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【千日前怪談②】大阪・千日前という土地の因縁を中山市朗先生が語ります【忌み地】【処刑地】 

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動画ディレクター:KIO
メイク&衣装:カシマレイコ
サムネイル:nico2 design
制作デスク:三木彩子
特別協力:平井祥之、萱原玲
代表:小柳大侍
#オカルト#オカルトエンタメ大学

Опубликовано:

 

14 окт 2024

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Комментарии : 45   
@ホール大津
@ホール大津 2 месяца назад
もう怪談を通り越して歴史の勉強になってる
@大ノ介-w9f
@大ノ介-w9f 2 месяца назад
中山市朗先生の怪談話は、聴くと気持ちが落ち着くんですよね〜 不思議です。
@user-beishikatsura
@user-beishikatsura 2 месяца назад
怪談を軸にして語られる大阪史。 これぞまさに、中山先生の真骨頂!
@裕賀-n9t
@裕賀-n9t 2 месяца назад
中山先生の怪談は読経と同じ…ストンと腑に落ちました。ただのお化け話ではなく、必ずその土地の歴史や成り立ちについて語って下さるので毎回味わい深く聴かせて頂いてます。
@松本メミリー
@松本メミリー 2 месяца назад
鹿児島市出身東京を経て、神戸市に住んで17年経ちましたが 関西はそれぞれの 歴史や言われ等、興味深いです。
@midgenasia
@midgenasia 2 месяца назад
怪談も語り方によっては弔いになると……いいお話しでした。ありがとうございました。
@後町知子
@後町知子 2 месяца назад
中山先生のお話を聴きながら 亡くなった方達も ほんとに熱かったんだよって 訴えたんですね 中山先生の話は聴き終わると ちょっと切なくなります
@paguneko
@paguneko 2 месяца назад
中山先生のお話は本当に心に染みます。私は戦争談などは祖父母からしか聴いた世代ですが、どんどん薄れていく歴史のお話を怪談として語り伝えるというのは素晴らしいと思います。自分は子供に少しでも伝えていけたらいいなと思っています。ありがとうございました。
@yr5136
@yr5136 2 месяца назад
最近になって中山先生の配信で難波は墓場で忌み地だったと知りました 学生時代に大阪に遊びに行くと梅田はそうでもないんですが、ミナミ(難波付近)に行くとなんかテンションが下がって疲れるというか自分には合わないなぁという感覚がありました 梅田も墓地があったので気のせいかも知れませんが。。
@yoshihiro7135
@yoshihiro7135 2 месяца назад
こんばんは。 私は、高校を卒業するまで、関西に住んでいました。 五十歳を前に、自分が育った地域、地方について、少しずつ知ろうと、こうした動画で勉強させて頂いています。
@KENKENKAICHO
@KENKENKAICHO 2 месяца назад
お疲れ様でした(^^) 千日前と呼ばれるきっかけは、北野誠さんのお話しでなんとなく解っていましたが、中山先生のご解説でより深く解りました ありがとうございます 六代目・笑福亭松鶴師匠のお得意で「らくだ」が有りますが、オチに「千日前の火屋」がてできます そのオチが解ったのは人生をずいぶん経験してからでしたね 立川談志師匠は「火屋」の意味を知らない若い世代にが多いからとオチを変えたということも聞いたことがあります 自分が若い頃、30年ほど前はチャリンコで難波新地へ毎晩のように飲みに行ってました それと、それが縁でバイトでカウンターにも入ってたけど、千日前は何度通っても落ち着かなかったのを憶えてます
@lumiere4250
@lumiere4250 2 месяца назад
中山先生の怪談って聞きたくなります。話し方なのかな、聞き心地が良くて、癒される感じです。☺
@mao200106
@mao200106 2 месяца назад
今日の中山先生のお話を聞いて、中山先生がされているお話は、耳なし芳一と同じことをされているのかな〜。と、思いました。お坊さんが御供養とおっしゃるのがよくわかります。耳なし法一の琵琶語りも供養だったわけですし、現代の供養の語りということですね。私はこの千日前のお話は中山先生のお話で何回か聞いておりますが、今回の1、2(続けて見ました)では、耳鳴りの後寒気がしていましたので、あら来ているのだな。と思い、自分は何もできないことを伝えました。幸せに生まれ変わって下さったら嬉しいと思います。ありがとうございました。
@sanae-c7p
@sanae-c7p 2 месяца назад
中山先生❤安定した語りで何回もリピして聴いてます🎉
@みろく-y4y
@みろく-y4y 2 месяца назад
中山先生、千日前の話しありがとうございます。 話しは、違いますが、大阪城付近、森之宮辺りの、隠れキリシタンの話し有りましたら配信お願いします🙏🏾➕ 以前森之宮辺り有る介護施設で、トンデモナイ😰霊現象が起こる話し聴いたことがあります。ご存知でしたらお願い🙏いたします。
@emmi0819
@emmi0819 2 месяца назад
中堅層や若手の怪談家さんたち、芝居がかったような語り口で、まぁ上手いのかな?と思うこともありますが、中山先生の膨大な知識や深い洞察に裏打ちされたお話は、変にドラマチックな語り口にならなくても心に響きます。本当に、しみじみ考え込んで聴き入ってしまうので、睡眠導入にならないのです😅
@chimoneka
@chimoneka 2 месяца назад
人の死を面白がっている訳ではなく、むしろ冥福を祈っていると思う。
@teddynicks513
@teddynicks513 2 месяца назад
中山先生の千日前談義はいつもしみるねぇ〜😭🤗夏にふさわしいシリーズありがとうございます💕
@kitano1tea
@kitano1tea 2 месяца назад
これが本当の大学の講義ですね!
@hiro-kichi517
@hiro-kichi517 2 месяца назад
キタもミナミも大国町も忌み地が多いですよね・・・・・。旭区出身です。
@user-um7no9tv9m
@user-um7no9tv9m 2 месяца назад
過去にあった出来事を語ることが、そこで命を落とした方々の「慰め」になるのかもしれませんね…「私たちのことを忘れないでね」と言っているような…合掌
@mikiono1126
@mikiono1126 Месяц назад
会場が暑くなったと言う話。私はその場には行ってませんが、中山先生の話を聞いていると、きっと火災や空襲で亡くなられた人が「忘れないでくれ」と言っているのかなと思いました。
@シバタトシオ-m4z
@シバタトシオ-m4z 2 месяца назад
故人の法事の**回忌も、お経だけでなく、故人を思い出して 話をしてあげることが供養になるようですから。
@yongsu4956
@yongsu4956 2 месяца назад
怪談会での千日前について語ってた時の、会場が10月なのに異常に暑くなったという話。会場に、身体の焼け焦げた方々がたくさんいる情景を思い浮かべたのは私だけでしょうか。
@rokumatsu
@rokumatsu 2 месяца назад
怪談は怪談。人がいっぱい死んだ広島でも今でも人はいっぱい暮らしています。生まれた数だけ人は死ぬ。大きな病院では毎日のように人が死ぬ。土地に意味を擦り付けるのは人間の想像力の産物です。あくまでもエンターテイメントとして楽しむことが大事が大事だと思います。
@夕闇-z3u
@夕闇-z3u 2 месяца назад
千日刑場での斬首については具体的な文献を基として市史編纂所に聞いたことがあります。佐古慶三氏『古板大坂地図集成に就いて』の「(道頓堀)刑場但斬罪も行之」(46頁)という記述についてという標題にて その際の回答が 「地方覚書 八田本」を根拠とした佐古氏のこの記述について、大阪市史編纂所でも気づいていませんでしたが、よくお見つけになられたと思います。現在のところ、千日刑場での刑の執行については、佐古氏のこの説と、藤井嘉雄氏の「千日刑場(間口一八間・奥行九間)においては獄門刑のみを執行した。つまり、罪人を松屋町牢屋敷内で斬首し、その刑首をここで晒〔肆〕した」(『大坂町奉行と刑罰』117ページ)という、異なる2つの説があるということになります。両者のこの記述だけでは、どちらが正しいのかはわかりません。 なお、両者の根拠とする史料をご自身で分析した上で、どういう根拠に基づき、どちらの説を採るのか、或いは、史料の厳密な分析に基づいた上で合理的な他の説を立てるのか、それを決めるのは研究活動です。○×さん自身が行なうべき史料の調査と史料の分析であり、質問されましても、大阪市史編纂所としては、そこまでは回答できません。とのことです。 また、大坂の陣の死者を千日墓地に埋葬したと記した記録・史料の有無についての質問についても、回答では、不明です。現在、大阪市史編纂所で把握している限り、「大坂の陣の死者を千日墓所に埋葬した」ことを示す史料は、確認されておりません。とのことでした。
@夕闇-z3u
@夕闇-z3u 2 месяца назад
『江戸時代におけるキリシタンへの迫害について』も同所に質問し、以前に回答を頂戴したものがあります 近世初期、キリシタン弾圧が最も激しかった元和期~寛永期(『国史大事典』第4巻427頁)については、『新修大坂市史』第3巻234頁に「『耶蘇天誅記前録』には、寛永年中、島田・久貝の両町奉行が大坂町中を調べ、キリシタンを糺明のうえことごとく火あぶりにしたとある」と記されていますが、その処刑場所は判明しません。 また、近世後期の文政12年(1829)に、京都・大坂でキリシタンの嫌疑を掛けられた6名(豊田貢・きぬ・さの・伊良子屋桂蔵・顕蔵・高見屋平蔵)が逮捕・処刑される事件(邪宗門一件、内3人は病死)が起こりました(『大阪編年史』第16巻 435~441頁)。彼らについては、実際はキリシタンではなかったとみられています。当時、幕府内にも豊田貢らが「真の切支丹と認むべきや。甚だ覚束成し」という意見もあったのですが、「評議の趣一応は理あれど、今更吟味を仕直し、切支丹に非ずとして取扱はゞ、却て世上の疑を晴し難く、御制禁の弛ともなるべければ、掛り見込の如く、切支丹と定めて御仕置当并に類族取計方を評議上申すべし」との決定がなされました(『大阪市史』第2巻 207頁)。豊田貢らはキリシタンではないとみられるが、それだと「世上の疑を晴し難く、御制禁の弛ともなる」ため、キリシタンということにされて、処刑されています。この事件については、「十二月五日に行われたみつぎらの処刑は、市中引廻しの上、鳶田の刑場で磔にされ」たことが判明しています(『大塩平八郎の乱』中公新書 68頁)。 近世前期の大坂でのキリシタン迫害の場所は不明であり、近世後期の事件(キリシタンではないとみられるがキリシタンということにされて処刑された一件)では、鳶田刑場が使われています。文献・史料には以上の記述がありますが、千日刑場とキリシタン迫害の関連については、判明しませんでした。とのことですが、さらに突っ込んで質問した内容に対する回答では、『堺市史』第3巻は、「切支丹始末記」「吉利支丹物語」を典拠に記述されていますが、『新修大阪市史』第3巻は「耶蘇天誅記前録」を典拠としております。典拠が異なっている上、両者とも個別具体的な事例を挙げている訳ではないため、寛永年中のキリシタン弾圧の記述ではあっても、『堺市史』と『新修大阪市史』が同一の事件を取り上げたものなのかどうかという点は、判明しません。『新修大阪市史』にキリシタン処刑の場所が書かれていない以上、そこに『堺市史』に書かれている「城の馬場」を結びつけることには、慎重でなければなりません。 寛永年間は、残されている史料が少なく、分かっていない部分が多い時代です。大阪市史編纂所の調査研究でも、まだまだ判明していない内容が多くあります。寛永期大坂のキリシタン弾圧について、もし○×様の方で新しい史料などを発見されましたら、ぜひ編纂所までお知らせください。
@夕闇-z3u
@夕闇-z3u 2 месяца назад
大坂夏の陣後の大坂の復興事業で、『新修 大阪市史 第三巻』のP334?では、この寺町の創設と墓地の移転に関する時期については、従来、松平忠明による町割と関連付けて理解されていたが(大阪市史1)、近年の研究によると忠明が大和国郡山に移り、大坂が幕府の直轄地となった元和五年七月以後のことと考える方が妥当であろうとする新しい研究もあります。(中部よし子先生「近世都市大坂の確立」、内田九州男先生「大坂三郷の成立」) P336には、寺院や墓地の移転・統合は、将来の町の発展を予測したものである。あるいは、軍事上の見地から有事のとき集結した軍兵の駐泊施設や外部から大坂へ侵入しようとする敵への障害物として、いずれも大坂城を守る位置に定められたものであるともいわれている。としています。千日前や道頓堀についての資料、たとえば、周辺の名水についての資料は古地図をもとにしたものを中心にまだまだありますが…みかつの墓や奴塚の行方などについても
@夕闇-z3u
@夕闇-z3u 2 месяца назад
大坂三郷の成立および諸制度や役職、著名寺社の移転、宗門制度の由来、変遷を記した.『大坂濫觴(らんしょう)書一件』では、元和五年二月幕府が大坂両奉行を任じたことを記した箇条の次に墓所を下難波村の墓所へ寄せあつめたと記され、これを根拠として難波村墓所の移転時期と理解している方もおおいが、元和五年二月には、未だ大坂は幕府直轄領になっておらず、嶋田・久貝両奉行が任命を受けたのは九月なので、この点で大坂濫觴(らんしょう)書一件の記述はおかしいと 『難波村戸長文書』によると延宝五(1677)年から57,8年以前にあたる元和五、六年頃、大坂両町奉行が命じて大坂市中の墓所は下難波村の荒地に移したことは確かであると…両奉行が命じてということなので、墓所の移転時期は大坂が幕府の直轄領になってからということに
@glsw60botw
@glsw60botw 2 месяца назад
千日前にまつわる歴史の話は学校教育でも教えればいいのにと思います。千日デパート火災に起因する様々な逸話は怖くまた本当に悲しくかわいそうでなりません
@yamaumito
@yamaumito 2 месяца назад
私、豊臣秀頼を見ましたよ大阪城の下で、凄く大きな男で、一点をジィーと見ていたので、何を見ているのかと行って見ると、そこには自分が切腹をした所なのだ、あ~この様な所にあったとは、今は立派な祠みたいな物が立っているけど、前はちっぽけな祠でしたよ、それに立派な体格でしたよ秀頼さんは、400年たっても今だに未練か何かあるのかな。
@shibo749
@shibo749 2 месяца назад
小橋は今もある地名で「おばせ」と読みますね。
@本願院日西
@本願院日西 Месяц назад
6:45 三津寺は「みついでら」じゃなくて「みってら(みつてら)」ですしね。みってらすじの三津寺。大丈夫かいなこの人😅
@shiraga0516
@shiraga0516 Месяц назад
何か起きると言うても、ちょっと驚かせるぐらい。知ってる人なら「千日前やから」で済ませられるぐらい。その程度やったら、そのままにしておいた方がええ、なんてこともあるんかも知れませんね。
@fishoyasai4672
@fishoyasai4672 2 месяца назад
初めて知った時は火にまつわるいわくがつきまとってることにゾッとしました。
@ももやん-d2f
@ももやん-d2f 2 месяца назад
やった🎉🎉🎉
@白坂稔-u8j
@白坂稔-u8j 18 часов назад
昨今死者への配慮?お悔やみなどない心霊系の方々は多いと思います。大体そういった方へのコメントもがさつな割合が多い気もしますが、 中山氏のような怪談しといえる方々は、非常に少なくなってきてると思います。若い怪談しにも伝わってくれればと思います。
@黒山寝言
@黒山寝言 2 месяца назад
真田幸村も、ここで一応終焉されてます、よね🤔淀君もかな…色々強キャラの念は残っていそう 「のぼうの城」のモデルになった成田家の姫君甲斐姫は生還したんだったかな🤔 7:27 いや、お化け屋敷でしか見ることの無いラインナップ😱 そこに生きる大阪人の不屈の精神のシンボルみたいな場所だわ千日前😳
@yoyoyonozoo
@yoyoyonozoo 2 месяца назад
吉本の発祥は天満の第二文芸館(後の天満花月)だと思いますよ。
@熱海ムチウチ
@熱海ムチウチ 2 месяца назад
「死屍累々(ししるいるい)」ですよ ディレクターがちゃんと指摘して差し上げないと、演者が恥をかいてしまいます
@user-beishikatsura
@user-beishikatsura 2 месяца назад
四文字熟語としては「死屍累々」ですが、「屍が累々としていた」という言葉は、日本語として決して間違ってはいないと思います。
@sm06131
@sm06131 2 месяца назад
この世代の人で死屍累々が読めない人はいないと思います。講義などで先生が文章表記のない言葉を使用するとき、訓読みを混ぜて漢字の意味を説明をするのは、よくある光景ではないですか?シシ、と発音で聞くよりシカバネと言われた方が意味がすっと通じるでしょう?若い先生はあまり使わないでしょうかね。
@五十郎茅渟の海
@五十郎茅渟の海 2 месяца назад
先に謝ります。 千日前の霊の噂が少なくなっているということは空に穴が空いている可能性があるのでは? 空から変なものが落ちてくることの対策も必要かも? 変なこと言ってごめんなさい🙏
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