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【悲惨な末路】武田軍で「長篠の戦い」に参戦したら地獄すぎた!信長、家康連合軍の恐怖!ずんだもん歴史解説 

闇の歴史だもん
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戦国時代、甲斐のほか信濃・駿河などを手に入れた武田信玄は、いよいよ織田・徳川との全面対決に臨みました。
ところが志半ばで病没してしまい、その野望は四男の勝頼が継ぐことになります。
圧倒的な戦力と巧みな戦術で、徳川家康を押しまくる勝頼ですが、そこに立ちはだかったのが織田信長です。
天正3年(1575年)、長篠・設楽原において決戦を挑む武田軍ですが、はたしてどのような戦いになったのでしょうか。
新説を交えつつ合戦の状況を見ていきましょう。
#歴史,#日本の歴史,#ずんだもん

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7 сен 2024

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Комментарии : 64   
@user-kn1fx6bg6i
@user-kn1fx6bg6i 7 месяцев назад
史学者は「武田側も相当数の鉄砲を長篠の戦に持ち込んでいるから、武田も織田も鉄砲の運用に関して大差ない」と語る人が目立つんだが 当時の資料にもある通り、「織田は鉄砲を撃ち続け、武田側は鉄砲を早い段階で打ち尽くす」、「佐々や前田に鉄砲が集中的に回された」という情報は、軍事的に非常に重大な内容ではないかと思っている。 これは、「火縄銃を討ち続けるためには?」を当然織田方は研究してるだろうし、鉄砲の集中運用を意味しているだろう。 武田側は各武将が手持ちの武装を持ち寄り、その数が1000で各自が弓槍と同様に鉄砲を扱うならそれは個としてしか活用できていないに等しい 一方で、織田は鉄砲生産拠点「国友」「堺」「近江日野」と抑え、武将らはそれぞれ所属部署からまとめて発注供給を受けていただろう。銃の取り扱い銃弾の製作から組織的運用について 考える場面、勉強する場は多かったと思われる。 その結果、長篠の合戦で織田は鉄砲を撃ち続けることが出来、銃身が焼けても冷却するために水や桶を十分に確保し、尚且つ、戦場で随時分解整備を行い、弾薬切れ、銃身の暴発 銃身の赤熱防止に対応してたことが判る。このためには鉄砲を集中運用する必要があり、個々が勝手に戦場に持ち込んで撃つと言う事はしていないのだろう。 この段階で欧州での鉄砲運用と日本のそれとでは歴然とした差があり さらに、小牧長久手の戦いで小牧城周辺の攻防で、より進化した形で戦場で活用されていた。
@user-tp9lu4bt6y
@user-tp9lu4bt6y 6 месяцев назад
鉄砲装備率は同等らしいですからね。 長篠城攻略戦で熾烈な銃撃戦が行われ「土塀は(土が崩れて中子の竹が露出して)駕籠のようになり、木戸は(銃撃の穴だらけで)障子の桟のようになり」と後に家康が述べており、武田側は長篠城攻囲戦で相当な弾薬を消費していたため設楽原決戦では早々に弾薬欠乏を起こしたのであろう。当時の銃や弾薬は規格化されているわけではないのでその銃用の玉と丸薬が無くなれば継戦不能。Aの銃は破損して射撃不能、Bの銃は玉が無くなり射撃できないといった状況で、A銃の玉を流用してB銃を撃てるというわけではないという環境では条件は厳しくなる。同じ工房で同じ寸法で作った銃なら流用も効くだろうが、これは織田側のアドバンテージ。 長篠戦後、勝頼が銃一門にたいして300発分の玉と装薬の準備を求めたのは、そういうことだと思います。
@user-kn1fx6bg6i
@user-kn1fx6bg6i 4 месяца назад
@@user-tp9lu4bt6y 少なくとも、弾に関しては規格化されている。これは製造過程で心棒を春巻きの様に包む作業からスタートするからで、この段階で心棒が規格化されバレルの口径はある程度定まる。 そこから巻金で補強していくので多少の狂いは生じるが、心棒での確認は行い続け銃身の精度を維持する。 次に弾丸作りにおいて、金嘴に弾丸の鋳型が付いたものが火縄銃とセットで取引されることになっている。 この鋳型で作れるのは鉛の弾丸だけで、ここに武田と織田の決定的な差が生じることになる。 記録上、武田方の弾丸は銅や鉄が主で鉛は流通量が乏しい 織田による経済制裁は大きく駿河を手に入れても南蛮貿易による入荷は伸び悩んだのだろう。また、領内からの金銀の流出にもつながったのだろう。 金嘴による鋳型で鉛玉を製造する限りは、これは武家の家内製で多くは賄われる。また、陣中でも配給が容易になる。 一方で銅や鉄は現場での製作はまず無理である。武家家内での製作も極めて難しく おのおの鍛冶職に発注しなくてはならない。 それが実際に使えるかも不明だし、銃身の劣化にもつながる。 果たして「300発分の」と言うのはどこまで有効だったのかもなぞだ 長篠城は小城なので1000丁×100発でも相当なダメージを受けることになるし 3-4日撃ちまくっても、装填速度や火薬の燃焼温度と冷却で火縄銃では100発も消費しきれない。 家臣単位で弾薬調達委ねた時点で、彼らの多くはそれを準備できていないだろう。
@user-pu3ze3jw5z
@user-pu3ze3jw5z Месяц назад
原さんミスって死亡が痛い
@user-jc6xp2nj9m
@user-jc6xp2nj9m 6 месяцев назад
歴史の新説を様々動画で紹介してくれる方々に感謝を。大変わかりやすく、また「勝頼公は長篠合戦を早々に見切っていた」という説が出て興味深かったです。 他の方の動画等を含めて、この合戦の疑問は、なぜ、武田軍が、長篠城を落とす前に、有利な地形を捨てて、設楽原まで出てきて攻撃したかと思います。寒狭川の西側台地から信玄台地(勝頼公の最前進位置)までは「切所」という「騎馬十騎」程度しか展開できない地形が多く、数の優勢を生かせない、武田軍にとって有利な地形だと思います。長篠城を救わなければならないのは織田・徳川側ですから、武田軍こそが待ち受け、「切所」に進出してきた敵をたたけばよかったのでは考えてしまいます。織田・徳川軍が「馬防柵」に立て籠もり動かず、武田側は東三河を荒らし回った上に長篠城を落としたのであれば、勝利を主張できる十分な成果であったと思うのですが。長篠合戦の解説本では、設楽原から、前田隊や大久保隊が二十町(2キロ)ほど前進したという資料もあるということですので、武田軍がこの敵を攻撃したというのは納得できます。その場合でも、信玄台地まで進出したところで攻勢限界(彼我の優勢が逆転する線)であることは歴戦の武将ならわかったのではないかと思います(酒井隊の奇襲を知ったのならばなおさら)。それでも攻撃したのは何故か(しかも馬防柵に向かって鶴翼の陣形で)、是非また動画等で紹介していただければと思います。(信玄台地からわずか3町(300m)の弾正山に信長公・家康公がいたから絶好の機会とそこに向かって突撃したのかと思っていますが)
@user-qc2lq4gu8q
@user-qc2lq4gu8q 6 месяцев назад
私が聞いた話では、武田軍が設楽ヶ原に出たのは長篠城を攻めている最中、あるいは落とした直後に織田・徳川軍に攻められる事を恐れたからではないのかとされているらしいです。 最初から全軍で長篠城を落としたとしても、そうなったら織田・徳川軍が武田軍が落としたばかりの長篠城の守りを固める間も無く打って出てきて、武田軍を追い払うだけならまだしも、兵糧や弾薬が尽きた長篠城に武田軍を押し込んで兵糧攻めしてきたら、遠征軍の武田は兵糧切れしたら全滅するしかない。 一方で徳川は自軍の本領である上に、信長の本領である尾張にも近いから、信長や織田軍主力が引き上げてもすぐに援軍を出して武田軍が兵糧切れするまで包囲を維持できればいい。 そして織田には長期の兵糧攻めが可能な財力と兵力がある。 それならば勝頼率いる本隊は設楽ヶ原に出て馬防柵に篭っている織田・徳川軍が出てこないように牽制する。 仮に出てきたならばその時は戦えばいい。 そうして睨み合い、小競り合いをしている間に鳶ヶ巣山砦に配置した軍勢で長篠城を落として退路を確保する事を狙っていたと。 その根拠は勝頼が布陣した連吾川東側にも陣地を築いたような跡がある事からだそうです。 連吾川を挟んで睨み合いを続け、その間に鳶ヶ巣山砦に配置した軍勢で長篠城を落とし、その後に長篠城の守りを固める事を狙っていたと。
@ZZ-ce7uw
@ZZ-ce7uw 3 месяца назад
織田と武田の間で経済力が圧倒的に違っていたとは聞いたことありますね。 武田領全体で重税してようやく絞り出した額と信長領の港1つ分の利益が同じくらいだったと聞いたことありますね。
@user-sm5vs8rf3r
@user-sm5vs8rf3r 6 месяцев назад
武田家滅亡のかなり直接的な要因は高天神城の攻略だったんだよね。 長篠の戦いの前年に高天神城を攻略したのだが、北条、徳川の間に楔を打ち込む形になったが、武田領地からあまりに離れていたため逆に徳川に包囲され食糧が切れて殲滅されてしまった。 高天神城の味方を見殺しにしたために武田家内部から裏切りが続出し武田家は滅んだ。 長篠の戦いが起きたのも高天神城を攻略したため勝頼は自信過剰になってしまったからだ。 当時の武田は織田、徳川、北条と対立していたため兵力差は4倍はあった。 あそこは越後の上杉との同盟を活かし、ただひたすら固く守るべきだった。 高天神城の奪取は日本軍のガダルカナル島と同じ結果になった。
@user-un2lm9lx4f
@user-un2lm9lx4f 6 месяцев назад
僕も同じ意見です 高天神城を見捨てなければ… 高天神城を見捨てざるを得ない状況(信長との和睦頼り)を作ってしまった事がマズかったですね
@user-sm5vs8rf3r
@user-sm5vs8rf3r 6 месяцев назад
高天神城を奪取する事自体に無理がありました。 まるでガダルカナルやスターリングラードのように補給を絶たれ殲滅されました。 上杉や朝倉との同盟を堅持して、毛利とともに裏日本同盟をキープした方が粘れた。
@NK-bk6qh
@NK-bk6qh 6 месяцев назад
そもそも、勝頼が家督を継いだときもかなり揉めたとのこととですからね。武田が滅ぼした敵国の血筋で、しかも四男の勝頼をよく思わない諸将も多かったようです。そこに来ての高天神への援軍要請無視(と思われたこと)が致命的だったのですね。
@sugatakarino3123
@sugatakarino3123 6 месяцев назад
勝頼は陣代という代理だったという話も聞くけどどうなんだろう。信勝に上手く代替わりと言っても若すぎるしそれで落ち着くとも思えない。 結局のところ義信が愚かだったことが滅亡の原因かと。自分の妻の実家と戦をするなんてことは多々あることだし、理由が他にあるとしても当時の武田家の立場からしたら今川家を攻める以外の選択肢はないだろう。 守り役の飯富の問題なのか、信玄の教育の問題なのか、生来の性格なのか。信玄が直接教育に関わることは少なかっただろうから飯富の教育と義信の生来の性格だったのかもしれない。 若しくは信玄があと5年長生きしたら相当状況は変わっていただろう。その場合多かれ少なかれ徳川家織田家の弱体化は避けられないので戦国の混乱が長引くと思われる。たださすがの信玄でも元々の経済的地盤があまりに脆弱なので易々と武田幕府とはならないと思う。
@7kyuubey197
@7kyuubey197 6 месяцев назад
@@sugatakarino3123 そおそも今川が没落したときに今川家を支援しなかったのが武田家の滅亡の遠因、この時点で北条との同盟も不義理という意味で途絶えるわけだし
@user-mg8pn7ti9f
@user-mg8pn7ti9f 6 месяцев назад
皮肉なもので武田家の最大版図は長篠合戦後。国力が疲弊しているのに勝頼の東奔西走に付き合わされ、重税に苦しんだ家臣団から求心力を失い、木曽義昌が離反してから甲斐武田家はあっという間に滅びました。
@phoenixgold3593
@phoenixgold3593 8 дней назад
つまるところ信玄軍?だったのでしょう。皆さん勝頼と同じ立場だったとして、どこまで結果を出せますかな。勝頼はかなり優秀な部類と思います。ただ、ちと運が悪いのと判断も甘いかな。この信玄軍は曲者ですよ。使いこなすのが大変でござる。長篠の敗北のおかげでむしろ部下の刷新ができたはずだが、ここでうまくエサを捲くべきでしたな。なんにせよよく頑張られましたし諏訪と母の仇がうてたじゃないですか、ご冥福をお祈りします。あと信玄や利家の部下にはなりたくないね、勝頼や勝家ならついていくぞ!最後は潔く美しく散りたいものです。
@lemonglasu
@lemonglasu 7 месяцев назад
めっちゃ面白くて泣ける😂 もっと動画伸びて欲しい!! これからも頑張って下さい!
@7kyuubey197
@7kyuubey197 6 месяцев назад
何だろう旧日本軍と武田軍が同じ感じがするのは僕だけだろうか
@user-fx9zh8ec2d
@user-fx9zh8ec2d 6 месяцев назад
旧日本軍に必要だったのは、武田軍ではなくて信長や家康か~
@7kyuubey197
@7kyuubey197 6 месяцев назад
@@user-fx9zh8ec2d それなもしくは秀吉
@guttyao
@guttyao 6 месяцев назад
日本軍を創設した明治政府がそもそも徳川幕府をぶっ潰したわけだから、そんな都合の良いIFは...😅
@user-tj7mz1yd2e
@user-tj7mz1yd2e 6 месяцев назад
​​@@7kyuubey197 秀吉の行った 兵糧攻めを、時代を超えてそのまま食らったのがインパール作戦の日本軍
@7kyuubey197
@7kyuubey197 6 месяцев назад
@@user-tj7mz1yd2e 大体あってる
@user-pm8ou6hx6q
@user-pm8ou6hx6q 7 месяцев назад
武田の敗因は鉄砲玉の数が原因
@CHOCOBOLIA
@CHOCOBOLIA 6 месяцев назад
それより出征時の想定外 タダでは帰れないと だらだら長篠戦に踏み込むせい
@user-rw2qo7gs2i
@user-rw2qo7gs2i 6 месяцев назад
戦の方法が武田は膠着してたもんな。 結果的に勝てる方法ではなく、親の代から賜った経済基盤と、武田の戦のやり方が終生信長を苦しめるだけに留まった。 川中島の戦いも、武田上杉双方とも相手を滅ぼすって戦いじゃないもんな、
@starcoquerer7241
@starcoquerer7241 6 месяцев назад
自衛隊の教本では、川中島の戦いは”最低最悪の損害ばかり多い遭遇戦のお手本”となっていますね。 そして、最悪の戦争経過としては”応仁の乱”がお手本なのだそうです。元寇なんか子供の遊びレベルの戦争なのだそうで。
@nike900rninja4
@nike900rninja4 4 месяца назад
酒井忠次率いる牧野や戸田など東三河勢の後詰に焦らされたことや、 天候も織田徳川連合に加担したのが大きいかと。 武田側では天候は雨で火縄銃も思うように発火できなく、あの狭い間でも織田側は発火できるぐらいの天候だったようですし。
@user-yy8jq1sz7z
@user-yy8jq1sz7z 6 месяцев назад
アーニャの顔出てきてワロタꉂ🤣𐤔ꉂ🤣𐤔ꉂ🤣𐤔
@sigurehuru9763
@sigurehuru9763 4 месяца назад
足軽たちの最期が泣けると思ったら遠くでプルプルしてて草。
@user-st7uv6eu7c
@user-st7uv6eu7c 6 месяцев назад
まぁ戦果が欲しいあまり長篠城を残して途河して設楽原で戦ったことが敗因。 鳥居強衛門がこの勝敗を決めたわけだ。
@user-qc2lq4gu8q
@user-qc2lq4gu8q 6 месяцев назад
撤退したら「武田は織田や徳川の後詰めが来ただけで恐れをなし、戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出した腰抜け」と信長や家康に喧伝されて三河や遠江、東美濃の国衆達が次々と武田から離反してたと思います。 甲斐や信濃の国衆達も信玄や信虎、それ以前からの重税で困窮する中わざわざ遠征したのに戦果無しじゃ恩賞が貰えない。 戦の費用は家臣や国衆達の負担であり、その出費を取り返す為に城下町や村で乱取りしたり、人を攫って売り飛ばすのにそれができなくなる。  しかも武田領の金山は当時の技術ではほとんど金が取れなくなるほど掘り尽くしていたらしいから、家臣や国衆達の出費を補填できない。 家臣や国衆達も陪臣(家臣の家臣)や自分の兵として動員する領地の民に恩賞を出さなければならない立場だから、自分達が恩賞を貰えなければ陪臣や民達に恩賞を出す事ができない。 そうなったら陪臣や民達は家臣や国衆達、更には武田家に対して不満を抱くだろう。 当時の武士達は面子や血筋を重んじる者が多かったらしい。 更に武田家は鎌倉時代から続く甲斐源氏の名門。 一方で信長の織田家は元々守護代の家臣筋、徳川家も三河の土豪出身と武田から見たら織田や徳川は素性が怪しく身分も低い、卑しくて格下の家柄の相手。 そんな卑しい家柄の相手に戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出したと喧伝されたら武田家だけでなく、武田家に従う家臣や国衆達の面子も丸潰れになってしまう。 これらの事から、長篠で撤退したらお金の無駄遣い、骨折り損のくたびれもうけになっただけでなく、自分達の面子まで潰された家臣や国衆達が不満を抱いて何をしでかすか分からないと思います。 今後出兵に応じなくなるかもしれない、反乱を起こすかもしれない、勝頼を追放するか殺して別の武田家の人間を次の当主に担ぎ出そうとするかもしれない、史実より早く織田や徳川に寝返る者が出るかもしれない、そうして武田領に混乱が生じたらその隙をついて織田や徳川、もしかしたら上杉や北条にも侵攻されて武田家が史実より早く滅亡する事になったかもしれない。 仮に撤退して家臣や国衆達の離反が加速しなかったとしても、武田と織田の国力差は開いて大きくなる一方。 次は今以上に領土を広げて国力を上げた織田が今以上の兵を率いて徳川の後詰めに来るかもしれない、それどころか織田の方から武田領に侵攻してくるかもしれない。 そうなったら徳川も呼応して侵攻してくるからもう打つ手はない。 当時の武田家は信玄が同盟や和睦を平気で反故にして他国への侵攻を繰り返した為に周辺諸国からの信用が地に落ちていた。 極め付けに信長に謙信との和睦仲介を頼んでおきながら家康を攻めた為に信長を謙信への手紙に「武田とは金輪際手を結ばない」と書く程に激怒させたらしいから、織田との関係修復は不可能になり、更に鉄砲や鉄砲の弾を作る為の鉛、鉄砲を使う為に必要な火薬の原料、硝石が手に入りにくくなる経済封鎖を受けた。 徳川との関係修復も三方ヶ原の戦いや武田と徳川の共同での今川攻めの際、旧今川領を分ける時の約束を信玄が欲を出して破った事、家康が信玄に無断で今川と和睦し、上杉や北条と通じて武田包囲網を作ろうとしていた事、家康が信長に武田と手を切るように何度も求めていた事を考えると無理。 浅井家、朝倉家が滅ぼされ、伊勢長島の一向一揆が鎮圧されて武田と対織田で連携できる相手がいなくなっている。 本願寺顕如がまだ畿内で織田と争っているようだが敗れるのは時間の問題。 この状況を打開するには、わざわざ出てきた信長や家康をここで討ち取る、討ち取れなくても織田・徳川軍に痛手を与えて「織田など恐れるほどの相手ではない」と喧伝しなければならない。 そしてそれができるのはまだ織田が畿内で本願寺勢力と戦っていて、武田相手に全軍を向ける事はない中信長がわざわざ出てきた今しかないと判断するのは納得できます。 撤退して仕切り直したら、次に織田と戦う時は信長が出てこないかもしれませんから。 勝頼が設楽ヶ原に出たのは鳶ヶ巣山砦に配置した軍勢で長篠城を落とすまでの時間稼ぎとして織田・徳川軍を牽制する為だったともいう話もあるようです。 全軍で長篠城を落とそうとして、落とせたとしてもそうなったら織田・徳川軍が武田軍が長篠城を攻めている最中、もしくは落とした直後に攻めてくるかもしれない。 そうなったら仮に長篠城を落とせていたとしても、守りを固める時間がない。 武田軍を追い払うだけならまだしも、織田・徳川軍が武田軍を兵糧や弾薬が尽きた長篠城に押し込み兵糧攻めにしてきたら、遠征軍の武田は兵糧切れしたら全滅するしかない。 一方で徳川は自家の本領。 そして織田の本領である尾張にも近いから、信長や織田軍主力が引き上げてもすぐに援軍を出して武田軍が兵糧切れするまで包囲を維持できればいい。 そして織田には長期の兵糧攻めが可能な財力と兵力がある。 それならば勝頼率いる本隊は設楽ヶ原に出て馬防柵に篭っている織田・徳川軍が出てこないように牽制する、仮に打って出てきたらその時は戦えばいい。 そうして睨み合い、小競り合いをしている間に鳶ヶ巣山砦に配置した軍勢で長篠城を落として退路と補給路を確保し、その後に長篠城の守りを固める事を狙っていたのかもと思います。
@user-jw5ek2ts3e
@user-jw5ek2ts3e 7 месяцев назад
実際かどうかはわかりませんが、追撃戦で織田・徳川方の死傷者は数千人いたみたいですよ‼️
@skaku3835
@skaku3835 23 дня назад
緒戦は武田が圧倒していましたからね。誘い込む為の足軽の損害はそれなりにあったし、単に平野の野戦だったら織田徳川の敗戦もあり得たかも知れません。
@user-52-mickey
@user-52-mickey 3 месяца назад
5:22 なんで、武田なのに葵の紋所?
@mehu8024
@mehu8024 Месяц назад
下馬戦闘だけしたというのはかなり昔に言われた間違った話です。正確には必ずしも騎馬隊は馬から降りて戦うのではなく、その時々の状況によって降りて戦うこともあれば、騎乗のまま戦うこと両方あった、臨機応変に対応したというだけです。実際に、長篠に参戦した徳川家の水野氏の記録にも武田の騎馬武者達が何度も(騎乗で)突撃してきたとあります。騎馬が貴重だという話もありますが武田の領国は木曽馬の産地で織田、徳川に比べれば馬の資源が豊富だし、「騎馬で戦う者は身分の貴賤に関係なく、しっかりした甲冑を着なさい、足軽みたいな装備はするな」という内容の命をだしてることからも下級武士でも騎馬武者になっていたことから、馬は高価だったのは間違いないがそれは現代人が一家に一台車があるくらいの感覚だったのではないだろうか。
@user-qc2lq4gu8q
@user-qc2lq4gu8q 7 месяцев назад
撤退すべきだったという人が多いみたいですが、私はそうは思いません。 勝頼の長篠城攻めの理由が最初から長篠城奪還だったにせよ、大岡弥四郎の内通を利用した岡崎城乗っ取り、三河と遠江の分断を狙った吉田城攻めがいずれも失敗したからだったにせよ、ここで撤退したら「武田は織田や徳川の後詰めが来ただけで恐れをなし、戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出した腰抜け」と信長や家康が喧伝してくるでしょう。 そうなったら三河や遠江、東美濃の国衆達は「武田に味方しても自分達が織田や徳川に攻められたら自分達のために戦うどころか尻尾を巻いて逃げ出す。 しかも少数の兵しかいない長篠城も落とせなかったという事は武田は弱いという事になる。 一方で徳川は奥平の後詰めに織田と一緒に来てくれた。 ならば自分達も織田や徳川に味方しよう」と思って次々と武田から離反すると思います。 甲斐や信濃の国衆達も信玄や信虎、それ以前からの重税で困窮する中わざわざ遠征したのに、戦果無しで撤退したら恩賞が貰えない。 戦の費用は家臣や国衆達の負担であり、その出費を取り返す為に城下町や村で乱取りをしたり、人を攫って売り飛ばすのにそれができなくなる。 しかも武田領の金山は当時の技術ではほとんど金が取れなくなるほど掘り尽くしていたらしいから、家臣や国衆達の出費を補填できない。 当時の武士達は面子や血筋を重んじる者が多かったらしい。 鎌倉時代から続く甲斐源氏の名門・武田家に対し、信長の織田家は元々守護代の家臣筋、徳川家も三河の土豪出身。 武田から見たら織田や徳川は素性が怪しくて身分も低い、卑しくて格下の家柄の相手。 そんな相手に戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出したと喧伝されたら武田家だけでなく武田家に従う家臣や国衆達の面子も丸潰れになってしまう。 家臣や国衆達も陪臣(家臣の家臣)や領地の民達に恩賞を出さなければならない立場だから、自分達が恩賞を貰えなければ自分達が陪臣や兵として駆り出した領地の民に恩賞を出す事ができない。 そうなったら陪臣や民達から自分達や武田家に対する不満が出る。 これらの事を考え、長篠で撤退していたらお金の無駄遣い、骨折り損のくたびれもうけに終わり、面子まで潰された家臣や国衆達が「重税で生活が苦しい中わざわざ遠征したのに、何の恩賞も無い上に乱取りもできないのか。 これじゃあ俺達は今年や来年どうやって食べていけばいいんだ。 俺達の陪臣達からも恩賞が貰えなかった事で不満が出ているぞ。 しかも織田や徳川という卑しい家柄の奴らに戦いもせずに逃げ出したと喧伝されて俺達の面子を潰しやがって」という風に不満を抱いて何をしでかすか分からないと思います。 今後出兵に応じなくなるかもしれない、反乱を起こすかもしれない、勝頼を追放するか殺して別の誰かを武田家当主として担ぎ出そうとするかもしれない、史実より早く織田や徳川に寝返る者が出るかもしれない。 そうして武田領に混乱が生じたらその隙をついて織田や徳川、もしかしたら北条や上杉にも侵攻されて武田家が史実より早く滅亡する事になったかもしれない。 仮に撤退して家臣や国衆達の離反が加速しなかったとしても、武田と織田の国力差は開いて更に大きくなる一方。 仕切り直した時には今以上に領土を広げ、国力を上げた織田が今以上の兵を率いて徳川の後詰めに来るかもしれない。 それどころか織田の方から武田領に侵攻してくるかもしれない。 そうなったら徳川も呼応して侵攻してくるからもう打つ手はない。 当時の武田家の状況 信玄が同盟や和睦を平気で反故にして他国への侵攻を繰り返した為に周辺諸国の武田家への信用が地に落ちている。 極め付けに信長に謙信との和睦仲介を頼んでおきながら家康を攻めた為に信長を謙信への手紙に「武田とは金輪際手を結ばない」と書く程に激怒させたらしいから、外交での織田との関係修復は無理。 徳川との関係修復も三方ヶ原の戦いや、共同で今川を攻めた時に今川領を分ける時の約束を信玄が欲を出して破った事、家康が武田に無断で今川と和睦したり、上杉や北条と組んで武田包囲網を作ろうとしたり、信長に武田と手を切るように何度も言っていたらしい事を考えると無理。 織田と敵対した事で鉄砲や鉄砲の弾を作る為の鉛、鉄砲を使う為に必要な火薬の原料である硝石が手に入りにくくなる経済封鎖を受けている。 浅井家、朝倉家が滅ぼされ、伊勢長島の一向一揆が鎮圧されて武田と対織田で連携できる相手がいなくなっている。 本願寺顕如がまだ畿内で織田と争っているようだが、敗れるのは時間の問題。 これらの状況を打開するには、まだ織田が畿内で本願寺勢力と戦っていて、武田相手に全軍を向ける事はない中わざわざ出てきた信長や家康をここで討ち取る、討ち取れなくても織田・徳川軍に痛手を与えて「織田など恐れる程の相手ではない」と喧伝しなければならない、そしてそれができるのはその時しかなかったと思います。 撤退したら次に織田と戦う時は信長は出てこないかもしれないし、普通に調略したところで熱田や津島、堺などの商業が発達した街や濃尾平野という穀倉地帯を押さえ、税が安く豊かな織田を離反し、山に囲まれていて耕作に向いた土地も少なく、税が重くて貧乏な武田に味方する者は出てこないでしょうから。
@aeioiaaa1869
@aeioiaaa1869 6 месяцев назад
すごい情報量で読んでて面白かったです。 まとめると長篠の戦いを決意させたのは 1、武田の名声を守る為 2、家臣達の不満を抑える為 3、遠征費が勿体ない為 4、織田との国力差が開く前に決戦しないとどうしようもなくなる為 こんなところでしょうか。当時の勝頼の苦悩が見えてくるようです。 兄の死で急に後継者にされ有力家臣と上手くいかず、父親の外交によって強大な織田家を完全に敵に回し、その中でも家を守る為に頑張ってたんだなとしみじみ思う。
@user-qc2lq4gu8q
@user-qc2lq4gu8q 6 месяцев назад
@@aeioiaaa1869 そして勝頼が設楽ヶ原に出たのは鳶ヶ巣山砦に配置した軍勢で長篠城を落とすまでの時間稼ぎとして織田・徳川軍を牽制する為だったんじゃないのかという話も聞いた事あり、私もそれは否定できないと思います。 全軍で長篠城を落とそうとしても、そうなったら馬防柵に篭っている織田・徳川軍が武田軍が長篠城を攻めている最中、もしくは落とした直後に攻めてくるかもしれない。 そうなったら長篠城を落とせていたとしても落としたばかりの長篠城の守りを固める時間がないし、武田軍を追い払うだけならまだしも、兵糧や弾薬の尽きた長篠城に武田軍を押し込んで兵糧攻めにしてきたら、遠征軍の武田は兵糧切れしたら全滅するしかない。 一方で徳川は自家の本領であり、織田の本領である尾張にも近いから信長や織田軍主力が引き上げてもすぐに援軍を出して武田軍が兵糧切れするまで長篠城の包囲を維持できればいい。 そして織田には長期の兵糧攻めが可能な財力と兵力がある。 それならば勝頼率いる本隊は設楽ヶ原に出て馬防柵に篭っている織田・徳川軍が出てこないように牽制する、仮に打って出てきたらその時は戦えばいい。 武田軍が布陣した連吾川東側にも丘陵が連なっていて守りやすく、陣地を築いたような痕跡があるらしい事から連吾川を挟んで睨み合いや小競り合いをしている間に鳶ヶ巣山砦に配置した軍勢で長篠城を落として退路や駿河や信濃などの武田領からの平坦路を確保する事を狙ったが、酒井忠次の鳶ヶ巣山砦奇襲によって退路を断たれてしまった。 酒井忠次隊の方に向かおうとしたり、別の方向に撤退しようとしたら織田・徳川軍の主力に背を見せる事になるから本隊と酒井忠次隊に挟み撃ちにされてしまうかもしれない。 安全に撤退するには正面の織田・徳川軍本隊に痛手を与えなければならないと判断したのだと思います。
@user-qc2lq4gu8q
@user-qc2lq4gu8q 6 месяцев назад
@@aeioiaaa1869 最近では山県昌景や馬場信春、内藤昌豊ら重臣達は撤退を主張したという従来の話だけではなく彼らも決戦に賛同した、むしろ彼らの方が主戦論者だったのではないかという話も出てきました。 当主の意見を通しやすい環境だった織田家とかと違い、武田家は豪族達の連合体という政治体制だから、そんな中で勝頼が漫画とか小説とかにあるように御旗楯無を持ち出して決戦を強行なんてできないだろうし、上のコメントの方でも書いたように重臣達も信玄とか信虎の時代からの重税で困窮している、彼らも陪臣や兵として動員した領地の民達に恩賞を出さないといけない、武田家家臣達は名門意識や独立心、領土欲が強い者が多かったらしいから、そんな彼らが守護代の家臣筋の織田や三河の土豪出身の徳川という素性が怪しく卑しい家柄の相手に戦いもせずにのこのこと撤退する事を主張するのかという疑問から私はこの重臣達も決戦に賛同した、むしろ彼らの方が主戦論者だったという話を否定はできないと思ってます。
@user-lf5xl7ii3k
@user-lf5xl7ii3k 6 месяцев назад
重臣達が決戦に賛成だったとは初めて聞きました。どのような学者さんが言っていたのでしょか?ぜひとも名前を教えて頂きたい。
@user-qc2lq4gu8q
@user-qc2lq4gu8q 6 месяцев назад
@@user-lf5xl7ii3k ネットで誰かが聞いたのを又聞きしただけですけど、その可能性を否定はできないと思っているのです。 織田と武田の国力差がこのまま手をこまねいていたら大きくなって広がる一方ですし、高天神城攻めに二万五千ほど動員したのに長篠の戦いでは一万五千ほどしか動員できないくらい武田領が疲弊している上に、信玄や信虎の時代からの重税が中わざわざ遠征したのに戦果無しで撤退したら恩賞が貰えない。 しかも鳶ヶ巣山砦が酒井忠次隊の奇襲で落とされて退路を断たれている。 酒井忠次隊の方に向かおうとしたら織田・徳川軍の本隊の攻撃を背後から受けてしまう。 長篠城も落とせずじまいでは武田家家臣の自分達の面子も丸潰れになってしまう。 更に自分の領地の民や陪臣達に恩賞を出せなくなるから、彼らから不満が出るなどの理由で。
@おかポン太郎ー0kaponTarou
@おかポン太郎ー0kaponTarou 6 месяцев назад
武田方は中山間地多いもんな。戦う前から勝敗が決していたってわけか。。。 戦争は物量(兵站)が決する。ロシアみててもそう思うよ。
@tutakami615
@tutakami615 11 дней назад
ずんだもん・・・いい先輩を持ったな
@challengenew1915
@challengenew1915 6 месяцев назад
合戦図の信長の回りは六芒星つけた家臣がいっばい
@user-lt4ff5hp4c
@user-lt4ff5hp4c 6 месяцев назад
そもそも武田方の問題は当主として育てられてない勝頼が後継者が不在となり当主になった点ですね
@user-rw2qo7gs2i
@user-rw2qo7gs2i 6 месяцев назад
武田は戦法が膠着してたもんな。 結果的に勝てる方法ではなく、親の代から賜った経済基盤と、武田の戦のやり方が終生信長を苦しめるだけに留まった。 川中島の戦いも、武田上杉双方とも相手を滅ぼすって戦いじゃないもんな、
@user-po6nt1ml8o
@user-po6nt1ml8o 6 месяцев назад
こんなん泣くわ
@user-hr2ez8qj6e
@user-hr2ez8qj6e 6 месяцев назад
織田の鉄砲がフルオートの音やん
@user-wl4xg3yi8o
@user-wl4xg3yi8o 6 месяцев назад
カエルさん、かっこええわ
@user-pf7qg4kv4b
@user-pf7qg4kv4b 3 месяца назад
火縄銃の音じゃない
@a2h1me
@a2h1me 6 месяцев назад
お兄ちゃん頑張って
@user-pu3ze3jw5z
@user-pu3ze3jw5z Месяц назад
情報偏りすぎ。正しいとされてないことも含んでる
@user-pu3ze3jw5z
@user-pu3ze3jw5z Месяц назад
弾丸は、金で買うとかじゃなく、鉄の量産地が有利ってだけ。 あと、騎馬隊ね。これ正しいかどうかわからんのよ。
@jeanturk
@jeanturk 6 месяцев назад
大岡じゃねーしw
@user-ry5xt1fq5b
@user-ry5xt1fq5b 6 месяцев назад
いや、大賀弥四郎は、大岡だったという説はあるんでしすよ。😅
@CHOCOBOLIA
@CHOCOBOLIA 6 месяцев назад
この時代、我々と違い 共通教育を受けてないから 誤字を使うのはザラ 地元でもない他国者は 知らない地名や個人名に 当て字を使う物と考えた方が良い
@SM-pk8gz
@SM-pk8gz 6 месяцев назад
上杉謙信は少数でも織田軍相手に圧勝できたので、長篠の敗戦は甘え。
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Нарвался на сотрудника ФСБ⚡️
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