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【日本史28】古墳時代〔欽明紀〕−任那復興会議の真相− 

歴史倶楽部
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2 окт 2024

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Комментарии : 11   
@sanaesato-b3x
@sanaesato-b3x 5 месяцев назад
青森に「新羅神社」があり、馬を使った神事が毎年あるという。また、スサノオは新羅の王子だったという話もある。 大和朝廷は百済と新羅の間で戦いはしたくなかったのだと思う。
@gausutoran1668
@gausutoran1668 Год назад
日本の外交のグダグダっぷりは今も昔も変わらないんだな せめて日本府をもう少しヤマト本国がコントロール出来ていれば印象も変わってた
@kkkk-cm4cq
@kkkk-cm4cq Год назад
半島に深入りは危険
@Fu_Xi
@Fu_Xi Год назад
大変まとまっていて面白いです。 ひとつ疑問に思ったのは、大和政権の熱量の無さです。倭国は半島の鉄資源を喉から手が出るほど欲していたと考えています。 すでに築いた任那との関係性を失いかねない状況であるのに、割とのんびりとした対応を取っているように感じました。 半島の情勢は俯瞰し、百済と関係性を保っていれば、鉄資源は今後も手に入ると考えていたのでしょうか。 それとも、日本国内で対処しなければいけない物事が起きていたのでしょうか。
@golpie
@golpie 6 месяцев назад
この頃は欽明朝の初期ですか?。なら群臣の意見は割れており、大伴金村はとうに失脚、蘇我稲目は既に大臣(マエツキミ)になっていました。鉄のため「あくまで任那・伽耶を支える軍事行動を続けるか」「百済に同意して任那を捨て(献納ではなく)輸入に徹するか」という妥協点を模索していたのでしょう。欽明は判断を保留したかったのでしょうが、蘇我稲目らは妥協(=任那を捨てる)派。しかも性質の悪いことに、聖明王は倭百済同盟をエサにあからさまに倭の足元を見てる動きをしてるし・・・まあ百済との巨大なパイプで鉄をも独占できてしまえる蘇我稲目の意向が一番考えられますね。そのうえで一番邪魔になるはずだった筑紫勢は大伴と物部がとっくの昔に処分してくれてたし(磐井の乱)。結局、時を経ずして任那・伽耶は百済と新羅に吸収されてしまって、欽明は「こんなはずじゃなかった。先人たちの努力は(嘆)」と思ったことでしょう。
@Fu_Xi
@Fu_Xi 6 месяцев назад
おお、コメントありがとうございます。国内で方向性が纏まっていなかった可能性について言及頂き勉強になります。私も、任那・伽耶を失ったのは勿体ないなあと感じていました。深い考察、ありがとうございます。
@異端ネロ
@異端ネロ Год назад
まあ、日本国内でも統治、経済政策が難しい時代ですからね。 例えば武蔵国から上京して命令を受けて朝鮮半島に渡ってって、疲れて嫌になっちゃう。
@MasterKeroro
@MasterKeroro Год назад
いつも楽しみにしています。今回も分かりやすく、興味深いお話ありがとうございました。 日本書記に記述されなかった任那復興会議の顛末と真相ですが、これは朝鮮半島、あるいは中国の文献に依る記載から確認されるところなのでしょうか? 様々な勢力の思惑が絡み合う情勢だけに、どの立場から記述された文献によって、このような顛末が判明しているのかに強い興味を持ちました。
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