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【衝撃の新布陣図】完全解説 関ヶ原合戦|最新研究をもとに合戦の過程を再現【どうする家康】 

日本史サロン
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今回は前回・前々回と紹介した新説をもとに、関ヶ原合戦の全体像を紹介したいと思います。
※本動画は「どうする家康」のネタバレを一部含みます。
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0:00​ オープニング
0:59 挙兵
3:45 前哨戦
7:51 戦場と布陣
11:15 短時間で決着
14:59 参考文献のご案内
についてお話しています!
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乃至政彦・高橋陽『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(河出書房新社)
一次史料を用いて関ヶ原の戦いに関する新説を提唱しています。興味深い新説が多い一方で、使用している一次史料の史料批判が甘い点があり、疑問視されている説も多いので注意が必要です。
amzn.to/40cFC2p
白峰旬『新視点 関ケ原合戦』(平凡社)
関ヶ原の戦いに関して様々な新説を提唱されている白峰氏の最新の単著です。一次史料を用いた合戦の実像を提唱しています。
amzn.to/3Qu2SG1
小池絵千花「関ヶ原合戦の布陣地に関する考察」(『地方史研究』岩田書院)
同時代の書状を詳細に分析して、関ヶ原合戦の戦場に関する白峰氏の山中主戦場説を批判し、布陣地から関ヶ原合戦の動向を解き明かした非常に興味深い論考です。
amzn.to/49fe0xw
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■今回の時代のキーワード
#どうする家康 #大河ドラマ #徳川家康 #関ヶ原合戦 #関ヶ原の戦い #小早川秀秋
※使用している背景映像は河原撮影ならびにフリー画像・映像素材・ライセンス取得済みの素材を使用しています。また、一部NHK「どうする家康」のホームページ(www.nhk.or.jp/ieyasu/)の画像を参考に...
※日本史サロンは、Amazon.co.jpを宣伝しリンクすることによってサイトが紹介料を獲得できる手段を提供することを目的に設定されたアフィリエイトプログラムである、Amazonアソシエイト・プログラムの参加者です。

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27 июл 2024

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Комментарии : 51   
@nihonshi-salon
@nihonshi-salon 8 месяцев назад
【訂正】読みに何点か誤りがあります。 ①北国街道は「ほっこくかいどう」です。 ②小関は「こぜき」です。 申し訳ございません。 ご指摘してくださった皆様、ありがとうございました!!
@user-ninonino23
@user-ninonino23 8 месяцев назад
旗色を決めかねていた小早川も、東軍が南宮山の麓を西進して関ヶ原まで出て来た時点で、毛利が西軍側で参戦しないことを察知し、開戦して即時に東軍側に付いたように思います。(東軍としては毛利が動かない確信が無ければ、わざわざ包囲される形になるので関ヶ原方面を決戦場にはしないかと…)
@cancan5892
@cancan5892 8 месяцев назад
家康が三成達の反乱を知りすぐに畿内に取って返さなかったのは、自身が謀反人、逆賊とされている状況で豊臣恩顧の家臣らが離反しないかと様子を見ていたわけですね。私信を送るにしても1ヶ月は長過ぎる、どうして戦場に行かないのか?!と思っていました。確かにこの段階では、戦況は長期化すると誰もが思っていたでしょうし、参陣前の状況判断、態勢を読むことが何よりも大切ですね。久しぶりに登場の三法師、秀信は西軍に就いていたんですね。敗戦後、高野山に追放とはわびしいです。関ヶ原の戦いの真相、なかなか込み入っていて理解が追いつきません。
@user-ut2xs2ub3q
@user-ut2xs2ub3q 8 месяцев назад
有り難うございました🙇関ヶ原の戦いが楽しみになります
@kumiko823
@kumiko823 8 месяцев назад
ありがとうございました😊 この説明を聞いて12日の大河ドラマ観ました。
@junkomumatsu7885
@junkomumatsu7885 8 месяцев назад
今回は石田三成の演技に惚れ惚れ。演技とは思えず感情移入してしまいます。去年滋賀に3日間旅行に行った時もうちょっと頑張って三成ゆかりの場所へ行っておけばよかった。関ヶ原の戦いの後の三成をるるのが辛いです。
@giantnioinoba2023
@giantnioinoba2023 8 месяцев назад
最近の関ヶ原の戦い新説とか聞いてると、何故に大河ドラマが「史実をもとにしたフィクション」との但し書きを出さないのか、わかった気がしますね。史実は時と共に覆される可能性があるから、史実となかなか断定出来ないから。
@nihonshi-salon
@nihonshi-salon 8 месяцев назад
ありがとうございます!そうなんですよね。新たな史料などが発見されれば、今回紹介した内容も変わる可能性があり、史実の断定ってすごく難しいです。
@Hiroko_0409
@Hiroko_0409 8 месяцев назад
お疲れ様です。 布陣についても従来と違っているのですね。関ヶ原の布陣あとも変更しないといけなくなりますね。 今回のドラマはなんと言っても伏見城の戦いですね。彦さんと千代さんの最後、泣けました。彦さん、カッコ良かったですね。あと稲ちゃん、お父さん譲りでカッコ良かった。真田に相対した秀忠軍、重苦しい合戦の最中、わらいを誘う一服の清涼剤のようでした。
@nihonshi-salon
@nihonshi-salon 8 месяцев назад
ありがとうございます!確かに関ヶ原の布陣跡はだいぶ実態とは異なる可能性がありますね…!関ヶ原に限らず、だいたいの布陣跡は後世の創作物がもとになっているものが多いので、仕方ないのかもしれません。 伏見城の戦い、泣けましたね…稲さんも久々の登場がかっこよくてよかったです!!次回のライブはドラマの感想が長くなりそうですね!笑
@user-oi5dt9tt8d
@user-oi5dt9tt8d 8 месяцев назад
東西両軍の戦陣もこれまで言われて来たものと異なっていたとは驚きです。固定観念に捉われないよう今後も注意したいものです。
@nihonshi-salon
@nihonshi-salon 8 месяцев назад
合戦は特に同時代の記録が断片的になるので、難しいですよね。今後も新史料が出てくれば変わるかもしれません。
@user-co4uy9zu1s
@user-co4uy9zu1s 8 месяцев назад
新説にも色々と疑問と矛盾点があるから 俺は旧来言われてる関ヶ原の戦いの方が実は本当な気がする
@say5699
@say5699 8 месяцев назад
あの当時は両陣営を取材出来るメディアというものも存在しないし、航空機で空から観測したわけでもない。合戦が終わった後の時代に勝者側の陣営の言い分をまとめて書にしたためたわけですから、意図的な改ざんだけでなく、忘れや勘違いなどなども沢山あっても仕方がないですね。
@user-ge2wz4hi4b
@user-ge2wz4hi4b 8 месяцев назад
ただ戦うだけでなく、手紙を書いて各大名に呼びかけたシーンは新しくて良かったですね。 いわば、令和らしい関ヶ原の戦いの描写ですね。 どうする家康も、単なるファンタジー的な作品ではなくてちゃんと新しい説も入れていますので後半は前半よりなかなか観て良かったですかね。
@user-pz2oe1jf2r
@user-pz2oe1jf2r 8 месяцев назад
UPありがとうございます、うむ、三成も当初から謀議に加わっていたのですね、家康と昵懇で最後まで迷った末に大谷に誘われ、止むを得ず参戦したとの情報もありましたが。
@nihonshi-salon
@nihonshi-salon 8 месяцев назад
ご覧下さり、ありがとうございます! 大谷吉継が誘ったという説が近年注目されていますが、同時代の一次史料ではないので、今回紹介した島津義弘書状に比べると信憑性に欠けるのではないかという見方が有力のようですね。
@shintayuasa6673
@shintayuasa6673 8 месяцев назад
説や逸話は色々ありますねぇ。その中でも、要所をおさえた形でコンパクトにまとめていただき、ありがとうございます。 しっかし、結構、強烈な距離を一日で移動しているな、、と、思うと当時の人たちの強烈なバイタリティには驚かされます。
@user-jz2zy1mu8u
@user-jz2zy1mu8u 3 месяца назад
松尾山近くの山中は地理的に文字通り狭くて小早川軍と東軍に挟み撃あった大谷軍は逃げ場なしの凄惨な様相だったに違いない。
@user-rp3cp6rl7m
@user-rp3cp6rl7m 8 месяцев назад
関ヶ原合戦の3部作 ありがとうございます✨ ライブもいつも楽しく聞かせて頂いています。少額ですみません😣💦⤵️
@nihonshi-salon
@nihonshi-salon 8 месяцев назад
スーパーサンクスありがとうございます!!お礼が遅くなってしまい、大変失礼いたしました。今回の3部作は作るのに本当に苦労したので、本当に励みになります!今後も動画もライブもお楽しみいただけるように頑張りますね!!
@user-qt3kf9pq7x
@user-qt3kf9pq7x 8 месяцев назад
配信ありがとうございます。「北国街道」=きたぐに✖ほっこく〇と気づきましたが既にご指摘がありましたね😅ドンマイです! やはり、小早川秀秋の裏切りと吉川広家の内通が東軍勝利の二大要素と言えるのは不動としても、小早川裏切りが開戦直後だったとは😮そりゃ短時間で決着するよね!従来説では小早川傍観中までは西軍も健闘・互角のイメージだった・・・すると西軍参加を促す狼煙の話も問鉄砲と同様にドラマチックに仕立てるエッセンス的創作なわけかぁ~島津の敵中突破脱出(こちらも途中まで傍観していた説)はどうなるのでしょうか❓西軍の大津城攻略軍が本戦に間に合わなかったのも西軍にしたら痛かったですね😬本戦決着が大津城降伏開城と同日でしょ❓持久戦を意図していたのは以前に他で聞いていました。玉城跡が(秀頼さん参陣はともかく)大坂よりの毛利輝元本軍着陣の為の本営と考えていた説(NHKでやっていました!)も出来たらライブで検討していただければ幸いです。存在は前々から確認されていましたが、いわゆる関ヶ原合戦のための陣城構築が確かか❓という点です。それと東軍の西進阻止のための布陣ならば、西軍の野戦築城の跡の詳しい調査も待たれますね。間に合わなかったことも考えられますけど・・・ 結局西軍の戦力不足と東軍の戦意が優ったということかなぁ・・・しかも東軍行軍中の遭遇戦とは❣旧日本陸軍(の戦史研究班?)も結構いい加減ですなぁ😵桶狭間の戦いでも劇的な奇襲説を採択した進軍ルートを想定(奇襲的要素になった背景はあるようだが=天候面など)していましたね。今では信長さんの正面攻撃説が有力とか・・・ またライブで補説宜しくお願い致します😃織田秀信さん、岐阜城の攻防戦~福島正則のナレ敗北でしたねー😂稲姫さんの女丈夫ぶりは格好良かった❣❣🤗🤗
@user-tn9ue8go7q
@user-tn9ue8go7q 8 месяцев назад
北国街道(ほっこくかいどう)ではないですか?
@nihonshi-salon
@nihonshi-salon 8 месяцев назад
ご指摘ありがとうございます!「ほっこくかいどう」の誤りです。 コメントで訂正させていただきます。
@WearstFaker
@WearstFaker 8 месяцев назад
これさぁ・・・指揮を執っていたのが、徳川家康だったから大勝利できたんだと思うよ。 関ヶ原の戦いの近年の説を見てると結構、小牧・長久手の戦いに似てるんだよね。相手の行動を読んでからの背後からの奇襲。 そしておそらく徳川家康は、小早川秀秋と吉川広家の書状や、斥候からほとんど正確に敵の位置を把握していた。 また、日本の軍団の特性を掴んだ、強みと弱点を生かす戦術。 日本の軍は各大名が各々の判断で指揮を執るため。軍団単位での戦闘、遭遇戦になりやすい。 遭遇戦になれば先手必勝。 また奇襲効果を上げるために深夜から早朝にかけて強行軍で敵の背後への進出。 そして戦場の・・・文字通りの「霧」。 小早川秀秋が立てこもる山を攻めようとしている部隊を、背後から奇襲されればひとたまりもない。 日本のハンニバル・バルカというか、ナポレオンというか。文字通り「戦の鬼」 石田三成が可哀想だろ!!(´;ω;`)ウッ…
@user-ne1kb1ru7j
@user-ne1kb1ru7j 8 месяцев назад
すでに隠居していて乗り気でなかった戦にしかも佐和山城の場所柄、西軍につかざるを得ない状況に追い込まれた三成がかわいそう 毛利輝元を斬首するわけにもいかず、全部三成主導でやったことにして全責任を被せられて現在までそう認識されているのが気の毒 三成は家康にを敵視しているどころかずっと家族ぐるみで世話になってたし、お互いに能力を尊重していたからね
@say5699
@say5699 8 месяцев назад
三成公の最期は、現代の中間管理職の悲哀そのものですなあ。。
@sper3439
@sper3439 3 месяца назад
小早川が開戦後直ぐ大谷陣へ攻め込んだ点、寝返りが4大名に増え、南宮山は動かなかった、そら詰むわな。
@goodbymredo8630
@goodbymredo8630 7 месяцев назад
どんな野戦だって短時間ですよw なぜなら決着がついた戦いに後から名前を付けているから。
@ks5643
@ks5643 3 месяца назад
そもそも秀吉死後に独断で大名家と婚姻し、前田利長に謀反の疑いをかけて人質を取り屈服させた事から流れが始まっており、次に上杉景勝に難癖をつけたのが会津征伐でしょう。 しかし意外に多くの大名が家康に応じている辺りが、特に前田利家死後家康の権勢が不動となり逆らえない程になっていた事を伺わせます。 この状況を見れば、諸大名は家康の天下になるのを傍観して家康に従うか、反抗して挙兵するかしかなかったでしょうね。
@ichizonoful
@ichizonoful 8 месяцев назад
三成かっけえ
@user-rp3cp6rl7m
@user-rp3cp6rl7m 8 месяцев назад
小早川秀秋は、元々毛利一族ではなくて小早川隆景の養子だったので、毛利一族とは別行動しやすく寝返りもしやすかったのかと思っていましたが、そんな単純なものではないでしょうね… 私の出身は隆景が納めていた地域なので、隆景は名君と言われていいます。養子の、秀秋の肖像画はもっと良いのがないものかと思います。
@nihonshi-salon
@nihonshi-salon 8 месяцев назад
歴史の難しいところは状況証拠しかないので、彼がどのタイミングで寝返ろうとしたのか、なぜ寝返ったのかというのは記録があるわけではないので、非常に難しいですよね。僕も秀秋の肖像画はもっといいものはないのかといつも思ってました…苦笑 関ヶ原合戦直後から裏切り者のレッテルを庶民からも貼られていたので仕方ない気もしますが
@user-td5cb2yj4u
@user-td5cb2yj4u 8 месяцев назад
事務方の石田三成と百戦錬磨の徳川家康じゃあ、東軍勝利はあたりまえ。小牧・長久手の戦いがいい予行演習でした。西軍対徳川軍団だけでも、徳川家康が勝てたんじゃないですか。
@user-le7nk9tk4g
@user-le7nk9tk4g 7 месяцев назад
私の又聞きの情報では有りますけど、秀吉公の遺言には、五奉行が詮議して、家康公と利家公の2人に裁決を任せるとなっていたと云う話しを聞いた事が有ります。 政権運営外となっている輝元公を総大将に掲げている時点で、三成公側も謀反とも云える行動ではないでしょうか? また、これまた又聞きですけど、淀君から援軍要請が家康公の元に来た何て話しも聞きました。 こうなると、話しはややこしくなります。 しかし、西軍も人事に混乱してるのか?家格が上の秀家公が総大将じゃないのは疑問ですね。
@user-te8xj7jo4l
@user-te8xj7jo4l 8 месяцев назад
大河ドラマはキャストが陳腐で見るに耐えないですが、関ヶ原新ネタはロマンがあって気になります。 400年以上もの大昔の話ともなるとお伽噺としてドラマチックな解釈の方が楽しめるような気もいたします。
@prossi4802
@prossi4802 8 месяцев назад
投稿主は新説が正しいという観点に立っているが、新説はあくまでも「一説」にすぎず、確定ではないことにも留意したい。
@yass313
@yass313 8 месяцев назад
小池さんの新説は、西軍の意図がよくわからないですね わざわざ大垣城を出ておきながら、持久戦を想定していたというのはよくわからない 考えられるとすれば、西軍は、街道沿いに馬防柵とか堀で陣地を構築して迎え討とうとしてたけど、東軍の奇襲と裏切りを受けて陣地の構築前に瓦解したとかそんな感じ?
@user-ml5px7br2j
@user-ml5px7br2j 8 месяцев назад
大津城を守っていた京極高次(淀の妹が嫁いでいる)が小早川秀秋に呼応する形で東軍に寝返った為、立花宗茂軍が足止めを食らった。このままでは遅参確実なので彼の戦歴をよく知っている島津義弘が進軍を待つため持久戦にした方がいいと進言したのでは。小早川秀秋と共に京極高次の裏切りも西軍に大ダメージだったのです。大垣城で家康に夜襲を仕掛けるべきという義弘の進言を三成が退けたという通説もおそらく創作でしょう。
@user-ml5px7br2j
@user-ml5px7br2j 8 месяцев назад
大津城を守っていた京極高次(淀の妹が嫁いでいる)が小早川秀秋に呼応する形で東軍に寝返った為、立花宗茂軍が足止めを食らった。このままでは遅参確実なので彼の戦歴をよく知っている島津義弘が進軍を待つため持久戦にした方がいいと進言したのでは。小早川秀秋と共に京極高次の裏切りも西軍に大ダメージだったのです。大垣城で家康に夜襲を仕掛けるべきという義弘の進言を三成が退けたという通説もおそらく創作でしょう。
@say5699
@say5699 8 месяцев назад
秀頼公が兵を上げるのを待っていたのでは?秀頼公が大坂から出て来てそれをお迎えすれば、戊辰戦争の時の官軍のような状態で江戸に向かって攻め上がる流れになります。
@markn1934
@markn1934 8 месяцев назад
RU-vidで流れてる葵徳川に比べると作り話のメロドラマ要素に時間をとりすぎて肝心な話が年末の総集編みたいな感じになってる 鳥居元忠のメロドラマは悪くはなかったけど
@say5699
@say5699 8 месяцев назад
どうする、は家康公の前半生がメインテーマだから、後半の尺が足りなくなるのは仕方がないですな。後半生がテーマの葵 徳川三代とは土俵が違います。
@shikararekurochikubi
@shikararekurochikubi 8 месяцев назад
淀が中立を貫いていたのは、大野治長が謹慎を解かれ東軍にいたからじゃないかと思う
@user-ml5px7br2j
@user-ml5px7br2j 8 месяцев назад
淀も利家同様に本音では三成を好いていなかったと思いますし、そもそも北政所との確執すら後世の創作で、福島正則ら寧々チルドレンが家康側に付いた為に反発して三成と手を組んだとは到底…
@user-zl4eq2be1k
@user-zl4eq2be1k 8 месяцев назад
関ヶ原の戦い。 真田を抑えるために3万8千。 真田はせいぜい4ー5千。 そんなに必要なのですか? いくら真田でもこの大軍相手にマトモにやれば、何日保つか。 この時期、加賀の前田の動きは。 大谷刑部とは何を話し合ったのですか? 小諸は北国街道との。 それとーーー。 関白秀次事件で処刑された側室たちの履歴を教えて下さい。 この事件に関与したと思われる大名たちは。 秀吉に対する謀叛をという説もあるらしいですが。 秀頼を廃して秀次を。 やはり秀頼があとを継ぐと。 となると家康を裏切る可能性は低いのでは。 最上などは。 思い込みです。 8月24日秀忠3万8千の軍を率い、宇都宮を出発。 9月5日真田昌幸が東軍に対し、抗戦を表明。砥石城から上田城へる。 この間、約十日ですか。 何をしていたのですか? 秀忠は上田にはいつ着いたのですか? 普通なら降伏した真田軍を伴い、すぐにでも関ヶ原へ。 まあいいか。 9月14日, 赤坂に着いた家康。 大津城が田辺城が落ち2万の西軍が、間もなく加勢に大垣へ。 まあこの時期。 マトモに西軍と戦っているのはこの方面だけですか? 東北では最上も上杉と。 伊達は動かず。 加賀も。 それにーーーどういう訳か、大垣へ行かず、 南宮山へ陣取った毛利の本軍が動き出せば。 伊勢方面を平定し、9月7日に南宮山まで来ていて、どういう理由で毛利の本軍は大垣へ行かなかったのですか? 行けば福島たちの東軍を圧倒できたはず。 まあいいか。 それで9月14日に赤坂に到着した家康。 赤坂は大垣と南宮山の間ですか?
@nihonshi-salon
@nihonshi-salon 8 месяцев назад
ご質問ありがとうございます。秀忠軍の主目的が信濃攻略で、終わり次第、美濃方面に向かうということだったみたいですね。実際、家康が美濃に到着して、西軍と武力衝突がありそうという情報は秀忠も掴んでいたのですが、軍勢を動かす様子は全く見せていません。もし、主目的が美濃方面に向かうことであれば、その情報を掴んだ時点で美濃に向かうはずというのが近年の通説のようです。
@say5699
@say5699 8 месяцев назад
もし早期決着がつかずにこう着状態ともなれば、信濃をしっかりと押さえておく事が非常に重要となり申す。
@user-gz9lu5bl1s
@user-gz9lu5bl1s 8 месяцев назад
西軍・石田三成の陣から大筒を バンバン発射して東軍本陣を破壊して欲しかった‼️
@say5699
@say5699 8 месяцев назад
ちょ、時代が違いますよ笑
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