Тёмный
No video :(

No.604_城跡巡り 赤堀城址(三重県四日市市) 

ライ
Подписаться 579
Просмотров 1 тыс.
50% 1

2024年5月26日(日)
赤堀城(あかぼりじょう)
所 在:三重県四日市市城東町20-720
34.9630319, 136.6075481
駐車場:なし
別 名:なし
⚫︎城主は上野国(群馬県)を本貫地とする赤堀氏で、1353年赤堀勝謂が足利尊氏から鈴鹿の野辺御厨地頭職等を安堵され、一族が伊勢の地に下向していた。その後200年、織田信長に滅ぼされるまで赤堀氏の居城であった。
(現地城址碑より)
⚫︎赤堀城は浜田城の南西800mの沖積地にある。城跡は、四日市市街地にあたっており、都市化のため遺構をとどめていない。旧「三重郡赤堀村字城西・同城東・同新三郎縄」の地籍図に、70m×70mの主郭の土塁・堀跡が認められる。周辺にも土塁や堀跡と思われる地割も認められ、「新三郎縄」の名称も考え合わせれば、家臣団の屋敷を周囲に配する、かなり大きな城郭であったことが想定される。
(日本城郭大系10 76ページ)
⚫︎城址は、戦前までは石垣も残り、いくらか当時の面影をしのばせたが、いまは跡形もない。
 赤堀城は、田原秀郷の子孫、田原景信によって文明(1469)以前に構築された。その後、景信の二子秀宗が城主となり、長子盛宗の羽津城、三子忠宗の浜田城とともに、赤堀三家といわれて栄えた。
 永禄年間(1558-69)、伊勢の大豪族長野、工藤両氏との攻防があり、よく堪え抜いたが、永禄末の織田氏の攻略によって、ついに落城した。
(日本城郭全集8 15ページより)
⚫︎赤堀城は赤堀三家のひとつで、上野国(群馬県)を本貫地とする田原景信によって築城されました。その際、地名を「赤堀」と改めて、自身も赤堀肥前守と称しました。
赤堀三家とは、羽津城(景信の長子盛宗)、浜田城(三子忠宗)、そして赤堀城(二子秀宗)を指します。
1575年(天正3年)には織田信長の家臣、滝川一益によって浜田城とともに落城しています。
現在、城址には石碑があるのみです。

Опубликовано:

 

25 авг 2024

Поделиться:

Ссылка:

Скачать:

Готовим ссылку...

Добавить в:

Мой плейлист
Посмотреть позже
Комментарии    
Далее
三重県の暴力団事務所16
5:41
Просмотров 744 тыс.
skibidi toilet multiverse 041
06:01
Просмотров 4,6 млн