してもらい、単独で山に入るようなことはしないようにしています。 根利の地元の方の、熊、イノシシ、鹿の料理は何度かいただきましたが。イノシシは死んでいても豚熱の感染拡大につながるので、触れないようにと言われています。
@kenji-f973
@kenji-f973 2 года назад
足尾銅山、思い出のローカル線の大ファンです。信沢さんの写真センスが大好きです。続編期待しております。
@atsushinobusan6676
@atsushinobusan6676 2 года назад
嬉しいです!! たまたまそれなりの大きさでスキャンしたものがありましたので動画でまとめました。他にも写真がありますので、スキャンをしましたらアップしていきます。あてにしないで待っていてください。あと、月刊とれいん連載「線路は続くよ、いつまでも」でも時折昭和50年頃の鉄道を取り上げています。今回のコメントで、来月号は昭和55年の加悦鉄道にしようと決断しました!! 思い出のローカル線よりも若干内容が濃いです。(笑)
@kenji-f973
@kenji-f973 2 года назад
@@atsushinobusan6676 返信頂けて感激です。私が足尾に初めて行ったのは2007のGWでした。町全てが歴史博物館のようで、何か凄いパワーに圧倒されました。  精錬所や社宅も次々と解体され、足尾の歴史が消えて行くのはとても残念です。私も信沢さんが撮影した時代、特に本山の社宅周辺を見に行きたかったです。続きを楽しみにしております。  車も大好きなのでビートルの動画も順次拝見させていただきます!
@atsushinobusan6676
@atsushinobusan6676 2 года назад
@@kenji-f973 さんは、930なんですか? 我が家は次男が924です。多くの部品がVW、Audiで大変リーズナブルです。 私も足尾からは足が遠のいております。まあ、最近はコロナということもあって我が夫婦の場合は殆ど出かけていませんので。出かけないと連載ネタが無くなってしまうのと、トロッコをやはり実際に見ていないとストレスが溜まりますので…。只今は森林鉄道イベントの準備で抜け出せませんが、そのあと出かけたいと思っています。
@tonotyan3440
@tonotyan3440 Год назад
私は昭和52年当時、小学五年生でしたが、中学教諭だった父親と教職員組合の研修できたことがあります。一日目は渡良瀬遊水地と田中正造記念館、2日目が足尾銅山でした。銅山は外国から銅を輸入して精錬を続けており、川向うの巨大な工場には「世界に羽ばたく足尾精錬」という巨大な看板が掲げられており、公害事件の歴史の根深さを一層引き立てているように感じたものです。
@atsushinobusan6676
@atsushinobusan6676 Год назад
その昔は「東洋一の銅山」でしたし、一時期は人口3万人を超え、栃木県内で宇都宮に次ぐ町だったとか。大規模な銅山でしたから、公害、鉱害の先駆(?)というか、それまでは誰も気にも留めていなかったことが、どこよりも先に問題になったのでしょう。それで、世に先駆けて公害、鉱害対策をしてきたのも足尾だと思っています。 田中正造さんの一件で悪い所だけが際立っていますが、とても良い環境の鉱山だったのではないかと、私は考えています。
@丸くん-y5s
@丸くん-y5s Год назад
初めて足尾に行ったのが約20年程前。寂れた鉱山街と朽ち掛けた工場群が群がっていた。ローライ35片手にあちこちリバーサルで撮ったが沈んだ色味が街にあっていた。また足尾町中才長屋街外れの沈澱池、撮影行くかな。
@atsushinobusan6676
@atsushinobusan6676 Год назад
20年前といえば、私も2004年の夏ですが家族で中才辺りを歩きました。中才も最近はずいぶんとさっぱりしました。沈殿池は健在ですが。お昼は松原のラーメン屋の「ふくしま」だったかもしれません。その後、閉店してしまいましたが。