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【海の王の眠る場所】邪馬台国吉備説の可能性|上東遺跡と楯築墳丘墓の地政学 

地図をなぞって日本古代史を考える
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岡山の上東遺跡は古代吉備の王都と言える一大港湾集落だっと思います
かの楯築墳丘墓もすぐそばにあります
古代吉備とはどんな場所だったのか?周辺との地理的関係から見て行きます
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7 сен 2024

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Комментарии : 46   
@takedaharuki
@takedaharuki 4 месяца назад
youtube動画でコメントしたことがあるので岡将男さんは知っていたのですが、まさか、ご本を書かれていたとは! どうりで凄く詳しいわけです。私の考古学の出発点は、吉備の近藤義郎に行きつくので、その点でも吉備の古代史が大好きです。
@user-qt3dh6he2f
@user-qt3dh6he2f 3 месяца назад
ありがとうございます。 岡さんは資治通鑑を翻訳という個人の趣味ではありえないようなことまでされていますね でも今メインで楽しむもののひとつに公共交通の研究らしく とても面白い趣味人という感じを受けます
@user-jg4jz7tp3z
@user-jg4jz7tp3z 3 месяца назад
近藤義郎さんは、いとこの仲人だったので。昭和49年に会ったけれど、話はしていません。過激な学生運動時代で、下手に接近できなかったけれど、本はほとんど読んでましたよ。今回「吉備邪馬台国東遷説」の執筆では、「近藤義郎さんは最後は吉備邪馬台国東遷説だったのではないか」と書き、その図版なども使いたくて、遺族にも原稿に目を通してもらってます。「流石に父が吉備邪馬台国東遷説だったかも、というのは言いすぎではないでしょうか」と言われて、まあそこは削除しましたけれどね。 桃核は楯築遺跡でも、顕微鏡分析では出ていて、近藤義郎は津島遺跡の桃核出土も知っていたはずですが、なんせ、吉備では桃核は当たり前に出るので、気にとめなかったのではないかと思いますよ。
@takedaharuki
@takedaharuki 3 месяца назад
@@user-jg4jz7tp3z まさかそんな接点があったとは。私の考古学の師匠とも言える人が近藤義郎さんに学んだ方だったので、近藤義郎にサインをもらったことがあります。話をしたのは2回くらいです。発掘現場で「こんな小さな欠片から復元できるなんて凄いですね」と言ったら「そんな小さな欠片からはさすがに復元できない」と言われました。近藤義郎先生は正統派の考古学者で、邪馬台国については文献史学の問題と考え、下手に考古学者が口を出すべきではないと考えておられたのかなと思います。でも、心の中は岡さんがおっしゃる通りだったと私も思います。
@user-jg4jz7tp3z
@user-jg4jz7tp3z 3 месяца назад
古荘さん、早速の動画アップ、ありがとうございます。まさに吉備の意味を考えるには、地図で見ながらというのが、最もふさわしいですね。
@user-qt3dh6he2f
@user-qt3dh6he2f 3 месяца назад
ありがとうございます 吉備は現代でも交通の十字路ですからとても分かりやすいんじゃないかと思います 出雲も同じような理屈で栄えたと思っていますが原題の感覚では出雲はわかりにくいかと考えています
@user-lt3ng5xp1y
@user-lt3ng5xp1y 3 месяца назад
いやー、拝見するの遅くなりました! 吉備は本当に鍵になりますねー。
@user-qt3dh6he2f
@user-qt3dh6he2f 3 месяца назад
ライブ当日にアップしてしまいました、ちょっと先走りみたいな感じです
@may23k68
@may23k68 3 месяца назад
吉備、丹後 最近気になっているのが 京都府城陽市・芝ヶ原古墳(前方後方墳) 銅釧?に朱が付着、 潰しの道具として使っていたとか想像しています。四獣鏡、ガラス玉一千個超えの出土します。又 奈良、見田大沢古墳 4号墳 四獣鏡との接点を模索しています。
@user-qt3dh6he2f
@user-qt3dh6he2f 3 месяца назад
ありがとうございます。 京都市の脇にあるのですね!ガラス玉は国内生産?どこから来るのでしょう
@may23k68
@may23k68 3 месяца назад
ガラスは中国から輸入、丹後に入り朱と交易とか?半島から鉄もありますよね。又翡翠等の経路もあるし富山にも王塚・千坊山遺跡群に四隅突出型墳丘墓から前方後方形墳丘墓、前方後方墳、前方後円墳と連なるもんがあります。海路もあります(海が荒れる時期)に陸路ルートではと思った次第です。
@user-qt3dh6he2f
@user-qt3dh6he2f 3 месяца назад
@@may23k68 丹後と吉備はライバルだったでしょうね 流通の要同志のような気が・・・
@may23k68
@may23k68 3 месяца назад
当方もライバルというより 協力関係と思われます。 海や陸とかのインフラ整備で協力関係にあったと思います。
@user-un4ss7ve6h
@user-un4ss7ve6h 3 месяца назад
こんにちは!楽しく拝見させて頂きました😚上東遺跡と楯築墳丘墓はぜひ行ってみたいですw全国4位の規模を持つ岡山の造山古墳もあり、吉備のクニや被葬者はスゴく重要な役割を担ってたのかもですね🙄なお纒向遺跡の桃は吉備から持ち込まれたと考えても差し支えないような気がしますね(¯―¯٥)
@user-qt3dh6he2f
@user-qt3dh6he2f 3 месяца назад
ありがとうございます。 吉備と出雲と丹後 これは全部プレヤマトの猛者たちに思えますね この九州でも大和でもない巨大勢力の研究は古代史を深堀させるように思います
@kyupytarou
@kyupytarou 3 месяца назад
吉備国のお話ありがとうございます。 邪馬台国論争で話題になりませんが関わってなかったわけないと思っています。 地理的要件を重視すると当時の地形をしっかり把握する必要があります。現在の平野部は浅瀬の入り江だと仮定すると舟がたくさん浮かんでいたと妄想します。 纏向遺跡の桃のタネを邪馬台国論争のカギと見るなら当然津島遺跡の桃のタネも考察に値します。 当時の桃の価値や役割がはっきりしないところではありますが特別扱いされていたはずです。 瀬戸内海を取り巻く時代背景を知ることは古代史の全容を知る上で欠かせませんね!
@user-qt3dh6he2f
@user-qt3dh6he2f 3 месяца назад
ありがとうございます。 結局瀬戸内海の吉備 日本海の出雲丹後、 のそれぞれの全容と言うことになり ひとつの遺跡から類推ではなく 広域の関係性 交通 みたいなものが人を動かすんだと思っています
@user-jg4jz7tp3z
@user-jg4jz7tp3z 3 месяца назад
岡山市東部の百間川遺跡群の3ヵ所でも、桃核が400個づつ位出てますね。特殊器台も墳墓だけでなく、井戸や水関係の遺跡でかなり出ており、桃核もどうも水と関係ありそうです。楯築の北では、竜頭の土器も出ているし、ここら辺りがヒントになりそう。
@user-qt3dh6he2f
@user-qt3dh6he2f 3 месяца назад
@@user-jg4jz7tp3z やはり水運の航海安全祈願みたいな要素があったのでしょうか。
@user-zh7rw3go2d
@user-zh7rw3go2d 3 месяца назад
寺沢薫さんの本でも纏向の王権の主流の勢力は現地の畿内ではなく吉備を中心とした西日本の瀬戸内地域だったと書いてあった記憶がありますので、邪馬台国が吉備かどうかはわかりませんが古代日本で重要なポジションだったのではないかと私も思います😅 ただ吉備の王様がそのまま纏向の王権の王となるのは尾張や関東の東の勢力が納得する理論付けがないと思われますので、 そこで登場するのが記紀神話での神武天皇ではないかと😅 織田信長が足利義昭を御輿で担いで上洛したように吉備も神武を御輿でかついで王にして東遷したのではないかと。 ただ東日本の国々が王として認める権威付けが神武天皇にはあったということになりますので、 古代に天照の子孫の天孫族だからという理論はまだ使えず、血統ではなく、中華から倭王として認められたお墨付きが権威の担保になると思われる次第で😅 そうした意味でやはり卑弥呼が親魏倭王の金印を貰ってから東遷したと考えるほうがロジックの構築としてはスムーズにいくと考えます。 NHKの邪馬台国の番組でも唯一納得できるところが最初は卑弥呼のことをこの御輿がと馬鹿にしてた各国の王が親魏倭王になってからは態度を変えて一目置いて従うようになったところで、そこは意外と的を射ていると思ったりする次第で😂 とまあ私も仕事が忙しくなり古代のロマンに浸る時間もなかなか作れなくなりすいませんが、 高等遊民に早くなって古代史や文学に浸れるような生活が早くしたいものだと思う今日この頃であります😅
@user-qt3dh6he2f
@user-qt3dh6he2f 3 месяца назад
ありがとうございます。 関裕二さん的に考えると 尾張の大阪城奈良盆地交易ゾーンに 吉備が乗り込み共同経営していた・・・尾張交易ゾーンは越、駿河、関東、信州に至ります そこに西日本代表吉備っていう感じですね
@user-tv4tl3lw4f
@user-tv4tl3lw4f 3 месяца назад
こんにちは。いつも楽しく拝見しています。 私、建築士なのですが、特殊器台=エンタシスは全く考えもしませんでした。すごく興味深いです。
@user-qt3dh6he2f
@user-qt3dh6he2f 3 месяца назад
ありがとうございます。冒頭ご紹介した岡さんのご指摘で気づいたことでした、これがほんとにエンタシスを示しているとしたら、なんだか壮大なロマンを感じます
@J-history
@J-history 3 месяца назад
古荘さんの動画はいつも具体的な航空写真(?)、斜め上空からの俯瞰画像でいろいろな位置関係がよくわかるのでとても勉強になります。ありがとうございます。 わたしも吉備は神武東征の主力だったと考えていますので、面白かったです。 それにしても四国の中央構造帯はすごくリアルですね。
@user-no8qk4pf4j
@user-no8qk4pf4j 3 месяца назад
別アカウントから古荘です。 ありがとうございます。四国の中央構造線は、こういう感じなので佐多岬半島に上陸して阿波まであるく、歩きやすい、なので陸行1月で阿波へ。と、想像したところでした。
@user-qt3dh6he2f
@user-qt3dh6he2f 3 месяца назад
船は瀬戸内海を行き 人間は中央構造体を歩くという構図があったかどうか・・・・(笑)
@J-history
@J-history 3 месяца назад
@@user-qt3dh6he2f 貴重な財物を運ぶ場合、海と陸両方のコースがあった場合、ほぼ陸行を選ぶのではないかと思います。 海の航海の場合、荒天や座礁によって財物を全喪失する可能性があるからです。陸行ならそういうことはありませんから。
@TAJIRI-123
@TAJIRI-123 4 месяца назад
「桃の種」は、中国の『神仙思想・道教』とは無関係で、たまたま産地だっただけな気がしています。むしろ纏向は、吉備のおかげで桃の産地になったのかも? 中華の文化が頻繁に入って来たなら、「環濠集落」よりも「城壁都市」を作りそうな気がするのです。「白村江」の後すら「朝鮮式山城」だし、中華臭は薄めな気がしています。 邪馬台国が「吉備」だったかどうか?は置いといても、「吉備」無しで神武東征は成功しなかった」という印象は有ります。
@user-qt3dh6he2f
@user-qt3dh6he2f 3 месяца назад
ありがとうございます。 私としては吉備と出雲・丹後は並列する別種の勢力と考えているんですが 纒向あたりへのかかわりは吉備の方が深いような気がします また上東遺跡は港湾集落だから 桃の種を使って航海の安全祈願をしていた それが纏向では広域の交易の安全祈願に拡大発展した みたいなことがあったかもと思っています
@TakuyaTOYODA
@TakuyaTOYODA 3 месяца назад
文学の動画を主に視聴していましたが、古荘さんの古代史の動画に、今回、初めて触れました。 地図やその地形を見ながらの考察に、文化人類学者_中沢新一さんの「アースダイバー」の試みと重なるものを感じました。 古代史に関する知識はほとんどない私ですが、興味を持ってみることができ、他の動画も参照したいと思いました。
@user-qt3dh6he2f
@user-qt3dh6he2f 3 месяца назад
ありがとうございます ぼくの古代史熱は 文学的なんです 想像とそれによる古代の描写です
@wa33785
@wa33785 3 месяца назад
JR伯耆線ではなく伯備線です。伯耆国ー備中国。
@user-qt3dh6he2f
@user-qt3dh6he2f 3 месяца назад
そうでした 失礼しました 米子に単身赴任していたとき 福岡⇒岡山⇒米子というルートでよく乗車していました
@misato7612
@misato7612 3 месяца назад
楯築の遺跡を眺められるところに子供の頃から住んでます 行ったことはないです😸 古代吉備は古墳時代中頃? 家の数が激減してるのは、たぶん奈良に行ったなと 5世紀くらいに伽耶からたくさん来たかな、竃のある家がたくさん建てられてるそう、地図で見ても、賀陽、秦、賀茂の地名や廃寺。葛城氏との関係の強さはどこからだろう 伽耶の首露王の変身伝説は吉備津彦と温羅の戦いの話と似てると韓国の先生の論文読んだことがありますが似てると思いました 邪馬台国は殉死させるシステム持ってて好きではないですが古代吉備は何か大きな存在だったと思います 地元民の感じでは鬼贔屓です
@user-qt3dh6he2f
@user-qt3dh6he2f 3 месяца назад
ありがとうございます。それは素晴らしいところにお住まいですね。吉備ほどの古代遺跡や伝承などがある地域って全国に4~5か所くらいかも。やっぱりとても奥深いゾーンだったでしょうね
@user-gq7et1zv7y
@user-gq7et1zv7y 4 месяца назад
一回王権があった時期があるんですかね!
@user-qt3dh6he2f
@user-qt3dh6he2f 3 месяца назад
ありがとうございます。 瀬戸内海の広域地帯の王だったような気がします
@YO-high
@YO-high 4 месяца назад
吉備の勢力が無いと交易が成り立たないってのはあると思います。その場所を押さえられたら日本海ルートしかないもんね。 で、思うことは、「対岸」の四国ですね。「讃岐」にはそういった港湾国家があったように感じないのですが。 瀬戸内海を通るならば、そっちに寄っても良い気がいたします。まぁ「伊予」の方にありそうですが。 ハルキーさんも古庄さんも、なんでライブ当日に動画出すんですかね~。今のうちに見れて良かったです。
@user-qt3dh6he2f
@user-qt3dh6he2f 3 месяца назад
ありがとうございます。 そうです 高松側に吉備の痕跡ってあるのかと思うんですけど 今のところ調査不足です
@user-jg4jz7tp3z
@user-jg4jz7tp3z 3 месяца назад
讃岐側でも、特殊器台や弧帯文も出ていて、高松市の南の石清尾山古墳群には、楯築のような双方中円墳も三基あり、最古式の前方後円墳の原型も出ています。また観音寺の練兵場遺跡などは、この時代の連続的遺跡で、山の上には野田院古墳のような初期の凄い古墳もありますよ。もちろん波止場はあったはずです。いわば吉備と讃岐はジブラルタル海峡みたいな要衝だったかも
Далее
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