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【隋書倭国伝】驚愕の事実!聖徳太子の遣隋使はなかった?【ゆっくり解説】 

レイの謎解き日本史ミステリー【ゆっくり解説】
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【動画目次】
00:00 オープニング
01:07 なぜ俀国伝なのか?
03:27 倭国が邪馬台国から続く九州王朝である根拠とは?
07:23 多利思北狐とは推古天皇なのか?
13:23 聖徳太子の遣隋使はなかった?
23:59 まとめ エンディング
今回は、日本古代史の謎を「隋書倭国伝」から解き明かす!を
テーマに解説させていただきました。
★このチャンネルは「知的好奇心を刺激する」
「日本史の未解明の謎を紐解く」を
コンセプトに歴史の真実や闇に関する動画を
皆様にお届けしていきます。
★ぜひ、チャンネル登録をよろしくお願いします。
※動画で取り扱う内容については、関係者を冒涜したり、
そのような行動を助長・扇動するという意図は一切ございません。
※動画内の素材はすべて引用であり、著作権や肖像権を侵害する目的はございません。
【参考図書】
『図でわかりやすく説き明かす日本古代史の謎 2
 ~その後の邪馬台国から日本国誕生の秘密まで』(青松光晴著)
▶ amzn.to/436PBGt
▼これまでの動画はこちらです▼
1.卑弥呼はここにいた! 魏志倭人伝が読み解く邪馬台国の謎とは?
• 【遂に解明⁉】邪馬台国はココにあった⁉魏志倭...
2.卑弥呼の宮殿はここだ! 考古学が説き明かす邪馬台国とは?
• 【遂に解明⁉】邪馬台国と卑弥呼の宮殿の場所と...
3.魏志倭人伝「水行十日陸行一月」を解読したら位置がわかりました⁉
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4.【倭人とは何か】倭国は日本国に併合されたのか?
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5.【宋書倭国伝】倭の五王は本当に天皇だったのか?
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6.【旧唐書・新唐書】倭国は日本に併合された?倭国は古の「○○国」なり!
• 【旧唐書・新唐書】倭国は日本に併合された?倭...
#ゆっくり解説  #古代史   #九州王朝

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27 июл 2024

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Комментарии : 50   
@user-ql4ri8nx5x
@user-ql4ri8nx5x 9 месяцев назад
秦王国とは大分県日田市付近だと思いますよ。ここでは鉄道建設の際に壊された「ダンワラ遺跡」と言うのがかって有ったそうです。そこからは金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡と言う日本では珍しい「鉄鏡」が発見されており「国宝」に指定されています。この鏡は鉄なので錆びて復元が困難だったのですが、玉石などで装飾され三角縁神獣鏡等とはくらべものにならない高貴な鏡だったそうです。中国で曹操の墓が発見されて、そこから出土した鏡と似ていると中国の学者が言っており、私はその学者の発言から滅ぼされた秦の末裔が日本に逃れてくる際に所持していたものではと思っています。いわゆる徐福の話は眉唾ですが、秦の末裔が逃れて来たのではと言うのは「魏志韓伝」の中の辰韓伝に秦の労役から逃れて来た人達(本当は秦の末裔なんだけど本当のことを言うと殺されるのでこういうウソをついていた)が辰韓にいて周囲の朝鮮人とは様子が違うと書かれていますので、その人達が海を越えて大分まで来ていたのかもしれません。ダンワラ古墳は、一説には当時の日田地方の豪族日下部氏の古墳とも言われていますが時代が全く合わないので、秦王国の可能性が高いと思います。日田市ならば東に陸行すれば陸行すれば別府湾に出ますから隋書の記述に一致しますし。
@Ryushun-yc4lp
@Ryushun-yc4lp 6 месяцев назад
青松さんの説だったのですね。古田説の人ということは知っていましたが。私も昔は古田説に傾倒した一人だったのですが、30年程前、古田説派の「市民の古代」に「『隋書俀国伝』の証明」という反古田説の論考を掲載させてもらったことがありました。 『隋書』俀国伝の解釈のいくつかについては、私もほぼ同意なのですが、肝心なところが異なっているようです。俀国伝では「東」という方角の解釈が俀国の地理地形と邪靡堆(邪馬臺)の位置を決定づける非常に重要な要素となっています。 対馬から壱岐に向かう方角が、『魏志』倭人伝では「南」であるのに、『隋書』俀国伝では「東」となっているからです。倭人伝の「南」が俀国伝の「東」にあたるとなると、俀国の地形「東西五月行南北三月行各至於海」は「東西三月行南北五月行各至於海」となり、東西に短く南北に長い、周りを海に囲まれた島国であり、そこには阿蘇山があった、ということになります。この条件を満たすのは九州島しかありません。東西に長く、九州、四国、本州を含む地形では俀国伝の記述には合いません。 この「東」の解釈からすると、秦王国は博多湾から南の方向にあり、さらに十数か国は筑紫平野にかけてあったと考えられ、そこから達する海岸は有明海北東部海岸ということになります。竹斯国より東が俀国に附庸するのは地形に合っているのです。俀王は裴清に対面したとき、私は礼義を知らないからすぐに会うことはしなかったと言っていますが、海岸到着後の十日はこのことを言ったものと思われます。俀王の迎えが来た後、すぐに都に着いた、とあるので邪靡堆(邪馬臺)は有明海北東部海岸の近くにあったことになります。それがどこかは確定はできませんが、当時の海岸線はかなり内陸部に食い込んでいたと考えられているので、その点考慮が必要だと思います。 私は、倭国乱により、倭国の都が博多湾周辺にあった、男王が70~80年続いた奴国から有明海北東部海岸の近くにあった邪馬壹(邪馬臺)国に移ったと考えています。 『魏志』倭人伝の行路は『隋書』俀国伝の行路と重ね合わせて考えるべきであり、そうすることによって、「水行二十日」と「水行十日陸行一月」は何を意味しているのかがわかってきます。
@ttzz-ic9yr
@ttzz-ic9yr 9 месяцев назад
なかなかの解釈で隋書と日本書紀を比較するのは面白そうだ。以前から倭の五王とは北九州の王であったのではという疑いはあった。そうすると日本書紀は北九州の倭国、と近畿にあった国と関東から東北にあったとされる国(日本国といったらしい)の歴史を混ぜ合わせたようなものということになる。さらに言えば、なぜこのあと30年位で日本の中心が北九州から近畿に移ったのか? 推古天皇は実在したのか、また実在したとしても女王だったのか?など疑問は尽きない。もっとさかのぼれば、魏の使いは邪馬台国に着いたのか?「卑弥呼は誰にも顔を見せない」と書いたのは自分が会ってないことの言い訳ではないのか? などなど色々疑問が出てきて、途中で何度も考えるのを止めた、、
@chockyinokinawa
@chockyinokinawa 9 месяцев назад
古田武彦説をおおむね信奉する私にとって、愉しく心地良い動画です。 通説を一旦述べてから間違いをサラリと知らしめて、冷静に「また別の説では」に導いていく流れが説得力の高いものになっています。
@user-zg8mf3zc9m
@user-zg8mf3zc9m 9 месяцев назад
説得力なんか無いけどね
@Tkiv-sy7fp
@Tkiv-sy7fp 2 дня назад
10:33 記録に残さなかったことにこそ、ある種の本質に迫るものがありそうですね。
@3891871
@3891871 9 месяцев назад
いつの間にか邪馬台国と倭の五王である九州王朝から小野妹子の大和朝廷にすり替わったのか なんとか考察お願いします🙇
@nnkk8888
@nnkk8888 9 месяцев назад
隋書と旧唐書倭国伝のどちらも倭王がいて天皇ではないですよね。また、倭王の都は邪馬台国のあった場所で、新唐書では倭王阿毎氏は代々筑紫城に住んでいたとあるので邪馬台国は筑紫城=九州にあったと言えそうです。 新唐書の問題は筑紫城に住んでいた時期が邪馬台国より前の時代になり、倭王ではなく天皇を名乗っていた事にはなりますが7世紀半ばまでは倭王と名乗っていますし、初めて天皇を名乗ったのは天武天皇という説もあり、日本が倭国を併合した事を考えると、7世紀半ばまでは倭王は筑紫城に住んでいたと考える方が整合性がとれそうです。
@nnkk8888
@nnkk8888 9 месяцев назад
三角縁神獣鏡とか卑弥呼の授かった中国の鏡に見せかけた国内製の鏡を配り正統性のアピールを300年くらい続けてはいるので、全く関係ない国なら神武東征も鏡も配る必要もないので、どこかのタイミングで倭国の分家が畿内に行き、力関係が逆転し併合されたもあるかもしれませんが、記紀を編纂した際に歴史書を焚書しているので、決定的な根拠はなくなっているので真実はわからないですね。倭国と日本が別の国だったとすると記紀をどこまで信用できるか?って問題と天皇家の根幹に関わりますし。
@user-xz4tn7dy4y
@user-xz4tn7dy4y 5 месяцев назад
倭王は「天を兄、太陽を弟とする」というのは上から2番目の立場である・ナンバー2であるということを表現しているのでは。
@user-xz4tn7dy4y
@user-xz4tn7dy4y 5 месяцев назад
著名な史書の記述を統合すると、国内については下記のことがわかる。 ①卑弥呼がいた時代から倭国(北は狗邪韓国から南は奴国までの北九州連合国)と女王国(邪馬台を都とする畿内連合国、後の日本国)があった。上下関係としては女王国(日本国)>倭国(西暦200年代)。 ②まつろわぬ熊襲・土蜘蛛の討伐に勤しんだ九州征伐とその後の三韓征伐をした時代(神功皇后=14代仲哀天皇后もいた西暦300年代)。 ③倭国が地理的に大陸&半島との窓口で三韓進出支配のために必要だった大陸の冊封を受けた倭の5王がいた時代(西暦400年代)。 ④九州の磐井さんが起こした一件(越から召還された継体天皇がいた西暦500年代) 以下略。 その他、大陸側については次の事がわかる。 ・列島内における倭と日本の存在と上下関係の正確な把握と理解がないこと。 ・倭王は倭の王(君)であって日本の王(君)でもなく、それら諸王を統べる皇でもないということの理解がないこと。 ・列島内の機微や秩序、統治体制を大して把握・理解していないこと。 大陸との外交上の朝貢の仕方や取次・冊封の有無が諸々の勘違いを生んだ原因ではないかと考えています。
@MASA-cb7lr
@MASA-cb7lr 7 месяцев назад
記録するときに地図描いて「ココに邪馬台国ありますよ」って解説つけてくれたらよかったのに・・・
@ayemyamu
@ayemyamu 9 месяцев назад
阿毎=天.多利思=照.北弧=比弧=彦、この名辞から天照は王家の苗字.彦は王の名(男性)、古代王家に苗字はまだ持っていました、彦の文字のついている王(天皇) は該当の人物.
@yskztkhs7986
@yskztkhs7986 9 месяцев назад
苗字を持ってるわけない。苗字を捨てたら中国的には禽獣に等しい。もともとないだけ。あまたらしひこというのが正しい
@user-qg2ox6qp7i
@user-qg2ox6qp7i 7 месяцев назад
東西5ヶ月の行程どのことだが、今のように道が舗装されてなく標識もない当時の山やら原っぱやら湿地帯ばかりの国土を歩くのを皆さんイメージして欲しいわ
@cvsq-xy8fo
@cvsq-xy8fo 5 месяцев назад
「新唐書 」日本国伝 国王の姓は阿毎(あめ又はあま)氏である 彼らは皆尊を尊称として竺紫城に存在していた 彦なぎさの子の神武が改めて天皇と名乗り大和州に移り住んでその地を治めた (中略) また言うには(この用明が)多利思北孤の代理として来朝したのは随の開皇末(600年)にあたりその時初めて(大和王朝は)中国と国交を結んだのである その次は崇峻……がしんで欽明の孫女の碓古(推古)が継いだ 等とあります 筑紫城と言うかは訳す人によるのかも 鎌倉時代の「仏祖統紀」では阿波市辺りで 神武が竺紫城にいたと詳しい人はコメントしてました 伊予国風土記には上宮聖徳太子が恵慈僧と葛城臣を侍らせて来て湯岡(ゆのおか)のほとりに碑文を建てた、その碑文を建てた所は伊社邇波之岡(いさにはのをか)という、帯中日子天皇(仲哀天皇)と大后息長帯姫命(神功皇后)のニ躯が一度来たとか書かれてるので実在はしてると思われます
@jirushizou5962
@jirushizou5962 9 месяцев назад
ここまでぶっとんだ説は初めて見た。 俀国を倭国と読ませずたいこくと読ませるのは常人の発想ではないが、タシリヒコ問題をスマートに解決してるのはなるほどと思った。 ちなみに中国の史書は日本の固有名詞は書き写し間違いが多くて、明史日本伝においてもそれは続いてるんですよね。
@axxx300
@axxx300 9 месяцев назад
秦(はた)王国、大分の八幡(やはた)神社総本社の宇佐神宮
@user-tk1kn4em6e
@user-tk1kn4em6e 15 дней назад
太秦が秦氏の本部
@biwa108
@biwa108 9 месяцев назад
聖徳太子は架空でも小野妹子は実在したので、小野氏そしてその本流の和邇氏も実在する。そして記紀には天皇の次に多く名前が登場するのが和邇氏の娘。 和邇氏は継体天皇の前後の王朝の母方を繋ぐ重要な立ち位置になる が、出雲族でもあり出雲族は女系を重視していた。 古くは中国でも女系を重んじていたが、日本でも女系を重んじていたのなら継体天皇までの時代は出雲族系国家(実力主義)、そして継体天皇から大和族系の男系国家(皇統主義)になったとも言える。 また和邇氏は大和の春日神社のある辺りに支配地域を持っていて、それが藤原氏の聖地へと変わる。和邇氏は琵琶湖の西岸に本拠地があった。そして近江大津宮を天智天皇が開く。 近江耶馬台国説があるが、近江は古くから縄文貝塚や銅鐸が数多く出土。そして神功皇后は息長氏の出身。米原には息長氏の拠点があったが和邇氏に近い関係だったとされる。 和邇氏=出雲族、和邇氏の本拠地の近くに継体天皇の出生地に関わるとされる場所。出雲族系は大和族に組み込まれる。(国譲り神話との繋がり) 記紀は、持統天皇(近江王朝)と藤原氏が編纂に大きく関わっているので、近江〜大和〜河内で起こった争乱を歴史に書けば、遺跡なども見つかるので信憑性は高まる。そこに架空の聖徳太子を書き込む事で、廃物派の物部氏(出雲系)VS推仏派の聖徳太子(大和系)の宗教戦争は仏教側の勝ちとすることも出来る。 そして『日本古来の神は仏の守り神』という事で、神仏習合へと融合していく
@taka204
@taka204 8 месяцев назад
九州王朝? 白村江の大敗で衰退して大和王朝に滅ぼされたのでしょうか?
@yoholake
@yoholake 6 месяцев назад
オノノ…イナフ🐟
@YO-high
@YO-high 9 месяцев назад
これはアリ。そう、2朝並列が聖徳太子の時代まであったということ。 旧唐書や新唐書にあるように「倭国」「日本国」が並列であることを考えると、「倭国」ではなく疑われて「俀國」とみられてもおかしくはない。 個人的には、妄想だけど「蘇我氏政権」こそ「倭国」であり、大化の改新あたりで「簒奪」されたとみてよいかと思っております。(なので九州王朝というわけじゃないってこと。この後の「白村江」で倭国は壊滅すると思ってます。)
@user-zg8mf3zc9m
@user-zg8mf3zc9m 9 месяцев назад
倭国から日本に国号が変更されて、それが702年の遣唐使のよって唐に伝えられたが、そこから数十年の範囲の時期に唐で書かれた書物では、「倭と日本は同じもの」と書かれている。例えば、  史記正義「武后が国号を改めた」  唐暦  「和と日本は同じもの」  通典  「倭、別名日本」 旧唐書は945年というかなり後の時代のもの。中国は倭から日本に国号が変更された近い時期には、明確に倭と日本は同じものと認識していた。
@ttzz-ic9yr
@ttzz-ic9yr 9 месяцев назад
どなたかも「明日王朝は乗っ取られた」と主張しています。そうすると、乙巳の変など蘇我一族と天智・天武の政権闘争であったとも考えることもできます。極端にいえば豪族同士の争いだったということです。
@w.bavasi8958
@w.bavasi8958 8 месяцев назад
言語を含めて当時の通信技術じゃ畿内から九州まで一体的な統治を確立することなんて出来なかっただろうから、 中国から見て一つの国に見えるかどうかは別として国レベルに独立した勢力が併存してた可能性はぜんぜんあるだろうなぁと思う。
@user-wd4jd5si9l
@user-wd4jd5si9l 3 месяца назад
阿毎多利思北狐は蘇我馬子、九州王朝の王。
@user-tk1kn4em6e
@user-tk1kn4em6e 15 дней назад
蘇我馬子だったとしても飛鳥の都は奈良 北九州はいつの時代も通り道
@user-wd4jd5si9l
@user-wd4jd5si9l 12 дней назад
@@user-tk1kn4em6e 倭国の都は筑紫です。
@user-fs3jf7il5i
@user-fs3jf7il5i 9 месяцев назад
昔の教科書が間違ってんなら今のだって大して信憑性ないでしょ
@user-in4vz8hu7s
@user-in4vz8hu7s 9 месяцев назад
教科書というのは作る時に力のある者で変わりますものね
@user-lr1zk7ok1r
@user-lr1zk7ok1r 8 месяцев назад
例として→ ・明治〜1945年までは紀元前660年2月11日を我が国日本の初代神武天皇の即位をもって建国され、日本武命や神功皇后の新羅出兵の話だったのに ・戦後に、入ってGHQ及びアメリカに認められた「国の歩みと呼ばれる歴史の教科書の内容によれば、今と同じく旧石器時代の3万年前から始まる記述に変更された」そうです
@noel8446
@noel8446 9 месяцев назад
タリシヒコはヤマト政権と無関係と考えたほうが諸々スッキリするんだよな 倭の五王もしかり
@user-hh3ef4xd6n
@user-hh3ef4xd6n 9 месяцев назад
😊😊😊
@ttzz-ic9yr
@ttzz-ic9yr 9 месяцев назад
これには同感です。特に推古天皇、聖徳太子の時代のラリシヒコは蘇我氏と言っても良いくらいです。
@user-fo8od8zx2y
@user-fo8od8zx2y 2 месяца назад
神武東征なら九州王朝はあり得ない。😅大和王朝は前方後円墳の古墳からみれば古い。タリシヒコは聖徳太子。
@Psyom01
@Psyom01 8 месяцев назад
うーん、当時、ヤマト王権は機内の一地方領主だったてこと?
@masamasaict7312
@masamasaict7312 8 месяцев назад
茨城県説の方が面白い。5か月もかかる範囲ならありえるかも。
@490526ryu
@490526ryu 7 месяцев назад
その辺りはたしか日高見国があったといわれた地域じゃなかったかな?
@masamasaict7312
@masamasaict7312 7 месяцев назад
@@490526ryu 西日本には長江流域から文化や人が入っている。呉服などその痕跡は確か。魏は敵国の勢力範囲を避けて、出雲、越、日高見常陸国の連合国と交流を持っていた。何百年も前から中国はインドと陸や海路で行き来していた。呉誌があれば面白いのだけど。東日本の古代の動画が少ない。
@gingingingingin
@gingingingingin 9 месяцев назад
阿波
@user-zg8mf3zc9m
@user-zg8mf3zc9m 9 месяцев назад
隋書倭国伝では、筑紫の東は全て倭に属すると言ってる。現在の近畿以西を倭国とする解釈などできないし、倭と日本が並存した可能性もない。 また倭国は東西五カ月、南北三カ月の行程だというのも東北以南の日本列島全体の規模と考えないと合わない。そして、九州から東北で一つの倭国ができている時、その王が九州にいることはあり得ない。遣隋使の時代の直前まで前方後円墳の時代が続いており、前方後円墳終末期でも、近畿地方の前方後円墳が圧倒的に巨大だからだ。(五条野丸山古墳など)。隋書では百済や新羅は倭を大国とみなしていると書かれているが、九州北部に都がある国を大きいと感じるわけがない。外国の使者は倭国内のわずかな移動しか必要ないのだから大きさを感じる機会がない。  さらに、隋書では倭国は百済から仏教を導入したと書かれているが、飛鳥寺はその瓦の文様などから、遣隋使の時代の前に、百済の技術を使って作られたことが学術的にわかっている。一方、九州にはそんな証拠はない。  結局のところ、倭国はヤマト王権というのが正しい。
@user-xn7nm8cc2p
@user-xn7nm8cc2p 8 месяцев назад
その隋書倭人伝の読み方が 本当は当時の中国語読みしないといけなくてこの事は中国人から指摘された人も居る 私もさっきまでタリシホコは聖徳太子だと思っていたんだが確かに通説だと矛盾が多い そもそも日本の皇統には「姓」が無くそれは今以て同じ 元々別に王朝が在って古事記や日本書紀の編纂の際に無理矢理繋ぎ合わされたとすれば 唐突な蝦夷の自殺や聖徳太子の子である山背大兄王の一族が突然かき消えた事の矛盾が説明出来る 私は斎王「酢香手姫」の存在を聖徳太子が大王であった根拠としていたんだが 良く考えてみれば彼女は伝承時代の斎王で実在が定かでは無い。
Далее
ここまでわかった『出雲国風土記』
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УРА! Я КУПИЛ МЕЧТУ 😃
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ФОКУС С БАНАНОМ🍌
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【ゆっくり解説】覇王!天武天皇の謎!
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