Тёмный

【ゆっくり解説】方位と距離から見た邪馬台国、ジャワ説など 

れーしch【歴史】
Подписаться 62 тыс.
Просмотров 12 тыс.
50% 1

方位から見た邪馬台国を解説します。
方角は太陽や星の動きで判断するだけではなくコンパスと使った説もあり、海の上は香時計を使って判断したとする説もあります。
意外にもジャワ島まで行ってしまったりもします。
■前回の動画■
縄文時代が1万年以上も続いた理由
• 【ゆっくり解説】縄文時代が1万年以上も続いた理由
■ブログ■
rekishi-shizit...
■関連動画■
海洋民族縄文人
• 【ゆっくり解説】海洋民族縄文人
縄文時代が1万年以上も続いた理由
• 【ゆっくり解説】縄文時代が1万年以上も続いた理由
纏向遺跡は卑弥呼の都なのか!?
• 【ゆっくり解説】纏向遺跡は卑弥呼の都なのか!?
日本はなぜ大和から始まったのか
• 【ゆっくり解説】日本はなぜ大和から始まったのか
倭国大乱
• 【ゆっくり歴史解説】倭国大乱
倭人の風習
• 【ゆっくり歴史解説】倭人の風習
魏志倭人伝は信用出来るのか
• 【ゆっくり解説】魏志倭人伝は信用出来るのか
邪馬台国90度回転説
• 【ゆっくり解説】邪馬台国90度回転説
侏儒国『魏志倭人伝に登場する謎の小人の国』
• 【ゆっくり解説】侏儒国『魏志倭人伝に登場する...
交易から見た邪馬台国
• 【ゆっくり解説】交易から見た邪馬台国
親魏倭王
• 【ゆっくり解説】親魏倭王
親魏大月氏王
• 【ゆっくり解説】親魏大月氏王が分かれば親魏倭...
狗奴国東遷説
• 【ゆっくり解説】狗奴国東遷説
卑弥呼共立の謎を解く
• 【ゆっくり解説】卑弥呼共立の謎を解く
邪馬台国一万二千余里の謎を解く
• 【ゆっくり歴史解説】邪馬台国一万二千余里の謎を解く
倭人の入れ墨から見た邪馬台国
• 【ゆっくり解説】倭人の入れ墨から見た邪馬台国
邪馬台国最大の謎『水行十日、陸行一月』
• 【ゆっくり解説】邪馬台国最大の謎『水行十日、...
神武東征
• 【ゆっくり歴史解説】神武東征・実在編『神武東...
伊都国が分かれば邪馬台国の場所が分かる
• 【ゆっくり解説】伊都国が分かれば邪馬台国の場...
倭種
• 【ゆっくり解説】倭種とは何なのか
朝鮮半島から見た邪馬台国と卑弥呼
• 【ゆっくり解説】朝鮮半島から見た邪馬台国と卑弥呼
卑弥呼と神功皇后の同一人物説
• 【ゆっくり解説】卑弥呼と神功皇后の同一人物説
■再生リスト■
日本神話列伝
• 【ゆっくり日本神話解説①】造化三神『日本神話...
古代日本列伝
• 古代日本列伝
■X■
Twitter
/ rvbepg0c4afgpr0
■ツール&素材■
背景:My Koi
音楽・にこにこコモンズ様
commons.nicovi...

Опубликовано:

 

4 окт 2024

Поделиться:

Ссылка:

Скачать:

Готовим ссылку...

Добавить в:

Мой плейлист
Посмотреть позже
Комментарии : 53   
@kappanouen
@kappanouen 8 месяцев назад
古代中国だと地図はそれなりに貴重なものだったので 例えば荊軻の始皇帝暗殺の時のように地図を献上することで”領土の割譲”の証になったりしたんですよね
@FREEDOM-vv3wu
@FREEDOM-vv3wu 8 месяцев назад
または地図を手にする=土地、国を手にするですからね。
@shou-sho
@shou-sho 8 месяцев назад
動画では馬鈞の方が上みたいになってましたが、三国時代における最新形の地図は魏の裴秀に求められます。 (三国志ファンにとっては裴松之のご先祖として有名ですが、裴氏自体が『新唐書』宰相世系の筆頭に挙げられている超がつく名門です) 中国地図学の祖とされる人物で、日本でいえば伊能忠敬ですね。 陳寿が見ていた地図も間違いなく裴秀が作ったものです。 裴秀が作った地図は現存しませんが、どういう地図であったかはわかっています。 彼は地図に【縮尺・方位・距離・標高・傾斜・川と道路】の6つの要素を入れることを「発明」します。 逆に言えば、この6つは入っているわけです。 例えば共通の縮尺と方位の地図を集めれば全国の地図を1枚で作れますし、距離と傾斜がわかれば移動に必要なおおよその時間がわかります。
@gc8zacc3
@gc8zacc3 8 месяцев назад
ジャワに行くのに朝鮮半島やら九州を経由しないと思いますけど
@masakiu4666
@masakiu4666 8 месяцев назад
語尾がれーし風でワロタ
@かかしやまだの
@かかしやまだの 6 месяцев назад
魏から出発するのであればあり得るでしょう。
@hiron114
@hiron114 2 месяца назад
​@@かかしやまだの となると、 朝鮮半島〜九州西岸〜沖縄〜台湾〜ルソン島〜ブルネイ〜ジャカルタという航路になるか。 この航路は魏どころか、呉でも無理だと思う。
@yamasiyama
@yamasiyama 8 месяцев назад
一万二千里って、起点が帯方郡からなのか? 都から帯方郡まで五千里というなら、都から帯方郡経由で邪馬台国までの総距離一万二千里とかの可能性もあるのでは
@かかしやまだの
@かかしやまだの 6 месяцев назад
倭人の海のネットワークは凄いものだと思う事が大切。
@hiron114
@hiron114 2 месяца назад
陸地が山や谷ばっかりで、陸地の開発が難しいですからね。 進出するなら、基本的に海洋になっていくと思います。
@YO-high
@YO-high 8 месяцев назад
古代中国では、地表が「平面」だと考えられてましたが、「球面」であるとわかったのかといえば、1500年代からだそうです。 その前に、宇宙が「球形」であるという認識は、前漢代紀元前1世紀ごろ「渾天儀」が作られたあたりかららしい。 「天」が球でも、「地」が球だとは、考えなかったんだよね。大陸国家だから仕方がない。 で、球面での長距離の計測はほぼほぼ無理であり、ましてや海上ではさらに難しいって話です。 一寸千里法を使えば、近距離では、緯度の方角では計測できるけれど、経度の方角では無理ですからね。 この一寸千里法も、「もし地面が球面」であると「知ってたら」、1里=75mになるっていう計算をした人がいます。 もしかしたら、東夷伝の中のにしか存在しない「単里:75m」ってのは、「球面」であることを知ってた「海洋民族」の倭人から聞いたのでは無いかと妄想しております。(海で暮らしていれば、海上では球であることを自覚しやすいからね。) ワイ的には、「地図」というよりは、「□□まで南に○○里」みたいな書き方の方が便利なので、記載はそのように行われたと考えております。実際「地理志」はそう書かれてますしね。 面白かったです。
@ボブスポンジ-w3d
@ボブスポンジ-w3d 8 месяцев назад
生きてる間に謎が判明するといいなー
@高橋邦雄-z2u
@高橋邦雄-z2u 6 месяцев назад
陰影で直線距離908キロ薩摩仙台が有力です伊万里はコジェ島からの線上にあり楽浪郡から9840里になります残り距離で考えないです会稽東治の東です上海の真東です薩摩と大隅合わせ7万戸になります気象変動で当時は米作適地だったと思います
@高橋邦雄-z2u
@高橋邦雄-z2u 6 месяцев назад
徐福の関連で薩摩市来がありコンパスを使って来日したかもしれない 気候変動の間違いです 伊都国吉野ヶ里から南に水行10日帰路陸行1月で日田ふみ国になります 長里100里43.4キロで奴国久留米に筑紫川を下れます種子島から伊都国まで4000里です303キロ
@buluemoon2008
@buluemoon2008 9 дней назад
中国では北は北極星で測っています。太陽で測る場合は、水時計を見て正午の位置が真南です。 中国の星図は呉の時代に完成しています。それが、唐から宋の初めまで更新されず使われています。 なので、地図も魏・呉の時代にはまともなものが有り、三国志はその地図を見ながら書いたのでしょう。 距離は地図上の距離と実際の距離の縮尺が違っているだけで、方角は間違えようがない。 また、当時の航海は海岸づたいに航行(循海岸水行)したでしょうから、航海に方位はあまり関係ない。 海峡も200m以上の山は50km先から見える。
@hu4263
@hu4263 8 месяцев назад
指南魚を持っていた。磁鉄鉱の特性を知っていた。
@toshirouhorino
@toshirouhorino 8 месяцев назад
海上の距離は測れなかったとあるから、万二千余里は、帯方から邪馬台国までの直線距離では無いね。此処は道里の総和が順当。 で、不彌国からは1300里(又は1400里、約100㎞)で決定だから、陸行日数は多くても15~20日止まり。 依って、不彌国の南至邪馬台国女王之所都の「水行10日陸行1月」は、不彌国→女王之所都のことではないと確定する。 やはり帯方郡からの総所要日数と考えるのが妥当。
@かなちや
@かなちや 8 месяцев назад
これの約千年後に書かれた東方見聞録の ジパングの記述でもデタラメだから。
@高橋邦雄-z2u
@高橋邦雄-z2u 3 месяца назад
会稽東治の東は薩摩川内であり北緯31.8度であり楽浪郡とは7.2度離れており5倍すると地球の大きさ4万キロになります陳寿が驚いたわけです
@寿くん-b1e
@寿くん-b1e 8 месяцев назад
精度云々は別としてもそんな昔から地図ってもんが存在してたって事自体ビックリですわ🙄 しかしガリレオよりも遥か前にこんな天才が居たとか張衡とか馬鈞ってすげえなあ✨
@tsushima0527
@tsushima0527 8 месяцев назад
インドネシアのジャワ島が邪馬台国?急にハウスのジャワカレー食べたくなった!
@マッチ-x1y
@マッチ-x1y 8 месяцев назад
やっぱりれーしさんが紹介した動画のように、倭国の接待等で日数がかかった説、ある場所を起点とした放射説がしっくりくると思います。
@chartreux8673
@chartreux8673 8 месяцев назад
東南アジア方面説を取るとなると、朝鮮半島まではほぼ正確と思われる記述との整合性が取れなくなるような そこからいきなり東南方面に転身して、かつ(大陸沿岸であれば既知であり認知と記載は容易いので)沿岸以外の部分を当時の航海技術で渡ったことを想定しなくてはならない
@AKIHIKO-uz7wf
@AKIHIKO-uz7wf 4 месяца назад
3X+Y=Z。これは、ご存知のとうり、新説チャンネルさんの提案される公式です。さて、Zの値は、1300なのか?それとも、1400なのか?わずか100の違いなのだが、これは大違い❗つまり、分岐点が何処だ⁉️という大問題なのです🎵😊
@セカイK1
@セカイK1 8 месяцев назад
帯方郡から女王国までが12000里(960km) 帯方郡から邪馬台国までが水行20日、水行10日と陸行1日 同じ行程を距離と時間で説明してるだけのこと。
@髙村俊一
@髙村俊一 8 месяцев назад
余りに誤字脱稿がひどく、見てられない。
@kooota7455
@kooota7455 8 месяцев назад
そもそも、邪馬台国がどこだったかって小さな問題と思うんです。 当時の中国でも支配国が色々と変わってますし、当時の日本でも色々と変わっているのが当然だと思います。 何が言いたいかといえば、ヤマトという地名は現在でもあちこちにあり、当時の邪馬台国がどこの地方のヤマトかは・・・はたして現在まで残っているのか???
@FREEDOM-vv3wu
@FREEDOM-vv3wu 8 месяцев назад
それでも、海外で言うならローマ滅亡原因くらい議論価値があるんですよ。
@kooota7455
@kooota7455 8 месяцев назад
興味を持つことは否定しませんし、自分も興味あるから考えてるわけです。 例えば邪馬台国が台湾だったとしたら、日本人のプライドがそがれる程度の問題でしかない・・・のかな・・・むりか?? 私にとってはクイズの答えを求める程度なだけです。
@FREEDOM-vv3wu
@FREEDOM-vv3wu 8 месяцев назад
私自身、卑弥呼の墓や邪馬台国の場所、本能寺(の変や信長、光秀の死)には熱心ではありません。むしろ義経ジンギスカン説の方が大好きなので。
@nekono_mimikon
@nekono_mimikon 8 месяцев назад
逆に考えるべきでしょう。 邪馬台国は広大な領域を持っていたので、現在でも邪馬台国由来のヤマトの地名があちこちに残っているのだと。 倭国大乱により小国を10国20国と併合していった結果で7万戸という勢力にまで成長したとして、当然ながらその領域は10国20国分になる筈です。
@kooota7455
@kooota7455 8 месяцев назад
山戸や山門と書かれることから、地形的な名称が元である事が多い印象です。 謎が解けることはないでしょうけどね・・・。
@toshirouhorino
@toshirouhorino 8 месяцев назад
ここでも東南陸行到る伊都国の件は、鬼門と見たのかな? しかし風水の真の鬼門は、くだんの北東(の糸島)になるのだがね・・w、
@KOHBO1
@KOHBO1 8 месяцев назад
こちらに当時の測量技術についての話が出てますよ ru-vid.com/video/%D0%B2%D0%B8%D0%B4%D0%B5%D0%BE-5vtnetHHiVY.html
@greendolphin7085
@greendolphin7085 3 месяца назад
万二千里が実際の距離だと考えてることが笑える 万二千里は当時中国人の概念上の距離ですよ 邪馬台国までの距離が里数で分かっているのなら、不彌国から投馬国や邪馬台国までの距離が里数で書かれているはずですね
@ぼんぼりパン
@ぼんぼりパン 8 месяцев назад
総合的に考えて、畿内以外考えられないんだよな。
@pupupu6438
@pupupu6438 8 месяцев назад
直線距離は正確な地図がないと無理。普通に考えれば解るよ。当時に倭国の正確な地図があるはず無い。
@show_kazitani
@show_kazitani 8 месяцев назад
ジャワ大国やったか!! そりゃあ見つからんて!
@shirohyashiro3362
@shirohyashiro3362 11 дней назад
一里が短里か長里を議論すること自体がナンセンスなのでは? 狗邪韓国から伊都国までの記述を見ると一里当たり50mで、その安定感に驚くんだけれど、帯方郡から狗邪韓国まで七千余里って全然違うじゃないかってなるよね。 なので、正確に測れる技術があった訳ではなく、感覚的に決めていたものとして精度は疑ってかかる必要があり、移動方法によっては2~3倍のブレは考慮しておかなければならないのでは? また、海ならともかく陸行の距離感や方向感覚の精度は大幅に低下する。整備された山道しか知らない人、特にハイキング程度の山登りしかした事のない人には理解できないかもしれないが、山肌を縫うようにして登る時の距離感や方向感覚の狂いは半端ない。 頭の中に正確な山岳地図があって、手元にコンパスがあったとしてもだ。ましてや、前を歩く人が見えないような整備されていない道ではさらに距離感が狂う。(なので、末廬国から伊都国までの距離感の正確さに驚かされるのだけど) なので、行程に陸行が入っていて、それが整備された平地で無いのであれば、さらに距離感は疑ってかかる必要があると思う。
@buluemoon2008
@buluemoon2008 9 дней назад
從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。 海岸に沿って水行と書いてある。
@kenn8438
@kenn8438 8 месяцев назад
大陸の地図があったとしても半島や倭国の地図はなかった。 あったら「計其道里..」なんて書くはずがない。
@wajin5695
@wajin5695 8 месяцев назад
魏志倭人伝の里数は、77m短里とするとデジタルマップに何故か符合する。観念的解釈や陰陽五行説などとすると、現在地図に符合するは不自然である。当時は短里など制定されていなかったので、必然的に77mとなる方法を使ったと考えるしかない。  ただ、海峡を跨ぐので歩測では不可能、よって天文観測であろう。ただ、東西は時計が無いと測れないので、時計を使わない方法だろう。  さらに、2点間の距離を測るのは無理なので、治所ではなく、別の目的で距離を測ったと考える必要もある。240118
@KOHBO1
@KOHBO1 8 месяцев назад
砂時計を水を使って行う水時計というものがありましたよ 当時の天文学を使えば、2地点間の距離は 南北は正午の影の長さ 東西は月食の起こる時刻か月の方角で分かります 当時の教科書である九章算術・周髀算経・海島算経を用いれば十分に可能な測量らしいですよ
@wajin5695
@wajin5695 8 месяцев назад
@@KOHBO1 様 南北は一寸千里法でなら77m短里で距離が必然的に測れます。しかし、東西距離を短里で測れますかね。  また2つの水時計を並べて精度を確認し、粘度・気圧の違う場所でも同精度かを確認する必要があるほか、地球の大きさも短里が必要。短里のメジャーはどうやって作るか、など疑問。  月食の始まりか、終わりかを合図に時計をスタートさせる案もありますが、月食はダラダラとしているので、時差は30分ほどだが誤差が多い、無線通信がないと測量に成功したが確認が取れない、夏至と月食が同日ってあるか、など懸念あり。  ほかの方法も模索すべきと、考えたことがあります。
@KOHBO1
@KOHBO1 8 месяцев назад
@@wajin5695 水時計の起点または終点は正午だと考えます。 影が真北に、最も短くなるので、毎日の正午がわかります。 水時計でどれくらいの精度が必要かを考察しますと 赤道の周長が40,075kmで、北緯35度くらいですともう少し短く(精度がよく)なりますが概算としてこれを用います。 これを一日で回りますので、40,075km/24時間/60分=27.8km/分となり、1分の誤差であれば問題なさそうな距離の27.8kmとなります。 吉野川は東西に70~100kmほどです。(注:阿波説の動画のノリで書いてしまいましたが、まぁそんな感じの距離とイメージしてください) 月食の始まりと終わりに関しては、どちらか決め事にしてもよいですし、基準となる中国側は両方を測量するなどの方法もあります。 欠ける大きさが違うでしょうから、始まりと終わりの両方を測って真ん中の時刻であわせるのがベストだと思いますが。 平安時代に陰陽寮があったように、月食の起こるときは必ず時刻や方位を測量すると決め事にしておけば、〇〇年△月×日の月食を邪馬台国で測量したと報告すれば、無線がなくてもよいことになります。官僚は暦を作るでしょうし中国本土の測量でも使いますので、十分にあり得る話だと思います。 といった感じで、本気を出せば十分に測量できる学問レベルではあったと考えていますが 一番ネックなのは、遠いのでめんどくさがってそこまでちゃんと測量していないというのがあります・・・w
@wajin5695
@wajin5695 8 месяцев назад
​@@KOHBO1 様 月食の起きる日は、予想できたとして、測定箇所は何箇所もありますよ、500里もありますよ。曇や雨はどうするですか。勝手な想像ですが、魏の測量班が難升米の帰国に同行して、女王国への行軍距離を測量したと思います。測量時間は2年以内ほど、時間が無いので禁断の一寸千里法を使ったのでしょう。  一寸千里法は、435m里と異なり、実用的ではありません、それを承知で77m短里で測ったと思います。会稽の東、つまり会稽は女王国の西ということで、実の距離感つまり行軍距離を得たと、勝手想像です。
@KOHBO1
@KOHBO1 8 месяцев назад
@@wajin5695 帯方郡から阿波へは、南に500km(6500里)、東に800km(10000里)、最短距離で940km(12000里)です。 東西に50kmずれたとしても900~980km、500里ずれたとしても11500~12350里程度には収まります。 月食の日が曇りなどもあるでしょうし、そもそも測量誤差が気になりますので、複数回の測量をおこなったのではと思います。 ちなみに435m里は測量方法が異なるのでしょうか? 測量は相似図形を用いることに変わりないですので、一寸千里法か、一寸77/435千里法の違いにしかならない気もします。
@Eilanya1945
@Eilanya1945 8 месяцев назад
邪馬台国、ムー大陸説を唱えたい。
@trinitydisconnect
@trinitydisconnect 8 месяцев назад
東夷伝を考察する場合。経度は帯方郡に合わせましょう。合わさないと方位理解できませんよね。 会稽を考察するなら。経度を会稽に合わせましょう。合わさないと方位理解できませんよね。 倭人伝を考察するなら東夷伝を熟読しましょう。天子爲其絕域委以海外之事。委は捨て去る。陳寿は海外の記述はしなかったのかも? なら、倭人伝の記述は、裴松之の百納。萬2000里で半島南部に到達してるので陳寿はここまで?いつから12000里と思い込んだのか? 水行も陸行も倭人伝以外の正史三国志には、使用されませんので、裴松之の用語かも? 異面人は日の出の方向にいると東夷伝には記述あるのが気になる気。
Далее
Wolfram Physics Project Launch
3:50:19
Просмотров 1,8 млн
【ゆっくり歴史解説】倭人の風習
37:24
Просмотров 37 тыс.
Electromagnetism as a Gauge Theory
3:12:00
Просмотров 456 тыс.
【ゆっくり歴史解説】倭国大乱
29:10
Просмотров 36 тыс.