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【ゆっくり解説 】大化の改新後の蘇我氏は実は栄えていた!? 

古代史ヤバイ【ゆっくり解説】
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「やばい古代史」では、古代史に焦点を当てて歴史を紐解いていく番組です。
我々はどこから来たのか。その鍵を古代史から読み解きます。
※この動画は、過去に起こった出来事をわかりやすく伝えることを目的としています。視聴者に衝撃を与えるような目的はございせん。
※動画内に、死を連想させるような言葉を出てきますが、関係者を冒涜したり行動を助長するような意図は一切ございません。
※動画内の素材は全て引用であり、著作権や肖像権を侵害する目的は一切ございません。
著作権などに関するお問い合わせはこちらのアドレスまでお願い致します。
yabaikodaishi@gmail.com

Опубликовано:

 

29 сен 2024

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Комментарии : 17   
@LandMark291
@LandMark291 11 месяцев назад
中学の時に蘇我と言う苗字の同窓生がいたけど蘇我と言う苗字は分家の方で細々と継がれていたんじゃないのか? 苗字由来netによると全国で90名位しかいない様だ。
@Hayato_Takezawa
@Hayato_Takezawa 11 месяцев назад
蘇我、物部、藤原、平氏、源氏etc. 一族内が必ずしも一枚岩とは限らない
@satosin2660
@satosin2660 11 месяцев назад
他の動画に書いたやつ 乙巳の変は古来より『中大兄皇子が中臣鎌足と組んで蘇我氏(蘇我宗家)を滅ぼした政変』とされていますが、これは冷静に見て明らかにおかしいのです。 中大兄皇子は当時数えで20歳と若輩者であり、これだけの政変を主導できたとは思えないし、中臣鎌足も優秀ではあったようだけど、はっきり言って小物です。 こんな二人が組んで事件を起こしたとしても、ただの暗殺であり、政変にはなりません。 ましてや『大化の改新』のような改革にはつながりません。 では、誰が主導者だったか。 それは乙巳の変の後に大臣になった蘇我倉山田石川麻呂と阿倍内麻呂です。 彼らは乙巳の変の翌日に大臣に任命されています。 つまり、元々それだけの地位にいたという事です。 政変の主導者としてふさわしい地位だとも言えます。 そして、中大兄皇子は蘇我倉山田石川麻呂の娘婿であり、中臣鎌足は阿倍内麻呂の娘婿です。 この図式を素直にみると『蘇我倉山田石川麻呂と阿倍内麻呂が、娘婿を実行犯として政変を起こした』という事になります。 日本書紀の記述を見ると、中大兄皇子と中臣鎌足が中心だったと書かれていますし、その後の展開(中大兄皇子が天智天皇になり中臣鎌足が藤原氏の祖となる)を知っていると、この二人が中心だったという事に疑問を持てなくなるのは仕方が無いとは言えます。 しかし、そういったフィルターを外せば、乙巳の変は『蘇我倉山田石川麻呂が政府の重鎮であった阿倍内麻呂と組んで、蘇我本宗家の地位の簒奪を図った』または『蘇我本宗家の暴走を憂いた阿倍内麻呂が蘇我倉山田石川麻呂と組んで、蘇我本宗家の排除を図った』と考えるのが自然だと思います。
@中禅寺澄絵
@中禅寺澄絵 4 месяца назад
09:33 ❌ 床に伏せた(ゆかにふせた) ⭕ 床に臥せた(とこにふせた) 蘇我氏が傲慢ゆえに滅んだというのは勝者側からの一方的なものでしょう 所詮は 歴史というのは勝者が作ったものなので事実とは言い難いです 勝者に都合のいいように歴史書に書かれているでしょうから
@どうく-p8u
@どうく-p8u 7 месяцев назад
おそらく蘇我氏は当時は大王家だったと思います。と言うのは蘇我入鹿は乙巳の変で暗殺されたのですが、日本書紀には暗殺される時入鹿が 天の子である私が位を継ごうとする時なぜ暗殺されるのか と言ったとありますから当時入鹿は天の子即ち皇太子であり天皇の位につく式で暗殺されたと思われるからです。広隆寺の聖徳太子33歳像には歴代天皇から天皇即位衣装が贈られて謎とされているそうですが、33歳とは入鹿が暗殺された歳であり、これは天皇即位式で暗殺された聖徳太子=蘇我入鹿の供養のためではないでしょうか。
@user-sf9lc5te65
@user-sf9lc5te65 11 месяцев назад
蘇我天皇説も有るから
@kazuomoriya348
@kazuomoriya348 11 месяцев назад
当時曽我氏が大王だったと思う。天皇家の方が権力を簒奪したと思う。
@kijineco6238
@kijineco6238 11 месяцев назад
面白い!
@keroagunso
@keroagunso 11 месяцев назад
「蝦夷」とか「入鹿(動物のイルカならアイヌ語?)」と言う名前も気になります。
@aiueiueo
@aiueiueo 11 месяцев назад
蘇我氏が政権を握っていたとすれば巨大勢力の大和王権内でどこかに記録が残りそうですね。
@YANAGITAtokinori
@YANAGITAtokinori 11 месяцев назад
雅楽にかつてあった獅子という曲の詠は稲目を讃えるものという説ある。 倭と日本が別の国だった頃の倭の王家が聖德太子の系統じゃないのかな?蘇我氏はその重臣だったのでは?
@aiueo-S2
@aiueo-S2 11 месяцев назад
物部氏とか蘇我氏って今で言う華僑とか華人みたいな大陸がルーツで古代日本で権力を持ってるみたいな感じだよね?
@私は元のら猫
@私は元のら猫 11 месяцев назад
住友財閥は蘇我なんですね。私は住友生命に入っています。良いっすよ。✨😀✨
@森岩光
@森岩光 11 месяцев назад
武内宿禰。 これは初代、 武内大田根さま (皇室の御先祖様の一人。 祖先は(紀伊国造の祖)海(あま)高倉下命。 更に、 徐福はそのじい様) 宿禰(物部王家の重鎮の称号)の号は 初代の武内大田根さま一代だけで、 出雲王家の姫を娶って(この際、宿禰は未来永劫、子々孫々末代に至るまで名乗らない事を固く誓約。代わりに出雲王家の女系親戚の臣(おみ)を賜り、 『武内臣大田根』を号した)子孫を残した事が 我が国の古代史をダイナミックに動かし現在にも至ります。 神功天皇(皇后)の三韓国平定に最大の功労者で 彼女の3人目の情夫で有った 武内臣襲津彦王は 武内臣大田根の曾孫。 神功天皇(皇后)と 武内臣襲津彦王が確立した 半島の三韓国の宗主国と莫大な毎年の年貢収入の権益。 この半島三国~もたらされる 莫大な年貢を収蔵する倉庫の管理人に 武内臣襲津彦王の近親、 武内(平群)臣都久さまが チョロチョロと横領してやがて肥太り、 神功天皇(皇后)の養子、 応神天皇~その正当な後継、 宇治皇子(天皇)から 大王権を簒奪して 自立したのが 仁徳天皇~の 武内(平群)臣王朝(重心たちはほとんどが身内の武内臣家流。) ↑の武内大王家に 元出雲王家(富家)出身の継体天皇が婿養子に入って 実質的な易姓革命がなされ、 元々の出雲王国流に回帰した(後出雲王国、第二次出雲王朝。武内王朝、また、蘇我王朝とも)のが今の皇室
@kyfdhvdni4hi
@kyfdhvdni4hi 11 месяцев назад
1:50聖徳太子から見て蘇我馬子は大叔父と大甥の関係、 3:00蝦夷と摩理勢は甥と叔父の関係… でも、3:55の山背大兄王は蝦夷の甥、入鹿のいとこって説明しないのは何故?
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