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【大坂城】真田幸村が南を守りたかったのはなぜか?地形図で見る大坂城の防御の強さ「豊臣と徳川」二つの城 

かいのすけ 歴史
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真田幸村はどうして大坂城の南で戦ったのか
大阪の象徴とも言えるのがこの天守。鉄骨鉄筋コンクリート構造の5層8階。高さは約55mという巨大なものです。建てられたのは1931年(昭和6年)ということなので90年以上も前のこと。国の登録有形文化財にもなっています。ところでこの天守、いちばん上5層目だけ雰囲気が違いますよね。下のほうは落ち着いた白い壁ですが上は金ぴかの装飾が目立つ黒い壁。実はこの天守を再建するにあたって下から4層までは徳川時代風のデザイン、5層目は豊臣時代風にデザインしたそうなのです。つまり二つの天守を合体させたイメージになっているんですね。それほど違和感を感じない造りとなっているのはすごいです。この復興天守を見てわかること。それは豊臣と徳川、二つの大坂城があったということ。実は大坂城ってすごく複雑な歴史を持っているのです。初めにこの地に本格的な城を築いたのは豊臣秀吉(その前には石山本願寺があった)。工事がはじめられたのは1583年のことです。前年に主君織田信長が本能寺の変で命を落とし、織田家家臣の間での争いが激しくなった頃。このときの秀吉に必要だったのは「自分が信長の後継者であることを天下に知らしめること」。そのために新しく築く大坂城は、信長の安土城を超える巨大で豪華な造りにしなければなりませんでした。しかも短期間で建てたい。秀吉は配下武将たちに工事を分担させ僅か1年半で城の中心部を完成させます。これが豊臣の大坂城です。この豪華な豊臣の大坂城は30年後に地上から姿を消します。秀吉の死後、息子豊臣秀頼が守る大坂城に兵を差し向けたのは徳川家康。「大坂冬の陣、夏の陣」ですね(1614年、1615年)。江戸に幕府を開いた家康は豊臣家を滅ぼすため、全国の大名に命じて大坂城を二度にわたって攻撃したのです。このとき秀頼と大坂城を守って戦った武将のひとりが有名な真田幸村。幸村は大坂城の南に「真田丸」を築き、攻め寄せる徳川軍に手痛い一撃を食らわせるんですね。しかし戦いは徳川方の勝利。大坂城は天守をはじめとする多くの建物が焼け落ちてしまいます。

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10 сен 2024

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Комментарии : 15   
@sugisinfkk
@sugisinfkk Год назад
もともと石山本願寺があった場所ですからね。 織田信長が11年もかけてでもこの地を手に入れたのも場所がとてもよかったから。
@user-cz7je6qd1g
@user-cz7je6qd1g Год назад
大阪城は北は湿地帯、東西も深い水堀がありますが、南の構えは空堀でしかも城域の幅が広く、大軍を展開しての突破がしやすかった様です。
@user-qu6nf3pm6l
@user-qu6nf3pm6l Год назад
真田丸を含めて、三の丸・総構は市街地に埋没していますが、実際に歩いてみると土地の高低差として当時の痕跡が残っています。北は川、東・西から城に進むと攻め辛い上り坂なので、大地続きの平坦な南側に掘や強固な防御施設を構築した理由がわかります。南北に長い台地上の北の端に築いた立地条件を、名古屋城がそっくり真似て作ってますね。
@kainosuke-rekishi
@kainosuke-rekishi Год назад
名古屋城すごく似ていますね!
@nekono_mimikon
@nekono_mimikon Год назад
通称・真田丸があった高台(真田山・宰相山)は、秀吉の時代は前田家や島津家らの屋敷があった場所で、秀吉はその屋敷に櫓を設けさせて有事の際は出城として機能するようにしていたそうです。 真田勢が前田勢にちょっかいを出したのは、前田家の面々が勝手知ったる土地として容易に釣れると想定したのかも知れません。
@user-bh7lm7ri5c
@user-bh7lm7ri5c 11 месяцев назад
浅井が織田信長と完全に手を組んで協力し合っていたら歴史は全く違った歩みになっていたと思います。足利将軍は信長一人だったてめに信長を軽んじてしまったと思います。短気のように伝わる信長ですがとても優しいエピソードもたくさんあります。浅井が足並み揃えていたら足利将軍も裏切らなかったと思います。それにより各地の武将も付き従い大きな一つの日の本の国となれたような気がします。噂ではキリスト教会が日本の神道の歴史を脅かす存在になってきたためそれをら養護した信長さんを打たなければ日本のがやばいと思った明智は致し方なく本能寺に出向いたと言う方もおられます。事実は如何に、、
@otaru6042
@otaru6042 Год назад
石山本願寺と織田の戦いもメインの戦場は南側でしたね
@user-heebong
@user-heebong Год назад
大坂城の本丸の場所が上町台地の北端で大阪市で標高が一番高い地点ですが、現在の地形図と戦国期の大阪では河川の付け替えなどで全く違うので古地図を参照されるほうが良いですね。例えば猫間川は埋めたてられていて道路になってます。
@kainosuke-rekishi
@kainosuke-rekishi Год назад
コメントありがとうございます。確かに猫間川は道路になっていますね。江戸も安土の動画でもそうですが、当時の川や湖、海岸線は現在のものと全然違いました。
@TAIRA_TAKAMORI
@TAIRA_TAKAMORI Год назад
UPお疲れ様です。 「地形図シリーズ」で大坂を取り上げるとは予想していませんでした。いつもながら感服です。 上町台地は、大和川が付け替えられるまでは東北西の三方を川や湿地帯に囲まれた半島のような土地だったようです。土木の天才秀吉は大坂の街にも治水工事を施しましたが、堤防を切ると上町台地の下が湿地に戻るような構想/設計をしていたようです。実際冬の陣のとき城方が堤防を切ろうとしましたが、幕府軍に阻止されたそうです。 また、本願寺時代の古図面では寺の南方が東西に掘り切られていて島の中に寺があるように描かれているので、上町台地以外は淀川や大和川の支流・分流が錯綜する水郷なのだろうと思っていました。 なので森ノ宮駅付近の海抜が3mもあるのは驚きです。大和川が流れなくなり水量が減って土砂が堆積したのか、安井道頓が道頓堀を掘った土を城東の低地に捨てたのか、慶長伏見地震で大坂一帯が隆起した(それは無いかw)のか・・・ 土と言えば、秀吉大坂城を埋めた大量の土砂はどこから運んできたのでしょうね? 戦国時代には古墳を合戦時の本陣にしたり、居城にしてしまった「罰当たり」も多数いるので、この時の幕府軍によって消滅してしまった小規模な古墳が幾つかあったのかもしれませんねw
@kainosuke-rekishi
@kainosuke-rekishi Год назад
コメントありがとうございます。豊臣大坂城の埋め立てがどのくらいの規模で行われたのか興味があります。土塁や石垣を崩す程度だったのか、それとも城の周りを真っ平にするくらいだったのか。どこから土を持ってきたのかあれこれ考えてみると面白いですね!
@PK-rl2jk
@PK-rl2jk Год назад
メチャ楽しかった ですが 千田さんの真田丸論 入れて欲しかったです
@user-be1hj7sb1h
@user-be1hj7sb1h Год назад
徳川の縄張り・石垣の上に形状自体は豊臣、漆はかいのすけさんの言う通り下層徳川と上層豊臣のハイブリッド復興天守 という今の基準だと無茶苦茶なデザインなんだけど日本初の本格的鉄筋コンクリート建造物という意味で歴史的価値がある 私のような木造復元厨には目の上のたんこぶな建物
@kainosuke-rekishi
@kainosuke-rekishi Год назад
コメントありがとうございます。よく考えると変なデザインですがもうしっくりき過ぎている?感じですね。
@pekadon_sevilla2008
@pekadon_sevilla2008 Год назад
真田太平記では、九度山に流刑処分になった親子。 昌幸が信繁に大阪攻防の指南をしてたシーンを思い出す。 昌幸存命中に戦略・戦術は叩き込まれたと思います。 真の活躍者は、四方を囲まれながら猛威を最後まで奮った毛利勝永でしょう。 しかし石山、旧大阪と大戦を何度もしてきた地なので 無念が現在でも残っていそうで怖いですね^^;
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