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「守護大名」は教科書から消える⁉室町武士の最新研究【ゆっくり室町時代解説】 

右京大夫政元【歴史解説】
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「守護大名」という歴史用語、実はもう使われていないんです――――
今回は「守護大名」が歴史学で使われなくなった理由について解説します
 ●目次●
 ・「守護大名」が登場するまで
 ・「守護大名」が消えるまで
 ・その後の守護、大名研究
  在京守護/大名(タイメイ・ダイミョウ)について
 ・室町時代ゆっくり解説シリーズ >>>www.youtube.co....
※参考文献は動画の最後に記載
・twitter【@meiou1493】
・Link(動画作成において使用)
 music
 beco: / baron1_3​
 
 木沢長政のイラスト
 charu: / tamago_286
・地図
 :Google Earth
・その他肖像・画像・古史料等
 →Wikipedia
 →国立国会図書館デジタルコレクション
  :dl.ndl.go.jp/

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12 сен 2024

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Комментарии : 128   
@meiou1493
@meiou1493 2 года назад
守護在京についていくつかご指摘がありましたが 12:15 で明記している通り「室町殿御分国」(九州・関東・東北以外)と その境界の守護は例外です。 関東については、多くの関東武士が「在鎌倉」していたことが指摘されています。 (『鎌倉幕府と室町幕府―最新研究でわかった実像』第四章より) また、島津氏/大友氏の例は、「在地勢力から守護になった」と思われがちな武士でも、「最初は中央から支配していた」モデルケースとして示しています。室町時代の守護在京とは直接関係ない話ですが、関連する話題として紹介しました。
@マスター刑事
@マスター刑事 2 года назад
そういえば武田や佐竹はもともと守護任命国の有力武士だったはずですが、彼ら地域の有力者が鎌倉以来続けている守護職と室町幕府が新たに任命した守護職では何かしら権限だったり、義務だったりが違ってくるのでしょうか。徳川幕府は外様と譜代では権限が大きく異なっていましたが。
@user-xp2lj6gj7p
@user-xp2lj6gj7p 2 года назад
「あの図が『守護大名』=地方の支配者のイメージの形成を助長させているのは間違いないが、かといってあの図がなければもっと分かりにくくなる」ほんそれなんですよなあ…
@MUSASI40
@MUSASI40 2 года назад
旧国名何て 全て暗記してる人の方が少数派だろうね
@tanakaokkyuu
@tanakaokkyuu 2 года назад
「新九郎、奔る!」73話で、政元拉致事件についてのセリフで、 「大乱終結後に京に残っていた唯一の大名の当主が拉致されたとあっては」 というセリフがあり、【たいめい】とルビが振ってありました。 最初に読んだときは読み飛ばしてしまいましたが、動画を見た後では納得感がすごいですね。
@kanekoomoi6922
@kanekoomoi6922 2 года назад
興味深く拝見しました。 自分は40代のおっさんですが「守護大名」という言葉については動画でのご説明とは違い、守護職に任じられていた有力武士(武田氏、今川氏、島津氏、佐竹氏等々)がそのまま土着化して「戦国大名」となったもの、つまり「戦国大名」という大カテゴリの中の一つという風に教わった記憶があります(それに対して守護では無い立場から戦国大名に成り上がった例が下剋上と)。 最新の歴史研究を分かりやすく紹介頂くのは大変有り難く、今後も活動応援させて頂きます。
@munetika2
@munetika2 2 года назад
「守護大名」が在京し、地方にいなかったから戦国時代になって「守護代」が乗っ取ってしまうパターンが多かったのよねえ
@nattousenbei
@nattousenbei 2 года назад
結局国との結びつきが弱かったということだからな・・・・
@ginchan99
@ginchan99 2 года назад
この動画の解釈的には、それは「乗っ取り」ですらない、のだろう。 守護ってのは中央との連絡役に過ぎないのだから、守護はそもそも支配者ではないのであって、 現代風にいえば「遠江担当大臣」ぐらいの立場で、「遠江県知事」は守護代、あるいは別の地域有力者だった、と。 感じとしては「土佐国・讃岐国・丹波国・摂津国・伊予国担当大臣:細川勝元(衆議院議員、選挙区:阿波2区)」ぐらいの感じ
@user-jr2uv1bs1d
@user-jr2uv1bs1d 2 года назад
守護大名が不適としても初期の戦国大名の多くが守護達なんだよね。 武田今川細川六角一色山名畠山大内とかで結局彼らは守護任地を領国化してる。 室町幕府て時の将軍の力量で統治システムが変わる感じなんだよね。
@papapandoki3862
@papapandoki3862 2 года назад
そもそも守護になれる家は概ね足利一門だから、急に天下を取った足利氏の一門衆が幕府の権威を源泉としない権力を地方で確立しているって考え方は違和感ありましたね。
@googletaniyu6513
@googletaniyu6513 2 года назад
現在、20歳のものですが、小学校・中学校で守護大名を習った覚えがあるので、これが国民の大多数の頭から消え去るのには相当時間がかかるでしょうね・・・
@user-bp5nx6lb4t
@user-bp5nx6lb4t 2 года назад
教科書も変わるでしょうね、結局守護が都から地方に下るのは応仁の乱以後ですし。
@user-fz7fh5fw8k
@user-fz7fh5fw8k 2 года назад
教科書も変わってくれたか……大名のカテゴライズってなかなか面白い
@ナカジマ0631
@ナカジマ0631 2 года назад
室町幕府が機能してたときはこの動画のとおりなんだろうけど、室町時代末期から戦国時代に変化していくグラデーションの時期にどうなっていたのか気になる。 戦国大名が発生する前には地方に守護が散らばってたわけではないの?
@farside20
@farside20 2 года назад
室町幕府の影響力が強い近畿・中部・中国地方と、鎌倉府や探題職を設置して管轄外である九州・関東・東北地方では、守護(大名)の成り立ちや性格が異なるように思える。 ヨーロッパもそうだけど、前近代において全国で同じシステムが取られていたとは考えられない。
@tigerion9275
@tigerion9275 Год назад
なぜこのコメントにハートマークをつけないのだろうか
@しずもりよしひら
@しずもりよしひら 2 года назад
この解説きいてたら、守護って本部で支店長たちをコントロールしてる大企業の幹部な感じかなって思ってきた。
@Miki_Nanase
@Miki_Nanase 2 года назад
立命館秦野先生のChで「タイメイ・タイミョウ」という言葉を知ったのは半年ほど前かしら?? 「守護在京制」という概念自体はかなり以前から定着していたはずなのに、とは思いました。
@jmicpiro8913
@jmicpiro8913 2 года назад
1:50 大学に上がったときは石母田正の与えた影響の大きさをうまく理解できてなかったが、こうしてみると教科書記述を通じて、後世に与えた影響は非常に大きいなと改めて理解した
@jmicpiro8913
@jmicpiro8913 2 года назад
あと、「室町幕府は守護大名の連合政権」という説は、中学生のときには知ってた気がするな
@yyy4399
@yyy4399 2 года назад
守護は霞が関の地方担当官みたいなもんだから、リモートワーク中心になると
@lentefestina1057
@lentefestina1057 2 года назад
素人考えなんだが、守護が戦国大名になる過渡期には「守護大名」的な性格もなかったの? 応仁の乱前でも、将軍家が求心力を失い、守護の力をつけたころには、守護が地方の支配者的な存在ではあったと思えるし、 そのように力関係が変わっていくのにともなって、徐々に守護が地方の支配者をへて戦国大名になっていく過程を表す表現として、 守護大名という表現は分かりやすいし、有用と思えるのだけど。
@ginchan99
@ginchan99 2 года назад
>将軍家が求心力を失い、守護の力をつけたころには、守護が地方の支配者的な存在ではあったと思えるし、 この動画の解釈的には、応仁の乱以前の段階ではそういうことはなかったということかなと。 (守護家の力は守護職と必ずしも直結せずに持っている各地の領土に由来していて、守護分国の支配によるものではない) >徐々に守護が地方の支配者をへて戦国大名になっていく過程 そういう過程を経た大名が皆無ではないと思うけど(九州なんかはその色彩がありそう)、 基本的には京都を離れて地域に定住するようになった時点で「守護」としての実態は失われ、実質的に戦国大名の形になっていた、ということかなと。 つまり「守護出身の戦国大名」は少なからずいるが、守護から戦国大名への転換は、「徐々に」ではなく、 守護在京が終わった時点でばちっと切り替わるのであって、その間に「守護大名」という概念はない、と。
@user-ig2tp6wp2o
@user-ig2tp6wp2o 4 месяца назад
「戦国大名の出現/形成」と「守護職の変容」を一元的に語ろうとするから、乱脈が収まらないのです。 国人層或いはもっと得体の知れない層から戦国大名が発生するケースは少なくなく、これらは守護大名からの転化という文脈に組み込めない。 「動画内容は正か誤か」という様な、二項対立的な論争は不毛ですね。
@Taka18782
@Taka18782 2 года назад
勉強になりました。 分国が飛び飛びなのは意識してそうしたわけじゃなく、むしろ分国どうしの位置関係など特に意識していなかったから、ということなんですね。 その時その時の事情で分国を任命していけば、隣接しないのが確率的に自然。
@kgwm410
@kgwm410 2 года назад
おもしろかったです! 武田家なんかは鎌倉時代以前から甲斐に勢力を持ち室町守護から戦国大名になっているので守護在京の例外なのでしょうか。一方甲斐武田は安芸半国守護、若狭守護と分かれていき若狭武田は将軍側衆として在京の時代があったので、京都側から見ると在京する若狭武田が当主で安芸や甲斐はその分国という感じだったのかも、とか。
@yamatonokuni-rekishi
@yamatonokuni-rekishi 2 года назад
「守護領国制論」は根強いですねぇ。 今でもこう理解してる人が大半なんじゃないかと。
@farside20
@farside20 2 года назад
南北朝の動乱の中で、有力武士が大犯三ヶ条の検断権に加えて刈田狼藉の検断権、使節遵行権、半済令を獲得して守護から守護大名に成長したって説明が流れとしてわかりやすいんだよな。
@user-zl1vj6fz1m
@user-zl1vj6fz1m 2 года назад
受験期に使っていたZ会出版の「実力をつける日本史100題」の大問100の1番の解答欄の配点に"荘園・公領に進出して守護領国制を確立した"とされていますし、なかなか消えないでしょうね、
@qoamb410
@qoamb410 Год назад
守護代が、いわゆる代官という感じなんでしょうか。戦国時代に急速に守護代が力を伸ばしたなんて、教科書的な記述だと見受けられますが、いわゆる領国に守護がずっと居たら、守護代と対立→戦いになりますよね。成る程、「守護大名」のイメージが実態に沿ってない理由が分かりました。お話し面白かったです。長文すみません。
@t.2005
@t.2005 2 года назад
将軍と直接主従関係を結ぶ国人領主は伊勢国や東国の京都扶持衆などたくさんいることからも、守護はあくまで幕府の職務で所領や主従関係は室町幕府が機能している間は別の話なんですよね
@user-rj8iv1zi1s
@user-rj8iv1zi1s 2 года назад
とても勉強になります
@takagi_4745
@takagi_4745 2 года назад
今回もありがとうございますー!!!!!
@matukawatositane
@matukawatositane 2 года назад
守護大名が使われていなくなっていることすら知らなかった… こういう話を聴くと室町幕府の全国支配はそれなりに強固だったんだなぁという思い
@farside20
@farside20 2 года назад
うーん、室町幕府の「全国支配」というのに違和感がある。 室町幕府は将軍-守護が京都を拠点に畿内を中心に支配する勢力で、関東は鎌倉府、東北は奥州探題と羽州探題、九州は九州探題(&大内氏)に委任して、室町幕府の管轄外の地方は現地の武士に委ねてるって感じの理解だったけどな。鎌倉府や探題職はみんな足利一門ではあるんだが。 全国統治というよりも、分割統治のイメージ。
@matukawatositane
@matukawatositane 2 года назад
@@farside20 一応足利を担ごう体制にはなってるから幕府的には全国の武家を支配してるかなって
@daisuke5755
@daisuke5755 Год назад
戦国大名もよくわからない用語です。戦国大名の方が定義が曖昧だと思います。
@user-hq6vu8is3w
@user-hq6vu8is3w 2 года назад
応仁の乱で荒廃した京都に住んでいても仕方ないから、守護が地方に移住したというわけか。
@shoukai3200
@shoukai3200 2 года назад
大名の呼び方って、論を何一つ追ってないんだけど、小名に対する言葉でダイミョウができて、紛らわしいからタイメイ呼びがあとから出てきたんじゃとか妄想してる
@user-qz3go1ft3p
@user-qz3go1ft3p Год назад
土地に対する権利の問題が 本当に泥で出来た底無し沼。 牛一さんあたりが20回シリーズぐらいで簡潔に解説してくれないかな
@貧弱一般未満人
@貧弱一般未満人 2 года назад
言われてみれば、守護が地域勢力から生えてきた存在だとしたら山名や3管領なんかがあっちこっちに分国を持ってたの説明つかないよなあ どう見ても都の政治ゲームの結果で任命されてるとしか思えないのに動画見るまではあんまりそう思ってなかったので先入観は恐ろしい……
@john_andaman3498
@john_andaman3498 2 года назад
地方勢力が実効支配しているといえば、惣国の国人衆でしょうね まぁ内ゲバもあってすぐ解散するんですが...
@towbbb9160
@towbbb9160 2 года назад
@@john_andaman3498 みんな喧嘩っ早いからなあw
@user-ih2we4ud3e
@user-ih2we4ud3e 2 года назад
内実が変わっただけだから、歴史用語としては守護大名のままでいいんじゃないかなぁと思う。わざわざ「タイメイ」を使うより「守護大名」のままで、その職掌の内容を最新のものに変えれば良いだけで。 名前を変える必要性ってあるんだろうか。
@meiou1493
@meiou1493 2 года назад
私見を含みますが、「守護大名」は歴史研究の中で作られた言葉なので、 実態と伴わなくなったら「歴史研究者が」これを変える必要があるのかなとはおもいます。 同じ「大名」と付いておきながら、「守護大名」と「戦国大名」で生活様式からまるで違うというのも混乱を招きますし… ほなら「タイメイ」もややこしなるんちゃうか?という感じもあるので、新しい名称はまだまだ検討の余地があると思います
@essauouo5251
@essauouo5251 2 года назад
大名守護とでも呼んでおけば良さそうな気もしますけど、大名をタイメイと呼んでもらわないと意味が通じないでしょうし、全然別な言葉のほうが良さそうという感想。
@ruri8sda264
@ruri8sda264 2 года назад
室町時代の守護は制度上の必然として平安時代の遙任国司みたいになり、在庁官人みたいな守護代が下剋上したみたいな流れなのね(四捨五入的な一般ケース論)。
@user-cm2em5xu4k
@user-cm2em5xu4k 2 месяца назад
遥任国司→守護職 目代→守護代職 という事ですね。
@kumosukeponsuke
@kumosukeponsuke 2 года назад
確かに違和感はあったんだよな、コロコロ守護大名と言われる連中が持ってる国が変わったりする、、そんなに頻繁に変わっていて在地家臣とかどうするんだろとか、分国法と言っておきなが守護大名。。分国と守護ってどう違うのとか。 守護がその地方を担当する立場なら、ころころ変わっても担当エリアが変わるだけだから、なるほどと思える。
@aamm11111
@aamm11111 2 года назад
初期のインフラや行政組織の構成期には、文明の中心地である京都からの一元統治が最も強力であり、また受け入れられやすく それらがある程度使えるようになって以降から後期になると、京都からの指示は実情に合わなかったり反感を買いやすかったりで次第に廃れ、 地方の実情や人事に通底した現地の侍の方が実力と人望を兼ね備えてきたのかな。
@pyonkichi2004
@pyonkichi2004 2 года назад
室町時代は研究がすすんでない時代だったから、変更されることも多いだろうな。
@怠惰な貧乏神
@怠惰な貧乏神 2 года назад
その地域の独裁者的な強い権力を持って領国支配をしていたとしたら、そりゃ戦国時代はもっと早く来てるよね。
@user-rr6on5gn2x
@user-rr6on5gn2x 2 года назад
今は知事と国会議員は完全に分かれてるけど、江戸時代は大名が知事と国会議員を参勤交代で兼任してて、 室町時代の守護は国会議員そのもので知事は国会議員の部下だったって事か。
@user-fk9nz4jd3e
@user-fk9nz4jd3e 2 года назад
史実準拠で室町時代を再現したゲーム作ったら面白そう
@satosin2660
@satosin2660 2 года назад
『応仁の乱以降、中央から地方の統制が取れなくなり、守護が守護当人や一族を下向させ、支配を行った。そのような形で大名化した者を守護大名という』という認識でした。 同様の文脈で、地方にある荘園を管理するために下向し、大名化した『公家大名(一条家など)』を知っていれば、こういう認識になると思うのですが。 逆に『守護』→『守護大名』→『戦国大名』という流れは知りませんでした。 あくまで『応仁の乱以降、幕府の支配から半独立した国人衆を束ねて成立した領主を大名という。その際、守護が国人衆を束ねて成立したものを、特に守護大名という』という形で、守護大名は戦国大名の一形態だと考えていたので。
@ganbaganba
@ganbaganba 2 года назад
日本史がそこそこ好きだった自分でも室町時代のイメージは曖昧模糊としていたがそもそも研究自体が語弊があるけど進んでいなかったとは知りませんでした 守護大名という概念が戦後の話でもそれも60年代には批判があるって研究者の間でも曖昧模糊としていたとは
@だお半額
@だお半額 2 года назад
今の話だと領国経営は別でしてるってことは任命された守護の地域で領国経営してるところとしてないところがあるってことかな。領国経営してるところは兵を動員できるけど領国じゃないところは地域の有力武士にお願いして兵を動員してたって感じかな。単なる長官なんだね。
@xitebau140
@xitebau140 2 года назад
室町時代は映像作品が少ない(というかほぼない)のも「守護大名領国制が誤りだと広まらない」理由の1つですかね?? 今年の大河ドラマで鎌倉時代をやってますが教科書を眺めるより、映像を見る方がその時代について理解できますからね
@user-mh6ws9if7i
@user-mh6ws9if7i 2 года назад
様々な戦国大名家を調べてみると、守護から任命された代官が戦国大名になるケースがあれば、国人衆が紛争の末に領地拡大して 代官を差し置いて国の支配者になるケースもあるよね。
@satocha1238
@satocha1238 2 года назад
このチャンネルの範疇じゃないのかもしれないけど じゃあ何で学会からは早くに否定された歴史用語・概念がいつまでも学校教育に残り続けた(ている)んだろう
@マスター刑事
@マスター刑事 2 года назад
ぶっちゃけこれが子供たちにとって一番理解しやすいから。鎌倉期の守護と室町期の守護とでは権限が違いすぎて同じものではないから区別するためにあえて使っている。 もう一つはまぁ、極端な話塾関連ですね。昔、聖徳太子が小学生の歴史の教科書から削除された(実際この時は聖徳太子の重要性は低かったのではないかと考えられていた)際に「ゆとり教育の弊害だ!学力が低下する!」と非難した塾会社があったんですよ。つまり、歴史的な新発見や研究の進展で新たな歴史を子供たちに教えるひいては歴史を学ぶことの面白さを伝えることよりも、テストで高い点数を取って難関大学を目指した方がよっぽどいいという考え方をしている人が塾関係を中心に多くいたことが学会で否定された歴史用語・概念が残り続けている原因では?つまり教養をあまりにも日本の教育を軽視しているからこのような事態が起こっているのでは?
@user-xi2qg7dq7o
@user-xi2qg7dq7o 2 года назад
これ、言ってることが飛躍しすぎだよね。というより詭弁が入っている。 室町初期の「守護」は数年ごとに補任される職で、室町殿の影響下で地方支配に関わっているという説明は正しい。 この時期の説明は動画通りと言える。 が、時代が進むに連れ有力な一族が守護を世襲で継承するようになると、様相は変わってくるのだけど これ以後の状況をばっさり無視した上で「「守護大名」は教科書から消える⁉」と煽ってるのがこの動画の詭弁。 有力な一族が守護を世襲で継承し半ば固定化していくようになると、自然と領国化していくこととなる。 例えば、赤松満祐は播磨守護かつ播磨を本拠地として活動し、なにかあるたびに播磨に引いて軍備をととのえるということをやっている。(その最後が嘉吉の乱) 播磨を領国化していなければできないことである。 応仁の乱の頃には有力守護(+守護代)たちが室町殿の思惑をこえた争いを始めるのだけど その基盤はなんですか、というと守護領以外何ものでもないわけで、その後は守護領の切り取り合戦へもつながっていった。
@naoki080808
@naoki080808 2 года назад
動画を拝見してなるほど〜と思いつつ 大内氏なんかは従来の守護大名観に近いかなぁと思ったり。守護の中でも色々毛色が違ったりするのかな?
@tsunawataru6122
@tsunawataru6122 6 месяцев назад
大内武田島津あたりは守護国内でも土着化が早くかなりの領地をもっていたんじゃないですかね、だからすんなり戦国大名になれたのではないかと。大内は鎌倉時代の時点で国司の権利と守護の権利を両方もっていたので実質的に領国支配に近いことができたんじゃないかな。
@赤丸-j4f
@赤丸-j4f 2 года назад
守護が領国に下向しはじめるの応仁の乱以降だしそのイメージで前の体制考えるのおかしかったんだよね。
@user-yakisoban
@user-yakisoban 2 года назад
勉強になった、この実際の体制に沿って戦国時代のゲームがしたい
@pomelove9502
@pomelove9502 2 года назад
今思うと「天下統一」とか近かったかな
@changnabe2606
@changnabe2606 2 года назад
多分、マップが京都だけになるような・・・ 時々、守護任官した国の近況が代官から報告されてくるだけでマップは表示されない。
@yudaya99
@yudaya99 2 года назад
守護大名と戦国大名って感じで常識だったけど、研究で変るもんなんだな。
@bokoboko446
@bokoboko446 8 месяцев назад
九州東北以外の守護と守護代は在京が基本だったのが崩れていく過程で、国人衆との結びつき更に支配を強める事が出来た守護が戦国大名化したのでしょうね。 (この実態も研究が不十分でしょう) 『六分の一殿』(11カ国の守護)と言われた山名氏も親兄弟合わせてだし、新たに守護になった摂津、河内、和泉もほとんど支配出来なかった。 どころか、8カ国も満足に支配出来ていなかった。 一時的に因幡守護の家が(だったかな?)支配して美作や播磨に進出して赤松よりも支配力を増し、正式に守護についた(幕府による現状追認)けど、長続きしていない。 結局、山名もあっという間に消えるし、赤松も多くの分家が争いながら弱小勢力になる。(一度守護じゃなくなってから復活出来たのは、幾分国人衆を支配出来ていたのでしょう) 室町時代は複雑怪奇で、きちんと研究すれば江戸時代より遥かに多くの論文が出てきそうだが、新資料も研究者も少ないので解明は無理かな。。。 古文書も子孫が東京とかに移り、実家の処分と共に古本屋に出回る事なく灰になりそう。。。 江戸期に庄屋階級になってしまった家の古文書にお宝があるかもしれないのに。。。 平安末期から戦国時代は、ヤクザが力をつけていく過程だと考えた方が分かりやすいと思います。 初めは公家や朝廷の下働きで戦闘を受け持ち、徐々に発言権を持ち、公家を官位獲得の道具にし、最後は朝廷も支配する。。。
@user-lb8zz4mo2y
@user-lb8zz4mo2y 2 года назад
世襲制の地方勢力の寄り合い所帯ではなく官職制で地方に任官させていて、常備軍や直轄領もあったとなると中央集権なのか地方分権なのか、室町幕府に対してかなりの評価の差が生じることになるんだよね。 ただ常備軍や直轄領があってもそれが小さければ諸侯にとっては問題ないわけで。官職制についても形骸化していなかったかが気になる。 室町幕府の中央集権化の度合いによっては、一周回って地方分権社会だったのかもと思った。
@user-ig2tp6wp2o
@user-ig2tp6wp2o 4 месяца назад
図面への落とし込みという、視覚に訴える方法は、勉強の初歩として理に適っています。 ①室町前期(尊氏〜義満。アバウト)→無色の国の地図上に、守護家名を、各家固有の色字で記す。 ②室町中期(義持〜義尚。アバウト) →領国化が進んた国は、守護家固有の色を薄く塗る。家名も色字で記載。 ③室町後期(戦国期。義材以降。) →A.守護大名が戦国大名に転化した場合、固有の濃い色塗り。家名は薄めの同色の文字で記載。 →B.それ以外の戦国大名の領国は、色塗り無しの無色だが、国境の輪郭(縁取り)を太い線で囲う。家名の字も太い黒字で記す。 これで何とか、図で表現できるかと。
@yukimajima2506
@yukimajima2506 2 года назад
なぜか、年寄りなのに「守護大名」を「新しい解釈」で習った記憶しかない…もしかして、「教科書」を間違って解釈して覚えてたことが、実は今の考え方?(。)>
@user-ny6dq8wu7s
@user-ny6dq8wu7s 2 года назад
室町時代の守護は実質的に鎌倉幕府初期に断念した国地頭みたいなもんだという理解でいいと思っている。それだけ武士の権力が強くなったんだろうね 鎌倉の守護は形式上治安維持担当だったけど、室町になって段々地方統治担当へ職務が変質していったのが混乱した原因なんだろうな。 南北朝を経て様々な変事が起こる中で、室町殿と有力氏族(これが所謂大名かな?)の権力の綱引きが行われていたから、あの時代を一つの統治体系にあてはめることはできない。 日本の場合大和政権にせよ鎌倉幕府にせよ室町幕府にせよ、初期は有力者の連合政権なんだけど、この連合政権ってのが語弊があって、 純粋合議制=「一人が勝手に決められない体制」という意味合いなんだよね。 ただ、こんなんじゃ意思決定が難しいから後々藤原なり北条なり、ナンバー2がリーダー(これも変な表現だけど)になって統治体制が変化していっていたわけだけど、 室町時代はそういうのが登場しなかった。まあ半将軍がもうちょいまともなら案外長続きしたんじゃないかとも思える。
@山田哲也-t4c
@山田哲也-t4c 2 года назад
根拠が崩れた事を平気で教科書に書き,それを何の疑問も持たず高校まででは教えている. だから,大学で史学科なんかに入学すると,学会でバリバリの研究者が担当教授だったりすると, 高校までに習った事は,全部忘れろ!とシャウトする授業が始まるわけか.
@マスター刑事
@マスター刑事 2 года назад
ま、聖徳太子が歴史の教科書から消えたことを「ゆとり教育の弊害だ!、子供の学力が低下する!!」といって非難する人たちもいましたからね。そういう歴史学の進展がわからない、というより大多数の人の認識に沿った考え方(教養)を教えるのは学校の教育であって、じゃあ実際にどうだったのを学ぶのが学会での研究になるわけだし。
@daisuke5755
@daisuke5755 Год назад
鎌倉時代の守護と地頭の関係が室町時代にも引き継がれただけです。
@user-jo4sc6hh9m
@user-jo4sc6hh9m 2 года назад
幕府の力が弱まるにつれ守護が大名化したという意味で守護大名という表現はおかしくないような。 現地にいる守護代が守護に変わって下克上で成り上がったのが戦国大名で大名化の成り立ちの違いで区別されてる認識です。
@user-lq4os9kf5c
@user-lq4os9kf5c 2 года назад
観応の擾乱や南北朝時代、足利家の対立(室町-鎌倉府)などを通じて守護職の存在が大きくなるにつれて大名化していったと解され、幕府の弱体化ではなくむしろ在京守護というかたちで(利害の調整弁の向きもあるか)室町幕府を補強ないしは補完する関係にあったと解するべき。時代が進むに連れて守護職が固定化してくるのである。 また、室町幕府と鎌倉府は対立関係にあり幕府・在京守護と鎌倉府・関東管領、鎌倉府奉公衆、東国独自の政治的動向など複雑にからあっているのであり、各探題なども含めると解説にあった幕府による全国支配というのは詭弁である。 戦国大名(戦国大名家)も 守護大名(領国経営者)からの転化、佐竹氏など 委任や委譲による戦国大名化、毛利氏など 下剋上による成り上がり、三好など などいくつかのパターンがある。
@kirohijimaya
@kirohijimaya 2 года назад
島津氏と大友氏が鎌倉時代の蒙古襲来以降に在地していたのなら、室町時代はもうその地に居たわけだよね?ちょっと違う感じがした。 重箱の隅じゃないけど、違和感感じたので でも、甲斐の武田氏をはじめ、地元とのつながりが余り強くなさそうな守護が戦国時代に大名として割拠できたのは凄いな。
@マスター刑事
@マスター刑事 2 года назад
武田は平安時代から地元のつながりが強い守護大名家なんですが…。鎌倉殿の13人見ています?
@tsushima0527
@tsushima0527 2 года назад
室町幕府の守護って今の国会議員と同じやな。今の代議士は大名化しとるわけや。供託金600万円やし。カンバン、カバン、地盤やなんて守護大名そのものや。守護在京も代議士が選挙の時しかお国入りせええへんのと一緒や。
@かとりのうみ
@かとりのうみ 2 года назад
遅れてるな・・・ 既に使われてないなんて全然知らなかった。
@user-gh8wu1bm9i
@user-gh8wu1bm9i Год назад
守護という呼び方もまた誤解を呼ぶ表現ですよね。守護の顔ぶれを見ればわかる通り、基本的には足利一門及び足利の臣であることが大前提だけれども(大内氏などは例外)、守護という役職を前面に出してしまうと地方の支配者が幕府を支えているようにも見えてしまう。ここら辺は近世大名の枠組みを室町時代の中世に無理やり当てはめて見てしまった弊害でしょうか。そっちの方がイメージがしやすい。でもわかりやすい説明というのはえてして誤解を生むものです。いっそ江戸時代のように幕臣と呼んでしまった方がわかりやすいかな。それも誤解されますね。
@user-ej5of6qn5r
@user-ej5of6qn5r 2 года назад
統治に関する権限は 軍事命令権、警察権、税徴収権、土地の境界決定権なと多岐に渡るが特に室町時代と呼ばれる頃は多元的悪く言えばグチャグチャ、地域によっても違うし、色々ないきさつも絡むし。だからカオスな中世は面白いんだけど。 でもこれ中学生に教えるのは不可能でごく有名な例をいくつか紹介するぐらいしかできないだろう。
@user-yb5md7gh5p
@user-yb5md7gh5p 7 месяцев назад
守護大名が戦国大名なったのが武田、今川、大友、島津くらいだから納得。
@MrYoshichan
@MrYoshichan 2 года назад
守護は良く使われていたが、守護大名ってそんなに教科書には載ってなかったような気が。あと、東国の守護は鎌倉に出仕していたはずだが。
@bokoboko446
@bokoboko446 8 месяцев назад
『守護大名』という言葉を作った一番の理由は、鎌倉時代の『守護』と室町時代の『守護』を区別する為。 複雑怪奇な室町時代を無理矢理一括りにする、乱暴なやり方。 いきなり南北朝でそれぞれ別の守護を置いたりで、鎌倉時代より守護の支配力が弱まり地頭や国人(としておく)が実利を得ていく。 南北朝と戦国時代の間の時期も将軍と守護(主に三管領四職)のパワーバランス綱引き合戦で安定期ではない。 応仁の乱以降は後継ぎで揉めて内乱を起こすのが当たり前。。。 守護の後継ぎ問題で勝った方の守護代などが力を持つ。 ここで地域格差が出てくる。 大雑把に言って、畿内は守護・守護代が在京する時代が続き、遠方ほど守護・守護代が京を離れる。 鎌倉公方(後にややこしくなるが東国公方の影響下に置かれた地域)の抑えとして配置された今川・武田・上杉(旧)は早くから在地になったでしょう。 『守護大名』なんて言葉を作って簡単に説明しようとせずに、室町時代の『守護』の多様性・時代によって大きく変わる点を説明すべきでしょうね。 日本史は好きだが、学校で習う日本史(学ぶほど『なぜ?』が増えていく)は大嫌い。 という人が多い現状は、歴史研究者の質と数の面でマイナスでしょうねえ。。。
@MrMesiguin
@MrMesiguin 2 года назад
エンディングの図は、16世紀初頭の図っぽいのでこの図の場合は色分けは領国の色分けってことでいいんじゃなかろうか?
@sirakawacol
@sirakawacol 2 года назад
交通手段が発達した現代でも、地方から選出された国会議員は選挙の時期以外は基本的に東京にいること、当時は選挙無しの上地方議員も兼ねているような状態だったことを合わせて考慮すれば、確かに中央の権力が地方の権力より落ちない限り、代官派遣を止めて領地に帰ったりしないですよね。
@user-qz3go1ft3p
@user-qz3go1ft3p Год назад
土地、地面、農地支配の実相が 戦国どころか江戸まで掴み難い 江戸時代であっても所謂天領や 数万石の小さな領地なんてどう運営されてたんだろうと疑問に思う。所有や権限の 実態は根本なのに理解したと思えた事ないような気がする。現在でも知り合いとかには結構居る山の所有者とか考えたら不可解なんだよな。土地所有の概念にそもそも矛盾があるからこそ社会主義や共産主義が 成り立つとも言えるような。
@user-qz3go1ft3p
@user-qz3go1ft3p Год назад
内務省が任命する県知事みたいにも 見えて来ますね。守護体制論か。
@user-lw1uj1rf9u
@user-lw1uj1rf9u 2 года назад
守護大名は『国会議員』、守護代は『都道府県知事』、国人たちは『市町村長』のようなものだったということ?
@meiou1493
@meiou1493 2 года назад
元も子も無いことを言うと、中世を現代の組織で例えることはできないんですが 大名:国会議員 守護:都道府県警 に近いかも知れません。 国人は、自分たちの領内の自治を国から認められる代わりに、県警や国の方針に従うような感じなので、もはや例えきれません()
@sua825
@sua825 2 года назад
京都にいた守護が、地方に下向していったきっかけは何なんでしょうか?
@daisuke5755
@daisuke5755 Год назад
この動画の説明は守護職が現場に住むことになった理由を説明していませんが、応仁の乱後は守護職が現地で指揮を取る必要が出てきただけです。守護職が担当地域の地頭と組んで、室町幕府よりも現場の言うことが強くなりました。守護大名という言い方は、元守護の大名という意味で、かなりの日本人が大名の分類を指しているとは思っていませんよ。
@user-zu9ee8gq7g
@user-zu9ee8gq7g 2 года назад
江戸時代の官位、越前守とか美濃守なんかはその流れなのかな? 越前守といっても越前を担当する役職では無くなり、名誉職とか身分的なものになっていったみたいな。
@user-sv6do1ke5u
@user-sv6do1ke5u 2 года назад
【まぁ、こんなもんだ】と😅 以前の方がハッキリしてて理解し易いけれど、実態は【日本人らしい】曖昧で微妙な仕組みの上で成立してた…と😁
@user-dr3ns6pk1i
@user-dr3ns6pk1i 2 года назад
凄い面白くて凄い納得したけど。 元受験生からするとマジで勘弁してくれって位の教科書変更がありそうw 受験生からすると正確さより覚えやすさのほうが重要だしw
@Traffics520712
@Traffics520712 2 года назад
平安時代の遙任国司と同じようなものと考えれば良いんですかね>
@snd00261jp
@snd00261jp Год назад
守護(=守護大名)=基本的に中央(幕府所在地)から地方支配。支配地域を「領国」という名称で呼ばれるため、その地域を排他・独占的に支配していたように思われるが、実際には公家や寺社など他の権門勢力の領地などが所有する荘園の制度が(横領されることはあっても)基本的に支配体制として温存されていたこともあって複雑 戦国大名=たまに上洛することはあるが、基本的に在地。在京している守護から権力奪い、もしくは守護が領国に帰って地方支配者としての立場を固めた存在。
@user-xz4vc8gk8t
@user-xz4vc8gk8t 2 года назад
本社の工事管理部門のメンバーから現地所長が任命されて現地業者を統率して現地工事を施工するみたいな構造でしょうか
@shlft241
@shlft241 2 года назад
また目から鱗が落ちました、、
@55tg
@55tg 2 года назад
つまり単純に大名と呼ぶ事になるのか?
@力哉-l5t
@力哉-l5t 10 месяцев назад
となれば、「守護大名の領国経営」 と云う言葉自体が死語な訳ですね。
@user-jq3hh7nm4q
@user-jq3hh7nm4q 2 года назад
守護は足利氏の縁戚って感じです、 その他の山名宗全とか長尾氏とかは、どうなっちゃうの 室町将軍→管領→守護 室町将軍→鎮西管領・欧州鎮守管領 関東公方→関東管領→関東守護
@H_Eneko
@H_Eneko 2 года назад
山名氏は新田系とはいえ足利一門なんですがそれは
@waka_mido
@waka_mido 2 года назад
素人でゴメン、甲斐武田家とか平安末期から甲斐にいるし、能登の畠山家とか駿河の今川家なんかが守護大名ってイメージあるんですよねー。
@meiou1493
@meiou1493 2 года назад
「室町殿御分国」(今の中国・四国・近畿・中部)の辺境の大名は例外的だと言われていますね。(常に在京してない) ちなみに、能登畠山氏は基本在京で、在国になるのは応仁の乱後と言われてます。
@waka_mido
@waka_mido 2 года назад
@@meiou1493 政元先生、わかりやすい解説ありがとうございます。 伊勢の北畠家とか、古河公方家、関東管領上杉家と他の上杉家みたいな存在は、また特殊なんですね。
@ryotaroukujo3870
@ryotaroukujo3870 2 года назад
@@meiou1493 「守護領国制論」私もこの解説を何度も見たり聞いたりしました。まさかはるか昔の学説だったとは・・・。目からウロコです。 甲斐や越後(駿河も?)は鎌倉府の管轄で在京義務はなかったと聞いたことがありますが、それが理由なのでしょうか? 室町期の京と関東って、多くの期間で緊張状態にありますね。室町期の関東は半独立国だったのでしょうか?それとも単に行政システム上、関東が京都から切り離されていただけで、関東がどうしようもない状態になったときだけ、京都の足利本家が警察権や軍事権を使って介入するという関係だったのでしょうか?
@tsushima0527
@tsushima0527 2 года назад
ところで荘園のゆっくり解説もよろしく。
@user-zd6ug3uy9e
@user-zd6ug3uy9e 2 года назад
守護大名とかいう名前だけでてきて具体的に誰って教えられない奴
@user-rq5tz1yq2d
@user-rq5tz1yq2d 2 года назад
鎌倉時代御家人は鎌倉に在住していた筈だよ。 ただ、元寇以来島津氏は鹿児島に下向し以後鹿児島に居住していて 京都に在住して無いから、この動画の主張とはかなり違うな。
@meiou1493
@meiou1493 2 года назад
ご指摘ありがとうございます。 12:15 に例外として補足追記していましたが、固定コメントでも追記しました。 島津氏の例は、「在地勢力」が「守護」になったのではなく、「最初は中央から支配をしていたが、在地へ下向した」というモデルケースとして示しました。室町時代に在京していた話とは直接関係がありません。時間の都合上、端折ってる部分もあり、分かりにくくなってしまい申し訳ございません。
@dsydxyl8
@dsydxyl8 2 года назад
本当に消えるの?
@TSUDATOSIYKI
@TSUDATOSIYKI 2 года назад
>守護大名って知ってるかい。 (昔、日本列島で粋に暴れまわったって言うぜ。) つまり、霊夢はスパロボ厨と(。_。)φ それはさておいてなんだか守護って公家みたいな感じだな。
@user-mn1om4tz2x
@user-mn1om4tz2x 2 года назад
その意味で、国司と守護の違いってなんなの?とか考えだしたら沼に沈むんでしょうね
@遠江少納言
@遠江少納言 2 года назад
@@user-mn1om4tz2x 個人的には、北畠と一条は守護っていうより国司のイメージなんだよねぇ。
@fumihikoizuya5973
@fumihikoizuya5973 2 года назад
どっちもどっちも… どっちもどっちも!
@MARONFROST
@MARONFROST 2 года назад
動画を見てもよく分かりませんでした。 応仁の乱やその少しあとまでは只の「守護」、武田信虎や今川氏親あたりから一部の守護たちが「守護大名」と呼び分けるべき存在に変化していった認識でした。 そして、守護だから国を有するのではなく、国を有したから守護職を与えられたような存在を「戦国大名」と呼んでいるのかと。 また、その過程で在京の守護(細川晴元みたいなの)は衰退し、領国に下向した守護大名や領国に土着していた戦国大名が興隆したという認識でした。 「守護大名」や「戦国大名」は当時使われていない用語だったのでしょうが、それを言えばそもそも「幕府」も当時は現在の意味では使われていなかったのでは… 「タイメイ」と「ダイミョウ」の差違ってそんなに重要なのでしょうか。この時代って名前とかが文書によって違う漢字だったりしますし、読みや漢字にどこまで意味があったのか疑問です。 聖徳太子、守護大名、戦国時代。当時一般に使われていなかった用語を見直すべきという論は、有意義ではないと思っています。 今を生きている私たちが認識していない事象が、後世から見ると一定の法則を伴った事象として写る時、それに名を付けるのは社会科学的に当然だと思います。
@45stg18
@45stg18 2 года назад
奉公衆が幕府直轄軍とはいってもそのおおよその構成は守護大名の庶流、足利氏被官と各国の有力国人の寄り合い所帯で結束力は極めて脆弱で最大動員兵力も10000人程度と言われてるし、御料所も大大名に比べれば甚だ少ない故に京都の経済力に傾斜していく こんな状態では敵対勢力を征伐するのも覚束なく幕府単独の経済力と武力でみれば地方大名にすら劣る 守護大名云々も斜に構え見てるだけなのを新発見みたいに空騒ぎしてる歴史界隈でありがちな物の一つだろう
@uA-gy8wk
@uA-gy8wk 2 года назад
へー!
@FULLMETA1000
@FULLMETA1000 2 года назад
〇〇守・〇〇介=朝廷の官位。実際に拝命されるのは難しいが勝手に名乗る。他にも朝廷の役職(文官武官とわず)勝手に名乗る。朝廷から仕事ももらえないし討伐もされないから勝手に名乗るw 〇〇守護・〇〇守護代・管領・管領代・探題・・・幕府の役職 その職についていないものが勝手に名乗ることはまぁ難しい。逆にその役職についてしまうとその仕事に縛られる。関東管領上杉とか不毛な仕事を続けてた。守護は幕府において名誉職(1人で3つの国拝命するとか名誉職以外の何者でもないw)で守護代(1つの国に数人いる)が実務職 管領は実無職。 御所号(ごしょさま)は大臣家でありかつ将の官位を得られる公家武家(一条とか北畠とか?) 屋形号(おやかたさま)は幕府が認める名誉。かってに使えない。 殿(との)は勝手に使える。身近な上役につかう。
@FULLMETA1000
@FULLMETA1000 2 года назад
@十束丹居候太 それはそれで越後長尾家のっとっちゃったうえで 越後上杉家つぶして 上杉ついで関東管領なのっちゃったら やっぱりめんどくさい修羅の仕事が一生続くと。そのめんどくさい修羅の仕事がおわって次世代になったとき それが実子ならまぁろくな死にかたしないだろうし。山内上杉は謀反人な長尾に押し付けてそこから逃げたんだろうな
@沢三伯-f2m
@沢三伯-f2m Год назад
「守護大名」たちが応仁の乱後に「領国」に「帰国」していった歴史的事実と、完全に矛盾・破綻しとるがなw
Далее
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