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【古代史探索の旅Ⅱ】第5話 邪馬台国・畿内説を考古学的裏付けをもとに否定します 

これはどうでしょう
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最近時の考古学的研究結果から考えると、纏向に邪馬台国があったことは否定せざるを得ません。
今回参考にさせて頂いた本は、坂 靖(ばんやすし)氏が今年出版された「ヤマト王権の古代学」(新泉社)です。
9分辺りで解説している平原王墓を指している位置が佐賀県になっています。
正しくはもう少し右の位置です。お詫びします。

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7 сен 2024

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Комментарии : 441   
@masarunagainagais
@masarunagainagais 3 года назад
論理的な考察で大変解りやすいと思います。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
ありがとうございます。 そう言って頂けるととても嬉しいです。
@user-hr9yi6ix7r
@user-hr9yi6ix7r 2 года назад
拝見して、九州説の主張をする人が純粋に「魏志倭人伝に書かれている邪馬台国はどこにあったか?」という問いに答えようとしているのに対して、畿内説を主張する人は「(邪馬台国とヤマト王朝を同一視した上で?)当時の日本の中心はどこにあったか?」という問いに答えようとしてしまっているような印象を持ちました。畿内に大きな国(?)があったことは間違いないのでしょうけど、論点は「では、畿内にあったその大きな国は、魏志倭人伝に書かれている邪馬台国か」だけなんですよね。私のようなど素人からすると、「魏志倭人伝に書かれている邪馬台国が九州にあったとしても、纏向遺跡の価値は1ミリたりとも否定されないんだから、魏志倭人伝の記述を無視してまで邪馬台国に固執しなくてもいいじゃん」と思ってしまいます。笑
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 2 года назад
鋭いご指摘、全く同感です。 😉👍️🎶
@shinzaemongolf6753
@shinzaemongolf6753 Год назад
左翼が天皇が中国皇帝に朝貢してたことにしたいだけですよ。 実際は北部九州の王朝が朝鮮半島の利権や熊襲や大和王朝に対抗する為に朝貢してたなすぎず、天皇家とはほぼ関係ない。と思います笑
@user-ix1js8mw2q
@user-ix1js8mw2q 4 месяца назад
明らかに国策で奈良平野に邪馬台国もヤマト王権も全てあったという古代日本国家の始まりを3世紀に統一したい国の方針だから。ゆえに宮内庁も都合が悪い天皇古墳の発掘をさせないという方針。実に残念な地方蔑視の古代史観である。毎年莫大な発掘予算が奈良平野に注ぎ込んでいる現状。残念。
@user-uf9jf4ko1b
@user-uf9jf4ko1b 6 дней назад
面白いです、文献から想像するのは自由で面白いです。真実はタイムマシンで2700年過去に戻らないとわかりません。合理的に考えると金印が出てきた場所付近でしょ。アメリカの友人でこの邪馬台国を研究している研究者がいました。話を聞いてあげると「The land of Hyuga facing the Pacific Ocean coordinate:32°07'13.1"N 131°23'04.3"E」と解説していました。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 6 дней назад
ありがとうございます。 アメリカの方でも興味がある方がいらっしゃるんですね。 最近は日本の縄文時代が脚光を浴びてるような紹介もよく目にします。
@user-kz8wk6mn3y
@user-kz8wk6mn3y Месяц назад
邪馬台国は纏向を中心とする地域にありました。邪馬台国はヤマトと発音し、奈良にありました。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b Месяц назад
反論?とお見受けしますが、根拠なき論は伝わりません。
@user-ho6lv4ld8c
@user-ho6lv4ld8c 3 года назад
過日、群馬の歴史博物館に行ってきました。特別展で綿引観音山古墳の出土品を見てきました。例の「水瓶」など大和朝廷手をへてないようで独自の外交戦略を持ちそれを展開しうる力を持っていたことを実感しました。以前アップされていた都督楼なども、「戦後皇国史観」では大和朝廷の出先機関とされていますが、唐新羅の「進駐軍本部」のようですね。私もアマチュアなのでファンタジーでいいと思いますが、東大、京大の大ボス、中ボス、子ボスへの忖度を見ているとちょっと白けた気分になりますね。九州年号の観点からも今回のご主張は全く妥当だと思います。また楽しみにしております。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
観音山古墳、私も行きました、と言おうとして資料を出してみたら、同じ高崎の観音塚古墳でした(笑)。 この辺り、上野国の古代は特別な発展をしたと思える遺物がたくさん出ますね。興味深いです。 以前に「関東王国・・・」とか言われて盛り上がった時期もありました。 私は古代史マニアではありますが、ここまで言ってしまったので、”小ボス”あたりから反撃来るかもしれませんね。楽しみですが・・・(笑)。
@user-pc9qb4vw7i
@user-pc9qb4vw7i 3 месяца назад
良いですね♪ 私も貴方と同年代で、ほぼ似たように此処10年程で古代史にハマり箸墓古墳も吉野ケ里も訪れていますが、 貴方の様に動画を製作し公表する迄には到底至っておりません。 敬服いたします! 処で、今回の邪馬台国近畿説否定、私も同感です。 私の場合、否定の論拠は至って単純♬ ・三世紀辺りの倭国、人口が集中し騒乱の中心でもあり、且つ大陸側との交易を統率する一大卒が置かれていたのは北部九州。 ・北部九州とヤマト纏向では距離が離れすぎていて、纏向からのコントロールは不可能。 ・河内湖から船を仕立て瀬戸内海を航行するのも潮流が激しすぎ、三世紀の船では困難必至。頻繁な意思疎通は無理ですね。 …っと云う事で、やはり九州北部の何処かに邪馬台国は有った。 っと思っています。 それにしても、貴方の動画。 イヤハヤ何とも、敬服いたします!
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 месяца назад
私も同感です。 仮に箸墓が卑弥呼・台与の時代だとしたら、その頃の邪馬台国に悠長に大古墳を造っている余裕はありません。 狗奴国との戦時中ですからね。
@user-it6vh4dy9t
@user-it6vh4dy9t 3 года назад
とても興味深く拝見しました。松本清張の本を読んでから、色々な見方があって当たり前だと考えています。 物凄く楽しいです。しかも現地取材!温度が違いますね。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
古代の情景を想いながら旅すると楽しいです。 ただ、今は自由に行けないので、スレッド管理者になってます(笑)。
@kenjitakeishi1130
@kenjitakeishi1130 2 года назад
清張はGHQの言いなりになり、嘘を広めたただのおっさんですよ。
@user-yo8bt8dw9i
@user-yo8bt8dw9i 6 месяцев назад
邪馬台国論争は単なる学者の利権。あの時代に、わざわざ畿内までくる利得がどこにある。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 5 месяцев назад
あの時代の纏向に中国と交易していた痕跡は皆無です。 学者さん達は本音のところでどうお考えなんでしょうね(笑)。
@user-jf5un8fy5e
@user-jf5un8fy5e 28 дней назад
ありますよ、水銀朱の山が宇陀や伊勢にはありますからね。 それに利権なら九州説の方にも同じ事がいえますよ。そもそもこの動画を見ても畿内説の捉え方が基本的におかしいですね。魏志倭人伝における邪馬台国の条件とは投馬国より遠方にある七万戸の国である事、それに鬼道の痕跡がある事につきます。 そんな場所は沢山神獣鏡が出土する畿内周辺しかありませんね。
@user-dr9tq6yb5d
@user-dr9tq6yb5d 2 года назад
卑弥呼が3世紀に畿内にいたとするならば 崇神天皇へのつながりを説明しなければいけない と思います。 僕は神武東征はほぼ事実だと考えているので 卑弥呼が畿内にいたはずがないと思っています。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 2 года назад
崇神天皇がその頃だとすると、繋がりがあるハズですね。 神武=崇神が東征した王だという考えもあるようですが、いずれにしても解き明かしたい歴史の時代です。 そのストーリーを考えるスタートの設定として、卑弥呼が何処にいたかを確定しておくことは重要と考えています。
@user-oq3er1hg2y
@user-oq3er1hg2y 3 года назад
記紀読めば分かるが、そもそも纏向は崇神垂仁景行の宮だったんだから纏向から宮の跡が出て来るのは当たり前。京都から京都御所の跡が出て来るのと同じ。 卑弥呼とか邪馬台国とか関係無い。 本来ならシュリーマンの時のように「やっぱりあの神話は本当だったんだ!」という方向で盛り上がってるはずなのに、何故かそうはならない戦後学会マスコミの闇😱
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
それはそうですね、確かに。 やはり、学者も地元の方も含め、日本人は邪馬台国が好きなんでしょうね(笑)。
@urakusp
@urakusp 3 года назад
その通り、誤解だらけの外国人の記述を、自らの伝承より優先する病理です。箸墓の年代測定から、記紀の記述の確かさが証明されました。
@user-ji8zc4oi5d
@user-ji8zc4oi5d 3 года назад
お久しぶりです。拝見いたしました。素晴らしい動画です。 私も今、豊国の系譜からウガヤフキアエズ、木花開耶姫、正勝吾勝勝速天忍穂耳命まで辿り着きました。天孫降臨の伝説の舞台が見えてきました。オシホミミノミコトの活躍の場はおそらく現在の福岡県赤村付近ではと。英彦山神宮の主祭神も同じ方で近いです。 現在、大祓詞にある、瀬織津比売、速開都比売、速佐須良比売を探しています。記紀では殆ど消された御名ですが。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
早速にコメントありがとうございます。 今度は日本の文献からみた古代史・・・が紐解く番でしょうか。 そちら側からの解釈も多くの方が取り組まれているようですので、期待したいです。
@user-ie7dl2nh5v
@user-ie7dl2nh5v 3 года назад
日本人の歴史感に縄文の時間軸が欲しいね。 日本が日本と名乗るずっと前から、約1万5千年間続いていたわけですから。 日本の文化的支柱は 北東北ー長野八ヶ岳麓-出雲―北部九州ー畿内ー鎌倉ー江戸と移動しています。 九州や西日本には大規模な縄文遺跡がない事実があります。 7300年前の鬼界カルデラの大爆発により、 灰でおおわれた九州や西日本から住民が東日本に移動したと推測されています。 3世紀に邪馬台国があった場所は、北部九州でしょう。 ①魏志倭人伝の記述の環濠集落は纏向ではありませんね、佐賀の吉野ケ里が当てはまります。 ②2世紀の倭の大乱、北部九州の人骨が物語ってますね。 ③水行十日 陸行一月   そこに邪馬台国があって呉を挟み撃ちしたい魏の使者のねつ造。  邪馬台国にわざわざ金印を送ったの理由もそれだから。  魏はクシャーナ朝(大月氏)にも金印を送ってますね。(渡邊義浩氏) 4世紀ごろの百済王が7支刀を倭王旨に献上。 北部九州の宗像氏の先祖しか考えられません。 4世紀を境に朝鮮半島南部で畿内の土器出土(それまでは北部九州産)。 百済、新羅から圧迫を受けた加羅(倭人も住んでいただろう) が畿内と結びつき始めたと考えられます。 5世紀の倭の5王、 珍、済などは明らかに九州の地名、韓国南端でも散見されます。 珍(MEZURA, MATSUURA氏 MOJI)珍敷塚古墳は福岡県。珍島(朝鮮半島西南端) 済 西都(宮崎県)済州島(韓国最南端) 武、宋帝に半島南部の軍事的支配権を承認してくれるよう繰り返し上申し承認される。  「使持節 都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」  畿内にいては無理な地理感。  宋書倭国伝 東征毛人五十五國,西服眾夷六十六國,渡平海北九十五國  畿内にいては無理な地理感、朝鮮半島南部まで支配していたと言っていますね。 新唐書 其王姓阿每氏 自言初主號天御中主 至彥瀲 凡三十二世 皆以 尊 爲號 居築紫城 天皇の姓は阿毎氏、筑紫にいると言っていますね。 前方後円墳 畿内の円形周溝墓と尾張の方形周溝墓の合体。 東海地方の前方後方墳は3世紀ごろ、かなり古い。 まとめ 外国(古代中国)に最初に認知された日本は 九州の倭国(韓国南端まで勢力範囲)、九州の邪馬台国(畿内と別種)。 それを認めたくない当時の天皇と編集者は 古事記、日本書紀から邪馬台国を消し去った。 畿内は4世紀ごろから力を持ち始め、 5世紀ごろには北部九州と畿内が並立、畿内の前方後円墳の巨大化。 弥生時代の日本の人口は東海地方がもっともおおく、 古墳時代になると日本列島のパワーハウスは 列島の西端である北部九州から畿内に移動しはじめた。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
日本の古代を俯瞰して見られたご意見に、強く感銘を受けました。 私が知らない所を含めて、同意します。 特に「畿内にいては無理な地理感」は私もそう思っていて、何が何でも畿内発と言われている方々にはそんな発想は無いでしょう(笑)。 縄文から続く文化的支柱。 確かにおっしゃる通りですね。 青森の三内丸山遺跡で垣間見えた縄文人の姿には、とても親近感を感じました。
@takashiumezu9240
@takashiumezu9240 3 года назад
とてもわかりやすく楽しいので何度も見ています。 ひとつ間違いを発見しました。 平原遺跡が佐賀県になっています。すみません細かくて・・・
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
ほっ、ほんとだ! 確かに●の位置が佐賀県ですね。 ありがとうございます。 説明文の方で、訂正入れときます。
@user-rg2my7wl4f
@user-rg2my7wl4f 3 года назад
畿内説はムー大陸レベルの話だと思ってました
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
ムー大陸の実在性はよく知りませんが、畿内説での実在性は無いと思います。
@amakun0115
@amakun0115 3 года назад
返信数増の為、新たに立ち上げます。私はこれから邪馬台国は九州のどこにあったのか研究したいと思いますが、一つ気になっていることがあります。それは各地の候補地が上がっていますが、なぜ吉野ケ里遺跡は外されているのでしょうか?段階を経て小さな村から大きな集落へ発展し、3世紀末から4世紀の始まりにかけ、住民たちの意思により歴史から消えています。時代は邪馬台国とかぶっている様に見えます。おそらく道程や食料事情などで外されていると思われますが、それは本当に正しいのでしょうか?以前に観光気分で2回ほど訪れたことがありますが、改めて動画を見るとその桁違いのスケールに驚かされます。ここが邪馬台国でないとすると、当時九州には、いくつもこの様な巨大集落があったことになります。お暇な時で結構ですから、ご存じの範囲で御教授をお願いいたします。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
そういえば私もよく知りませんでした。 Mr.吉野ヶ里の高島忠平先生が、吉野ヶ里を候補地から外されたと聞いてから鵜吞みにしてました。(いかんですね) どなたかご存知の方いらっしゃいましたら、ご教授願えないでしょうか?
@amakun0115
@amakun0115 3 года назад
@@user-wj8xy3zu3b様 最新の動画(箸墓古墳の後編)を見させてもらいました。相変わらず良く調べていますね。ほとんどの文化は大陸や東南アジアからまず九州に伝わり、西から東へ流れていくというのが通説です。しかし畿内には大和がすべての発祥地と思いたい人種がいるようです。これから多くのコメントが来るでしょうが応援しています。ところで私は正義感から九州説を応援するようになったと言えます。私の様なタイプも結構いると考えますが、歴史に引き込まれて行くうちに、物証こそが真実の要と実感しています。たとえば、九州には当時広い平野が少なく、とても邪馬台国の食料の確保は難しいと、学者気取りで見てきたかのように、平気で嘘を言っている投稿者を時たま見かけます。しかし50ヘクタールもある吉野ケ里遺跡クラスの大規模集落が幾つも発見され、この多くの人たちは何も食べなかったとでも言うのでしょうか?物証の前には手前勝手な推論は吹き飛んでしまいます。私は九州のどこに邪馬台国があっても構いませんが、物証第一主義の信条から考えると楼観・物見櫓を含む環濠集落の発見と絹の発見がある吉野ケ里遺跡から入りたいと考えました。調べると甘木の平塚川添遺跡にも吉野ケ里同様の環濠集落があり、大集落の規模は吉野ケ里をしのぐ説もあります。これで、この時点の候補地は2か所できましたが、もし今後の発掘でどこからも物証の発見が無ければ、この2か所に注目が集まるでしょう。その場合は倭人伝の道程の解釈が問題になりますが、現在でも①この道程は一部誇張されて書かれており、ライバルに対抗して目的地までを遠く書いている。②いわば軍事同盟国である邪馬台国の位置を、敵対国に知られない様に分かりにくく書いてあるとの意見も見られます。これを採用すれば、わざわざ現在の松浦・唐津あたりに上陸し、伊都国まで陸路をテクテクと歩いた謎の行動も解せます。九州管内ですが距離や方角の制限が無くなれば上記2か所も浮かび上がってきます。あくまで私の可能性の話です。  今読んでいる本の作者とこの動画のオーナーは丁寧に道程をたどり、多少の解釈の違いはありますが(みやま市)周辺にたどり着いています。みやま市は一部に昔の山門(ヤマト)郡を含み雰囲気の良い街です。私も瀬高町に旅行に行ったことがありますが、ここに邪馬台国があっても何ら不思議には思えません。ただ、物証主義の私としては(みやま市)近辺の遺跡を色々調べましたが、吉野ケ里の様な環濠集落の記事をまだ見かけません。もしご存じの方があれば、お教えください。これからの発見待ちの場合は私もそうします。次の疑問点として当時は熊本の狗奴国と対立しており、卑弥呼になる前は(現みやま市)の前線基地にいたかもしれませんが、共立され卑弥呼女王になってもいるでしょうか。(のちに狗奴国から攻め込まれ防御の固い吉野ケ里まで逃げ延び、そこで魏の使者と会談したため楼観など吉野ケ里の様子が倭人伝に書かれた)と本には書かれていますが、それなら戦略的に共立の卑弥呼女王になった時から伊都国・奴国に近く防御の固い吉野ケ里や甘木にいるのではないでしょうか。最後に邪馬台国と伊都国は緊密で一大率を置いていたとありますが、(みやま市)と糸島市は現在も高速・都市高速を乗り継いでもかなりの時間を要します。当時の感覚ではあまりにも遠いのではと思え、吉野ケ里や甘木ぐらいまでが交流の範囲ではないでしょうか。あくまで素人の疑問ですがどう思いますか?
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
@@amakun0115 さん ご意見ありがとうございます。 邪馬台国の所在地について第4話では「みやま市」に置きましたが、今時点の最有力地としての考えです。 実際どこだったのかについて、自信をもった考えはありません。 現時点では、 筑後~筑紫の一部が邪馬台国連合。 中心は筑紫平野。 狗奴国は熊本県北部。 邪馬台国と狗奴国はもともと同族。 卑弥呼と卑弥弓呼は親類。 弥生時代の青銅器分布と甕棺墓分布からの、もやっとした考えですのでまだ自信はありません。 伊都国と邪馬台国の関係性については、これからもう少し考えを練りたいと思っています。
@amakun0115
@amakun0115 3 года назад
@@user-wj8xy3zu3b 様 返信ありがとうございます。私が思ったのは卑弥呼を共立して女王の国を作るのなら、邪馬台国連合の中心部あたりで伊都国・奴国にも近く防御が固い吉野ケ里・甘木ではないか。敵対国との最前線には置かないのではと思った次第です。ところで吉野ケ里遺跡について調べてみましたが、候補地から外す理由が見られません。理由として一つ考えられるのが年代問題です。そういえば昔は少し年代が違うと聞いた覚えがありますが、それは学者によっての違いであり、以前書いた放射性炭素測定法にも誤差は見られます。また、4世紀の遺物しか発見されていない箸墓古墳の通説4世紀築造を3世紀と変える動きもあり、元々100年ぐらいは日本の考古学会では許容範囲と思われます。色々調べるとそれまでは奈良の遺跡群の規模に注目が集まっていた様ですが、それを遥かに凌ぐ300ヘクタール規模(10倍以上)の吉野ケ里遺跡が発見され、九州説に一気に傾いたようです。九州では倭人伝記述の楼観・物見やぐらを含む環濠集落の発見に加え邪馬台国時代の絹の発見もここであり、今もって他地域での発見はありません。畿内でこの発見があれば、マスコミを利用し決定騒ぎになるでしょう。甘木については重要地域の保護指定が間に合わず、発掘が行き止まっているのが残念ですが、この2候補の物証があれば私はこのどちらかが邪馬台国ではないかと思います。ネットで過去の討論の記事をみてもグタグタと邪馬台国と直接関係ない話に時間ばかり取られています。日本人が邪馬台国の内容を知る唯一の文献が倭人伝であり、書かれた内容を証明する物証の発見が吉野ケ里でできています。令和3年になっても他地域では発見なしです。もっと物証発見の価値を大にして言っても良いのではないでしょうか。  それと一つ疑問に思っているのが、九州の遺跡発掘に奈良の歴史博物館や学者が絡んでいる場合がある時です。測定機器などで協力が必要なのかもしれませんが、今までの言動を考えると不信感がわきます。九州の考古学者は、いくら他地域での発見可能性も0ではないと言え、文献との関わりから見ても遠慮しすぎでしょう。先輩学者や世話になった学者への配慮かもしれませんが、堂々と(もう九州に決定です)と言ってほしいものです。ネット記事では京都や大阪の先生でも、学問的にはすでに九州に決定していると言っています。畿内説の方で文句がある人には、物証を持って来いと言えば済む話です。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
おっしゃってるお話、そしてお気持ちよく理解できます。 ネットの中ででも丹念に議論を重ねれば畿内説は破綻しますが、学会ではなかなか難しい大人の事情があるのでしょうか。 九州の考古学会は九大の支配下なので京大系だから畿内説派なのだと以前聞いたことがあります。 吉野ヶ里は以前一度訪問しましたが、もう一度行ってじっくり確かめたいところです。
@user-qf1bo2gg9k
@user-qf1bo2gg9k 10 месяцев назад
このシリーズの3,4,5話で邪馬台国がどこにあったかがすべて説明されてます。先日、唐子・鍵遺跡に行ってきましたが邪馬台国につながるであろう痕跡すらありませんでした。ボランティアガイドの方に纏向が邪馬台国であったかと尋ねてみましたが、個人的には九州と思いますとのことでした(笑)。最近は神社の多さから阿波という説がありますが、これだけの根拠で、平安時代に作られた延喜式とその400年以上も前の話と何故結び付けられるのか理解に苦しみます。根拠は朱や青石みたいですが大分と四国は邪馬台国の時代にはすでに頻繁に交易があったみたいなのでいくらでも手に入ります。玉なんかは新潟しか取れないのに平原古墳の女王が勾玉を所持してたところを見れば、これらの鉱石の原産地であるということ以外に何の根拠にもならないでしょうね。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 9 месяцев назад
ありがとうございます。 古代の奈良に最もお詳しい考古学者のお二人が、相次いで邪馬台国・纏向説を否定する本を出版されているので、纏向説の学者さん達は反論しようが無いでしょう。 朱も青玉も真珠も交易品という見解は正しいと思います。青石と青玉は違う物です。
@MickCorgi
@MickCorgi 3 года назад
もう対馬壱岐ルートは決定してるんだし、他にも文明国がいっぱいあった北九州中国四国を無視してワサワサ抜けて畿内まで行くなんて説は無理があり過ぎると思います。しかも卑弥呼なんて全く畿内王朝の記録に無い。これは畿内から遠く離れた国を記述してるからとしか思えません。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
全く全くそう思います。 畿内説の方は、畿内に首都があって、当時どうやって伊都国まで統治できたのか、考えたことがあるんだろうか、と思ってしまいます。
@amakun0115
@amakun0115 3 года назад
良く研究され邪馬台国九州説を知らしめる内容です。私は一般の方にも分かりやすく裁判に例え、考古学的物証が幾つか発見されているのが九州説です。①倭人伝に書かれている楼観・物見やぐらを含む環濠集落の発見(当時の住居の様子を肉眼で見れるのは九州だけで他の地域での発見は無し)②倭人伝に書かれている生活様式の絹・養蚕の発見も邪馬台国の3世紀では九州限定となっています。③矢じりを含む鉄器も圧倒的(100倍程度)に九州が勝ります。これに比べ私が畿内説の存在を知ってから60年あまり経過しましたが、この間、纏向遺跡までの発掘で何一つ邪馬台国を示す物を発見できていません。倭人伝には(占いには甲羅に入ったヒビを見て占っていた)と丁寧に書かれているのに、学者か記者の勉強不足なのか、桃の種を持ち出してきたのには笑ってしまいました。現在、畿内説の学者は九州説の論客からの討論から逃げ回っていると聞いています。私も聞きたいですが何一つ証拠も無しで、何の根拠で現在も畿内説を言っているのでしょうか?今、「裁判をすれば物証のある九州説に軍配が上がるでしょう。①②が発見され畿内の最後の頼みだった纏向遺跡も発掘の結果、全く邪馬台国と関係なしと判明し、もはや畿内説は消滅寸前でしょう。」私は幾つか畿内説のページを訪れ、上記①②③の事物(物証)を上げ論じていますが、これに対する反論を全く聞いたことがありません。もはや時代は昭和初期までと違い、基本的物証を発見している九州説が圧倒的に有利です。畿内説の方(学者含む)は何か一つでも邪馬台国を示す基本的物証を見つけ論じてください。①②が全く無しでは話になりません。本当の学者なら何の物証もなしに、結論ありきで自分の説を作り上げないでください。もし、この記事を目にしたマスコミ関係の人がいましたら是非調べてください。これが現状です。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
ご丁寧な論証、ありがとうございます。 同感です。 このコメント欄にも「アカデミックでは大和説が圧倒的」、「学術的にはもはや畿内説が通説」などと論じられる方々が居ますが、数度やりとりすると意見は先細ります。 我々素人にとってアカデミックの世界は少し隔たった場所なので、現場の空気までは感じられないのですが、学者さん達の討論会の場をたまに目にすることもあります。 そこではやはり、大和説の方の発言の方に勢いを感じます。でもそれは発言の勢いだけで、内容は我々レベルでも突っこみ所満載の論拠です。どうして異説を掲げておられる同席の九州説論者の方が突っ込まないか不思議な情景を見ることがよくあります。 (学会では京大、阪大の諸先輩への忖度があるんでしょうか?) ネットで公開されている論文を出来るだけ読むようにしていますが、「なるほど大和説もありか」と思える論文には一度も出会っていません。勿論、私が見ているのはほんの一部だろうと思いますが、それでも・・・です。 まあ、それぞれ学説はあっていい訳ですが、私が素人ながら危惧するのは、そういう学説では大和や西日本の当時の状況を無理して魏志倭人伝の内容に当てはめようとするあまり、事実を曲げようとすることが起きることです。 実際、「倭国大乱が2世紀の大和で起きた訳だから鉄が出ないといってる弥生時代の大和にも本当は鉄があったのだ」という学説が上げられたりもしていました。 「フウ・・」 そしてたまに見るのが、タラレバ入りの学説です。 ○○としたならば、こうである、と。 そしてそのこうである、が通説となってみんな言ったりしている訳です。 ・・・ 学会の方で、そうじゃないよ、と言われる方がいらっしゃいましたら、匿名で結構ですのでご意見を頂けないでしょうか?
@amakun0115
@amakun0115 3 года назад
@@user-wj8xy3zu3b 私が久しぶりに邪馬台国に興味を持ち、ネットの世界で時たま見かけるのが「アカデミックでは・・・」との言葉です。私はこれに何か違和感を感じていました。それは本当に強力な勢力があるなら、人数の多い畿内説の学者がなぜ強硬突破できないのか?そうです。しないのではなく、出来ない致命的な欠点が畿内説にはあると考えられます。学説とは文献やそれを証明する事物(物証)から導かれます。九州説には環濠集落や絹・養蚕の考古学的証明(物証)がありますが、畿内説には邪馬台国に結び付く発掘が何もありません。私の知る限り60年、おそらく100年近くは畿内の多くの優秀な学者が発掘作業を続け、何も無しです。おそらく纏向遺跡にその物証を期待したのでしょうが、ご存じの通り全く邪馬台国とは関係なしと証明されました。九州と違いそんなに広くない大和地方です。次はどこを候補地にするつもりでしょうか?  また、畿内説(ヤマト説)のあまりの稚拙さに、隣県の京都や大阪の先生方の強烈な批判記事がネットで見られます(興味のある方はネット記事で探してください)。畿内にも常識的な学者もいます。桜井市や大和地方の経済効果に忖度し、お茶を濁す態度を続ける学者や取り巻きの記者たちは学問を冒涜しないで欲しいものです。物証の無い説は、ただの空論・妄想に過ぎません。今まで何の発掘もなしで、あと何百年引き延ばすつもりでしょうか?国も九州の学会に予算と要因を増やす方が、邪馬台国発見の近道と思われます。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
おっしゃること、ごもっともと思います。 ・・・ どうしたらいいか、よく分かりませんが、多くの人が学問に興味を持つことで、開かれたアカデミック界になるのかも知れない。そう思っています。
@amakun0115
@amakun0115 3 года назад
@@user-wj8xy3zu3b 私はこの動画の様に九州説の正しさを論理正しく説明し、理解者を増やしていく行為を頼もしく思います。他の方の九州説ページも自信にあふれ、ネット記事やユーチューブ動画では圧倒的に九州説有利というのも納得がいきます。今やネット時代で情報が簡単に手に入ります。しっかりした考古学的発見(事物・物証)と文献(倭人伝)から導かれた学説の正しさ。これに多くの国民が理解を示してくれているようです。この世論の維持がこれからも大切で、折に触れ九州説を広める必要があります。これが私利私欲の為に、誤った歴史を作ろうとする勢力を防ぐ大きな力になると思います。今や国民と共に多くのマスコミもネットを注視しています。変なことはできないでしょう。  実は私もチャンネルを持っているのですが、動画の作り方の本を見たり、各ページにお邪魔したりして現在研究中です。ネット社会の情勢によっては完成を早める必要があるかなと思っていましたが、おかげで、まだまだゆっくりとページ巡りが出来そうです。色々大変でしょうが頑張ってください。それと、返信の数が増えましたので、次回からは別建てのコメントで訪れますので暇なときに相手して下さい。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
@@amakun0115 さん 誉めて頂いたようで嬉しいです。 ネットの世界は玉石混交で難しい面もありますが、真実にたどり着きやすいというアドバンテージもあると思っています。 学会などに私などが出て行っても知識不足で質疑も成り立ちませんが、ネットで質問された場合はネットで調べることが出来ます。(勿論付け焼き刃ですが) 一回立ち止まって考えることも出来ますし、自分の考えが間違っていれば訂正することもできます。 そうやって皆さまのコメントで勉強させて頂いているのが現状です。 今後ともよろしくお願いします。
@ohoyamato
@ohoyamato 3 года назад
纏向の巨大建築物は景行天皇の日代宮だろう。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
そうなんですね。
@user-tq7tm3mi7b
@user-tq7tm3mi7b 3 года назад
長浜浩明さんの本や動画を見たり他の九州説の主張を見たりすると、畿内説は結論ありきのファンタジーとしか思えませんね
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
全くそう思います。 まあ、我々一般人はファンタジーに浸ってていいと思うのですが、専門家の方がそれではね・・・
@usa7006
@usa7006 3 года назад
畿内説はアカデミックで圧倒的です、考古学でも歴史学のどちらでもね。逆に九州説のほうは、在野の歴史学者や小説家などの非専門家に人気。なぜなら、九州説のほうがファンタジーな空想ができるので。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
@@usa7006 さん、 私はそうは思いません。 アカデミックな議論は、その論旨と結論だけは国民にちゃんと知らせるべきです。 研究には多くの国費が使われている訳ですから。
@user-di2sd1tu6n
@user-di2sd1tu6n 3 года назад
@@user-wj8xy3zu3b 様、メディ向けに記者発表もし、発掘調査報告書の類や論文も多くは公開されてますが、足りませんか? 研究に携わった方々の一般向け図書も多数ありますけれど。。。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
@@user-di2sd1tu6n さん、 論文や報告書で畿内説を証明されているものがあれば、教えて頂きたいところです。
@user-wz3vk7ip5o
@user-wz3vk7ip5o Год назад
大和盆地南部に限定しているといっても箸墓古墳は大和三山のひとつである三輪山のすぐそばと言えるのではないのでしょうか?
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b Год назад
三輪山は箸墓の近くです。 初期ヤマト王権の統治範囲についてのご意見でしょうか?
@user-bd1mp3yl3e
@user-bd1mp3yl3e 2 года назад
さすがです。卑弥呼もそう言ってました。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 2 года назад
そうですね。私もそう聞いております(笑)。
@kamicop1234
@kamicop1234 10 месяцев назад
やっぱ平原の女王の墓じゃないかなーと思う
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 10 месяцев назад
可能性はありますね。
@irimiki4607
@irimiki4607 3 года назад
いわゆる卑弥呼の鏡は「画紋帯神獣鏡」ではないだろうか。それなら出土枚数等から言って辻褄が合う。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
可能性はあると思います。 画文帯神獣鏡は2世紀前半の鏡だと思いますので、入手経路が見えると、いきさつが分かるのですが。
@user-ot7tl4xd2v
@user-ot7tl4xd2v 9 месяцев назад
畿内説を言っている人達は何故か隣国の人みたいに思うのは私だけでしょうか❓
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 8 месяцев назад
隣国の人というより、邪馬台国が好きな人達なのでしょう(笑)。
@user-jq6mz3nx2n
@user-jq6mz3nx2n 3 года назад
地理的に見て当時以前から栄えていたのは北部九州と考えるの自然です。現在の糸島市から壱岐市まで50km(直線で以下同じ)・壱岐市から対馬市まで63km・対馬北端から釜山港58km。参考に神奈川県三浦半島の三浦市から伊豆大島の大島町まで50kmで晴れた日にはよく見えます。縄文時代の遺跡である青森県の三内丸山遺跡から新潟県のヒスイが出てきていることから、見えている島や陸地に人が渡るのはあたり前のことで、文化文明が栄えていて、交流もあるのは当然のはず。纒向遺跡にはそれ以前の痕跡がなく、漢なり魏が相手にするとは思えない。あるとすれば、あまりに中国や韓半島から近いことによる何らかの弊害があり、奥まった近畿地方に移るとか一部移すとかは考えられる。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
全くおっしゃる通りと思います。 いう事ありません(笑)。
@malkotoisu9730
@malkotoisu9730 Год назад
斎宮というのは僻地につくるんですよ。大和に対する伊勢を考えたらわかると思います。当時の僻地だった大和は幽閉先として斎宮にふさわしいと思います。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b Год назад
大和が幽閉先、ですか!
@malkotoisu9730
@malkotoisu9730 Год назад
@@user-wj8xy3zu3b 関係者の女官以外に誰とも会わずにあるエリアに閉じ込められているのですよね。それは幽閉と言わないですか?
@malkotoisu9730
@malkotoisu9730 Год назад
恋もしたいだろうし、結婚もしたいだろう。親とも別れたくないでしょう普通
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b Год назад
その痕跡も無いのに、なぜ幽閉されたとお考えなのでしょう?
@malkotoisu9730
@malkotoisu9730 Год назад
@@user-wj8xy3zu3b 斎宮歴史博物館でみてきたんですよ。そうすると斎王の扱いは人質のそれと同じものでした。伊勢国造はひどい待遇をしています。斎王と卑弥呼は同じものに思えます。
@user-di2sd1tu6n
@user-di2sd1tu6n 3 года назад
纒向を「宗教都市」と考えるならば、オオヤマト地域でそれで十分なのでは?バチカンは世界に覇するけれでもその直轄地は法王庁のみです。ヤマタイ国が王国連合とするならば経済的・軍事的基盤は各国に在って「纒向」にはなくても充分に成り立つと思います。魏志倭人伝に言う共立とはそういう事だと理解しています。強大な領土を誇った古代ローマでさえ直接的な支配地は「都市ローマ」とその周辺のみですよ。後は同盟している諸都市国家群と広大な属州(植民地)。逆に貴兄の「邪馬壹国」を邪馬壹国たらたらしめる大きさの基準を伺いたいですし、それに相応しい北部九州の「クニ」は在るのでしょうか?
@user-rl1tu5du3r
@user-rl1tu5du3r 3 месяца назад
邪馬台国連合の時代 比較して北九州・丹後・高志の先進国であり鉄器文明が、同時代で言えば、鉄器・青銅器の出土が極めて少ない纒向の原始的な石器文明の度人の言う事など聞くわけが無いのである。 度人の祭祀王?など全く有り難みもない。 あなたは、アフリカ暗黒大陸の原始的生活レベルの文明の祭祀王の言う事を聞くのですか? そういうレベルの事を主張してますよ。 また、箸墓古墳など、巨大なモニュメントの建設を持って、最大の王朝的勢力なり、巨大勢力が有るというのもあるが、 石器文明でも、インカやアステカは巨大なモニュメントなり建造物を造った。 なので、全く意味不明な話です。 そして、何千万人もいたインカは、わずか200名足らずのヨーロッパの鉄器文明の者たちに征服されました。 纒向は、崇神天皇の時代だと比定されることが多いし、そう思う。が、 崇神時代には疫病で人口の半分が失われたと書いてあるし、みかど自ら、治世は災害が多いと漏らしている。 そして、九州方面の土器が、ほぼ無い。ソレは、纒向側で通行を遮断しているからだ。 疫病が九州方面から来ることがわかっていたから。 脊椎カリエス、結核でバタバタ逝ったのだろう。そのような遺跡もある。 つまり、鉄・疫病・稲作といった文明にとって普遍的でグローバルな事に、まだ、全く対応なり、順応できていない状態である。 四道将軍も、伝説そのまま方面軍団の派遣などとかはないです。 内線からの積極的方面軍を可能にするなら、征服する所を含めた全体のGDPの45%は必要である。 ソレは、実際に内線からの積極的方面軍を始めて日本の歴史で確立したと考えれる、織田軍団なり織田家の日本全体でのGDPの数値でもある。 そのような貧弱な状態で邪馬台国連合の盟主などやれないし、國内が無茶苦茶の状態でそんな余裕など全く無いし、逆に周辺諸国に援助してもらうレベルです。 四道将軍というのは、逆に、各四國に援助をお願いしに行ったのではないですか? 石器文明が鉄器文明に凌駕したり、政治的影響力を行使したことは世界の歴史でも一度たりとてないです。 邪馬台国連合のときだけ、そのような事が、あったと言うなら、纒向論者が何故世界史でその一回のみ可能なのか必ず証明すべきことである。 鉄器は土壌の問題で残らないとかは、より土壌の条件の悪い関東でさえ恥ずかしくて言わない、ので辞めておいたほうが無難です。 鉄器が大量に出土しないとは、言い切れ無いと言うのも、それは悪魔の証明をしろと言っているの同じなので論外です。 そろそろ、目を覚ましたらどうですか?
@user-rl1tu5du3r
@user-rl1tu5du3r 3 месяца назад
福岡平野+筑紫平野で、奈良盆地+大阪平野より、人口は、養えると考えます。 また、倭国大乱の原因と思われる、北半球が全体的に極度に寒冷化したこと(水月湖などのデータ)から、 より、南の温暖な九州が有利です。
@user-rl1tu5du3r
@user-rl1tu5du3r 3 месяца назад
石器文明の纒向が、 同時代で言えば、 鉄器文明の北九州・丹後・高志の宗主国? 全くあり得ないです。 世界史上で、その様な石器文明が鉄器文明を凌駕したり、政治的影響力を行使した事例は、たった1度も無い。 その様な事例が有るなら、提示してみて下さい。 無いけど 何処の先進国がそんな原始的な度人らの言う事など聞くのですか? そんな訳のわからない度人の祭祀王?などと関わりたくも無いでしょう。 未開人の研究をしてるのなら別だが、、、 逆に先進文明の日本海側に何のメリットが有るのか、説明出来ます?
@user-kz8wk6mn3y
@user-kz8wk6mn3y Месяц назад
邪馬台国はヤマト国と発音し、現在、奈良県であり、大和政権を形成しています。  邪馬台国の女王卑弥呼とは、孝霊天皇の皇女、倭母母曽比賣命のことです。  倭母母曽比賣命は紀元115年に生まれ、198年に崩御されました。  倭母母曽比賣命は箸墓古墳に葬られました。  倭母母曽比賣命は紀元
@channel-hl5yd
@channel-hl5yd 22 дня назад
やっぱりどう考えても九州以外にありえない。なんで京都大学の先生はみんな畿内説を推すのか訳がわからん、頭いいんだから論理的に考えてほしい。 あと、卑弥呼の墓って調べると箸墓が出てくるのは本当に良くないと思う。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 8 дней назад
先生といえども地元意識が強いのでしょうか。
@user-fk6hj4hw4m
@user-fk6hj4hw4m 3 года назад
全くその通りですね。特に漢鏡の出土が圧倒的に「北九州」であること。古代中国王朝が「倭」とは北九州地域である認識を持っていた、というご指摘、見事です。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
そうですね。 そのこと1点で、倭は北部九州。故に邪馬台国は北部九州、と言い切れると思うんですがね(笑)。
@usa7006
@usa7006 3 года назад
北九州は大陸との交易の玄関口なんだから、大陸との交易品が多く出土するのは当たり前。それは古代だけではなくて、中世でもそう。だからといって、北九州が日本の中心地にはならない。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
@@usa7006 さん、そうではないと思います。 漢代の鏡などという、当時最高に貴重だったものが、2~3世紀の北部九州の王墓からゴロゴロ出てくる訳です。 その頃の畿内に王墓はありません。 そして、畿内で漢代の鏡が出てくるのは、古墳時代以降です。 こんな事実を無視した畿内説は、到底アカデミックだと思えませんがいかがでしょうか。 ちなみに日本の中心地がどこか、などという議論をしているつもりはありません。 あくまでも大陸と外交していた邪馬台国がどこにあったか、という議論です。 畿内はその時代のあと、大和という日本の中心が生まれてゆく、言わば日本人にとって大事な地です。 邪馬台国と混同しないで頂きたい。
@usa7006
@usa7006 3 года назад
@@user-wj8xy3zu3b 自分はそうは思わないですね。というか、畿内に中央王権があったとしても、北九州に対外貿易の玄関口を設けるからね。後世だと、大宰府、鎮西探題、九州探題などなど。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
@@usa7006 さん、 この時代に畿内で大陸と対外貿易をしていた痕跡は何もありません。 何百の遺跡を掘っても何も出ない。これはアカデミックな方々もご存知です。 あるのは、吉備、阿波、東海、出雲などと交易していた遺物のみです。 考古学を無視する古代史に、真実は見出せません。
@AH-vd1nx
@AH-vd1nx Год назад
素晴らしいと思います。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b Год назад
ありがとうございます。
@trinitydisconnect
@trinitydisconnect Год назад
セニョール!名推理(笑)解決ズバット?推理では、奈良南部は、歯黒国・歯黒=開化?細媛の葛城ですかね?広まれば畿内説のテンション下がりますので。この頃に吉備と大和が、播磨と摂津・河内を超えて交際始めているのが謎?ですが、播磨・摂津・河内の立ち位置?どうなんでしょう? どこで?だれが?文献の人物伝から推理するなら、そも徐州鏡ですから、曹操の皇子・彭城王・曹據『曹拠』が、濃厚ですかね?司馬懿・司馬師が、曹真の子・曹爽からの政権奪還に向けた、東アジア軍連合・242年の高句麗王・東川王が遼東に進出し母丘検を誘い込みウラジオストックへ・その間隙で曹爽を打倒。曹操の孫の曹奐に魏帝を継承させる。 曹操政権の最強軍・青州は徐州と隣国ですから、曹丕と契約しなかたのは、環夫人・彭城王と契約してたのかも?しれません。青州兵は、秦の始皇帝と眠る、兵馬俑の軍団・劉邦も青州兵と契約し、曹操の青州兵を手にした事で魏王になれたのだとか?  魏志は曹操一族の話ですから日本人が倭人伝を日本目線で考察するのは仕方がありませんが、曹操一族目線で考えないと、金印や銅鏡の意味は理解苦しいですよね。『弁』には、共立や入れ替わるの意味があるので、魏志の編纂者は、半島南部から北部九州を周旋可5000里で範囲指定して、卑弥呼から壹與で入れ替わった。地元出身の卑弥呼から畿内出身の壹與に入れ替わり・任那・大伽耶連合・金環伽耶と歴史はつながるのでは?壹與は誰か?第一候補は、小彦男心命の娘かもしれません、沙沙貴神社の神紋・七つ割からの推理です。卑弥呼の墓は周旋可5000の中のどこか?探せ!金印(笑)
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b Год назад
推理ご苦労様でした。(笑)。
@trinitydisconnect
@trinitydisconnect Год назад
@@user-wj8xy3zu3b セニョール!時代背景や時代考証を推理しただけで、卑弥呼が何処に居たか?には至りません。始まりが終わっただけですから、今から終わりの始まりなんでしょうね(笑)
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b Год назад
そうですね(笑)。
@amakun0115
@amakun0115 3 года назад
私は邪馬台国発見が卑弥呼の墓にも影響すると考え、今まであまり注目していませんでした。全く邪馬台国と関係のない箸墓古墳などは論外で、皇族の姫の墓と言われているのに、畿内説学者は天皇家さえも利用しようとしています。大変迷惑を被っていると察します。そこで九州ではどこが候補か調べると興味を惹かれる本がありました。福岡のトリセツという本の中で、以前は久留米の祇園山古墳が有力と言われていたのが、新たな説が浮上してきたとの記述です。共立された女王卑弥呼は伊都国(現在の福岡県糸島市)出身で、死後に戻され埋葬されたのではという説を取り上げていました。倭人伝に邪馬台国の北にあると記述されている伊都国、両国は密接な関係にあったことは記述からも分かります。その場合、卑弥呼の墓と考えられるのは糸島市原田にある平原王墓が有力で副葬品から女王墓であることが分かり、しかも現在発見されている弥生時代の墳墓(日本全国)の中で、比肩するものがないほど豪華絢爛な副葬品があります。また被葬者の太陽信仰も指摘され、まさに「日の巫女=卑弥呼?」と考えられるのではと指摘していました。ただ卑弥呼の死が西暦248年で平原王墓が定説200年で50年の差があるので、この築造年代の問題クリアが必要と書かれていました。そこでネットで調べると平原遺跡(王墓)は再発掘され、2号墓の土器などから築造年代が西暦200年~250年前後になっています。また、殉死した人を葬る東墓もあり、歴史研究家の安本氏もすでにここが卑弥呼の墓と断言していました。箸墓古墳よりにこちらの方が、はるかに可能性があります。なぜ地方紙には載るのに全国紙は取り上げないのでしょうか?大和朝廷以降の史跡が多くあり、付き合いのある畿内の学者への忖度が過ぎるのではと考えます。考古学マニアのオーナーさんは卑弥呼の墓についての見解はどうですか?
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
ご意見ありがとうございます。 最近多くの方の学会批判を目にします。 考古学の地道な発掘作業には敬意を持つ一方で、 私も同種の感想を持ってしまいます。 お尋ねの卑弥呼の墓の所在については、未だに意見を持てないでいます。 平原王墓については、2年前、伊都国歴史博物館で説明を受けた時に200年頃ですよ、と言われたままでいます。 2号墓の築造年代は知らなかったのですが、1号墓との関係性も同様です。
@amakun0115
@amakun0115 3 года назад
@@user-wj8xy3zu3b 返信ありがとうございます。私が邪馬台国に本格的に興味を持ったのが最近ですので、伊都国についても初耳が多いです。だいぶ前に発見され話題になった様ですが、平原王墓で見つかった副葬品の豪華さ(日本一大きな鏡や、貴重な耳飾りなど)にロマンを感じます。いずれにせよ50年弱の時代設定の差は測定誤差の範囲に入らないのかと、アマチュアの私は思ってしまいます。そこで考古学でよく用いられる放射性炭素測定法を調べてみました。これはアメリカの考古学者の発明で、C14と呼ばれる放射性同位体の壊変具合を調べ年代測定するものです。この測定の要となるのが大気中のC14の変動具合で、この修正をしないと誤差を生じるといわれ、そのため定期的に修正曲線をバージョンアップしそれを使用しているようです。その精度(誤差)については残念ながら1000年で何%、2000年で何%と書かれている物は発見できませんでした。ただ、コーネル大学の考古学者の報告には目が止まりました。それは修正曲線は北アメリカやヨーロッパの過去のデータに基づき作成されていますが、調査する場所により修正値が変わるので議論の余地があるのではとの報告です。レバント南部地方の1610年~1940年の間の木の年輪と、2018年作成で当時最新の修正曲線を使用したC14による年代測定との比較調査があり、約19年の違いが確認されたとの研究発表でした。わずか400年前で19年の差なら、1800年前なら私の疑問も否定できないのではと思えてきます。日本ではどのような修正曲線を使用し測定しているのでしょうか。御存じの方がいらっしゃれば御教授お願いします。何しろ考古学の根幹に関わることですから、分かりやすい説明を期待したいものです。  これにつけ思うのは吉野ケ里遺跡の邪馬台国ソックリの環濠集落発見です。これだけ巨大な遺跡では、捏造など入り込む余地がなく完璧な物証です。私はまだ九州のどこに邪馬台国があるかまでは研究していませんが、仮に日本全国を発掘し尽くし、このような遺跡の発見がなければ、吉野ケ里遺跡が再び脚光を浴びることがあるのでしょうか? その場合はここが年代測定の基準になるかも。(あくまで妄想です)。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
@@amakun0115 さん 考古学的年代を対象とするC14年代測定は、国立歴史民俗博物館が中心になって、修正曲線の改訂などの作業をされています。 私も全く素人なのですが、一部の専門家の方々から厳しく批判されている状況のようです。 私の感想ではありますが、纏向での箸墓造営年代を3世紀中庸に持って行きたいという「意図」を感じています。
@amakun0115
@amakun0115 3 года назад
@@user-wj8xy3zu3b 以前からネット記事に畿内考古学者の改ざん不正を告発する案件が時折載っていました。現在は更に情報社会になり、監視の目も増えています。不正をすれば直ちに指摘され週刊誌ネタにされるでしょう。しかし纏向遺跡が全く邪馬台国と関係ないと判明した以上、4世紀築造と言われる箸墓古墳を3世紀にしたい理由は何でしょうか?卑弥呼の墓の根拠が無くなっているのに、宮内庁が絶対に発掘許可を出さないのを承知で、火種を残そうとする企みでしょうか。  ところで、今日行きつけの本屋で久しぶりに「魏志倭人伝とその後の倭国」という本を購入しました。そこで以前は見かけた纏向遺跡や箸墓古墳を扱った本が全く見られないのに気づきました。邪馬台国と関係ないことが浸透しているのでしょうか。それはともかく、この本を読み始めたばかりですが、最近の各ユーチューブ動画の元になっているのではと思わせる内容で面白いです。日本書紀や古事記にも触れ邪馬台国東遷説を解説してあり、4世紀になり絹や鉄器が急に畿内に現れた理由として解説しています。卑弥呼の墓の解説では平原王墓や他の候補地の解説があり、作者の意見は大分県の宇佐神宮亀山を推しています。この本の中で箸墓古墳についても記述されており、日本書紀に書かれた神話っぽい成り立ち話や、築造形態からの解説も書かれています。注目すべきは箸墓古墳は亀山(円墳含む)と類似点がいくつもあり、箸墓古墳の企画者はこの卑弥呼の墓である亀山をイメージして作ったのではと書かれています。また、この作者の邪馬台国の推定地は膨大な解説の後、倭人伝の道程にも合致し、邪馬台国の人口30万人と言われる食料を作れる山門・八女地区を推しています。畿内説はすべての項目を論破し、当時の大和地方では5万人程度の食料がやっとで到底無理との記述です。 失礼します。
@user-uq4he1he5g
@user-uq4he1he5g 3 года назад
@@amakun0115 様  横レスすみません。 私は第三話でのterry terrisson様の17件程のレスが付いた処で、田中健一様とここのup主様のやり取りになっているのを見ていて、田中健一様に横レスで質問した者です。  また、最新の誰が箸墓古墳を作ったのか?前編でもup主様に投稿しておりますのでご笑覧いただければ幸いです。  田中健一様との他の投稿「纏向を作った扶余(槌田鉄男様)」での意見交換で田中健一様が当初の自説を変更されて、私と近似した意見となられたように思えた(私は箸墓古墳は33、40年代築造。田中健一様は31、20年代に築造に変更)ものですから、そうではなかったですか?とお尋ねした次第です。  その横レスでは楽浪鏡の話題を中心にしています。     さて、私は卑弥呼の墓は祇園山古墳で間違いない、と考えております。  そのみやこする処とは旧山門郡(現みやま市) で、その道途中にある投馬国とは久留米市周辺にかつて存在した上妻郡下妻郡の(上下)妻軍の事である、と考えています。  水行とは御笠川〜宝満川〜筑後川の川船行の事であり、その後の陸行とは筑後川河口前で有明海の広大な干潟=泥海を避けて上陸して南に八女市を越えて山門郡にたどり着いたからだと思っています。  しかし、貴方様は平原王墓を卑弥呼の墓と仰っています。  この両者を比較して、なぜ平原王墓だと言えるのか?をもう少しご教示願えないでしょうか?  尚、私は平原王墓は台与の墓ではないかな?と勝手に想像しています。  年代は今後の研究で変わり得るのであまり考慮する必要はないのでは?と考えております。  いずれにせよ、この両墓はどちらかが卑弥呼の墓であり、もう片方が台与の墓だと考えております。  すると、どちらの墓制がより古いのか?と言う事になりますが。  以上、よろしくお願いします。
@user-ug7hn4yr6r
@user-ug7hn4yr6r Год назад
邪馬台国は九州北部にあり、奈良は大和国に代わったのか?大乱で変化があったんじゃないないか?宮崎系が大和になって?倭国は北部九州か?
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b Год назад
私も大筋そうだと思っています。 ただ宮崎⇨大和の筋道は、まだ自分の中で確証がつかめていない所です。
@user-wp6zk8dm8d
@user-wp6zk8dm8d 2 года назад
完全に同意です。邪馬台国は北九州にあったと考えます。それは魏志倭人伝に描かれている環境、生活面の記述で分かります。温暖で魚を取る。これは九州でしかありえません。(海魚でしょう。川魚では無い)省略しますが奈良盆地では無いと思うのです。また歴史、考古学は戦後、津田左右吉の記紀批判より神話的部分は排除されました。が、私が思うに水路に囲まれた纏向遺跡は崇神天皇が都を置いたと言われる水垣の宮ではないのか?と思うのです。と言う事は箸墓=崇神天皇陵ではないのか?神武天皇と並んで初代天皇と言われる崇神天皇なら年代的(四世紀前半)にも合うと思いますが・・
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 2 года назад
ありがとうございます。 箸墓を誰(達)が造ったのかを解明したくて、次の古代史探索の旅Ⅲシリーズを連載しています。 まだ道半ばですが、よろしければお付き合い下さい(笑)。
@tetsuhirohirakawa8654
@tetsuhirohirakawa8654 3 года назад
坂靖説は「直接支配の範囲は」となっていて「支配の範囲は」とはなってません。纏向遺跡周辺を直接の領土とする王が西日本全体すなわち大邪馬台国の統一の象徴として存在していたというのが畿内説の解釈でしょう。そこになんの矛盾もありませんよ。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
直接支配できてないのに、支配できていた、とか、 大邪馬台国の統一の象徴として存在、とか、 どういうご解釈なのか具体的に想像できません。 奈良盆地の中で各所にそれぞれ統治しているオウ達がいる状況で、纏向の王が西日本全体を統一している、という風に畿内説の方々は解釈されているということですか?
@tetsuhirohirakawa8654
@tetsuhirohirakawa8654 3 года назад
@@user-wj8xy3zu3b >前半 それが理解できないとは。日本人なら当然ピンとくるはずだし、歴史研究家なら尚更でしょう。奈良時代以降の天皇のことを考えてみてください。それが典型例です。権威と権力の区別くらいは知っているのでは?日本史を理解するのに最も重要な概念ですよ。
@tetsuhirohirakawa8654
@tetsuhirohirakawa8654 3 года назад
@@user-wj8xy3zu3b >後半 天皇制の期限がそこにあるということです。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
まとめて返答させて頂きます。 私は理解できません。(もちろん日本人ですが・・・笑) 象徴として置いたり、権威あるものとして崇める、 などというのは、真の権力者がそう認めていればのことで、古今東西、武力を持った権力者がそうしているだけです。 武家の時代も武士がそうしている訳ですし、戦後の天皇制もGHQがそうしたことによります。 今現在の日本はもっと民主的な国にはなりましたが、今の概念で古代を語られても、残念ですがピンときません。
@tetsuhirohirakawa8654
@tetsuhirohirakawa8654 3 года назад
@@user-wj8xy3zu3b 歴史研究の資格がないということです。
@kazuomoriya348
@kazuomoriya348 3 года назад
邪馬台国よりヤマト王権のほうが不可解ですね。並列王朝、或いはヤマト王権は邪馬台国の一属国だったと思います。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
確かにヤマト王権の方が不可解ですね。 次のシリーズⅢで挑戦することにしましたが、さてさてどうなるか、です(笑)。
@tetsujimiya5400
@tetsujimiya5400 3 года назад
魏志倭人伝に書いてあるのは、邪馬台国は倭国の都。ヤマト王権が都の一属国?
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
@@tetsujimiya5400 さん 私は邪馬台国の時代にヤマトにまだ王権は誕生していなかったと思っています。
@kazuomoriya348
@kazuomoriya348 2 года назад
日本書紀は大和を倭国と表記しています。そして日本をヤマトと読ませており、九州にあった倭国が、畿内に移り新たな日本國を形成したと考えられます。
@spvol2mongen778
@spvol2mongen778 3 года назад
ご無沙汰してます。(^_^) もともと4世紀以降とされてきた纒向遺跡が 2009年 箸墓古墳から 出土した土器のC14測定で 歴博が3世紀中頃と発表したことが 「卑弥呼の墓?!」の始まりです。 畿内説の理事も「強い操作性が垣間見える」と批判しています。 そもそもC14は年代によって含有量が変化するので誤差が激しくいい加減。 遺跡や遺物の年代を古くもっていく程 評価され 国民の関心が高い邪馬台国や卑弥呼と結びつけるとマスコミが飛びついて話題になり 発掘調査費や研究費が 跳ね上がります。 1997年の1321億円がピークでその後半減も この6年で50億円ほど増加してるそうです。(文化庁 埋蔵文化財関係統計資料) それが『アカデミック』の実状です(^_^) 土器編年より 庄内0式から1式の纒向遺跡は350年頃 箸墓古墳は布留1式が出土してますから390年から410年頃の築造です。 (参考 石渡信一郎氏) 反論のある畿内説の方は 箸墓古墳で布留1式土器と一緒に出土した「木製の輪鐙」の説明願います。 半島北部でも4世紀。半島南部、日本では5世紀からとされてますが 3世紀中頃??倭人伝「牛馬なし」ですが? 倭人伝「東に海あり」 ヤマトにはありません。 考古学、史学的にも 残念ながら無理が過ぎます。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
spvol2 mongenさん、 久々のご登場、お待ちしてました(笑)。 ご指摘の「木製の輪鐙」の話は、箸墓が3世紀ではないことを証明してますね。 以前に高島忠平先生のお話として紹介頂いた説だったでしょうか。 纏向が3世紀中庸としたところで、卑弥呼が最期を迎える頃に都市が栄えても、意味はありませんけどね。 私のコメント返信では、mongenさんのご意見を何度も転用させて頂いてきました。 今回のお話も論証の一つとして、引き出しに入れさせて頂きますね(笑)。
@spvol2mongen778
@spvol2mongen778 3 года назад
@@user-wj8xy3zu3b 桜井市のHPには「日本最古の輪鐙」と「3世紀中頃の箸墓古墳」が紹介されています。 3世紀中頃なら 世界最古です。(^-^; はい。高島先生もご指摘されてます。 魏の大将軍 司馬懿が 楽浪郡の公孫氏を討伐した238年 まさに卑弥呼が使者を送った年を描く 中国の映画やドラマでも 鐙は無く 足はブラブラ。 臀部に負担がかかるため痛みで司馬懿が馬から降り歩く描写まで。 卑弥呼の時代に 輪鐙という馬具はありません。 恥ずかしい。公的なHPでも… 坂氏も 書かれてます 楽浪郡で作られた楽浪土器も九州と東は出雲までで畿内にはありません。 司馬懿の孫が中華を統一した西晋(265年~316年)の「位至三公鏡」「双頭竜鳳丈鏡」等 いわゆる 西晋鏡の出土も北部九州が圧倒しています。 江田船山古墳を反正天皇期と学会でも反対意見をはねつけていたのが稲荷山古墳の発見で一夜にして3代繰り下がり雄略天皇期に。 (稲荷山の鉄剣は雄略でもなく欽明ですが) 2000年の「神の手 旧石器捏造」 その程度です。(^-^;
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
へ~~、そうなんだー、ていう感じですね。 この日本最古の輪鐙の話は、今、盛んに5話の中でやりとりしている、畿内派の田中健一さんに教えてあげると、面白いと思いますが。
@spvol2mongen778
@spvol2mongen778 3 года назад
@@user-wj8xy3zu3b あはは、無理 無理。 他で 議論もしましたが 邪馬台国論争で前方後円墳を論じる人とはかみ合いませ~ん 畿内の前期古墳は槨(棺を入れる為の部屋)もしくは槨に相当する石室がありますよね? 倭人伝には 「其の死には棺あるも槨無く」書いてますし 何度もゆ~てますやん。埋葬のしきたりの中で副葬品よりも重要な内部構造が変わる事は支配者の変更を意味する。って。 邪馬台国では吉野ヶ里のように甕棺や木棺などが土の中に直接埋められてます。あれです。 なのでヤマトは邪馬台国ではないし 邪馬台国の東遷もありません。 都出氏によると畿内の古いものでは北枕で埋葬する新しい しきたりも確認されてるようで 中国、朝鮮から宗教的な新しい考え方が入ってきたためだろうと。 ホケノ山古墳の事もいわれてますが 大きな積石木槨の古墳です。 積石木槨は北方騎馬民族の文化で半島では新羅に多く見られます。 年代は5世紀前半で それこそが箸墓に木製の輪鐙がある理由で~す。 313年 帯方郡と楽浪郡が高句麗により滅亡し 難民が移動した事により わが国に古墳時代が訪れます。 偏狭ナショな人とは 話出来ません。繋がってますから~(^_^) 日本最古は木槨をもつ 吉備の楯築古墳で340年頃だそうです。 ヤマトの搬入土器は 数こそ東海ですが祭祀には吉備の土器が使われてますよ~。 とにかく想定年代がデタラメすぎます。 終わり(^_^)
@tofdchannel3695
@tofdchannel3695 3 года назад
興味深く各動画拝見しました。 私なりに全体像を理解したいので、こちらの動画でいくつか質問させて頂きます。 1問目 末盧国、伊都国、奴国、不弥国はどこと考えていますか? 2問目 投馬国はどことなく考えていますか? 3問目 邪馬台国はどこと考えていますか? 4問目 狗奴国はどこと考えていますか? 5問目 この場合やはり日数、距離に問題ありとお考えですか?
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
簡潔なご質問ありがとうございます。 ①末盧国は唐津市、伊都国は糸島市、奴国は福岡市、邪馬台国はみやま市、狗奴国は、山鹿、菊池市方面、と考えております。 ②その他の国々は情報不足で特定できていません。 ③日数は行程の行き方によって変わってくると思います。距離は距離ですから、当時の単位量と精度を考慮した上で、参考にできると思っています。
@tofdchannel3695
@tofdchannel3695 3 года назад
@@user-wj8xy3zu3b ありがとうございます。 邪馬台国に水行すると書いていますが、北九州に位置付けるとかなり無理がないでしょうか? 邪馬台国が北九州付近にあるなら、なぜに使者は里数を表記せず、水行、陸行◯日などと書いた理由はどう考察されていますか? あと投馬国は位置的に経由地ではないんですかね? 奴国が福岡なら、数十カ国の国名記載のみの諸国の最後に次に奴国、ここは女王の境界のつきる所である。その南、狗奴国ありとの記述をどう考察されますか?
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
1.水行、陸行・・ 行程中、奴国までは玄界灘沿岸で、楽浪郡、帯方郡との行き来が多かったことは、楽浪土器の出土分布から明らかです。 つまり、ここまでの行程に軍事上の機密情報は無い、と。 一方、そこから南の女王国までの道筋は一部の郡使しか知り得ない情報で、当時の魏やその後の西晋にとって、呉を牽制する意味でも多少隠蔽する必要があったのだろうと考えています。 21国の羅列も牽制する意味は大きいと思います。 2.此女王境界所盡 奴国が女王国の境界とも考えられると思っています。 つまり、隣の伊都国は女王国ではないものの、但し制圧は出来ているので、なればこその一大卒を置いて監視している、と。 其南有狗奴国というのは、その女王国連合の南、と捉えています。
@tofdchannel3695
@tofdchannel3695 3 года назад
@@user-wj8xy3zu3b ①伊都と一大率について 卑弥呼は倭王で、邪馬台国(魏志が使う女王お国)はあくまで居住地又は都とする所なのは同意見ですよねね?魏志を読めば、女王国は邪馬台国を指して、女王の境界という表現と使いわけています。 読むに伊都は明らかに、女王の境界(後称で邪馬台国連合)内の国でしょう。 代々王がいる(発掘成果から古来より対外貿易の主だったか?)伊都に一大率を置いている事が、卑弥呼の統治の大きな源なんだと言えます。一帯の弥生時代を通した遺物は素晴らしく、だからこそ一大率配置の戦略的価値は文献、考古資料からも明らかです。 そもそも伊都国に一大率を配置して伊都を経由しているのは、半島との直接交流が開設出来る北九州沿岸に女王国はなく、それより遠方(距離不明)にあるからではにいでしょうか? ②奴国に関して 後漢書に奴国は極南界とある事を指摘します。あくまで福岡の奴国とは別の国ならば問題になりません。 ただ奴国、狗奴国の位置をおっしゃった様にするなら、奴国は想定されるよりも南の地域まで含む可能性を推定しないといけませんよ。那珂川流域が想定域なので可能性はありますが、この場合有名な山門郡はいずれにしても位置的に邪馬台国ではなく奴国の一部、もしくは隣国の可能性がでます。 やはりただ単純な羅列とは切り捨ては出来ませんよ。ちなみに別国説ですか、同一説ですか? ③投馬国について 魏志に女王国より以北は、その戸数や距離のだいたいのところは記載出来るが、その他のかたわらの国は遠く情報もないから、詳しく知ること出来ないとあります。 なので方角、官、副、戸数の記載があるのだから、投馬国の地理はやはり女王国以北となります。 投馬国は南だから、どこでもいいとはなりません。九州説の大きい根拠は方角が正しいという前提ですからね。きちんと邪馬台国以北、伊都、奴、不弥国の南にしないと狗奴国の方角、位置が揺らぎます。 ④水行、陸行について 投馬国経由の反論として、よく邪馬台国は陸行なら一月、水行なら10日の複数ルート説があります。このロジックを九州説で使うのは疑問があります。水行、陸行の複数ルートなら、なぜ投馬国が水行20日、陸行二月と記載がないのか疑問をもちます。 複数説や経由説どちらにしても、普通に考えて投馬国が水行しか記載がないのは、水行でしか行けない場所にあるからではないでしょうか。 邪馬台国をみやま市辺りに想定されていましたから、やはり川の水行説でしょうか?そうしても同様に女王国以北の投馬国に関する上記の疑問が残ります。 以上長文ですが、先日より誠意ある回答に感謝します。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
コメントありがとうございます。 ご主張されている内容はおおむね理解できました。 ただ議論の焦点を明確にする為に一つ質問です。 旧山門郡の地域は位置的に邪馬台国ではない、というご主張なのでしょうか?
@user-ur6xv3ez9y
@user-ur6xv3ez9y 3 года назад
北九州「邪馬台国」説、非常に説得力があり、とっても面白く拝見しました。後の「大和朝廷」が、「邪馬台国」と関係があるのか?関係があるのならば、どのような過程で成立したのか?それとも、畿内の勢力が大きくなって、「大和政権」になったのか?そういうの話も続けていただければ、大変面白いのですが。古代のロマンはつきませんね。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
ご指摘の通り、そこに続けていきたいのです。 もともとそこに一番の興味があって、それを推理する時、出発点が何処なのかで大きく変わってしまいます。 そもそも邪馬台国が大和にあったなら、ヤマト王権成立には大きな変化はなかったことになりますが、出発点が九州なら紆余曲折の史実があったことになります。 そういう理由で、邪馬台国の位置だけはある程度方向性を決めておかないと、というのがこの辺へのこだわりになっています。
@user-jj6hg1nc5j
@user-jj6hg1nc5j 3 года назад
まさしくこれが正しいと思いますね。 なぜ魏と交流するのかを考えれば大陸の後ろ盾がほしいからでしょう。 もし畿内説であれば九州に勢力が及んでいないことを考えると、畿内と魏の交流は九州の脅威となるにも関わらず何もしていないことになります。 普通に考えれば九州の南部に存在する敵国に対して優位な状態にするためと考えるべきだと思います。 もしかすると九州の争いに負けた国家が畿内に落ち延び、後のヤマト王権になったのかもしれませんね(これが日本書紀の神武東征?)。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
ありがとうございます。 最後の畿内に落ち延び・・・は、是非これから考えたいテーマですね。 伊都国と畿内のヤマト王権に関係性が見えるし、アマ族の東進もあり、頭を整理しなければならないことで、一杯です。 頭のキャパ不足ですが(笑)。
@user-di2sd1tu6n
@user-di2sd1tu6n 3 года назад
卑弥呼の時代の次の時代、古墳時代のヤマトの王権の支配地域は福島から九州まで広がります。ヤマトの王権にそれができて卑弥呼に出来なかったとする主張の根拠はどこに在るのでしょう。ヤマトには広さを克服する特別に優れたシステムがあったのでしょうか?
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
古墳時代にヤマト王権が誕生したことは同意できますが、古墳時代の初期から全国支配できていたという証拠はないと思っています。 後半のご質問は理解できていません。
@user-di2sd1tu6n
@user-di2sd1tu6n 3 года назад
@@user-wj8xy3zu3b 様動画中、魏志倭人伝の記述から九州からの道程が長大であり統治には無理がる趣旨の発言に対しての疑問です。地理的広大さを克服する術がヤマトにあって邪馬壹国になぜできなかったのか?
@user-di2sd1tu6n
@user-di2sd1tu6n 3 года назад
@@user-wj8xy3zu3b 様、前方後円墳の築造が全国で進むことをもってヤマトに服属(或いは盟約の証)と解するのが一般的な理解かと思いますが?祖先祭祀という部族のアイデンティティに関わる重要な祭祀法を共有する行為はそこに強固な絆を見て取れると思うのですが? 因みに前方後円墳はその出現期(3世紀中庸)には既に福岡に波及しています。(那珂八幡古墳・原口古墳)
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
統治には古今東西、武力支配が必要です。 ずっと後のヤマト王権とは違って、当時の邪馬台国には大規模軍事力を広域に移送できる力は無く、長大な地域を統治できないということです。 また、「前方後円墳の築造が全国で進むことをもってヤマトに服属(或いは盟約の証)と解する」と多くの方が何となく思われていると思いますが、学術的には何ら証明されていません。
@user-di2sd1tu6n
@user-di2sd1tu6n 3 года назад
@@user-wj8xy3zu3b 様、そうでしょうか?地域の首長が「こっちにつくは」と意を決すれば済む話。所領安堵が約束されれば戦わずして済む話だと思いますが。もちろん背景としての武力による威圧は必要でしょうけれど全国津々浦々軍を押し進めて睥睨して回る必要もないと思いますけどね。
@aaaaaa-sq3se
@aaaaaa-sq3se 4 месяца назад
邪馬台国九州は別に否定もしないし畿内な訳ないと思ってるけど倭人伝正直に信用しすぎだと思う。 そもそも倭人伝自体魏、晋の正当性を示す為の物でありそこに虚構が並んでてもおかしくない。特に距離。 距離は月氏国と対になるように書き加えられたのは里から行、途中から時間で書かれたのを見ても明らか。 儒教や大陸側の常識、倭国がシャーマン文化っていう所で当てはめれば当時の倭国が一夫多妻制の男系社会にも拘わらず女王を立てたっていう異常性見ても純粋な女王ではなく傀儡である可能性は高い訳で、しかし陳寿もとい晋的にはそうであってもらっては困る事情をまず考慮するべきかと。 「女王」や「土地名」「物」とかにフォーカス当てすぎると色んなものが見えなくなる。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 4 месяца назад
「裏読み」も必要ですね。 納得です。
@pocapamas
@pocapamas 3 года назад
四話で完結したと思っていたので第五話が公開されて嬉しさで歓喜しております。 9:00 同じ鋳型から作られた三角縁神獣鏡のくだり 大和王権が邪馬台国征伐の戦利品として持ち帰ったんでしょうか^^; 時代的にもぴったり合うような…
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
歓喜までして頂いて、ありがとうございます。 3話、4話での意見交換で引くに引けなくなりました(笑)。 三角縁神獣鏡のそこの話。本編でも言いましたが、色んなシナリオが考えられると思います。 ここが分かれば邪馬台国のその後とヤマト王権の関係性がみえると思うんですが・・・
@pocapamas
@pocapamas 3 года назад
@@user-wj8xy3zu3b そうですね! 本当に素晴らしい動画をありがとうございました!
@user-di2sd1tu6n
@user-di2sd1tu6n 3 года назад
鏡は鋳造品ですから同汎鏡は多数存在します。舶載鏡であれ仿製鏡であれ同じです。伝世経路が違うだけでは?
@user-di2sd1tu6n
@user-di2sd1tu6n 3 года назад
平原では「三角縁神獣鏡」は出土していないと記憶しています(時代が合わない)。で、平原・黒塚の同范鏡とは画紋帯神獣鏡のことでしょうか? 鏡は鋳造品ですから同范鏡は沢山存在し得ます(鋳造とは元々そういうう技術です)伝世の過程が違っただけなのでは? 4世紀の墓から出ないといって、それ以前に伝世していなとは言い切れません。伝わった時期と副葬された時期がずれるのはよく在る事。これをもって「3世紀の畿内には漢鏡は存在しない」とするご意見は無理があろうかと。
@user-in9cz4on7e
@user-in9cz4on7e 3 года назад
納得。 素直に考えると北部九州ですよね。 と言うことは、邪馬台国≠大和政権ですかね。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
その通りと思います。 ただヤマト王権の鏡とも言える三角縁神獣鏡の1枚に景初三年銘があるのも事実ですから、その年の意味を知っている者がヤマト王権のそばに居たのだと思います。 全く無関係とはいえない、というところでしょうか。
@masarunagainagais
@masarunagainagais 3 года назад
纒向の勢力は元々ヤマト王権とはあまり関係なかったところに神武の東征があって九州の遺産が畿内に受け継がれた、ということでしょうか? とすれば、ニギハヤイのミコトと関係ありそうで面白いですね。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
@@masarunagainagais さん、そういう興味が湧きますよね。 九州と畿内との文化的繋がりが分かる断面を探しているところです。
@user-lz5yv7xf2r
@user-lz5yv7xf2r 2 года назад
『計其道里、當在會稽東冶之東 』 その道里を計ってみると、ちょうど會稽の東冶(福建閩侯)の東にあたる。 単純に上記の文だけピックアップし緯度を考えると【南薩摩】になります。 アメブロ·古代文化研究所の橋本学さんの書かれた完読 魏志倭人伝という本が大変興味深いです。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 2 года назад
コメントありがとうございます。 南九州や沖縄なども候補地とする説もありますね。 東冶の東・・・も、そこだけそのままとればそうかも知れませんが、そちらに王が居て北部九州の諸国を統治できる世界感が想像できないのです。
@user-lz5yv7xf2r
@user-lz5yv7xf2r 2 года назад
@@user-wj8xy3zu3b 鹿児島には田の神石像がたくさんあります。稲作を伝播(当時の稲の寒冷耐性を考慮)してくれた者への感謝と豊穣を祈念していたようです。 歴史は繰り返すとよく言われます。 後世の九州覇権を手中にしつつあった島津氏の躍進、明治維新での活躍、何ら不思議ではありません。九州で同様な史実を持った国はありません。 私の考えが間違いかもしれませんが、日本の古代史はまだ解明されていません、何を言っても自由です。いろんな意見を持って解明に近づけましょう。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 2 года назад
鹿児島のことを多く知りませんが、九州の中でも独特な文化ですよね。 薩摩の人達の功績で、日の本は大きく舵を切ることができました。 色んな視点から自由に意見を言うことは大賛成です。私の意見に対して賛同頂いたり批判頂いたりすることも大歓迎です。 ただ、不明点を解明していくには、間違いをただし合う姿勢も不可欠と思っています。
@keiichiando9864
@keiichiando9864 3 года назад
たまたま、外交センスをもった小国が北九州の一地域に存在していて、その小国の記述が魏の国書にあっただけの話。それを生真面目な日本の歴史家知識人が 論争し続けて今日に至っている。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
そういう言い方もできるかも知れませんね。 ただ、その後の150年間を空白の150年と言って、古代史の空白とも言われているので、そこを研究する時にスタートの状況をより明確にしておくのは重要だと思っています。
@masamasaict7312
@masamasaict7312 9 месяцев назад
常陸国説がある。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 9 месяцев назад
ですか。 知りませんでした。
@masamasaict7312
@masamasaict7312 9 месяцев назад
@@user-wj8xy3zu3b 皇統の祖が常陸国にあるとする説もある。確かに高天原もあるみたい。あと日高見国も調べて見て。
@mk2konnzaki485
@mk2konnzaki485 2 года назад
はじめまして。興味深く拝見させていただきました。 自分は反論するだけの専門的知識は持ち合わせていないのですが、魏志倭人伝に書かれている行程の解釈につきまして、他の史書とともに考察した動画が上がっています。正直このような考察についてどのような意見をお持ちか聞いてみたくコメントさせてもらいました。 ru-vid.com/video/%D0%B2%D0%B8%D0%B4%D0%B5%D0%BE-H9RcFp7PrRw.html 近畿説・四国説ではないのでご安心ください。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 2 года назад
コメントありがとうございます。 動画拝見しました。 率直に申しますと、そういう解釈もあっていいと思います。 ただ文献のみで正解にたどり着けるかといえば、それも難しいとも思います。 2、300年議論されてきたテーマですから、文献で結論が得られるようなら、とっくに結論がでてるハズだと思う訳です。
@mk2konnzaki485
@mk2konnzaki485 2 года назад
@@user-wj8xy3zu3b ご返信いただき、ありがとうございました。
@user-rs8wt6uv9d
@user-rs8wt6uv9d 3 года назад
邪馬台国は九州から畿内に移動した
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
そういう説もありますね。 でも、その形跡を私は知りません。
@user-rs8wt6uv9d
@user-rs8wt6uv9d 3 года назад
ヒノミコは役名で複数人いた
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
そういう説もありますね。
@netmuti8289
@netmuti8289 Год назад
畿内説を唱える人達は、自分の間違いを理解するも、単に認めたく無いだけの事。 わがままな子供と一緒だね😁
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b Год назад
最初にハマった価値観から抜け出せないでいるのは、大人でもいる気がしますね。 ふぅ。
@user-fp7yf5wb9t
@user-fp7yf5wb9t 2 года назад
吉野ヶ里の写真を勝手に使うな
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 2 года назад
??? 自身で撮影した画像、映像です。 どなたかに断るべきだったでしょうか?
@hihay-rg9kb
@hihay-rg9kb Год назад
近畿説弱すぎねーか この動画でほぼ説明できてんじゃん 中国や台湾の学者も北九州説を言ってるし 近畿説は反論してみろ
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b Год назад
そうだと思いますがね(笑)。
@koikis7067
@koikis7067 2 года назад
巻向は北部九州とは別の文化、文明があったと思う。その当時の「倭」がすでに北海道以外の日本列島を統一していたという多くの見方はちょっと違和感を感じる。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 2 года назад
同感です。 当時の倭国は九州だと思いますし、大和から前方後円墳の展開とともに全国覇権が広がったという味方も、変わって行くと思っています。
@yosukekobayashi6464
@yosukekobayashi6464 3 года назад
邪馬台国は北部九州ですね。つまりどこの地域より米作が始まりました・・・食が基本ですよ。佐賀平野から筑後平野、朝倉平野から一山超えて筑豊平野の米作地帯。 北部九州の各地にある遺跡を考えると、時の卑弥呼は各地方を移動しながら治めていた。 考えてみたらよい、一カ所にじっとして広い範囲を修めることが出来ますか? それより各地方は卑弥呼の知力などを必要としていた。武力で治めたわけではないと思いますね。 それでムラと呼ばれる各地を数年単位で移動していたのではないかと考えます。 来年は卑弥呼さん(神功皇后さん)が来るので住居を整備しないといけない・・・これ! 遷宮の始まりですよ。 次の年はおいらのムラだと技術を競って建物を作っていたのでしょうね。 その習いが後年に伊勢の遷宮と繋がっていると思います。 人はその技術を連綿と伝えていきますよね、技術は決して廃れない、上達するばかりですからね・・・食が基本、だから北部九州の米作が中心地になりますね。 その後、卑弥呼さんご一行は、そのころは卑弥呼は亡くなっていたと思いますが・・・ 東進します、応仁君を中心として・・・それは鉄の生産をしなくてはならなかったからです。福岡の芥屋というところで始まったのではといわれる鉄。武器ともなり農具とも装飾品ともなり力の証しでしょうか。 砂鉄と燃料の木材を求めて中国山地を東進したと考えます。 で辿り着いた先が今の堺市、そこで応仁君は没し前方後円墳に眠ります。 どうでしょう(笑) 国は首都ではない、常に移動していたというか、その必要があったと考えます。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
分かりやすい、納得しやすいお話だと思います。 現実的に考えることは素晴らしいと思います。 畿内に邪馬台国があって、北部九州、伊都国などを支配下に置き・・・と簡単に考えてる方々がいますが、その為にいかばかりの軍隊を常駐させ、兵站をどう補給し、と現実的な要素を考えると無理な想定だと分かります。 そんなことが始められるのは6世紀、継体の時以降と考えています。
@yosukekobayashi6464
@yosukekobayashi6464 3 года назад
@@user-wj8xy3zu3b さんへ そうなんですね、6世紀なんです。 西暦528年、福岡県八女市の豪族といいますか、ヤマト政権に支配され年貢を納めていたのですね。いわゆる筑紫の磐井の反乱ですね、やく2年平定にかかってます。 先に書きましたいわゆる移動説なんですが(笑) 私は福岡県の宇美町に産まれて今も住んでおります。魏志倭人伝にいうところのフミ国(変換がでません(-_-;))ですね。 で、古代に興味が湧きまして伊都国から吉野ケ里、平塚・・・などなど実際に行きまして、当時の人々の生活を思い浮かべながら思い浮かぶことを書きました。 福岡県の今は筑前町弥永に、大己貴神社(おおなむちじんじゃ)という神社が在ります。地理的には佐賀平野、筑後平野から続きの朝倉平野の東端とでも言いましょうか、当時から江戸期までは交通の要所的場所です。其処で神功皇后さんが朝鮮出兵のときに兵が集まらないので、その地に社を立てたところたちどころに兵が参集したとの言い伝えがあります。各平野の住人たちが集まったのでしょう・・・ そして、朝倉から筑豊へ抜ける峠がありまして・・・おそらく其処を越えて筑豊へ出たのですね。 今もそうですが、おそらく当時もかな?添田町英彦山方面は良質の材木があります。これを半島へ渡る船の木材としたのではないかと思われます。もちろん船団は遠賀川を下り河口から半島を目指します。出立して帆柱が折れた船の帆柱を取り換えるために今の北九州市八幡、帆柱山から木材を切り出したとの話が残っております。 神功皇后=卑弥呼さんで考えております・・・ 当時、女傑が二人北部九州に居ましたでしょうか>これは大いに疑問です。卑弥呼は日の皇子(ひのみこ)というところから来たのではないかと、歴史小説家の・・・名が浮かびませんが(-_-;)も仰ってますね。 それから大己貴神社(おおなむちじんじゃ)には、大黒様が祀られております・・・これはとても大きな意味があると考えております。 大国主命はとても大きな人物で広く崇められていたのはその通りだと思いますが、とある女傑(神功皇后?)により殺められ、二度と生き返らないように西方浄土に向けて祀られていると聞いております。 朝鮮出兵から戻った神功皇后さんは、やはり遠賀川河口から内陸へと入りまして、今の飯塚市のほぼ中心地に上陸しそこで無事に戻ったこと、その他の祝の祭祀を執り行いますね。いわゆる祭壇をこさえて、当時は土を盛って壇を作っての祭祀だったのではないかと・・・現在、飯塚市のその地には壇の上神社があります。 その地から神功皇后さんはさらに上流方面へ、飯塚市大分の大分八幡宮で兵を解体したそうです・・・神功皇后さんはそのころ身籠ってらして、大分から私の住む宇美町へ、当時は蚊田といいましたが「しょうけ越え峠」それこそショウケを輿として乗り越えて来られました。 峠を越えて早くも見えた地を「早見」となり、ここらへんで輿を下りて大きな石に腰かけた地は「旅石」となりました。 そして今の宇美八幡宮の地で応神天皇を出産したと、日本書紀に乗っております。 つまり卑弥呼の足跡といいますか言い伝えといいますか、これは北部九州にはありません。神功皇后伝説はいたるところにあります。 といったところで私の申し上げたいところをご賢察いただきたく長々と書きましたが、まだ足りませんけどね(笑) 宜しくお読みください。私は物証には興味はありませんが・・・ 銅鏡はたしかに3世紀初めには貴重品だったでしょう、それを応仁君が東進していく際に支配下においた豪族たちに下げ渡したのが道中にあり、またその残りが畿内説の有力な証拠となっておりますでしょうが、機内に入ったころには銅鏡はそれほどの価値があったのか、こういった視点からも一考するに値すると思います。 当時も文明は速いものです、板付遺跡の米作ですが、100年もしないうちに青森まで広がったのですからね。 長くなってごめんなさい。卑弥呼さんの足跡は見つからないことと。 応神天皇が産まれた、今の宇美八幡宮に隣接して生活しておりますので、多少の古代観をもっております。ではこれで失礼します
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
現地に行って、昔の人の事を思う。 楽しいですね。 それが今住まわれている場所だとしたら、ずっとワクワクですね。 神功さんの事績を追えば、間違いなく北部九州の人だと思います。 たくさんの面白いお話有り難うございました。
@kooota7455
@kooota7455 3 года назад
記紀を読むと、仲哀天皇や神功皇后は、当時の中国どころか韓国も認識していなかったことが分かります。 年代的にはおそらく魏志倭人伝より100年程度後の天皇になるんじゃないのかな。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
確かに神功皇后は、卑弥呼の後の人だろうと思えます。 ただ、三韓征伐へ出向いている記述は記紀にありますね。史実かどうかは知らないのですが。
@kooota7455
@kooota7455 3 года назад
@@user-wj8xy3zu3b さん 日本書紀によると、 仲哀天皇は韓国出兵の神託を受けた時に「海ばっかりで国なんてないじゃん!」って感じで信じなかったせいで亡くなってしまったと書いてあります。 記紀に当時の中国や韓国が出てくるのはこれ以降になり、これ以前には登場しないのです。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
仲哀天皇、神功皇后以降だということですね。 なるほど。 不思議といえば不思議ですね。
@user-yt9fq6ug3l
@user-yt9fq6ug3l 2 года назад
金銀さくがん
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 2 года назад
???
@user-di2sd1tu6n
@user-di2sd1tu6n 3 года назад
「箸墓」以前3世紀中庸頃までには成立したと言われるいわゆる「纒向型前方後円墳」は纒向地域にホケノ山など5基。一説には2世紀を伺うともいわれる。同時期の類似の前方後円墳は東は千葉から西は佐賀県武雄市にまで分布する。少し下って3世紀後半に入ると、筑紫野市 原口古墳、福岡市 那珂八幡古墳と北部九州勢力の本貫地と思しきエリアにまで浸透する。弥生時代と古墳時代を分けるのはまさに墓制の大きな変化。弥生期には地域性豊かだった墓制が、前方後円墳の登場とともに一気にそれに収斂されていく。祖先祭祀という重要な習慣が一気に定型化されていく様は正に宗教革命と言っていい。3世紀にそれをなし得たのは「鬼道に事え能く衆を惑わす」と評された「卑弥呼」以外ないのでは?宗教的権威によって「倭国乱れ、相攻伐する事暦年」の国々を収めた。宗教的価値観の共有とその表象としての墓制(前方後円墳)が3世紀に全国に普及していく様を、九州王朝説はどの様に説明されますか?
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
前方後円墳の広がりは古墳時代の話で、卑弥呼以降の展開です。邪馬台国と直接つながる訳ではありません。 第1、2話で言っているように、九州王朝説は仮説ですので、まだまだ説明しきれない要素はたくさんあると認識しています。 まだまだ闇の中なのでしょう。
@user-di2sd1tu6n
@user-di2sd1tu6n 3 года назад
@@user-wj8xy3zu3b 様、前方後円墳の出現時期はは卑弥呼の時代と重なりますよ。箸墓に先んじると言われるいわゆる「纒向型前方後円墳」は時代区分の改定に慎重な人々は敢えて「墳丘墓」と呼びますが、紛れもなく前方後円墳。しかも出現と期をいつにして全国に伝播する。九州でも福岡市 那珂八幡古墳や、筑紫野市 原口古墳がそれにあたる。確かに本格的な普及は卑弥呼後になるのでしょうが、卑弥呼期〜台よ期にかけて既にその伝播が見られる。勉強熱心な貴兄にしては?な回答に思います。。。
@user-di2sd1tu6n
@user-di2sd1tu6n 3 года назад
@@user-wj8xy3zu3b 様、公開の場で堂々と「仮説」を「断定」されているので、対する反証をキチンと論証していく気概をお持ちの方とお見受けしているので今後の反論に期待しています(^^)
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
ん~~。時期が重なるかも知れないから、何と?
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
仮説と断定は使い分けているつもりでおりますが、混同しているところがあれば、ご指摘くだされ。
@yukizokin
@yukizokin 3 года назад
三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡だと考える人は畿内説論者にももういないんじゃないのかと。わざわざ新たに大々的に解説せずとも「昔は教科書に掲載された有力な証拠でしたが、その後の調査で魏志倭人伝にある100枚を大きく超える600枚が見つかって証拠としての価値が薄まっています」くらいにさらっと流せると思う。この動画を作った人から見た畿内説論者の論点だというのだからそうだとみるべきですが、それなら「見当違いな事を言ってるな」という感想にしかならないです。折角各地を取材されて映像も付けて戴けてる行動的な貴重な動画シリーズだと思うので余計かもしれませんが意見を挟ませていただきました。失礼しました。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
三角縁神獣鏡の論拠に見切りを付けられた畿内論者の方々にはそう映るかも知れません。 しかし、現在も古代鏡の重鎮でいらっしゃる(と私は勝手に思っていますが)岡村秀典氏は、未だに卑弥呼の鏡、その後の鏡は壱与などの鏡とおっしゃってますので、私ごときが失礼なのは承知ですが異を唱えております。
@user-di2sd1tu6n
@user-di2sd1tu6n 3 года назад
出現期古墳(弥生終末期)と目される「ホケノ山」からは画紋帯神獣鏡3面、内行花文鏡片1片、鉄鏃•鉄剣等多数が出土しております。王墓と呼ぶに相応しいのでは?逆に3世紀の魏との交易を示す遺物は北部九州には在るのですか?
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
別のところで回答しましたので、ここは割愛させて頂きます。
@yutakayasunaga8054
@yutakayasunaga8054 3 года назад
卑弥呼の墓は丸墳で50M 箸墓古墳は前方後円墳でありえない:どこおどう調査しても近畿説はありえない いつまで忖度するのか
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
有り得ないですね、本当に。 推しの人達はともかく、学者さん達が本当にそう思って発言されているのか、聞いてみたいですね。
@00925187
@00925187 3 года назад
では、その50m丸墳とやらは九州あるいはそれ以外の一体どこにあるんです? そもそも径と表記されているかと言って、円形だとは限らないんですよ?前方後円墳は後円部が墓で、前方部は祭壇ですからね もともと弥生時代後期後半の吉備播磨四国畿内などの円形の墓から前方部が大きく発達してきたものであることは、邪馬台国や卑弥呼 などという文献とは何ら関係なく考古学的には認知されていることですし それに、九州説ファンの多くが卑弥呼の墓と信じてやまない祇園山古墳や平原方形周溝墓は四角形なんですがね? ありえないというのは、自分の知識が足りてないということでもあるんですよ
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
@@00925187 さん 箸墓が卑弥呼の墓ではないから近畿説はありえない、と考える方もいるでしょうが、私はこの動画で述べている理由で、纏向は有り得ないと思っています。 卑弥呼の墓が見つかれば話は早いですが、私は没後の騒乱で取り壊された可能性もあるとみています。
@00925187
@00925187 3 года назад
@@user-wj8xy3zu3b それを言い出せば、なんでもありですよ(苦笑)>取り壊された 卑弥呼の宮殿も取り壊され、鏡百枚も奪われ、その地下に残る遺構も遺物もなにもかも根こそぎ潰されたんだと強弁できてしまう 対立説には厳密な証拠を求めるのに、自説は想像で済ませてしまうのはさすがに整合性と説得力を失うでしょ そもそも大きな墓を作る習慣は吉野ヶ里遺跡(弥生中期)という例外があっても、それ以外にはほとんどなかった地域であることをお忘れなく
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
次郎山田さん、 すみませんが、論点がよく見えません。 卑弥呼の宮殿も、鏡百枚も、親魏倭王の印も、卑弥呼の墓もどこにあるか不明です。 私は墓については取り壊された可能性を述べました。 ご主張はなんでしょうか?
@user-nz4lw4mm4b
@user-nz4lw4mm4b Год назад
邪馬台国は北九州です。箸墓古墳は卑弥呼の墓ではありません。そもそも邪馬台国とヤマト王権は連続していません。「ヤマト王権」が卑弥呼を殺したからです。その勢力は高句麗から南下した東川王勢力です。日向・高千穂から東遷したのは1世紀前の大国主勢力であり、北九州の邪馬台国を避けて、出雲・丹後・越を経て最初に畿内に王権を築いていた。だからこの勢力を神武天皇として貶め東川王を隠している。ヤマトの長髄彦こそ大国主です。邪馬台国畿内説を説くものは半島から来た東川王を隠したいのです。五胡十六国時代の4世紀は大陸から多くの勢力が列島に来たのです。垂仁天皇やヤマトタケル、応神など、更には継体天皇も聖徳太子も皆大陸人でしょう。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b Год назад
東川王についてよく知らないのですが、日本に来たということでしょうか?
@user-nz4lw4mm4b
@user-nz4lw4mm4b Год назад
@@user-wj8xy3zu3b 東川王は高句麗の王として実在しています。ここに述べたのは私の個人的な意見ではありません。小林恵子氏の「日本古代史全9巻」の第1巻に書かれています。卑弥呼は魏に朝貢してますが、邪馬台国の時代中国は魏が晋に代わりやがて北方騎馬民族が乱入して「五胡十六国」時代の乱世に入ります。高句麗だけではなく、中国の燕から北魏から続々と倭国にやって来たのです。東川王勢力は燕から来た垂仁やヤマトタケル(慕容氏)にとって変わられます。「万世一系」を謳いたい8世紀の日本書紀はあたかも倭国内で日本が成立したように見せたいだけで、そんなことはあり得ません。前方後円墳は卑弥呼が殺されてから聖徳太子以前まで造営されますが、これは半島の方墳と列島の円墳をくっ付けたもので「2つの国で王」になったことを示します。宮内庁は未だに前方後円墳の発掘を許可しないのもそうした理由があると思います。前方後円墳を発掘すれば日本の古代は今のような不毛な論争をしていないでしょう。証拠はそこにあるのですから。
@user-dg7ud6eb6p
@user-dg7ud6eb6p 3 года назад
纒向遺跡に戦乱の跡が無いのは、魏志倭人伝を鵜呑みにすれば、女王を立て戦乱を治めたので、武器が無くて当然
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
卑弥呼が女王になる前は戦いが継続していました。 邪馬台国と狗那国との戦いはその後も継続しています。弥生時代の奈良盆地にもいくつもの集落が有りましたが、戦いも無く、考古学で考えられるような王の存在もありませんでした。
@user-nd7gz8tw3l
@user-nd7gz8tw3l 3 года назад
ほうら見ろ。九州説を信じる。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
ですね。
@fukufukumantv8102
@fukufukumantv8102 3 года назад
真実は、山門にいた卑弥呼は、崇神天皇のミマキと共に畿内に移り遷都し、それからそこが邪馬台国です。邪馬台国は、ヤマトコクと読みます。魏の役人が山門を訪れた後、何十年かして、畿内に移った卑弥呼は、金印を貰ってます。だからミマキは、神武天皇同じ御肇国天皇なのです。崇神天皇の上にいた方が祭祀王の卑弥呼こと、倭迹迹日百襲姫命です。大乱で北九州に追いやられた天皇家は、畿内を奪還したのです。それからが、大和王権の始まりです。糸島にあった鏡が畿内で見つかるのは当然ですね。欠史八代は、畿内から北九州に逃げていた時代です。御肇国天皇が二人いる事が真実を物語っています。北九州久留米辺りに欠史八代の痕跡が神社としてのこってますから、そこを探す旅も楽しいかもしれませんよ。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
欠史八代の痕跡を久留米あたりに探す旅はとても魅力的です。 ご提案ありがとうございます。 前半の推論についてですが、記紀の伝承を主体に考えるとそのような筋書きも描けるかも知れません。 北部九州にあった女王連合国の一部が大乱を逃れて畿内へ逃れたことも推察できます。 しかし、倭国で大乱があったとされる2世紀後半に纏向で戦乱があった痕跡は何もありませんん。 「大乱で北九州に追いやられた天皇家・・」という推論には残念ながら賛同できません。
@fukufukumantv8102
@fukufukumantv8102 3 года назад
倭国大乱は主に孝霊天皇が四国から吉備を攻めた頃のあたりです。イトク天皇の時には、攻められて四国 、九州に逃げていました。北九州に転々と遷都したあと、孝霊天皇の時に。決起、崇神天皇からマキムクに来ました。これは、推測や考察ではなく。帝記に残る記録です。事実だと思います。吉備との戦に勝った後、吉備とマキムクは卑弥呼の兄弟で支配してます。一応記録に残る事実。考察ではありません。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
そういった記録が綴られている帝紀が残っているとは知りませんでした。 宜しければ出典名を教えて頂けないでしょうか? 私も勉強してみたいです。
@fukufukumantv8102
@fukufukumantv8102 3 года назад
去年亡くなられた竹内陸秦さんが正式な帝記の伝承者です。古事記の邪馬台国に詳しく書かれています。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
古史古伝を扱われる際は、何故あなたがその部分を正しいと思われたかの見解を添えられると、議論になり得るのではないかと思います。 そうでなければ、議論は難しいです。
@user-zt5qk9yu4u
@user-zt5qk9yu4u 3 года назад
知ってます? 伊予という漢字、分解してみて下さい。逆に読むとカタカナで、ヤマタイって読めます。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
ホントだー!!
@schu282
@schu282 3 года назад
伊は徳島、予は愛媛のことですね。
@user-zt5qk9yu4u
@user-zt5qk9yu4u 3 года назад
@@schu282 そうなんですか。初めて知りました。ありがとうございます。昔は、池田フィーバーすごかったです。
@schu282
@schu282 3 года назад
@@user-zt5qk9yu4u さん、私は邪馬壹(やまと)国は徳島だと思います。(台は本居宣長が勝手にすり替えちゃったので、漢字を。正しくはヤマトと読みます。) なので、ヤマト国は普通ですと奈良ですね。 徳島である証拠はたくさんあるのですが、説明しやすい一例だけ。 式内社には、大国魂神社が3つあります。崇神天皇の時の話ですね。 ①大和坐大国魂神社(奈良県) ②大和大国魂神社(淡路島) ③倭大国玉神大国敷神社(徳島県) 奈良や京都の式内社は「〇〇坐」神社が多いのですが、これは「〇〇においでなさった」という意味です。 また、奈良や淡路島のヤマトには、「大」が付いていて、徳島の神社にはヤマト(倭)のみです。 これらから、徳島から淡路島、そして奈良へ都が移ったのだと思います。 徳島の式内社を見ていただくと、古事記の神様がそのままついた神社が多いですよ。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
@@schu282 さん、途中割り込み失礼します。 邪馬壹を「やまと」と読むことは否定しませんが、「やまと」という地名でいうと、九州にも「やまと」があります。 古事記と邪馬台国を結び付ける為には、さらに追加の論拠が必要になってきますね。 記紀には魏志倭人伝からの引用が僅かに記されているだけなので。
@user-kn8iu9il8o
@user-kn8iu9il8o 3 года назад
魏志倭人伝という書物はそれほど正確な書物なのでしょうか? 北九州にあった国と同時期に近畿の大和にあれだけ大きな国があったにもかかわらず、全く書かれていない、そんな書物の信憑性は如何なものでしょう。 それと鏡の件、卑弥呼が魏から贈られた鏡は卑弥呼の墓から出てくると思いますよ。 卑弥呼の墓、つまり箸墓古墳から出てくるのではないでしょうか?
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
卑弥呼がいた時代、大和では大陸と交易した証となる物が何も発見されていないので、人がそこそこ住んでいたとしても、多分何も関係性が無く知らなかったのだろうと思います。
@user-kn8iu9il8o
@user-kn8iu9il8o 3 года назад
@@user-wj8xy3zu3b さん、それでは神武東征は何を目指して東征したのでしょうか? そこに何かがあったからではないでしょうか? それと、大和政権では西日本はほぼ支配下にあった訳ですから、卑弥呼の時代に集落の有無がわからなかった筈はないと思いますよ。 あと、卑弥呼が魏から贈られた鏡というのがありますが、これは卑弥呼の墓から出てくる可能性があります。つまり、箸墓古墳が卑弥呼の墓ならば、出てくる可能性はあります。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
@@user-kn8iu9il8o さん 卑弥呼の時代にヤマト王権が西日本を支配していた形跡は一切ないので、それは無かったのだと思います。 神武東征も卑弥呼の時代の前にあったことだとすると、逆にその時代の大和からは鉄剣、銅剣などの金属製品が全く出土しない為、つじつまは合いません。 箸墓が誰の墓かは別にして、発掘を許されれば、それは凄い物が出てくるハズですね。
@user-kn8iu9il8o
@user-kn8iu9il8o 3 года назад
@@user-wj8xy3zu3b さん、神武東征は鉄剣や銅鐸が目的だったのですか? 歴史的には、神武東征が行われた時は既に大和地方を治めていた権力があったはずなのですが? 卑弥呼の時代から引き続いて大和政権という流れが一番自然だと思いますよ。 もし北九州に中央集権があったなら、そこから東方圏への文化の発展も考えられませんし、朝鮮半島から丹後への渡来、そして最古の前方後円墳が箸墓古墳という事実を考慮した場合、ヤマトから九州への影響ありきと考えるのが自然ではないでしょうか?
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
@@user-kn8iu9il8o さん 度々のコメントありがとうございます。 ザックリと複数のご指摘・ご質問がありますので、分けて回答させて頂きます。 ①神武東征は鉄剣や銅鐸が目的?  →目的という訳でなく、武力侵攻なのでその後の政権なら金属武器を持っていたはずだが全く発見されていないです。 ②歴史的には、既に大和地方を治めていた権力があったはず  →「歴史的には」は「記紀では」ということだろうと思います。  私が申し上げているのは「考古学的には」という観点です。 ③もし北九州に中央集権があったなら・・  →九州に中央集権があったとは思っていません。 ④朝鮮半島から丹後への渡来・・  →どの事実のことを指されているか不明です。 以上、回答になってますでしょうか。
@user-xk2ol7hv4c
@user-xk2ol7hv4c 3 года назад
邪馬台は大和はいおわり
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
そんなコメントでは本当に畿内説は終わっちゃいますよ。
@user-xk2ol7hv4c
@user-xk2ol7hv4c 3 года назад
@@user-wj8xy3zu3b バカに限って余計な能書きガタガタ抜かす
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
了解しました。
@tetsuhirohirakawa8654
@tetsuhirohirakawa8654 3 года назад
九州由来の土器がほとんど見つかっていない。すなわち、九州が近畿の支配を受けた形跡はほとんど見えない。 この主張に対しては、卑弥呼を象徴とする大邪馬台国連合と卑弥呼の邪馬台国による西日本支配を概念的に区別できず、魏志倭人伝が正確に前者だと言っているのに、それを間違えて後者のように理解していると指摘することができます。 卑弥呼が象徴として君臨していても、実権は、特に外交上の特権は、北九州勢力が、女王国から北九州に出向しているイクメやミマキのリーダーシップの元で振るっていたと考えるべきでしょう。 換言すると、後漢の乱れに伴って九州やその他のいくつかの地域に大陸から押し出されるように侵入してきた勢力の影響で倭国大乱が生じ、九州に侵入した比較的強大な侵入勢力も、中国地方以東の西日本は勿論、九州内の他勢力すら圧倒的に制圧するというまでには至らず、結局は、黒潮沿いに南九州から四国南岸、近畿、東海地方に古くから植民と公益によって緩いネットワークを形成していた、南九州と近畿のどちらにも拠点を持っていた邪馬台国の、中国地方以東と九州の全般に及ぶ求心力を利用するのでないと、倭国大乱を鎮めることができず、外交に専念することもできなかったということになります。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
互いに攻め合い決着も付けきれず、不毛な争いを避ける形で卑弥呼が共立されたのだと理解しています。 その時点での戦乱参加国は軍事的に拮抗していなければ、そのような状況にはなりえません。 仮に、畿内に邪馬台国があったとすると、擁立された卑弥呼はともかく、補佐する男王の勢力が、北部九州の強国群(半島・大陸へ実力行使できるレベル)と、軍事的に拮抗できていなければそのようなことにはなりません。 当時そのような王権は畿内にはありませんでした。 考古学的に言えることです。
@tetsuhirohirakawa8654
@tetsuhirohirakawa8654 3 года назад
@@user-wj8xy3zu3b >全体 かんれいのかんに
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
???
@tetsuhirohirakawa8654
@tetsuhirohirakawa8654 3 года назад
桓霊の間の中原の混乱に押し出されるかのように列島に入ってきた勢力とは、武力において列島のあらゆる勢力を凌駕していましたはずですから、やろうと思ったら列島の従来の住民を殲滅できたと思います。なのに、実際はそうしなかった。そこに邪馬台国問題を含めた日本史全体の秘密が隠されています。 考古学の最新成果だけを追いかけているとこういう類の本質問題が問題として浮かんでこなくなるのです。中原や半島の文献は勿論、西域の各国の歴史書を網羅しつつ、想像力を最大限使うということがない限り、そういうことになってしまいます。縄文時代をまふだ、縄文土器の時代と思っていませんか? 具体的には、それこそ色々ありますけど、あなたが最もびっくりしなさそうなことをやんわり申し上げると、中原から混乱に押し出される形で列島に入ってきた勢力は、民ではなく軍団と官僚組織を中核とした組織体になると思いますが、実はその大半がかつて列島から計画的に送り込まれ、列島の最も奥からの密かな支援を受け続ける形で中原社会で高い地位を確立し役割を果たしていたものだったです。更には、時を経た後にその役割を終えて、かの奥が新たに描いた次の時代の世界構想に基づいて、その命を受けて列島に帰還したものだった。だから、どれもこれも列島に入った途端に何故か牙を抜かれたかのように戦闘的ではなくなり、列島社会も平気で社会の上層に彼らを迎え入れるということが起こってきたのです。一部は裏事情の分かっていない勢力が混ざっていてある程度は混乱しましたが、それが卑弥呼が共立されたくらいで収まることの本当の意味を悟るべきです。そもそも、半島沿岸まで来た騎馬民族を船で列島まで運んだのは、列島周辺から大陸沿岸域で活発に活動していた列島の海の民でしょう。これを考えるだけで、上に述べたことが夢物語でないことが分かりませんか?また、ローマにおいて属州の統治官を終えた人物がその配下を引き連れてローマに帰還し、次のローマ皇帝家を打ち立てていくさまは、列島のものより破滅的な混乱を多く含むものの、ある程度は列島に関して上に述べたことに類似した事例であると言えます。 近現代において朝鮮や満州国、北朝鮮が担っている緩衝国の役割を、当時は高句麗など半島諸国が第1段階で受け持ち、列島内では九州が第二段階で受け持っていたのです。中原でも、史上有名な氏族の予想よりも多くのものが列島による隠れた配置とコントロール、支援を受け、その使命を果たしてきたと見るべきです。ほんの数例を上げると、呂氏や陳氏です。蜀の出身で江南にも縁故の多かった魏志倭人伝の編纂者の名前は陳寿でしたよね。陳は列島では佐伯と呼ばれる氏族だそうですよ。 これは普通の歴史観にはなかなか入ってこないアイデアですが、よく考えると当然のことではないでしょうか?倭人は決して原始人ではなかったのです。それどころか、世界で最も古い起源を持つ才能豊かな人々だったのですよ。倭は差別語ではなかったのです。それは魏という漢字と比較すれば一目瞭然です。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
壮大なお話で、私のような者は知識もなく理解できません。 私がこちらへ誘導しておきながら大変申し訳ありませんが、そのような議論については、御貴殿のブログ「飛鷹満随想録」内でされるのが良いと思います。 大変申し訳ありません。
@user-zm6iw4cl2z
@user-zm6iw4cl2z 3 года назад
他の方に紹介していただいたので拝見しました。 考古学についての見解は全く的外れだと思いますね。 巻向遺跡は鬼道使いである卑弥呼の宮として相応しい点の考察が欠落しています。 この動画でも皆無な時点で論外でした。 当時の中国視点で鬼道とは初期道教です。鏡や水銀朱、桃も神仙思想には道教には必需品ですからね。 三角縁神獣鏡は国産鏡ですね、国産出来るという事は道教の影響を受けていますので、それは大陸の思想を既に理解している証拠でしかありませんよ。 鏡作神社は鍵唐古遺跡の西側にある点も見逃せません。 そこはヤマトトト匕モモソヒメの生誕場所だと言われている場所の近所ですからね。 それに巻向の背後には丹山があります。勿論九州に当時は丹山の痕跡がありません。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
あなたが批判的であることは理解できましたが、以下がよく理解できません。 ①巻向遺跡は鬼道使いである卑弥呼の宮として相応しい ②当時の中国視点で鬼道とは初期道教 なお、三角縁神獣鏡が国産鏡というのは同意です。 三角縁神獣鏡の内区が伝来している鏡作神社と合わせて、ヤマト王権の鏡と考えています。
@user-zm6iw4cl2z
@user-zm6iw4cl2z 3 года назад
@@user-wj8xy3zu3b 魏史倭人伝は元々三世紀後半に編纂された資料です。それまで鬼道とは雑多な宗教を総称していましたが、それ等が後の道教として台頭していった時期にあたります。 道教とは雑多な宗教の集大成のような形で形成された結果ですが基本的に神仙思想ですよ。 最初に編纂された初期道教の資料といえる抱朴子は四世紀初頭ですからね。 まず巻向遺跡は三世紀前後、奈良盆地に表れた祭祀目的に特化したものでしょう。 三輪山の背後には宇陀水銀の山々が控えています。 それと同時に鏡、特に神獣鏡が周辺古墳から集中して出土したり、黒塚古墳のように水銀朱が石室内に多量に使われた古墳が表れはじめている以上は、 奈良盆地辺りは当時大陸で台頭していた神仙思想の影響が強いと見るのが普通でしょう。 三角縁神獣鏡を国産出来るという事は、当時それが流行っていたと見るべきです。 倭人伝を解釈するならまず当時の大陸側の資料をもっと調べるべきですね。大陸側の資料では鬼道は初期道教にあたります。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
@@user-zm6iw4cl2z さん、ご丁寧にありがとうございます。 「鬼道でよく衆を惑わす」位の認識しかありませんでしたが、初期道教に関連するという見方もある訳ですね。 ただ、Wikiで調べてみると、諸説あり・・・となり、こうだ、という話にはならなさそうです。 古墳時代初期には纏向のあたりも中国文化の影響を受けていることは認識していますが、その100年以上前から使役を通じていた痕跡はこの地にはありません。 三角縁神獣鏡は、土器編年では布留式期のもので、卑弥呼の後の時代のものです。
@user-zm6iw4cl2z
@user-zm6iw4cl2z 3 года назад
@@user-wj8xy3zu3b まず畿内へは、弥生時代中期頃に銅鏡伝播の第一波として多鈕細文鏡が河内や葛城地方に流れており、東北アジアから半島、北部九州を経由して人の流れがある事は確定してます。 北部九州から南ではなく東側へ向かっているのも重要な点ですよ。 また神仙思想の影響を受けた鏡は画文帯神獣鏡が三角縁神獣鏡以前に畿内にも出土しておりますから、 卑弥呼と同時期の神仙思想を反映した国産ではない鏡も既に畿内にはありますからね。 また貨泉といった中国の貨幣も弥生時代中期に同様な出土傾向が見られますので、北部九州から吉備、河内といった交易の流れも考古学的には既に実証済みでしょう。 これ等は邪馬台国の時代の数百年前の話ですので、三世紀以前から畿内と半島や大陸との交易の流れは既に活発だと見るのが畿内説の根本にあります。
@user-wj8xy3zu3b
@user-wj8xy3zu3b 3 года назад
弥生時代の広範囲に、西日本の西から東へ、文化、人々の移動があったことは認識しています。 その一つの証として、「貸泉」の例を挙げられていますが、この時代の遺跡から出土する貨泉は、広く山梨から鹿児島まで分布しています。 総数91点で、分布の中心は福岡県と長崎県です。 近畿地方からの出土もありますが、限定的です。 これが出たから、漢、魏の時代に使役を通じていたと解釈するには無理があります。 後漢鏡としての画文帯神獣鏡は、確かに神仙思想を受けているといってもいいと思いますが、出土したホケノ山古墳は弥生期ではありません。 景初三年銘の画文帯神獣鏡もありますが、景初三年銘の三角縁神獣鏡と同一工房で製作されたものとされています。 多鈕細文鏡は、弥生期の各地から出土しており、西から東へ文化、人々の移動を表しているとも思いますが、畿内が何か特別な地域だとこれからは言えないと思います。 「畿内説の根本」を考え直す時期ではないでしょうか?
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