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日本史年表 西暦592年 蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺する 

長町ゼミナール 教育チャンネル
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このチャンネルは、大学受験生や日本史を学び直したい人のためのチャンネルです。
今回の動画をご覧いただけば、592年に起こった事件の驚くべき真相とその周辺の事情がよくわかりますので、ぜひ最後までご覧ください。
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【この動画のトピック】
『日本史年表 西暦592年 蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺する』
崇峻天皇が暗殺されたのは妃の密告が原因!?
【日本史年表の動画一覧】
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【この動画の内容】
日本史年表、西暦592年 蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺する
という出来事を取り上げていきたいと思います。
日本で唯一、暗殺された天皇とされているのが、崇峻天皇です。
崇峻天皇が暗殺されたのは、お妃の密告が原因だと『日本書紀』には記されています。
当時の天皇には何人ものお妃がいるので、天皇の寵愛が衰えたと思った一人のお妃が蘇我馬子に密告したというのです。このような事件は多いかもしれませんね。徳川家康の長男の信康も、妻の五徳と不仲になり、五徳の父親である織田信長に告げ口したことで切腹に追い込まれていますからね。男女間のトラブルは非常に怖いですよ。夫婦円満が一番ですね。
では、崇峻天皇が暗殺されるまでを順を追ってみていきましょう。
仏教が日本に伝来して以来、朝廷内部は崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏という2大勢力が争っていました。敏達天皇が崩御したときに、ある事件が起こりました。穴穂部皇子という人物が、天皇が安置されている宮殿に押し入ろうとしたのです。なぜ、そんなことをしようとしたのでしょうか。敏達天皇はもう亡くなっているのです。穴穂部皇子は、敏達天皇の異母弟です。実は、敏達天皇には、とても美しいと評判の皇后がいたのです。その皇后を強姦する目的で、宮殿に押し入ろうとしたのです。しかし、その行動を敏達天皇の忠臣である三輪逆に妨害されたため、押し入ることができませんでした。これを恨みに思った穴穂部皇子は、物部守屋と蘇我馬子に三輪逆を殺すように命令したのです。たくさんの人が出てきたので、人間関係を整理しておきます。敏達天皇と穴穂部皇子は兄弟です。そして、穴穂部皇子は、蘇我馬子の妹の子どもなので、馬子が伯父ということになります。物部守屋は、穴穂部皇子と何の関係もありません。
話を元に戻します。
穴穂部皇子は、自分の邪魔をした敏達天皇の忠臣である三輪逆を殺すように物部守屋と蘇我馬子に命じます。蘇我馬子は、伯父という立場でありながら甥の無茶な命令に躊躇しました。しかり、物部守屋は迷うことなく三輪逆を攻めたてました。追い詰めた三輪逆にトドメをさしたのは、穴穂部皇子だったと言われています。これを見た蘇我馬子は、世の中が乱れることを悟り、嘆きます。物部守屋はこの事件をきっかけに穴穂部皇子に急接近します。時は敏達天皇の次の代の用明天皇の時代でした。587年になり、その用明天皇が崩御します。物部守屋は穴穂部皇子を次の天皇に押し立てようとしました。穴穂部皇子が次の天皇になったら世の中は大いに乱れると思った蘇我馬子は、穴穂部皇子の即位を阻止するために、穴穂部皇子の屋敷に夜襲をかけました。ついに穴穂部皇子は討ち取られてしまったのです。そして、蘇我馬子は大軍を率いて物部守屋を襲います。蘇我馬子と物部守屋の戦いに関しては、『日本史年表 西暦587年』で詳しく取り扱っていますので、そちらをご覧ください。説明欄にリンクを貼っておきます。
蘇我馬子によって、物部守屋が滅ぼされたのをきっかけに、蘇我馬子の独裁体制が始まったのです。もちろん、大王である天皇の力さえも凌ぐようになり、馬子の権力は絶大になります。穴穂部皇子がいなくなったため、後継ぎとしては、泊瀬部皇子しか残っていませんでした。穴穂部皇子の同母弟です。つまり、彼も蘇我馬子の甥にあたります。蘇我馬子の力によって、泊瀬部皇子は崇峻天皇として即位しました。
おそらく最初は、崇峻天皇は天皇になれたことを喜んでいたでしょう。しかし、蘇我馬子の独裁体制にだんだんと苛立ちをおぼえてくるようになりました。
そして、即位から5年後の592年、蘇我馬子によって崇峻天皇が暗殺されてしまったのです。日本書紀やその他の古い記録からは、2つの説が読み取れます。日本書紀では、次のことが記されています。ある時、崇峻天皇はイノシシを献上され、そのイノシシを見て「このイノシシの首を切るように、いつか憎いあいつの首を切ってやりたい」と漏らしたとされています。それを聞いていた崇峻天皇の妃の一人がそのことを蘇我馬子に密告したのです。その妃は、天皇の寵愛が薄れていくのを恨みに思っていたそうです。そのことを知った蘇我馬子によって崇峻天皇は暗殺されました。
もう一つの説は、宴の席で崇峻天皇が「このイノシシの首を切るように、いつか憎いあいつの首を切ってやりたい」と言ったとのことです。その時、側には聖徳太子がいました。もちろん、蘇我馬子はいるはずがありません。聖徳太子は、天皇のその言葉を絶対に外部に漏らさないようにと、固く口止めをしました。しかし、それが蘇我馬子に漏れ伝わってしまい、崇峻天皇が暗殺されたとのことです。
いずれにしても、悪口からこのような事件に発展してしまったのです。崇峻天皇を暗殺したのは、東漢直駒です。彼は怪力の持ち主だったとされています。刺客として送り込まれた東漢直駒は、天皇が寝室で眠っているときに、天皇を惨殺したとのことです。その後、東漢直駒は崇峻天皇の妃の一人と密通が露見し、その罪で蘇我馬子によって処刑されました。その妃とは、実は蘇我馬子の娘でした。何か匂いませんか?これはどう見ても、東漢直駒が暗殺に利用され、口封じをされたと考えるのが自然ですよね。馬子に娘を与えるなどと裏で言われたのかもしれませんね。今となっては、真相は闇の中ですが。
こうして、蘇我馬子の邪魔な存在になってしまった崇峻天皇は、この世から姿を消してしまいました。その後、馬子には困ったことが起きました。もう祭り上げる天皇候補がいなくなってしまったのです。
この時代は、天皇は兄弟相続が普通でした。敏達天皇・用明天皇・崇峻天皇はみんな欽明天皇の子どもたちで兄弟です。崇峻天皇が亡くなった後は、男の子の兄弟はいませんでした。そうなると、欽明天皇の子どもの子ども、つまり孫から天皇候補を立てるのが普通です。その孫の中で最年長は、19歳の聖徳太子でした。ある歴史学者は、19歳では若過ぎであるということから聖徳太子は天皇になれなかったと考えています。そこで白羽の矢が立ったのが当時39歳の推古天皇でした。もちろん、馬子たちから依願されても何回も断ったようです。しかし、聖徳太子を皇太子兼摂政とすることを条件に、天皇に即位することに同意したようです。蘇我馬子は、これをもって日本の先例を作りました。適切な男系の天皇の候補がいないとき、または幼過ぎるとき、女性の天皇が中継ぎとして即位するというシステムが生まれたのです。当時は、女性として生まれてくれば天皇になるとは思っていないので、天皇になるための学問などの教育は受けていませんね。したがって、女性天皇であれば政治に口を出すことはほとんどないと思われます。だから、蘇我馬子にとって、女性天皇は非常に都合が良かったのだと考えられますね。
今回の動画は、ここまでとなります。
次回は、593年に聖徳太子が摂政になってからのことを詳しく見ていこうと考えています。
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ご視聴ありがとうございました。
#日本史 #歴史 #受験 #大学入試  #蘇我馬子 #物部守屋 #聖徳太子 #推古天皇 #年表 #学び直し #聞き流し #崇峻天皇

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1 июл 2024

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Комментарии : 2   
@user-mj7jw2mm4f
@user-mj7jw2mm4f 6 дней назад
AIの絵が酷い😑 他の歴史サイトでも日本の江戸以前のAIが作った絵はあまりにひどいか昔の中国の絵になってしまうと別の資料映像(源氏絵巻とか)を使っていいます。途中車椅子は出て来るは漫画風の絵が出てくるはでもう・・・・話に集中が出来ません😅まあ、知っている歴史だから別にいいけど。
@nagamachi-zemi
@nagamachi-zemi 6 дней назад
コメントありがとうございます。 AIに画像を作ってもらうのはなかなか思い通りにならないものですね。何回も修正の指示を出しても、同じ誤りをするので、諦めてしまうことがあります。AIの精度が上がってくれるのを願うのみです。しかし、自分ではイラストを描けないので、AIの画像作成技術にはとても感謝しています。
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推古天皇と聖徳太子
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