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2024/7箕面福音教会 ハティクバ ヨハネの福音書講解 5章1~24節 

JEC箕面福音教会
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『今月はヨハネ福音書5章から学びました。4章の出来事後、5章までの間には暫くの時間差があったことが察せられます。洗礼者ヨハネの投獄と殺害のあった可能性が、主ご自身のお言葉、「彼は燃えて輝く灯であり(「であった」過去形動詞エーン)」(5:35) に暗示され、一つの区切りとなっています。
律法の時代からキリストにある「恵み」の時代への移行の時でした。「ヘブル語でベテスダと呼ばれる池」「ベテスダ」のヘブル語は、(ベィト家+ヘセド慈しみ、恵み )という、二つのヘブル語の合成語で、「慈しみ(恵み)の家」を意味します。メシヤの慈しみを待ち望む池でした。
「主の使いが時々この池に降りて来て、水を動かすのであるが、水が動かされたあとで最初に入った者は、どのような病気にかかっている者でもいやされたからである。」(5:4) この池に「時々」主の使いが降りて来たとある「時々」とは、モエド(主の例祭:レビ23章) に、とあり、決して気まぐれなものではなく、ユダヤ人の例祭頃に、主がこの池へ御使いを遣わされ、人々を癒しておられたことが分かります。
それは、やがてユダヤ人の「約束のメシヤ」が来られたら、人々にして下さる、恵みのわざへの予表でした。「そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。」(イザヤ35:5-6) この希望を抱く人々が、ユダヤ人の例祭時には、この池に集まって来て、天からの不思議な癒しを待ち望んでいた訳です。
「その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。」(5:1) この日、そのメシヤなる、キリストご自身がこの池に来られました。時は、「ユダヤ人の祭り」とあり、恐らくは「過ぎ越し例祭」ではなかったかと推測されています。「そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。」(5:5) 古い律法の下ではどうしても癒され得なかった、長い病苦の一例でした。しかし、この日、キリストによる恵みの一声、「よくなりたいか。」(5:6)と、その恵みの一言、「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」(5:8) で、この人はたちまち癒され、自分で床を取り上げて歩けるようになりました。ハレルヤ!』

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5 июл 2024

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