Тёмный

安倍晴明の足跡を訪ねる〜第四回☆嵯峨墓所編〜 

歴史じぃじ
Подписаться 2,2 тыс.
Просмотров 905
50% 1

安倍晴明の足跡を訪ねるシリーズの最終回。ついに安倍晴明のお墓を訪ねます。そこは意外な場所でした、、、
#kyoto
#安倍晴明
#陰陽師
#広沢池
#遍照寺
#鹿王院

Опубликовано:

 

28 фев 2024

Поделиться:

Ссылка:

Скачать:

Готовим ссылку...

Добавить в:

Мой плейлист
Посмотреть позже
Комментарии : 6   
@roserosa99
@roserosa99 4 месяца назад
とても面白い動画ありがとうございました。 平安末期の民衆とは、取るに足らない存在で毎日の生活に精いっぱい、安倍晴明は余裕のある貴族のために奉仕したのではないかと考えていましたが、どうなんでしょうか。 文献も残ってないでしょうから、わかりませんよね(汗)
@aratatakeda7971
@aratatakeda7971 4 месяца назад
コメントありがとうございます。実際の安倍晴明は仰る通りだったと思います。(何せ、高級官僚でしたから) ただ、民衆が独自の安倍晴明像を作り出してしまい、それが独り歩きして、数々の伝説が生まれたのだと思います。 そういう意味では民衆のヒーローだった。そして何故、民衆は安倍晴明を求めたのか、という視点で歩きました。
@fukkun88
@fukkun88 4 месяца назад
この晴明のお墓、当時は広大だった天龍寺の所領内で祀られていたと言うけれど… ? 天龍寺は晴明の没後340年も経った康永4年(1345)に落慶。その後に天龍寺に祀ったのでは無く、元々晴明のお墓か塚があった場所が 340年後にたまたま天龍寺の所領になったと考える方が自然だと思えるけれど、如何でしょうか? 現代の様に印刷物や他の大衆伝達の手段も無きに等しい1300年代、陰陽師 安倍晴明の名声がどれだけ一般に知られていたのか疑問に思われます。 現在ではこの場所、晴明神社が管理する一番公式な安倍晴明の墓所とされています。しかし京都市内にも晴明の塚や墓所として語り継がれていた場所が何カ所かあったそうで、ここが本当の墓所では無いと疑問視されますが、実の所どこに埋葬されたのかは分からないそうです。 荒廃していたこの墓所は、昭和47年(1972年)に整備されたそうで、それ以前はどの様な状態だったのか資料が見つからず疑問が残ります。 また、安倍晴明の直系子孫 「土御門(つちみかど)家」の墓所は下京区の梅林寺に現存していますが、半世紀近く子孫の消息が不明になっていて、梅林寺がこの一族の供養を続けているそうです。 碑 文 陰陽博士安倍晴明公は本邦易占天文暦学 の開創にして平安朝の中期朱雀帝より 一條帝に到るまで六代の帝に仕へ 移り行く星雲を見て宮中の変事を豫知し 遠國の動静掌中にあるが如く神道自在の 妙術を得られ朝野の信望極めて篤し 斯くて寛弘二年九月二十六日壽齢八十五 にて歸幽さるを以て翠嵐の嵯峨の地を 永遠の奥城として神鎮り奉ふ 後世に到るも奇しき尊き御遺徳を鑽仰 する者数多あり茲に崇敬者相寄り荒廃せる 墓域の改修を行ひ永年の宿願を達成す
@aratatakeda7971
@aratatakeda7971 4 месяца назад
コメントありがとうございます。詳しい内容、とても勉強になりました。私も嵯峨墓所は後世の伝承に由来するもので、本物かどうかは疑わしいと思っております。安倍晴明は、中世の説話文学に登場するようになってから、民衆のヒーローになったのではないでしょうか。
@user-ru3ud2ik7h
@user-ru3ud2ik7h 2 месяца назад
何か違うような気がする
@aratatakeda7971
@aratatakeda7971 2 месяца назад
コメントありがとうございます。おっしゃる通り、安倍晴明らしくないですよね。ただ晴明神社がここと言っているので、公式にはここになっている訳です。なぜここに決めたのか、決定当時の宮司さんのお考えを聞きたいものですね。
Далее
奈良街道を歩く①〜伏見街道〜
17:45
Как вам наш дуэт?❤️
00:37
Просмотров 235 тыс.
京都御所・歴史案内
6:33
Просмотров 12 тыс.
五重塔 構造
22:42
Просмотров 114 тыс.
Как вам наш дуэт?❤️
00:37
Просмотров 235 тыс.