Тёмный
No video :(

【蓮如上人のお怒り】菊谷講師を非難する桜嵐坊さんへ│御正忌御文とハッキリする救い 

浄土真宗を学ぶチャンネル by 渡部隆志
Просмотров 4,9 тыс.
50% 1

【無料】電子書籍「浄土真宗まるわかり本」をプレゼント
learn.shinrank...
この1冊で「うちは浄土真宗」の意味がスッキリします
チャンネル登録はこちら
/ @jodoshinshu-ch

Опубликовано:

 

22 авг 2024

Поделиться:

Ссылка:

Скачать:

Готовим ссылку...

Добавить в:

Мой плейлист
Посмотреть позже
Комментарии : 53   
@user-gs2mb4hh4z
@user-gs2mb4hh4z 4 месяца назад
渡部様の解釈には迷いが生じます。 ①=何年何月何日何時何分とハッキリと分かるものではない…。 しかし、信心獲得=信心决定はハッキリとする…の渡部様のお言葉。 渡部様の言われるハッキリと…とするならば、何年何月何日何時何分にハッキリとした…とならなければ、いつハッキリしたと分かるでしょうか…? ここの部分に曖昧さと迷いが生じる部分です。 ②=又、人を誹謗中傷している…と言うならば、渡部様も他の人を誹謗中傷している事になります。 目には目を、刃には刃を…では問題は解決しませんよ。
@user-xf4dc1gu4q
@user-xf4dc1gu4q 4 месяца назад
コメントを拝見しまして、①については、一念のこととは異なりますが、日常においても、ハチに刺されて痛かったのはハッキリわかりますが、それが何時何分何秒というのは曖昧です。 いつ救われたのか、年月日時に覚えがなければ信心決定したとはいえない、というのは誤りです。 しかし、他力の信心は、いただいたらハッキリいたします。 ②について、批判と誹謗中傷は別ものと認識しております。 渡部先生の動画を視聴して、誹謗中傷とは感じませんでした。 相手が事実でないことを言って、貶めるような発言をしていることに反論することや、「こういうことは問題ではないか」と主張することは、言論の自由で認められている範疇と思います。 議論によって、問題の焦点が明確になり、正しいことが明らかになるなら有益と思いますが、悪口の言い合いでは無駄な時間となりますので、仰るとおり、目には目を、歯には歯を……では何も解決しないということに同感です。
@user-gs2mb4hh4z
@user-gs2mb4hh4z 4 месяца назад
@@user-xf4dc1gu4q 私は渡部さん本人に質疑しているのであって、第三者からの質疑応答は望みません。 貴方のコメ欄を一応目を通しましたが、渡部さんを養護する内容と受け止められると思われます。 渡部さん本人からなら喜んで質疑を重ねて行きたいと思います。 失礼致します。
@user-xf4dc1gu4q
@user-xf4dc1gu4q 4 месяца назад
@@user-gs2mb4hh4z 失礼いたしました。 親鸞会で教えを聞いていますのでコメントいたしましたが、渡部先生からのコメントをお待ちということでコメントは控えます。
@user-pg3gy7tb3c
@user-pg3gy7tb3c 4 месяца назад
ハッキリしたと決めるのはだれでしょう?自分であるならばこれ以上怪しいものはない。言い切るのは盲目。阿弥陀から賜るからその都度気づくものではないでしょうか。一念が多念に及ぶと言われるのです。
@user-pg3gy7tb3c
@user-pg3gy7tb3c 4 месяца назад
御正忌の前後の文が抜けてますよ。蓮如上人は広い心で受け取っております。極端にするために部分引用ですね。
@user-xk7no1ll5k
@user-xk7no1ll5k 4 месяца назад
信仰する先人の御教えや講釈は理解出来ました ご自身たちの信心獲得した時の『体験談』に勝る説得力は無いと思いますので、是非お聞かせください
@user-mm7jw5eh7r
@user-mm7jw5eh7r 4 месяца назад
2:30秒あたりからの妙好人への解説ですが、鈴木大拙氏の妙好人の考察とかなり違うので驚いています。 機法一体、仏凡一体、の境地で現実社会に存在しているのが妙好人と理解していました。 弥陀の救いに逢ったと云われる人達?凡夫がまさに仏と生きる姿と理解しています。 親鸞会では妙好人などあてにならないですか? 蓮如上人が驚く気がしました! 真宗でも妙好人が出るのは3派だけと聞いたことがあります。 その、3派とは御文章を読む派です。 おやさしい蓮如上人ですから、お怒りにならないでしょうが、残念がると思います。 南無阿弥陀仏
@user-xf4dc1gu4q
@user-xf4dc1gu4q 4 месяца назад
妙好人の体験記は教えではありませんから、体験記を拠りどころにはできない、という意味で「あてにはならない」と言われているものと拝察します。 蓮如上人は私たちに、妙好人の体験記を聞きなさいとはお勧めになってはおられませんので、お怒りになる理由がないと思います。 聞くべきは親鸞聖人の教えですから、それを渡部先生は訴えておられると受け止めております。
@user-mm7jw5eh7r
@user-mm7jw5eh7r 4 месяца назад
@@user-xf4dc1gu4q 解説ありがとうございます。 まさしく聞くべき 親鸞聖人の教えを、解りやすく凝縮してお伝えくださったのが御文章です。 聞くだけではなく教えを聞いてどうなったかが、機法一体、仏凡一体の妙好人の姿です。 教えを聞くことが因であるなら、果がまさしく妙好人の姿です。 妙好人という結果をもたらす因の教えがいかに素晴らしいかともいえます。 その意味で妙好人の姿は「あてになる」ものと思います。 南無阿弥陀仏
@user-xf4dc1gu4q
@user-xf4dc1gu4q 4 месяца назад
@@user-mm7jw5eh7r ご返信ありがとうございました。 聞くべきは教えであり、教えを聞いて救い摂られたならばどうなるのかも、親鸞聖人、蓮如上人はご教示くださっていますから、教えで完結するということも付け加えたいと思います。 このように申しますのも、臨終の迫ったお釈迦さまが「法に依りて人に依らざるべし」と厳しくお弟子たちにお示しになっているからです。 「人」についていくのではなく、「教法」を聞き、「教え」に従わなければならない、という意味と伺っております。御文章に「更に親鸞珍らしき法をも弘めず、如来の教法を、われも信じ人にも教え聞かしむるばかりなり」と親鸞聖人の常の仰せでお示しくださっているのも、そのことと拝しております。失礼いたしました。
@user-pg3gy7tb3c
@user-pg3gy7tb3c 4 месяца назад
一念が多念に及ぶ。
@user-zq1nh4cv6l
@user-zq1nh4cv6l 4 месяца назад
いちど、ふたりで、論議したら、どうなんで?私ら、どっちが正しいか、はっきりさせてほしい。
@user-mm7jw5eh7r
@user-mm7jw5eh7r 4 месяца назад
信仰の領域での話しなら 自力の心が死んで、他力の心に生まれ変わる。親鸞聖人が仏から知らされたことであるのでしょうが・・・ 信仰を求める自力の心が死んで、仏から頂いた他力の心に生まれ変わる。 ハッキリ、スッキリするのでしょうが・・・ 私達が暮らす日々では 一念の信を越えても現実社会は「自力」で生きていかなければならないので、こちらの「自力」は亡くならない。 現実社会では、「自力」の前に「他力の心」を置く感覚が正解に思えます。そして、「他力の心」の部分がだんだんと大きくなていく。 ゆえに、徐々にやだんだんと言う感覚もありかと。 南無阿弥陀仏
@user-pg3gy7tb3c
@user-pg3gy7tb3c 4 месяца назад
御心知らず。
@user-qg2hh2pd5z
@user-qg2hh2pd5z 4 месяца назад
なぜ「救われてもハッキリしない人もいる」という主張がイコール「だんだん救われる」になるのでしょうか? 阿弥陀仏の救いが一念であることは、親鸞会も、桜嵐坊さんもどちらも異論がないことと理解しています。ただ、その自覚がどのようであるかという問題だと思います。 相手の主張をすり替えて、その誤りを正すスタイルはフェアではないと思います。 あるいは、「ハッキリしない人もいる」と聞くと、どうしても「だんだん救われると言っている」としか理解できないのでしょうか? それは、自分の三業と信心を関係付けようとしている心の表れと邪推されかねません。 救いと自覚は、信心と煩悩の関係と思います。 蓮如上人も「信を頂きなさい」と言われているだけで、「ハッキリしなさい」とは言われいないのでは? 桜乱坊さんに敬愛する親鸞聖人のお名前に汚名をかぶせられ、お怒りのようですが、であれば添谷さんのように公開で討論を申し込まれてはいかがでしょうか? 南無阿弥陀仏
@user-xf4dc1gu4q
@user-xf4dc1gu4q 4 месяца назад
問われれば、阿弥陀仏の救いが一念とは答えるのですが、一念の救いを強調して説かれているところがあるのか、甚だ疑問に思います。 本願寺のご門徒の方で、よくお寺参りされている方でも、真宗の肝要である一念について聞かれたことのある方はほとんどいらっしゃらないと感じます。 本願寺の僧侶の方が好んでお使いになる表現が「救われていく」です。 元総長の石上智康氏の書籍のタイトルも「生きていく 救われていく」です。 一念で救ってくださるのが阿弥陀仏と説かず、「どんな人も弥陀に救われていくのですよ」と聞かされれば、「だんだん救われていく」と受け取られてもやむなしと言えるかもしれません。 「だんだん救われるのではありません。時尅の極促という一念で救ってくださるのが阿弥陀仏です」と、大事なところですから、重ねて法話でお話しいただきたいと願うばかりです。 また、蓮如上人が「信心獲得しなさい」と重ねてご教導くださっているとおり、果たして本願寺では、そのようにお説きになっているでしょうか?
@My0018Tube
@My0018Tube 4 месяца назад
「ハッキリしていない」と言う点で、イコールなのでは?
@user-qg2hh2pd5z
@user-qg2hh2pd5z 4 месяца назад
@@My0018Tubeさん 確かに、病気やケガなどは、一般的に段々と治るものですから、本人の自覚もハッキリしたものはないですね。「段々救われる→ハッキリしていない」ということは仰る通りです。しかし、逆に「ハッキリしていない→段々救われる」とは必ずしも言えません。 「イコールなのでは」は少し乱暴な意見と感じました。 譬えが適切か分かりませんが、「日本人なら人間」ということは言えますが、逆に「人間ならば日本人」とは必ずしも言えないですよね。 こと阿弥陀仏の救いにおいては、私たちが考える救いとは異なるものです。救い自体は一念であり、親鸞聖人、蓮如上人仰る通りで異論はありません。ただ、その自覚においては、煩悩が邪魔をするので、必ずしも同一にハッキリするものではないと言っているだけです。それをとらえて、「あいつは段々救われると言っている」と断じて非難することが、見当違いでないかと感じているところです。 実際に臨終の人であれば、意識レベルはかなり低下しているので、息の切れ際に本当に弥陀の救いにあっても、ハッキリすることができなくてもおかしくないのではないでしょうか? 阿弥陀仏はそのお救いに、私の自覚に何の条件も付けておられません。それなのに「ハッキリしていない人は、救われていない」と条件を付けているのは、無条件のご本願に手垢を付けていることになりませんか?
@user-qg2hh2pd5z
@user-qg2hh2pd5z 4 месяца назад
@@My0018Tubeさん たしかにケガや病気など、段々治るものであれば、自覚としてもハッキリするものではないですね。その点で「段々救われる→ハッキリしない」は成立すると思います。しかし逆に「ハッキリしない→段々救われる」とみなすことは、必ずしも言えません。それをイコールなのでは?というのは、やや乱暴な考えと感じます。 例えば「日本人なら人間」は言えますが、逆に「人間なら日本人」は必ずしも言えないですよね。人間でもアメリカ人もいるわけで。 こと阿弥陀仏のお救いにおいては、この世の救いとは異なります。臨終一念でも救われるというものです。しかし実際に臨終の人はほとんど意識状態は朦朧としており昏睡の方もあるでしょう。そんな方が一念の救いに預かった時、「ハッキリした」と思えるのでしょうか? 阿弥陀仏の救いは無条件です。それを「ハッキリしていない」という自覚(意業)で救われていないと私が判断してしまうことは、無条件の救いに、手垢を付けることになるのではと思います。いかがでしょうか? 南無阿弥陀仏
@user-qg2hh2pd5z
@user-qg2hh2pd5z 4 месяца назад
明護さん >蓮如上人が「信心獲得しなさい」と重ねてご教導くださっているとおり、果たして本願寺では、そのようにお説きになっているでしょうか? 私は本願寺のものではありませんので、本願寺の見解は分かりません。ただ、「信心獲得しなさい」とおすすめされていないのであれば、それは仰る通りだと私も思います。いわゆる十劫安心や無帰命安心という親鸞聖人の教えとはことなるものになってしまいますからね。 しかしその問題と、一念の救いに預かれば必ずハッキリする(ハッキリしないのは救われていない)と主張することはどうなのか?という問題はまた別物と考えます。 「ハッキリすることがイコール他力の信心」となると、蓮如上人の「信心を頂きなさい」のお言葉も、「ハッキリした心境になりなさい」にすり替わってしまいます。実際、そのように考えて求めておられる方も少なくないのではないでしょうか。しかしこれは自分の心の変化を信心と結びつける考えになっていますので、それは三業安心という、これまた親鸞聖人の教えとは異なる教義になってしまうと思います。 考えてみれば、無帰命安心と三業安心は振り子の両端のようなものですね。どちらも親鸞聖人の教えとは異なるものでるが、どうしてもそのどちらかに傾きがちなのだと感じます。 南無阿弥陀仏
@user-rf6wy3bu2d
@user-rf6wy3bu2d 4 месяца назад
渡部先生いつも大切なお話と有り難い説法に心より深く感謝申し上げます。〜信の一念が肝要である。〜聞其名号信心歓喜乃至一念〜一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり〜かの心行を獲得せんこと、念仏往生の願成就の『信心歓喜乃至一念』等の文をもって依憑とす、このほか未だ聞かず〜あながちに、もろもろの聖教をよみ、ものをしりたりというとも、一念の信心のいわれをしらざる人は、いたずら事なりとしるべし〜聖人の御流は、たのむ一念の所、肝要なり〜ところが、お釈迦様は予言してます、「寺に住み法衣をまとい 僧の姿はしているが俗人よりも浅ましく 仏法を伝えず仏法を求めるものを邪魔する者が出てくる」と。〜今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。釈尊出世の本懐の中の本懐〜大無量寿経〜阿弥陀仏の御本願〜一向専念無量寿仏〜信心正因称名報恩〜南無阿弥陀仏〜三戸拝🙏🙏🙏
@harutohkahri
@harutohkahri 4 месяца назад
(~9分)正定衆に入るというのは51段のさとりを開くということではないと思いますよ。そんなことが本当におきたら弥勒菩薩と同等の知恵を得るということになってしまいますよ。他力に救われても凡夫の知恵は凡夫の知恵のまま変わらないですよ。何か根本的に間違っているように思います。
@user-uy5qv5cy3q
@user-uy5qv5cy3q 4 месяца назад
あんた、大経の次如弥勒とか便同弥勒とか知らんのか。
@harutohkahri
@harutohkahri 4 месяца назад
@@user-uy5qv5cy3q 「便同弥勒」というのは死んだら仏に生まれるという意味で「同じ」といっているだけであって、弥勒と同じさとりの知恵を得るということではないですよ。
@user-uy5qv5cy3q
@user-uy5qv5cy3q 4 месяца назад
明信仏智
@user-xf4dc1gu4q
@user-xf4dc1gu4q 4 месяца назад
正定聚に入るとは、51段のさとりをひらくこと、という内容は渡部先生の動画にはありませんでした。 誤解して視聴なさっているとお見受けします。 弥陀に救い摂られても、煩悩具足の凡夫であることは変わりません。 しかし、他力の信心を獲ているかいないか、それは一念で水際立ちます。 他力の信心とは、往生一定の決定心ですから、信心獲得したとき、明らかに知らされると親鸞聖人、蓮如上人は教えてくださっています。
@harutohkahri
@harutohkahri 4 месяца назад
@@user-xf4dc1gu4q (8:56)くらいのところで、「さとりの52位でいうと51段。あと一段で仏のさとりという大変なくらいなんですよ」と明言されてますよ。そのあとで「ハッキリするに決まっているじゃないですか」と言われていますね。普通に聞いたら51段のさとりをひらいてとてつもない境地に達するというように聞けます。いずれにしても、他力信心を誤解しているところから生じる間違いかとお見受けします。
@user-cy8oc6vm3z
@user-cy8oc6vm3z 4 месяца назад
だんだんと救われる信心は、あり得ない、間違った信心。聞き誤り。 平生の一念に、弥陀から、信心を頂く=仏凡一体になり、仏智満入しなければ、信心獲得したと言えない。 (捨自帰他)   本願成就文に、信心歓喜 乃至一念 即得往生 とある。一念で正定聚に入る。そして 51位の位に入る。 渡部先生、親鸞聖人の本当の浄土真宗の教えよく分かりました。 有難うございます。🙏😄
@user-ey2oq8wc1z
@user-ey2oq8wc1z 4 месяца назад
だんだん救われると主張されてはいないのでは?
@user-kv5ew8yr9z
@user-kv5ew8yr9z 4 месяца назад
南無阿弥陀仏
@toidayo
@toidayo 4 месяца назад
納得🎉
@user-mu6bx6tn1s
@user-mu6bx6tn1s 4 месяца назад
私も愚鈍ではありますが、言動にお気をつけ下さいね。 同じ穴の狢にならない様にお願い申し上げますわ。 また、菊谷さんの動画同様いつも拝聴させて頂いて居ります。 ありがとう存じますわ。
@user-cw8lt2pk6v
@user-cw8lt2pk6v 4 месяца назад
桜嵐坊さんは、元創価学会員で、やり方が昔の創価学会そっくりですね。
@user-lt3em7kz8h
@user-lt3em7kz8h 4 месяца назад
@2020レンケン様 恐れ入りますが、それは2020レンケン様が持つ、ご自身の心の投影、偏見・差別感情かと存じます。
@user-cw8lt2pk6v
@user-cw8lt2pk6v 3 месяца назад
@@user-lt3em7kz8h さん、桜嵐坊さんのコンプライアンス違反は五逆の罪です。必ず、この世で罰を受けるでしょう。
@117neko
@117neko 4 месяца назад
南無阿弥陀仏m(__)m
@user-wb9jc1ev3h
@user-wb9jc1ev3h 4 месяца назад
菊谷講師さんを批判する物許さずの心です頑張って参りましよう、南無阿弥陀仏。
@user-bw1mz4jn6e
@user-bw1mz4jn6e 4 месяца назад
桜の花びらが太陽の当たるところの花びらが開き、太陽の当たらないところの花びらは遅咲になると言う例えを桜嵐坊さんの説明かと思います。 段々救われるとは一切、言及されていませんし、この点、この説明は当然かと思います。 浄土真宗本願寺派のお寺さんなど、信心決定・信心獲得をできたということでの説明がほとんどですので、私も生きている間に信心決定させていただきたいと願っています。 が、信心を獲得できるかは、阿弥陀様からの他力をいただくことで、自分で自力でいただくことではないのです。 本願成就文の謂れを聞いて地力が他力になるところまでは、学ぶことができました。この件に到達するまで2年3ケ月の年月がかかりました。 本当に残念ではありますが、渡部先生におかれましては、同じ浄土真宗門徒間での意味の解釈等の相違はあるもので、それを声高に言われることは止めていただきたいものです。 本願寺派のお寺さんは、信心を得られた前提の話で、その後の話をされているのが一般的な状況のようです。残念なことですが!? 私も後期高齢者になろうという年ですし、息子の自死を受けて往相還相廻向で息子を極楽浄土で往生させてやりたい一念で時間を無駄にしたくありません。 ですから、どんなに無理をしてでも、もう少し時間経過しましたら1年間の浄土真宗の修行に参るところです。 これからも、浄土真宗についてユアーチューブで、いろいろ教えて下さい。 ありがとうございました。
Далее