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【ゆっくり解説 】神武天皇東征はいつの出来事なのか。 

古代史ヤバイ【ゆっくり解説】
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「やばい古代史」では、古代史に焦点を当てて歴史を紐解いていく番組です。
我々はどこから来たのか。その鍵を古代史から読み解きます。
※この動画は、過去に起こった出来事をわかりやすく伝えることを目的としています。視聴者に衝撃を与えるような目的はございせん。
※動画内に、死を連想させるような言葉を出てきますが、関係者を冒涜したり行動を助長するような意図は一切ございません。
※動画内の素材は全て引用であり、著作権や肖像権を侵害する目的は一切ございません。
著作権などに関するお問い合わせはこちらのアドレスまでお願い致します。
yabaikodaishi@gmail.com

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7 сен 2024

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Комментарии : 49   
@gorilla_in_IQexperiment
@gorilla_in_IQexperiment Месяц назад
神武天皇のモデルになる人物は存在していたと思うけど、神武東征のエピソードは崇神〜垂仁の時代だろうね。
@user-vq9ee8uy4j
@user-vq9ee8uy4j Месяц назад
昔の一年間って半年だった説を聞いたことがあって…そうなると127歳ってあり得るって言ってた
@Hayato_Takezawa
@Hayato_Takezawa Месяц назад
一月が15日しかなかった時代があるらしい
@user-hy5xw9ff1p
@user-hy5xw9ff1p 11 дней назад
だとしたらなぜ推古天皇の即位時期も60年ではなく30年という記録になるのか、甚だ疑問です。編纂途中で1年の長さが変わっている事におかしいと気づくはず。
@user-vq9ee8uy4j
@user-vq9ee8uy4j 11 дней назад
@@user-hy5xw9ff1p 様 推古帝の頃の暦は恐らく 今の365日になっていたであろうと思います あくまでも"仮説 "で16代仁徳天皇以降の在位期間は現実的な数値になっている その前までの伝説上の天皇の在位期間は不自然に長いので 15代くらいまでは 秋分の日と春分の日が正月として半年サイクルだったのではないか❓️🤔ということのようです
@akiyoshi5907
@akiyoshi5907 Месяц назад
系譜上では隼人は天孫だから、卑弥弓呼の甥っ子もしくわ甥孫が東征したと考えるのが自然だね。
@tadashidavide918
@tadashidavide918 Месяц назад
昔の1年を半年で実際は5、60代で亡くなったとしても、古墳時代の平均寿命が平均寿命が30歳ほどらしいからかなり長生きだったんだな
@nanoto103
@nanoto103 6 дней назад
東征といいつつ、揉めてるのは畿内に着いてからで、途中の土地をすんなり通り抜けるというのは、開拓団のようなものと考えたほうが良いのではと思うのですよね。先に入植してる勢力とだけは戦わなくてはならなかったけど、途中はむしろ出資者を募る旅になる。 かくて出雲の支援も受けて開拓地を平定後、北九州から本家を移動するという微妙な政治的混乱がありつつ、大和政権に繋がるという線を最近考えてます。 さらにその前の先遣隊として卑弥呼の弟の須佐之男が出雲に出向いて協力関係を築いていた、みたいなのも面白いと思うのですよね。 (追加の思いつき)本家と分家の併存から分家が政治的に勝ったとするならば、たとえば併存時期の二本の系譜を一本につなぐみたいな操作もあり得そうな気がする。それで上手くハマらないかな…?
@mannganninc
@mannganninc Месяц назад
ニギハヤヒはハヤヒト、つまり隼人であり、神武東征以前にヤマトに移住した隼人集団かもしれない。
@BassMicchan
@BassMicchan 19 дней назад
神武東征:大阪の戦いの地へ、船を進められる時代限界...縄文海進から観ると、時代が下っても紀元前50年くらいが妥当との説ありますね。  ただ大阪では、戦前戦後の大阪習俗も学び...戦後直ぐまで、多くが蓮レンコンに覆われた湿地帯。民は、丘を除いて小舟で移動していたと...私の子供の頃でも、古びた小舟が残っていました。たった何十年前まで、湖ではないが湿地(水深2~3m以上、底ぬかるみ粘土質)が多く...3~4世紀くらいなら、船で移動は可能だったと推測されます。  つまり、神武東征は、卑弥呼・台与の邪馬台国時代の後、3~4世紀の頃の話もありかと?
@user-kf6xc2lq6j
@user-kf6xc2lq6j Месяц назад
なお、戦後における古代初期天皇実在論の先学諸氏を研究してみると、東京大学名誉教授の坂本太郎氏と皇學官大学名誉教授の田中卓(たかし)氏の研究と諸著作に行き着くのである。
@yuasa5042
@yuasa5042 29 дней назад
女王国の中心勢力(倭面土国)は久留米~八女~みやまの筑後(ヤマト)だろうな 目の前には有明海、背後には筑後川(日田・宇佐行)や宝満川(太宰府・博多行) 古代における九州随一の要所であり 後世には有名どころの田油津姫や筑紫君磐井が居を構えていたところ 熊本ウテナとはズブズブでほぼ同族、そうなると熊襲ともズブズブの後ろ盾 有明海から背振山地へ降り立てば、背後から幾らでも強襲できる良立地、そして 伊都に駐留する隼人系の五十猛の睨みもあれば、玄界灘諸国が畏れ気使うのも頷ける 一方畿内では、卑弥呼から大和(邪馬台)建国の神勅を拝した饒速日が 天照の化身だとして地元民にもてはやされ、神勅そっちのけで 有頂天神になっていましたとさ・・東征受けるのも無理ないね、知らんけど
@user-gk9dp3fi2s
@user-gk9dp3fi2s Месяц назад
神武天皇の東征をテーマに取り上げていただき、ありがとうございます。私も大変興味をもっているところで、少し長くなりますが私見を述べさせていただきます。まず、神武天皇の出身が何処かというところから考えたいと思いますので、邇邇芸命の降臨の地は何処なのかということを考察したいと思います。(申し訳ありませんが、出てくる地名は福岡県の博多湾岸の地名ばかりになります。) 「詔之此地者向韓國眞來通笠紗之御前而朝日之直刺國夕日之日照國也故此地甚吉地詔」[古事記から] 「此地」とは 日向(ひなた)峠を中心とした山地とその両側の地(伊都国) 「向韓國」 鐘撞山から北の方角にある韓国(朝鮮半島)   ・実際に目で確認できたかどうか分かりません。 「眞來通笠紗之御前」 鐘撞山から博多湾の対岸に見える海の中道   ・海の中道が立花山・松尾山・白岳の三山(三笠山)から流れ出て志賀島へと続く砂の道の様に見えたのではないでし  ょうか。 「朝日之直刺國」 飯盛山から見える日向峠の東側(吉武高木遺跡) 「夕日之日照國」 高祖山から見える日向峠の西側(三雲井原遺跡) 上記から、邇邇芸命が降臨した地が伊都国で、室見川周辺まで伊都国の範囲であったと考えられます(ただし邇邇芸命降臨の話には疑問があります)。実際に山に登って見た光景だったのでしょう。この地の日向から、神武天皇である神倭伊波礼毘古命は東へ向かったと思われます。室見川の河口辺りを下山門ということから、日向峠の東の吉武高木遺跡周辺は、室見川の中流にあたり、古代において上山門(かみやまと)呼ばれていたのではないでしょうか。また、日向峠を西に越えた所に三雲井原遺跡があり、神武天皇はその井原(いわら)出身で吉武高木において王になったと和風諡号から解釈できます。東征の地は「古事記」に記されているように「猶思東行」(なお、東へ行こうと思う)となっています。この東とは何処なのか、これが分かると神武天皇の本当の東征の地が解明されるのではないでしょうか。伊都国から東の方、邪馬壹国時代の不弥国であろうと思われるところに、今の地名で香椎があります。香椎は古代「橿日」と表記され「かしひ」と呼ばれていたと考えられます。橿日を倒語で読むと、「日橿(ひかし)」と読むことができ、昔は「ひがし」→「東」と呼ばれていて、神武天皇の東征の地は「橿日」と推察することができます。日向峠のふもとの吉武高木を立ち、室見川を下り博多湾で斯馬国の大久米命の船団と合流し「東」へ向かったと考えられます。もしかすると藤崎の「猿田彦」の道案内があったのかもしれません。香椎の北にある立花山・松尾山・白岳は、糸島の山頂から見ると白岳の西側は山並みが途切れ、海の中道へと下っているように見えます。このことから畝尾山(うねびやま)と表現されても良いのかもしれません。また、この三山は山の形から三笠山とも考えられ、一番東の立花山の東南に久山町山田があり、「坐畝火之白檮原宮」(古事記)「畝傍山東南橿原地者」(日本書紀)と書かれていて橿原の地に該当するように思われます。また、神武天皇の陵として、「御陵在畝火山之北方白檮尾上也」(古事記)「葬畝傍山東北陵」(日本書紀)と書かれていますが、白岳から見ると東北、立花山から見ると北の方角に六所宮と言う神社があります。立花山の登山口から4~500mの所にある神社ですが、祭神は神武天皇とは直接関係はなさそうです。久山町山田にも六所宮があり、こちらとの関係が何かありそうです。神武東征の話は「古事記」「日本書紀」において筑紫の話を関西にまで広げているように感じます。実際に古文書だけでなく、吉野ヶ里で中が空の石棺が見つかったように、古文書の内容に合わせて地名や墓や寺なども移されているのではないかと危惧されます。  神武東征の時期については、魏志倭人伝に記載の「倭国乱」の時期だと考えています。「漢委奴国王」の印を下賜されたのが西暦57年で、その後「倭王帥升」が107に朝貢をしています。魏志倭人伝によると「其國本亦以男子爲王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歷年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼」の7~80年というところから、180年頃が東征の時期ではないかと考えています。また、「相攻伐歷年」何年も戦争状態が続いたと思われ、長く見積もって10年で計算すると、卑弥呼が共立されたのは、190年前後だと推察されます。卑弥呼は247年頃亡くなっているので、壹與と同じ13歳の年齢で女王になったと考えると、70歳くらいであったと思われます。倭国乱の期間を短く考えて、5年程度とすると75歳くらいだったのかもしれません。乱の後、神武天皇が橿日(橿原)の地に来ていたと考えられるので、卑弥呼も橿日に居たのではないでしょうか。
@user-gg1tl6jl3l
@user-gg1tl6jl3l 21 день назад
面白い考え方だと思うが、個人的には説得力はないかな。倭国大乱を東征と考える人は多いけど、日本神話ではアマテラスが最高神とされていて、アマテラスは卑弥呼が有力視されている。アマテラスから数代後が神武なのだから、卑弥呼より前に神武天皇が成立しているのは、明らかにおかしい。
@s-yo
@s-yo Месяц назад
もしかして吉備人が近畿に東征しただけかも…って考え方は無しかなぁ🤔💭
@user-hx3fb5ck4l
@user-hx3fb5ck4l Месяц назад
そもそも、 出雲を国譲りされたのに、降りて来た出発地点が日向なんかね。 貰ったとこに降りて来んのが不可解
@user-xk5jm2cg5o
@user-xk5jm2cg5o Месяц назад
ボイスロイドの制約が大きいのでしょうか 人名・神名の読みが気になります
@user-gz2ty9ob6j
@user-gz2ty9ob6j Месяц назад
神武天皇の兄弟の稲飯命は新羅に行き王になったと言う伝承があり、一方三国史記には新羅の第4代王昔脱解は倭国から来た倭人とあることから稲飯命は昔脱解ではないかと思われます。また新羅第10代王の将軍昔于老は倭国将軍武内宿禰と同時代とあり武内宿禰は西暦360年頃ですから、これから第4代王昔脱解は6代前で80年位前ですから西暦280年頃になり、そうすると神武天皇や稲飯命も西暦280年頃の人と思われます。西暦280年頃は邪馬台国の卑弥呼が亡くなり、北九州の邪馬台国が南九州の狗奴国に負けて九州から畿内に東遷した時期と思われますから神武天皇は東遷した邪馬台国の一族ではないでしょうか。また神武天皇は東遷の途中遠回りして北九州の岡田宮に寄っていて謎とされていますが邪馬台国の仲間の所に寄ったのではないでしょうか。
@user-kf6xc2lq6j
@user-kf6xc2lq6j Месяц назад
参考までに……かの津田左右吉は、 まず第1に『記紀』の神武天皇の日向つまり南九州からの東遷について、潤・脚色以上にその東遷自体の事実を、確かに否定していました。その内容は、戦後の著作『日本古典の研究(上)』(岩波書店)第2篇第6章「神武天皇東遷の物語」を参照の通りです。 しかし一方で、同著作第3篇第16章「ヒムカに於けるホノニニギの命からウガヤフキアエズの命までの物語」では、天孫ニニギの命の子であるヒコホホデミの命(別名、山幸彦)の大和東遷が伝承の原型であると述べていた。そして後世になり、ヒコホホデミの命から後に神武天皇と言われるイワレビコの命(別名、ヒコホホデミの命)が分離して、その間にウガヤフキアエズの命の伝承が造作・挿入されたと述べていた。 以上のことから津田は、神武天皇の東遷を否定していながら、後の大和王権(同朝廷)の祖先が南九州から畿内大和への東遷の伝承を最終的には否定しきれなかったと理解せざるを得なかった(そして大和王権の祖先そのものの実在もである)。 第2に、神武天皇から仲哀天皇までの特に開化天皇までの系譜については、同著作第2篇第7章「結語」で、「(前略)綏靖天皇から、開化天皇までの歴代に物語が一つも無いということはその歴代の天皇の存在を疑うべき、少なくとも強い根拠になりかねる(後略)」と述べていました。また津田全集第24巻471~472頁に掲載されている津田事件裁判控訴の上申書には「(前略)或る時期に於いて大いに皇威を伸長あそばれた英主、即ち神武天皇の御名によって後に伝えられました御方からの御歴代の天皇の御名はこのやうにして言い伝へられて来た(後略)」として神武天皇以降の実在を肯定している文章でした。 以上が私が通読して認識したことです。なお、津田全集第24巻は続田中卓著作集第4巻の268頁を参照したことをご了承下さい。
@user-kf6xc2lq6j
@user-kf6xc2lq6j Месяц назад
何度も乱入してすみません。 欠史八代系譜伝承の古さの根拠の一つとされている部分は、『日本書紀』の本文ではなく「一書」や「一云」という注で記載されている当該各代天皇の后妃の出自が、磯城(『古事記』では「師木」)県主、春日県主、十市県主というように『記紀』編纂時に権勢を誇っていないヤマトの土着豪族と記されていることである。 これに対して架空及び後世造作論者は「天武朝前後の時期の造作であり、それはそのころ壬申の乱を契機として勢力をえた当時の内廷・侍従家(自祖の県主県伝承)と天皇家との間に存在した密接な関係の反映」つまり欠史八代の后妃伝承は「古さ」を立証するものではなく天武朝期に、内廷・侍従家の自祖伝承を創作されたものであると反論している。これについて再反論するとしたら以下の2点となる。 1、天武朝前後に『記紀』につながる史書の編纂が行われていた当時の史料として、内廷・侍従家から欠史八代天皇の后妃婚姻伝承が「発見」されたのである。その後、編纂当局に提供されて分析後、欠史八代系譜伝承に組み込まれたと考えるべきこと。 2、例え欠史八代系譜伝承が7世紀後半から『記紀』成立直前に整理されたと仮定してもそのことで後世の造作と断定するのはナンセンスである。7世紀の編纂時に7世紀までの系譜伝承特に欠史八代伝承が漸次発見・集約されたと考えてもいいということ。 以上のことから、特に『紀』の注記載の后妃の出自伝承は、結局「古いもの」に変わりはなく、欠史八代系譜伝承自体はやはり古い伝承や史料を元に編纂されたものであり、初期ヤマト王権を理解するための史料としての価値は完全に否定はできないかもしれない。
@PonPon-nm6ec
@PonPon-nm6ec Месяц назад
まあ元ネタに現実にあった話があるとしたら元々いた場所(九州?)に敗走というか追放というかネガティブな理由でいられなくなって仕方なく東に向かわざる得なかったとかなんだろうな😢
@sean2540
@sean2540 Месяц назад
九州から近畿地方に影響を与えた証拠はないみたいなご意見ですが、鏡、剣、勾玉のいわゆる三種の神器は九州の影響でしょう。また庄内式土器、布留式土器も九州で発生したものという考えもあります。その理由として九州各地で大量の庄内式土器が出土しているからです。瀬戸内地方では出土量が多くなく、近畿地方と九州地方に多いのはどうしてでしょう。神武天皇のモデルになった人の時代が西暦280年~310年頃という考えには賛成です。おおむね290年頃と考えております。以上個人の妄想すみません。
@user-in2jy7ov6n
@user-in2jy7ov6n Месяц назад
神武、欠史八代、天武くらいが現皇室の系譜で崇峻~天智は別系統の王朝の歴史を取り込んだものだろう 神武も5~6世紀頃の人物だと思う。
@user-ok8fp5tm5h
@user-ok8fp5tm5h Месяц назад
神話として扱ってるから大雑把でも許されてるけど、真面目に考えるとツッコミどころしかないよなあ、と。難波辺りで戦った以降はある程度事実を元に書かれてるかもだけど、その前、日向から旅立って云々辺りは勢力圏の紹介を兼ねて話を膨らませるために盛ったような印象しかないです。
@user-sm5vs8rf3r
@user-sm5vs8rf3r Месяц назад
巻向遺跡が邪馬台国というのは無理がある。 あそこの古墳は前方後円墳ばかり、つまり古墳時代のものだ。 邪馬台国は明らかに弥生時代のものだ。 畿内説を取ると、弥生時代=古墳時代となり、どう考えても時代が合わない。 あそこの遺跡は弥生時代末期に神武天皇が宮崎県から東征して礎を置き、それ以降に古墳時代が始まったと考えるのが自然だ。 邪馬台国の中心は福岡県朝倉市の平塚川添遺跡と考えればすべて辻褄が合う。 あそこはモロに弥生末期の遺跡だ。
@user-ol2nw2hz9j
@user-ol2nw2hz9j Месяц назад
冒頭の神武天皇の年齢が記紀で逆に表示されていますよ。古事記が137歳。日本書紀が127歳が正しい。多分、神武東征年数が古事記が10年増やしたため年齢にずれが生じたと思う。
@bobuGsan
@bobuGsan Месяц назад
登美長脛彦は明らかに出雲系の名前であるところから、饒速日も天津神ではなく国津神の系統で近畿は出雲王朝圏だったのだろう。 実際に新撰姓氏録では饒速日は天神ではないとしている。 高倉下はエピソードからすると天孫系と思われるが、先代旧事本紀では饒速日の子の天香具山命の子孫としている。 記紀ではあまり語られていない饒速日を天津神に仕立て同郷を演出していることに、神武の出自の怪しさ、存在の怪しさを感じる。 それは東征の中に謀略というか騙し討ちのような話が多く、弱小勢力の成り上がりを思わせることに通じるものがある。
@user-kf6xc2lq6j
@user-kf6xc2lq6j Месяц назад
そしてまた欠史八代系譜伝承を参考にして日本古代社会像の構築つまり、当該各代天皇が実在したとして、または当該系譜伝承の核心を史実としたらどのような古代社会が復元できるかを試みた著作は、戦後は全く見られないに等しい。そして一方で戦前に著された以下の2著があります。 1、太田亮(あきら)『日本古代史新研究』 磯部甲陽堂 昭和3(1928)年 2、松岡静雄『大和缺史時代(紀記論究建国篇第二)』 同文館 昭和6(1931)年 上記の2著作の内、松岡静雄氏の著作が一冊全てを使って論述しており、松岡氏の当該著作が唯一充実しています。 しかし太田亮氏の著作にも欠史八代を取り上げている「篇」もある。そしてその冒頭には「(前略)この期間程重要な時代は一寸ないと思ふ。中央政府の基礎の定まったのも我が版図が海岸を伝わって少なくも常陸辺に及んだのも、シナ本土へ直接使節を発したのも皆この時代と云ってもよかろう。また三韓との交通もかなり盛んだったのであろうと思われるのである。従ってこの期間だけでも優に大冊をなすべき研究を要する(後略)」と記述されていたことは実に興味深かった。 なお太田氏は『全訂日本上代社会組織の研究(邦光書房)』を昭和三十(1955)年に著すなど、日本古代氏族制度研究の代表的人物です。 ちなみに、以上の2著は、「日本の古本屋」か国立国会図書館デジタルコレクションで購入または複写ができると思います。
@user-gg1tl6jl3l
@user-gg1tl6jl3l 23 дня назад
畿内説と神武東征(280~310)には矛盾はないと思う。卑弥呼の時代から不安定で抗争が続いていたのが当時の日本。卑弥呼の死後、邪馬台国勢力が弱まり、奈良周辺も敵に奪われていた時に、神武系勢力が登場して、旧邪馬台国勢力と同盟を結んで奈良周辺を奪い返して王朝を立てただけやと思う。
@metabo850mm
@metabo850mm Месяц назад
北九州勢力は新羅の陣営に繋がっていたが、畿内勢力は美那任や百済の陣営に繋がっていた。磐井の乱は日本国内の勢力争いであると同時に代理戦争でもあった。九州勢力の方が東アジアの政治状況を把握していたのだろうが、畿内勢力が勝ってしまった。 新羅と唐が東アジアの覇権を握る時代に大和政権は外交の必要性を理解した。実は私達の先祖は九州勢力でしたと言う話を創る必要があったのではないか? と考えている。
@b.m.fujioka4530
@b.m.fujioka4530 27 дней назад
四国が無視されてるから不自然 四国を拠点として安芸、吉備と連携してからの東征だということ 熊野へも阿波からなら問題ない 問題は何故記紀は四国を無視しているのかと言うこと
@user-kf6xc2lq6j
@user-kf6xc2lq6j Месяц назад
いわゆる欠史八代について、系譜伝承と后妃およびその出身豪族と皇子を祖とする氏族名そして各代の宮城(皇居)と陵墓という『帝紀』的記事しか無いため架空だけではなく研究の参考にする価値もないという考えが日本古代史学界と在野研究で常識となっている。 しかしながら、裏を返せばその『帝紀』的記事も「残っている」、それらも「記されている」という考えも出てくるべきである。
@user-kf6xc2lq6j
@user-kf6xc2lq6j Месяц назад
神武天皇は、実在を立証するのは困難とされるが、架空を立証するのは実在を立証する以上に困難とされている。だから、「架空」が確実に立証されない限り、「実在」を前提に歴史を語らなければならない。 ただ今日の日本古代史研究の基本となっている津田左右吉説について、津田は神武天皇の架空を立証したとされているが、これは誤解だ。それは津田左右吉全集第24巻471~472頁に掲載されている津田事件裁判控訴の上申書には「(前略)或る時期に於いて大いに皇威を伸長あそばれた英主、即ち神武天皇の御名によって後に伝えられました御方からの御歴代の天皇の御名はこのやうにして言い伝へられて来た(後略)」として神武天皇以降の実在を肯定している文章だった。
@user-su3ej6qg2h
@user-su3ej6qg2h Месяц назад
神武東征や邪馬台国について考える際には、考古学を基礎としつつも紀記、中国文献と民間伝承、神話など文献学や民俗、神話学を切捨てるか、どこまで活用するかで大きく姿勢が変わる。さらに、近年脚光を浴びる炭素14年代法と年輪年代法の信頼性という厄介な問題が生じる。  考古学の成果だけ認めるのであれば、箸墓、纏向遺跡、纏向古墳群だけに特化し、大和王権は三輪山あたりに生じた勢力であるとしかいえず、それもせいぜい3世紀末から4世紀であるので、紀記の崇神朝と大きく変わらないこととなって皆納得していた。ところが、歴博や橿考研の炭素14年代法、奈良文化財研究所の光谷拓実氏などがこれらの遺跡を大きく遡らせる成果を大々的に出すものだから混乱が生じた。(橿考古研については、内部で反対意見もあったのに)  つまり、大昔にあった邪馬台国論争で大和説の京大系考古学研究者を中心にこれらの成果をもとに、纏向古墳群の始まりを2世紀に設定し、箸墓や纏向遺跡を卑弥呼と結びつける論理が優先されたのである。(京大本体は決して断定しないが)  一方、伝統的に文献も考慮する東大はエリートなので、もう永遠に決着つかない邪馬台国論争など相手にしていないのである。(現在東大考古学は教授不在、前教授は歴博出なので微妙な立場でノーコメント)  このあたりの経緯は、帝塚山考古学研究所の社会人講座シリーズの考古学から見た邪馬台国のRU-vid 番組における関川尚功氏の解説やネット記事「炭素14年代法と邪馬台国論争ー年輪年代法との連動を通して」(鷲崎弘明)見ればわかる。技術的なことはわからないが、法隆寺木材の研究から年輪年代法は古代遺跡では100年はサバ読み。開発推進者の光谷氏が科学的基礎データ出さないので ブラックボックス化し開示訴訟になっている。(退職まで出さないとか)  また、歴博や橿考研は予算握っているので対象遺跡選べるとか。関川尚功氏や坂靖は橿考研にいながらも邪馬台国大和説に反対、特に関川氏は纏向関係は4世紀半ばとしていて、邪馬台国の会を主宰する安本美典氏に近い。安本美典氏は情報考古学の新井新井宏氏の炭素14年代法が論拠になっているが、専門的でよくわからない。関川氏は橿考研の石野博信氏に対立。また、寺澤薫氏は中立装っているが、関川氏に対抗して著作を出している。関川氏は考古学者の限界認めつつ、陵墓や都城は文献学者の範囲としている。上牧町教育委員会で葛城方面の研究していることから、孝霊天皇陵にも注目?(帝塚山考古学社会人別講座)  安本学説は邪馬台国の会のネット見ればよくわかり、欠史八代を基本的に認める立場。崇神までの大和政権の大和統一までを磯城氏や葛城国造など外戚通して推定するなど注目に値する記事も多い。だが、あくまで安本氏に近い人達の集まりで学術的に権威性が疑問。また、神話のアマテラスを卑弥呼になぞらえる結果、神武東征を3世紀後半にもってきている。(関川氏と同じく崇神陵を現比定陵でいいとして崇神を4世紀半ば)  一方、日本系図学会主宰する宝賀寿男氏は当初、安本氏に賛同していたが、豪族系図研究から欠史八代の兄弟相続を想定し、神武東征を100年早めた。成務天皇や倭の五王、朝鮮事情考えると妥当とも思えるが、少し出来過ぎの感じ。また、崇神陵を西殿岡古墳にしているのも少し疑問。宝賀説は古田史学の会のネットみると出てくることが多い。(古田史学が古田氏の暴走とアマチュア論文多いらしいが)  その他、神武や欠史認める研究者で一応大学所属の人には関大講師の岩井敏明やデータサイエンス学者の大阪電通大、高見友幸氏がいる。高見氏は日本書紀の4世紀以降紀年復元試みた笠井倭人氏の説を3世紀まで広げて神武東征を250年頃としている。  個人的には、やはり纏向古墳群周辺の被葬者の研究が進めばいいと思っています。これらの古墳はやはりせいぜい3世紀後半以降、箸墓、ホケノ山、黒塚などは4世紀と思うが、特に先行する石塚や勝山で埋葬施設が見当たらない?(勝山はレーザーでとか聞いたが不明?)それなら目的は、単なる試作品か。紀記信じるなら真の神武陵?の可能性もある伝丸山宮趾や孝霊、孝元陵から考えて、辻褄合わせなら改葬や妃や娘の実家の勢力圏の墓かなとも考えるが?  いずれにせよ、あまりこじつけると推理小説になるが、それにしても、曖昧な炭素14年代法や年輪年代法根拠の強引な邪馬台国大和説は行き過ぎな気がします。
@user-jf5un8fy5e
@user-jf5un8fy5e Месяц назад
まず東征という事実があったとはとても思えない、全く痕跡がないからね。 それに記述でも実質河内湖での戦いでは神武群馬の大敗が描かれているでしょう。 そもそも生駒すら越えれなかった軍勢が、遥かに険しい紀伊半島を越える事なんて不可能な話なのは誰でも判る。 実際は紀伊半島の内乱を誘発してヤマトの権力を握った一族の話が神武東征の実態でしょう。
@tktd3219
@tktd3219 Месяц назад
この手ので話で何が正しくて何が間違っていても自分の人生に何にも影響しないのがおもしろい なのにやたらと八咫烏が〜とか偽物華頂宮とか、偽物土御門とかをもてはやす都市伝説系の再生稼ぎユーチューバーがおて笑える
@user-od7uk5nq7t
@user-od7uk5nq7t Месяц назад
古代の地政学から考察すると神武東征で古文書に記録がある事になっているのは九州南部から北部、そして瀬戸内海を山陽地域に寄りながらである。なぜ、神武東征は四国に寄らず、日本海側へ行かなかったのか?さらには九州南部の西岸も手付かずである。 これは何か記録の改ざんと忖度が働いていると考えるべきである。日本列島は神武東征が行われる遥か以前に鬼界カルデラ噴火が決定的災害として起き、西日本全体で過疎化したと考古学上では現時点で確認されている。それまで西日本にも居住していた縄文人は東日本へ退避し、定住化した。時は流れても西日本は様々な災害続きであることから、縄文人は定住を求めずにいた。そこに渡海して来た者達がいたのである。 渡海の理由と要因は中華の途絶えない戦乱による人々の流出である。 そのいわゆる難民がキャンプの段階から集落、村へと規模を大きくしていくにつれ、渡海して来る中華からの逃亡者は増えていく。そしてその動向を危機感を抱いて注視していた縄文人達がいたのである。中華では長年に渡って領土を奪い合う争いを続ける。ならば我々のところに来ても同じ事をし始めるのではないかと。それは空想に留まらず、同じ渡来人同士で争いを繰り返し始めたのだ。一万年を超えた平和を維持し続けていた縄文人に衝撃的な他民族の脅威を目の当たりにしたと考える。 東日本側は有力国を中心に西日本の戦乱に対抗すべく前線基地を過疎地の中間地点、緩衝地帯と出来る畿内に置いた。この時にすでに島根、長崎、熊本、宮崎には縄文人勢力下にすべく配置を完了していた。この時点で四国にも渡来人の入植は行われていたが、九州北部や山陽地域とは違っていた。四国に渡った人々は日本列島に渡海した後、渡来人同士の争いを避けたか敗けた者達であったがために、東日本側の使者にも従順な姿勢を見せた。だからこそ四国の古文書の記述が無い。特記すべき事がないからである。 いや、本当はあったのだが縄文人には理解出来なかったと云うのが真実であると推測する。これにより九州北部への東日本側の鎮圧軍は安易に九州南部へと移動する事が可能となる。
@user-ez8jx5bv6k
@user-ez8jx5bv6k Месяц назад
紫外線…オゾンホールや重力の影響を受けて無かったんじゃないかな? 神話の時代の人てやたら長寿だし。
@masamasaict7312
@masamasaict7312 Месяц назад
東征した理由を掘り下げてよ。客観的に。神武東征は極南界に暴れん坊がいたので日向から逃げた。
@user-dk4k5skii7
@user-dk4k5skii7 Месяц назад
王権ができたのが4世紀初頭。 東征はたんなるファンタジー。  歴史として語るのやめましょう。お隣みたいで恥ずかしい
@yskztkhs7986
@yskztkhs7986 8 дней назад
勝手にファンタジーに仕立てるのはやめましょう。人として恥ずかしいです。
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