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【ゆっくり解説】島津義久・義弘兄弟相克編その15ー琉球侵攻(上)島津のお家事情が絡んだ出兵計画 

ゆっくり真実の戦国史
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30 сен 2024

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Комментарии : 64   
@rekehebe9442
@rekehebe9442 4 месяца назад
琉球のここでの対処の失敗が幕末や現代まで続いていたと考えると、歴史における転換点での判断って本当に難しいんだなって思い知らされる
@ゆっくり真実の戦国史
@ゆっくり真実の戦国史 4 месяца назад
コメントありがとうございます!国際環境の激変と琉球王国の国力衰退が不運にもリンクしてしまった部分はありますね。
@machazard
@machazard 4 месяца назад
宇喜多秀家の助命嘆願については島津家だけでなく、豪姫の実家である前田家からも出てましたよね。最初は八丈島に配流されたんじゃなかったんですね。
@長野業正-j9l
@長野業正-j9l 4 месяца назад
いくら家中が混乱していたとは言え、宇喜多秀家も領国に戻って防衛戦の準備をしつつ、講和の準備は出来なかったんですかね? 立回り次第によっては領土の三分の一、美作一国くらいは残せたきがしますけど。
@ひろたかし-w8m
@ひろたかし-w8m 4 месяца назад
@@長野業正-j9l 宇喜多は全勢力といえる程の軍勢を率いてガチで戦って壊滅したから難しかったのかも。
@ゆっくり真実の戦国史
@ゆっくり真実の戦国史 4 месяца назад
コメントありがとうございます!前田家は秀家の逃亡も援助してたみたいですね。
@マッケンゼンカルロス
@マッケンゼンカルロス 4 месяца назад
秀家が島津領に入ったのは1601年6月と伝わっています。 関ヶ原後、9ヶ月もの間、美濃や京都に潜伏していたことになります。 当時、島津はまだ家康と交渉中であることからも、潜伏先としてはそこしかなかったんでしょうね。
@ませあきたつ
@ませあきたつ 4 месяца назад
本来なら死刑になっていました。
@fumikami7341
@fumikami7341 4 месяца назад
鹿児島に旅行行った時に宇喜多秀家隠棲の跡地行きました。 薩摩藩に匿われて際にイケメンの貴公子が薩摩に来たあ〜。 現地の女性からモテモテだったようです。 薩摩と琉球の付き合いは古く尚円王の時代には薩摩島津氏との交易の取り決め協定を結びその後島津氏の力が弱くなった時期に琉球は協定反故にしたと言われてます。 琉球と薩摩は互いの力関係が均衡差取れていない場合には弱肉強食の世界ですから当然なりますね。
@norikunny
@norikunny 4 месяца назад
4:08 アフガニスタンのタリバンが米国からオサマビンラディンを匿ったのも、アフガニスタンの古い習慣で助けを求めて来た者は全力で守るというのが理由だったと聞きましたが、島津も同じだったのですね。
@ゆっくり真実の戦国史
@ゆっくり真実の戦国史 4 месяца назад
コメントありがとうございます!アフガニスタンの部族の名誉意識と中世武士のそれは似たところがありそうですね。
@ませあきたつ
@ませあきたつ 4 месяца назад
奥州藤原氏だって城長茂や佐竹秀義や源義経を匿っていた。
@norikunny
@norikunny 4 месяца назад
@@ませあきたつ 奥州藤原氏の例を出されても、正直返事に困ります。私のコメントはアフガニスタンの伝統と島津家の例を比較する意図でした。
@小原壽展
@小原壽展 4 месяца назад
投稿お疲れ様です。宇喜多秀家が島津家に駆け込んだのは源義経が藤原秀衡の本に駆け込んだのと同じ様なものかと思いました。清水克行さんの喧嘩両成敗の誕生という中世人の様々な事象が書かれた書籍があります。 徳川幕府からすれば豊臣家への権威の対抗として徳川家の慶賀に朝鮮や琉球といった他国の使節が訪問したという体裁を整えたかったんですかね
@ゆっくり真実の戦国史
@ゆっくり真実の戦国史 4 месяца назад
コメントありがとうございます!清水先生の本は自分も読んだことがあります。中世人の心性はぶっ飛び過ぎですよね😱
@キル-c8c
@キル-c8c 4 месяца назад
GWに家族で鹿児島旅行に行ってたまたま宇喜田秀家の匿われた場所を見つけて急遽行ってきました。 かなり道が悪く蚊が多く歩くのに苦労しましたがここにしばらく住んでたんだなと思いに耽りましたww 岡山城の石の一部も添えられてました
@ケンケン-b3r
@ケンケン-b3r 4 месяца назад
島津忠恒の義弘からの手紙。 彼らは歴史的な英雄でもあるけれど、今の私たちと変わらないと感じて嬉しくなりますね✨ 宇喜多秀家の件は、島津義弘を見込んだのでしょうか⁉️ 一方で、義久の行動原理は「家を守る」なんですかね〜。 島津家の税金の件、 そうなるとやはり伊集院忠棟の件は、 あくまで権力闘争で、討伐したからって他の家臣が島津家に従順になった訳ではなく、そのプロセスの一環だった。 ってことになるのかなぁ⁉️ 島津家にとって近世大名になるのは遠い道のりだったんですね。 琉球の件、「いざ」と思った時には手遅れ。事前の備えが大事、ということを教えてくれるお話ですね。 ありがとうございます。
@ゆっくり真実の戦国史
@ゆっくり真実の戦国史 4 месяца назад
コメントありがとうございます!義弘の忠恒へのお説教は人間味が感じられますね😄
@ひろたかし-w8m
@ひろたかし-w8m 4 месяца назад
本当に中世の日本人はプライドが高かったんだな~。笑ったか笑わないかくらいのトラブルで殺し合いになったそうだし。
@matukawatositane
@matukawatositane 4 месяца назад
元結屋事件とか凄いよ
@ゆっくり真実の戦国史
@ゆっくり真実の戦国史 4 месяца назад
コメントありがとうございます!中世武士のメンタリティはガチでヤバいですよね😨
@木花咲耶姫-f5w
@木花咲耶姫-f5w 4 месяца назад
日本に限らず中世人は名誉意識が強烈に強いですね。 看聞御記などでは鹿狩りでの獲物の奪い合いを巡って百姓が山名家の家臣を射殺したことをキッカケに幕府奉公衆、細川、山名、土岐、六角、赤松の軍勢と合戦する話がありますし。
@ひょうべえ
@ひょうべえ 4 месяца назад
家康からの偏諱で家(しかも家は徳川家の通字)と島津家の通字で家久、変な所は何も無いんだけど久しぶりにこの名前をみた義久と義弘の心中やいかに・・?
@ゆっくり真実の戦国史
@ゆっくり真実の戦国史 4 месяца назад
コメントありがとうございます!さぞ複雑な心境だったのではないかと😱
@かにひなゆな
@かにひなゆな 4 месяца назад
知れば知るほど鎌倉から幕末まで続いた事が不思議でならない島津
@ゆっくり真実の戦国史
@ゆっくり真実の戦国史 4 месяца назад
コメントありがとうございます!逆に北条みたいな安定感抜群のお家が大大名としては存続できなかったりしてわからないですね。
@ih314
@ih314 7 дней назад
鎌倉からの名門で島津以外誰も島津を統治できない
@徳島由岐男
@徳島由岐男 4 месяца назад
江戸時代日本国で唯一、植民地を有していた島津藩。のちの琉球処分や征韓論など様々な出来事に繋がる。
@のろし-v4s
@のろし-v4s Месяц назад
松前藩もでは???
@safuka8045
@safuka8045 4 месяца назад
興味深く拝聴しました ありがとうございました
@ゆっくり真実の戦国史
@ゆっくり真実の戦国史 4 месяца назад
コメントありがとうございます!そう言っていただけると嬉しいです😄
@グーグル用名前
@グーグル用名前 4 месяца назад
中世とは言えないかもしれませんが、平氏も助けを求めてきた武士を匿ったために関東独立戦争が発生してしまいました。
@ゆっくり真実の戦国史
@ゆっくり真実の戦国史 4 месяца назад
コメントありがとうございます!確かに😓😓
@milacleyan
@milacleyan 4 месяца назад
窮鳥懐に入れば猟師も殺さず
@schnellbart
@schnellbart 4 месяца назад
松浦にも対明・琉球外交に関与させる姿勢を示して、家康は島津に揺さぶりと督促をかけたですかね。 この動画をずっと拝見させていただいて以下のようにに感じました。 幕藩体制下島津家は加賀前田家に次ぐ大大名家ですが、その知行は当時としては決して豊かな地ではないし、中世的な国衆も依然勢力を維持している。いろいろ問題あっても島津でないとこの地域は統治できないという感じが家康はじめ幕府にあったのかもしれませんね。それもあって家久(忠恒)を家康が応援してるように感じます。
@ゆっくり真実の戦国史
@ゆっくり真実の戦国史 4 месяца назад
コメントありがとうございます!島津もそうですが九州や奥州の辺境にある大名は転封されてないところが多いですよね。
@toshis3972
@toshis3972 4 месяца назад
中央は三好ー織田ー豊臣で旧勢力の徹底的な排除がされましたからね。地縁がない大名もポンポン挿げ替える事が出来るけど東北や九州はそこまでラディカルにできませんでしたね。中央と同じように地侍クラスから排除しようにもその結果の得失が中央程果実を得られない。それに中央で地付き勢力と果てしない抗争を繰り返してきた天下人達は「もうこんなのやりたくない」と思って居たのかもw 肥後国人一揆と言う地付き勢力の大掃除が終わった後に肥後に入った加藤清正も残存勢力との争いに明け暮れていますね。賦役を断る地侍に「お前の一族も根絶やしにしてやろうか」、ごねる寺社に「憎いやつめ、私が怒るとどうなると思う」と脅しを掛けた書状が残って居ます(地侍は逃亡したそうです 清正は筆まめで滅亡大名家にも関わらず史料が豊富ですが、他の大名家でも実力行使だけでなくあの手この手で乗り込んだ土地を治めていたのでしょうね
@長野業正-j9l
@長野業正-j9l 4 месяца назад
島津家内部の混迷もそうですが、通商を生業にしている琉球側の稚拙な外交も無いですね。 やっぱり、全盛期を過ぎた琉球には人材も失ったんでしょうか?
@ゆっくり真実の戦国史
@ゆっくり真実の戦国史 4 месяца назад
コメントありがとうございます!人材の劣化という要因は確かにありそうですね。
@よう15さん
@よう15さん 4 месяца назад
室町時代から外国としての琉球は室町幕府との通交は友好的だったけど、 その後、秀吉が属国扱いにして軍役まで勝手に掛けてきたんだから そりゃ琉球側としては警戒感MAXになるのはしょうがないよ。 当時の琉球はあくまで外国。
@ju6522
@ju6522 4 месяца назад
秀吉の戦争が琉球にどう伝わってたか?もあるんじゃないかな。 確か日本撤退後に、明&朝鮮では戦勝式典が行われて、「島津義弘」は首を斬られてる当時の資料があったかなと。 本物の義弘は朝鮮出兵で討ち取られてませんけど、日本人捕虜の誰かを義弘に見立てて処刑してます。 そういう明軍、大勝利の報告が琉球に蔓延していたら、明軍を当てにして、島津軍を侮ってた~のもありそう。
@ませあきたつ
@ませあきたつ 4 месяца назад
日本船や中国船が直接東南アジアへ行ったり、ポルトガル、スペインの東南アジアへの進出がきっかけで、中継貿易が衰えたからだ。
@MrRudolf1006
@MrRudolf1006 4 месяца назад
頼んできた者は是が非でも助けるってなんかパキスタン、アフガニスタンに住むパシュトゥン人の掟パシュトゥン・ワーリーみたいだな 中世の日本にそれに似た価値観があったのに驚き
@ゆっくり真実の戦国史
@ゆっくり真実の戦国史 4 месяца назад
コメントありがとうございます!そのあたりはリアル中世みたいな社会だと聞いたことがあります。
@ミースケ-i7o
@ミースケ-i7o 4 месяца назад
琉球側、日本に統一政権がなければ変な対応ではなかったんじゃないかなあ。大体、戦国時代は政治状況が流動的なんでしばらく待っていれば話が変わるし、海を越えて外征してくるのは負担が大きくて容易にできない。一方、日本側に統一政権があると情勢が安定して、後顧の憂いもないので、外征が可能になったという。
@ゆっくり真実の戦国史
@ゆっくり真実の戦国史 4 месяца назад
コメントありがとうございます!国際環境の激変に琉球側が上手く対応できなかった感がありますね。
@user-hirotaka0123
@user-hirotaka0123 4 месяца назад
琉球の風もクッソつまらない駄目大河でしたよ。
@ゆっくり真実の戦国史
@ゆっくり真実の戦国史 4 месяца назад
コメントありがとうございます!琉球の風は放送されてたのがガキのころだったので、内容は正直よく覚えてないんですが😅OP曲は印象に残っているんですよね。
@石塚大吾-s2g
@石塚大吾-s2g 4 месяца назад
間寛平が主演していたのは覚えとる
@釣り宿の主夫
@釣り宿の主夫 4 месяца назад
主旨にちょっと外れてしまうかもですが、琉球王朝も薩摩からの搾取の為に更に弱い西の八重山諸島の与那国島まで税を搾取する事になりました。例の大河はもちろん歴史で学ばれる機会も無く華やかな薩摩藩や琉球王朝史の影になってしまってます。太平洋戦争が真っ先にはなって以前の悲劇に感心を持って欲しいものです。長文失礼しました。
@ゆっくり真実の戦国史
@ゆっくり真実の戦国史 4 месяца назад
コメントありがとうございます!本州中心に見てしまうと沖縄は周辺史扱いになってしまいますが、沖縄本島を中心にしてしまうと八重山諸島などが同じく周辺史に追いやられる構造になってしまいますね。
@kenta-z3e
@kenta-z3e 4 месяца назад
中世からの伝統(4:11〜)って魔理沙が言ってた下り、多分義経主従が奥州平泉に匿われたことで「伝統」になったんでしょうね……。(まあ義経主従は平家全盛期に一度奥州平泉にいたから初対面じゃないけどね……。)
@ゆっくり真実の戦国史
@ゆっくり真実の戦国史 4 месяца назад
コメントありがとうございます!源平合戦が武士の倫理規範の原点になるんですかね。
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МОЮ ТАЧКУ РАЗБИЛИ...!
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Ко мне подкатил бармен
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