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【ゆっくり解説】徳川家康、嫡男信康と正妻築山殿を処断!謎多き事件に潜む政治的背景 

ゆっくり真実の戦国史
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今回は徳川家康の生涯でも一・二を争う大きな謎である「松平信康事件」について、家康の正妻築山殿の存在や織田・武田との外交関係といった側面から事件発生の背景を解説していきます。
※信康は「徳川信康」と表記されることも多いですが、家康の徳川改姓後も当時の文書では信康を松平姓で表記していて信康は徳川に改姓していなかった可能性が高いため、この解説では「松平信康」と表記しています。
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Опубликовано:

 

12 сен 2024

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Комментарии : 43   
@user-uy1sk3vh2e
@user-uy1sk3vh2e Год назад
最近のお気に入りです。動画ありがとうございます。
@user-ii9wu7fn7p
@user-ii9wu7fn7p Год назад
ご視聴ありがとうございます!そう言っていただけると大変ありがたいです!
@あぼぼです
@あぼぼです Год назад
江戸時代になって神君家康公という建前があるので どうしても家康の闇の部分になる話は、相手の方が悪い、信長の圧力があった。という形にしなければならなかったと言えますね とはいえ、家康は側室を比較的身分の低い女性からとるようになっており、色々と苦労させられたと考えることはできますね。
@user-ii9wu7fn7p
@user-ii9wu7fn7p Год назад
コメントありがとうございます!やはり幕府の開祖家康公を悪しざまには言えないですから仕方のないところではありますね。築山殿が実際どんな女性だったのかはなんとも言えないですが家康との相性は良くなかったという可能性は高そうですね。
@ひょうべえ
@ひょうべえ Год назад
家康と長く別居している状態で、築山殿は正室の役割を果たすことができたのでしょうか?実際に築山殿は正室の立場を喪失したとする研究者もいるみたいです。
@user-ii9wu7fn7p
@user-ii9wu7fn7p Год назад
コメントありがとうございます!今回も黒田基樹先生の著書を参考にしているのですが、その部分は自分もちょっと疑問に思ったんですよね。さらなる深掘りが必要なところかと。
@ヤン提督
@ヤン提督 Год назад
​​@@user-ii9wu7fn7pどうも築山殿は人質交換で三河に戻った後、ずっと別居していたようで家康とはほとんど顔さえ合わせていない可能性すらあるのです。正室としての立場を失っていたと考えてもいいようです。
@user-lc4dw8vy9z
@user-lc4dw8vy9z 2 месяца назад
本来、婚姻関係や地理関係から言っても、信康が織田派で、前線に近い家康が武田氏に宥和的でもおかしくないのですが、それはとりあえず置いておきます(娘婿の信康に対する配慮を怠った信長のミスだとは思います)。同じく正室所生の嫡男を廃嫡し、〇なせた武田氏の義信事件と比較しても、信康事件は条件が悪いですね。信玄には元服・初陣を済ませた諏訪勝頼という子供や、同じ正室所生、同母弟の信廉、同母弟・信繫の子の信豊などが健在でしたが、家康には同じ松平広忠を父とする弟もおらず(異父弟は居た)、於義丸(結城秀康)と長松丸(徳川秀忠)の乳幼児2人しか居ませんでした。戦国大名の「家」としては非常に危うい状態で、織田家との姻戚関係も切れ、新たな縁組も結ばれませんでした。ここから「天祐」本能寺の変の発生まで、家康の「綱渡り」が続くことになります。私は(わずか2泊3日で踏破した「神君伊賀越え」や信長生前からの甲斐・信濃への調略と三河帰還後の甲斐・信濃への侵攻スピードと手際の良さを見るに)、家康は明智光秀の謀反を事前に知ってた、本能寺の変が起こることを知ってたと思いますがね。
@rotriot367
@rotriot367 Год назад
信長が尾張と機内の経済力を背景に絶え間なく軍事行動出来た一方で、浅井氏初め配下国衆が自主性、名誉意識の侵害や軍役負担に領内の土豪や地下人の不満が爆発しそうになって裏切ったと思う。同様に清洲同盟で信長の手伝い戦に動員され続けた高天神城主の小笠原信興以下外様でもある遠江国衆の多くが第一次高天神城の戦いで勝頼に降伏、帰順したように、岡崎衆も長期かつ膨大な軍役に不満が頂点に達しクーデター画策し築山殿が便乗して信康を担いで粛清されたところだと思う。
@user-ii9wu7fn7p
@user-ii9wu7fn7p Год назад
コメントありがとうございます!軍役の負担は大名家の如何を問わずは相当重いものだったようですし、いつ終わるともしれない武田との抗争に忌避感が生まれるのもおかしくない状況だったと思います。
@rotriot367
@rotriot367 Год назад
@@user-ii9wu7fn7p それに武田家における勝頼の後継者としての地位が三条院殿の死去まで確定しなかったように、庶子の処遇であっても武家における正室の権限は極めて強かったことは現代であまり意識されないですよね。
@user-ii9wu7fn7p
@user-ii9wu7fn7p Год назад
@@rotriot367 戦国時代の奥向きについてもまだ不明な点が多いですし正室の存在の重要性は今後明らかにされるべき大切なテーマですね。
@上総介義兼足利
@上総介義兼足利 Год назад
元々松平と織田は犬猿の仲だったから織田との同盟に不満を持つ家臣は多かっただろうし、当時の武田と徳川の力の差を考えれば保険のためだけだと通じていた可能性は十分ありますよね
@user-ii9wu7fn7p
@user-ii9wu7fn7p Год назад
コメントありがとうございます!戦国時代では二股をかけることは普通にありえた行為ですしね。
@PLXMZ3
@PLXMZ3 Год назад
岡崎派が本当に反織田だったのかどうか?結構謎ですよね。 実際、上杉謙信が病没もせずに織田を苦しみ続けていたら、 武田との繋がりも徳川の生き残りのカードになるし、そう考えるとトカゲの尻尾切りの線もあるかも。
@user-ii9wu7fn7p
@user-ii9wu7fn7p Год назад
コメントありがとうございます!今回は尺の都合で取り上げませんでしたが信康事件が起こった当時に外交路線をめぐっての家臣団の対立が本当にあったのか疑問視する説もあるんですよね。
@user-wo2ix9sd7o
@user-wo2ix9sd7o Год назад
信玄の時における三方ヶ原の敗戦もヤバかったけど、勝頼の代に代わってからも苦戦してたというか前線のイメージ無かった岡崎や吉田城みたいな重要拠点が攻撃されたり狙われるぐらいに侵食されていた事に驚く
@user-ii9wu7fn7p
@user-ii9wu7fn7p Год назад
コメントありがとうございます!信玄の死の直後は一時的に家康は反撃に出たんですがあっという間に勝頼が勢力を盛り返してきて再び危機に陥ってた感じです。
@user-lj8ns4ui7n
@user-lj8ns4ui7n Год назад
もしも上杉謙信が史実よりも長生きしたら、御館の乱の勃発も、甲相同盟決裂も先延ばしになり、徳川家がこんな状態の時に、勝頼が本格的に三河侵攻してきたら、家康は結構ピンチだったかも。 謙信存命なら信長もどれだけ援軍送ってくれるか怪しいし。
@user-ii9wu7fn7p
@user-ii9wu7fn7p Год назад
コメントありがとうございます!謙信の急死がその後の戦国史に巨大な影響を与えたのは確かですね。
@nichirowar
@nichirowar Год назад
個人的にはお家騒動を防ぐために、家康は信康を粛清したと思ってる しかしそれと同時に後悔してたとも思う 実際家康はそれ以降の子供達は力を入れて教育してる節があるし
@user-ii9wu7fn7p
@user-ii9wu7fn7p Год назад
コメントありがとうございます!表面に出してませんが信康事件は家康に相当な動揺と教訓を与えたと思います。
@user-fg3pj6xy9f
@user-fg3pj6xy9f Год назад
この築山殿、何気にレイアースのアルシオーネっぽい
@yoshinori1441
@yoshinori1441 Год назад
動画投稿ありがとうございます! こうして見ると武田勝頼って大河でも描かれてますけど、家康にとって人生最大のライバルだったのかなと思います。 曲がりなりにも家康正室と三河衆の一部に調略を成功させたその力は、父信玄にも負けず劣らずだと思います! 実際この大岡弥四郎事件が成功していれば、織田と徳川の連絡線が寸断され、逆に徳川滅亡になったかもしれないので....
@user-ii9wu7fn7p
@user-ii9wu7fn7p Год назад
コメントありがとうございます!武田勝頼は家康の生涯で多分一番長く戦い続けた相手ですしね。大岡弥四郎事件は一般的な認知度は低いですが家康の運命を左右しかけた重大な事件ですよね。
@user-kg8cs5dp7x
@user-kg8cs5dp7x Год назад
『子連れ狼』小島剛夕・小池一夫コンビの劇画『半蔵の門』では、信康は実は今川氏真と瀬名との子供(瀬名は義元・氏真の「使い古し」で、だから家康に下げ渡した)で、家康と服部半蔵はそれを知って隠していたが、ある時に信長に気づかれ(秀吉も気づいた)信康が徳川家を継いだ場合の裏切りを警戒した信長は家康に瀬名と信康の殺害を命じたという説で中々面白かったです。
@伝説の麻婆豆腐
@伝説の麻婆豆腐 Год назад
武田をバックに信康を担ごうとした築山殿と武田派の一掃かな 神君家康が嫡男を殺したでは、聞こえが宜しくないから信長さんに・・・ってなったって感じの話を見る機会が増えた
@user-ii9wu7fn7p
@user-ii9wu7fn7p Год назад
コメントありがとうございます!昔のように徳川史観を丸呑み…という状況ではさすがになくなってきてますね。
@user-uj8qv8kb6h
@user-uj8qv8kb6h 10 месяцев назад
そもそも正室所生の嫡男なのに信康は徳川姓じゃなくて何故「松平」なんだ?🤔
@user-ce1od1zj6m
@user-ce1od1zj6m Год назад
築山殿の母親は井伊氏の出やから築山殿は真 織田派やからそれはない。
@user-ii9wu7fn7p
@user-ii9wu7fn7p Год назад
コメントありがとうございます!築山殿の母が井伊氏の出というのはどうも誤伝のようです。
@user-ce1od1zj6m
@user-ce1od1zj6m Год назад
築山殿の母親が今川義元の親戚というのは徳川家康のイメージを損なわないための捏造なはず。
@user-ik8yc9qq9s
@user-ik8yc9qq9s 6 месяцев назад
信長が不憫過ぎる!
@user-qh2dt6se4g
@user-qh2dt6se4g Год назад
瀬名は追放中の輿の中で自害したと言う説もある
@user-ii9wu7fn7p
@user-ii9wu7fn7p Год назад
コメントありがとうございます。築山殿の最期は諸説あって謎なんですよね。
@user-tb5pi2is5u
@user-tb5pi2is5u Год назад
おそらく瀬名ちゃんの夫で信康の父・松平元康と後の家康が別人だから「岡崎ク一デタ一未遂事件」と「信康・築山事件」の原因でしょう‼️
@user-xp2qb8vf3h
@user-xp2qb8vf3h Год назад
信康は始めから早死する運命だったと思いますよ。信康はもし長生きしていたら突発的に人を成敗する人物だったと思います。 六男松平忠輝が同じような素養を持っていたので、信康の素行はあながち嘘ではないと思います。 一方では武勇に優れて頭も切れる人だったと思います。多分、織田信長は将来息子世代になった時、織田信忠と信康を天秤にかけた際に圧倒的に信康の能力が高いと判断したのだと思います。 殺すにうってつけの告発が届いた為、これを機会に切腹を命じたのだと思いますよ。 家康の心情を書いている資料が出て来ないのは当然だと思います。心底信康を助けたかったと思います。 何とか身を隠させるように信長にバレないようには工作したと思いますが、バレたら口実に織田に攻撃されていたと思います。 天下を獲った後でぐちぐち当時を語るのは権威を下げるでしょうし、信康への思いを第三者の汚れた想いで汚されたくなかった、自分と信康だけの想いにしたかったので本当に墓場まで持って行ったのだと思います。
@user-ii9wu7fn7p
@user-ii9wu7fn7p Год назад
コメントありがとうございます!信康の素行が史書に書かれてる通りだったかはともかくその根拠になった振る舞いはあったでしょうね。
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