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【長篠城と長篠の戦い】武田軍vs 織田・徳川連合軍 最新研究によって明らかになった長篠の戦い 

moka studio2020
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moka studio2020です。この動画は、長篠城と長篠の戦いについて説明した動画です。
金子拓氏の『シリーズ実像に迫る021 長篠の戦い-信長が打ち砕いた勝頼の覇権-』に基づいて製作しています。
1573年4月、武田信玄は遠江・三河侵攻の渦中に死去します。信玄亡き後の武田家を継いだのは勝頼でした。自らの死を3年間秘密にせよとの信玄の遺言もむなしく、間もなく家康の知るところとなります。家康は早速奥三河の長篠城を攻め落とし、1575年2月、長篠城に武田方から寝返った奥平信正を入れて守らせます。一方、織田信長は3月6日、京都に上洛して朝廷への財政援助等を行う等、義昭追放後の天下の秩序維持を自らが行う姿勢を示します。また、3月中に翌4月に本願寺攻撃のための陣触れを出します。このことは反信長の勢力も知ることとなりました。信長は陣触れ通りに4月6日に河内・本願寺攻めのため出陣します。しかしこの出陣は、周辺の諸城を落とす等にとどまるもので、この年の秋に本願寺を本格的に攻略するための下準備と評価されています。
こうした信長の動きを見た勝頼は、本願寺への攻撃の手を緩めさせるために3月に三河に侵攻します。しかし勝頼にはもう1つの動機として、家康譜代の代官、大岡弥四郎が勝頼に内通して岡崎城を奪い、侵攻してくる武田軍を岡崎に引き入れる計画に呼応したとも言われていますが、失敗に終わります。武田軍は先遣隊が4月には足助諸城を攻略します。勝頼は後から出陣して合流しますが、岡崎城の攻略が頓挫し、吉田城も家康が籠る事で簡単には落とせないと考えた勝頼は、2年前に奪取され、今や自分を裏切った奥平信正が守将となっている長篠城攻略に目を向けることとなります。このように、長篠城攻防戦と長篠の戦いは、多分に偶発的に起こったのではないかと考えられています。
 武田軍は5月1日から長篠城を包囲し、断続的に攻撃を加え続けます。長篠城は、豊川と宇連川との合流点の断崖に築かれた城で、現在も主郭とその周辺には堀や土塁が残っており、要害堅固な城でしたが、守る奥平勢の兵は200人とも、250人とも伝えられ、圧倒的な武田軍の兵力の前にはいかんともしがたく、家康は信長に救援要請を行います。
 信長は5月18日に設楽原に着陣し、周囲より低く、武田軍から見えにくい連吾川沿いを選んで柵を構築して防御を固めました。当時は連吾川の周囲は湿地帯だったようで、さらに防御力は高かったと思われます。
 勝頼は信長と家康の連合軍を過小評価していたようで、19日の軍議で決戦をすることを決定し、20日には長篠城の包囲をする部隊を残して全軍を西に移動させて連吾川東側の丘陵上に布陣しました。これを見た信長は、計4千の兵をもって、長篠城を包囲する武田方の鳶巣山砦等を奇襲するように命じました。20日夜に出発した酒井忠次の軍は、翌21日早朝、武田方の砦に対して攻撃を開始します。忠次の軍は砦を守る兵だけではなく、長篠城を包囲する武田軍をも撃破して追い払います。連吾川東側の丘陵上に布陣した武田軍にとっては、長篠城を包囲する味方が敗走したため、東西から挟まれる形となりました。このことが武田軍が最終的に織田・徳川連合軍に対して突撃をせざるを得なくなった原因と考えられています。
 決戦では、武田軍は一斉に攻撃をしたのではなく、1番隊から5番隊までが個別に攻撃を仕掛けては撃破されたようです。これは当時の連吾川一帯が湿地帯で、進路も限られていたためと考えられています。このため、騎馬よりも、下馬して突撃したようです。一方織田・徳川連合軍は、柵の外には足軽兵のみを出し、敵を引き付けたところで鉄砲で射撃するという戦法を取ったようです。よく言われる、「3千丁の3段撃ち」、3列編成の交代射撃については、現在は否定的な意見が多いようです。
 長篠の戦いは、鉄砲を多量に使った新しい戦闘方法が確立された戦いとして有名です。確かに柵内から敵を引き付けて鉄砲で撃つという戦法も勝因の1つですが、信長が馬での移動が困難な湿地帯のあるこの場所を陣地として選択したこと、酒井忠次に鳶巣山砦を奇襲させたこと、そしてこれら信長の適切な状況判断が勝利の大きな要因でした。
長篠の戦いによって、武田氏は多くの家臣だけでなく、東三河北部・遠江北部・東濃を失うこととなりました。しかし大きな敗北ではあったものの、長篠の戦いが武田氏滅亡に直結したわけではありません。この後武田氏が滅亡するまでに7年の歳月が流れることとなります。
【参考書籍】
金子拓 『シリーズ実像に迫る 021 長篠の戦い-信長が打ち砕いた勝頼の覇権-』戎光詳出版 2020
アマゾンでの販売先リンク
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#長篠城 #長篠の戦い #織田信長 #武田勝頼

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13 окт 2024

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Комментарии : 171   
@brookvoid
@brookvoid Год назад
作成お疲れ様でした。私のご先祖の関わるこの戦興味持ってました。ありがとうございます。
@yamajiro
@yamajiro Год назад
そうなんですね。現地に行くと物凄く狭い場所であることに驚かされます。
@adpoom7312
@adpoom7312 2 года назад
名門の武田家を潰したのは、勝頼が不甲斐なかった為と思っていました。 でも、信玄亡き後いろいろ難しい問題があり、苦労したのだと思います。 とても興味深い内容でした。有難うございます。
@yamajiro
@yamajiro 2 года назад
勝頼は普通に有能な武将だったのではないでしょうか。そもそも生い立ちからしてとても複雑なものがあり、そうした中で彼なりに精一杯武田家のために頑張った気がしてなりません。あまりにも信玄が英雄視され過ぎてしまっていて、余計に評価が低くなっている気がしますね。今後の研究によって、再評価されるといいですね。
@かわさきみどり
@かわさきみどり 2 года назад
かつての伝説的な合戦話から、研究はぐんと進んでいるのですね。ドローン映像で立体的に布陣が想像できました~ 信長の戦略勝ちなんですね。信玄が生きていたら、この状況に持ち込むことができなかったんでしょうね…
@深海魚-o1i
@深海魚-o1i 2 года назад
よく、織田徳川連合軍側だけが鉄砲を多用したように伝えられています。しかし、この頃の軍が鉄砲を使うのは当然のことで、武田方も織田方ほど多量ではないにせよ、鉄砲を装備していた筈です。 しかし、設楽原での戦闘の前に長篠城攻めをおこなっていますから、その際に相当数の弾薬と矢を使う必要があった筈。そして、矢はとにかく、弾薬の補給は、当時の武田方には難しかったでしょう。 長篠城を織田方に奪い返されたと分かったとき、武田方には鉄砲なしの、槍や刀での吶喊しか残されていなかった、ということなのだと思います。
@峻-k5k
@峻-k5k 2 года назад
酒井忠次によって退路を断たれた武田軍は突撃せざるを得なかった。 元々武田家の領国は甲斐や信濃というそれほど豊かとは言えない土地であり、今川家及び北条家との同盟を破棄し、信玄が義信を廃嫡してまで得た駿河は武田軍の略奪によって荒れ果てた。 更に甲斐の金山は掘り尽くした状態で財政的に厳しい状態だった。 そんな中長篠の戦いからすぐに質はともかくとして武田軍を立て直し、7年間武田家を守った勝頼はよく頑張り、信玄の負の遺産に押し潰された不運な武将だと言えると思います。
@rokuemu114
@rokuemu114 Год назад
駿河は15万石位やで
@岩石紘太郎
@岩石紘太郎 Год назад
@@rokuemu114 駿河の重要性は石高じゃないよ 海に面していたことであり今川の発展を支えた駿河湾こそ駿河においてもっとも重要 信玄が求めてたのはこの海からとれる塩だったし
@Hashimaki31
@Hashimaki31 2 года назад
初コメです。話し方と映像がとてもわかり易く、開戦への経緯、そして当日地形がいかに重要だったかが視覚的によくわかりました。あれでぬかるんでいては苦労しますよね…
@horikiri
@horikiri 2 года назад
素晴らしい内容ですね!!!歴史解説シリーズ、長篠の戦いは知っていたのもありますが、それが映像化になるとわかりやすいですね。決定版という熱量を感じました。毎回再生数も凄いので自分はただただ憧れの人です。各所、今回の為に撮り直しされたんですか?岐阜城も素晴らしくクリアーに撮られてあったので凄いなと思いました。また長篠城関連、撮影でメール問合せしますね!いつもありがとうございます!
@yamajiro
@yamajiro 2 года назад
いつもご視聴いただき、ありがとうございます。恐縮するのみです。堀切さんの熱意には到底及びません。私に出来ることがありましたらまたご連絡ください。
@dxspex2292
@dxspex2292 Год назад
鳥居強右衛門の話何回聞いても泣きそうになるわ…
@flightlog508
@flightlog508 7 месяцев назад
素晴らしい映像
@yamajiro
@yamajiro 7 месяцев назад
ありがとうございます。またチャンネルに遊びに来てくださいね。
@tend5797
@tend5797 2 года назад
丁寧な解説と言葉一つ一つを落ち着いたトーンで語ってくれていましたので頭の中によく整理していくことができました。
@yamajiro
@yamajiro 2 года назад
嬉しいコメントをいただき、ありがとうございます。励みになります。今後ともよろしくお願いいたします。
@従二位右大臣
@従二位右大臣 2 года назад
教科書だと長篠の戦い→武田滅亡って同じ行に書かれるくらいだけど実際は7年もあるのか
@フォード-i1w
@フォード-i1w 2 года назад
長篠以降で最大版図築きますからね(木曾と穴山が抜けてから完全武田領内フリーパスになって一気に瓦解するけど)
@すけたま-k3p
@すけたま-k3p 2 года назад
上杉家の跡目争いの御館の乱に巻き込まれて北条と敵対関係になってしまった事が直接的な武田滅亡の原因ですね。 徳川と北条の両方に対応せざるを得なくて頻繁に出撃を繰り返すうちに、国力が疲弊して家中での支持を失ってしまったという事です。
@tyaka04
@tyaka04 2 года назад
北条ビビりまくりよ
@alexale4074
@alexale4074 Год назад
覚悟があるからね そう簡単には滅ばされないよね
@ずんどこきよし-f9z
@ずんどこきよし-f9z Год назад
信長って本願寺といい武田といい案外気の長い戦をするんだよな
@kurokuroneko3196
@kurokuroneko3196 2 года назад
1994年に発行された、『歴史群像』6月号(学習研究社・刊)の特集記事「激変!!長篠合戦論」と、同じ内容ですね。
@berutonoue
@berutonoue 2 года назад
長篠の戦いの全容が良く分かり勉強になります! 私が学生の頃は「鉄砲の三段撃ち」による戦術の勝利だと習いましたが、信長の戦略による勝利だったと言えるかも知れませんね。
@yamajiro
@yamajiro 2 года назад
いつもご視聴ありがとうございます。私も三段撃ちの世代です(笑)。
@ゆうたたうゆ
@ゆうたたうゆ Год назад
約7年前に長篠も行きましたが、決戦地の間にある川が小さくてビックリ💦 長篠城近辺の発掘調査で思ってたより強硬な城だったみたいです 馬場さんの墓はウナギ屋さんの近くにあり浜松ウナギ食べた次いでに寄らして頂きました、懐かしい。
@yamajiro
@yamajiro Год назад
本当にそうなんですよね。こんな狭い所で何万もの軍勢が死闘を繰り返したとは思えませんよね。いつ行っても不思議な気分になります。
@mitsuru.s7880
@mitsuru.s7880 2 года назад
とても楽しく拝見しました❗ 長篠の戦いって聞くことはありますけど、実際どんな戦だったのかこの動画で勉強出来ました‼️ ありがとうございました🙇
@yamajiro
@yamajiro 2 года назад
久しぶりですね。ご視聴ありがとうございます。また遊びに来てくださいね。
@mitsuru.s7880
@mitsuru.s7880 2 года назад
@@yamajiro さん こんばんは!お久しぶりです! 動画楽しく拝見してます! ありがとうございます!🙇
@mitsuru.s7880
@mitsuru.s7880 2 года назад
あと、チャンネル登録者数1万人 おめでとうございます🎉💐👏
@yamajiro
@yamajiro 2 года назад
@@mitsuru.s7880 凄いですよね(笑)! 自分でも驚いてます。皆さんのおかげですね。ありがとうございます。
@としぼんぼん
@としぼんぼん 2 года назад
今回もありがとうございます。なかなか奥深い信長の戦略ですね。どうする家康でもこの場面は出てくるのでしょうか?描かれた場合、どんなふうになるのか楽しみです。設楽歴史資料館や長篠城址史跡保存館も見所です。鉄砲沢山あります!
@yamajiro
@yamajiro 2 года назад
いつもご視聴ありがとうございます。長篠の戦いはやはり出てくるのではないでしょうかね? どのように描かれるのか、楽しみです。
@C500改
@C500改 Год назад
ドローン空撮で地形の起伏による戦略が非常に良く判りました! それにしても強右衛門によって長篠城が持ちこたえ、武田軍にプレッシャーを掛けたのですね。たった一人の足軽が歴史を動かしたことに涙しますね。
@yamajiro
@yamajiro Год назад
ご視聴ありがとうございます。あのような狭い場所で、数万の軍勢がよく戦ったと思いますね。
@KY-yf4wc
@KY-yf4wc 2 года назад
鉄砲の大量運用は雑賀衆のお家芸でこれに苦しめられた信長が真似したのが正しい。 現地は空撮映像でも分かるように長い凹凸のある丘陵地帯で、織田・徳川は兵の多くを背後の窪地に配して寡兵に見せて馬防柵と空堀を組み合わせた陣城を構築。 勝頼からすれば救援隊が数キロ手前で留まり陣を構築したのを見て敵は臆していると事実誤認。 この判断ミスが勝敗の分かれ目。 なお武田軍の侍大将の多くは退却戦の最中に戦死している事と、雑兵とは言え連合軍もかなりの戦死者を出しており、巷間伝えられるような鉄砲でほとんどやられたと言うのはイメージに過ぎない。
@滝沢優-y6l
@滝沢優-y6l Год назад
画像がすごく見やすくていい動画ですねー('ω') 三段撃ちって普通に危ないですよね('ω')。火縄銃撃ったら点火した火縄が吹っ飛びますし 隣の人の鉄砲の火皿に落ちたら危ないので、一間(1.8m)ぐらい離して火縄銃兵を配備 してたそうですね('ω')
@yamajiro
@yamajiro Год назад
ご視聴ありがとうございます。現在では鉄砲の三段撃ちは史実とは考えられていないのではないでしょうか。江戸時代の脚色が大きかったんでしょうね。
@滝沢優-y6l
@滝沢優-y6l Год назад
@@yamajiro さん 江戸時代に考えられた話だったのですね('ω') 信長記だったか忘れましたが、設楽ヶ原の前に信長自身が大鉄砲を持った兵士5人 を連れて馬防柵の前に出て発砲させて武田軍を挑発して、信長は兵士に大鉄砲を 捨てさせて速やかに柵の中に入って武田軍をおびき寄せたと記載があった ように記憶しております('ω') 実際にはどうだったんでしょうかね('ω')
@黑き史
@黑き史 2 года назад
『長篠の戦い』は、戦術的には「鉄砲」ばかり注目され勝ちだが、以前の通説と違い「三段撃ち」こそ否定された。但し「鉄砲奉行」が配置されていたから、少人数だがある程度纏まった「一斉射撃」はあったかも知れない。しかし「黒色火薬」を使用する関係上、発砲煙で直ぐさま「視界不良」となる他、「不発」も多くあったと考えられるため、絶え間ない射撃は不可能だったと思う。 それ故に織田・徳川連合軍の一番の勝因は、単純に武田軍の倍に及ぶ兵力を擁した事に尽きるんじゃないかと思う。
@もとのゆき-d7n
@もとのゆき-d7n 2 года назад
色々な考察があって本当ロマンを感じる。 個人的には漫画のセンゴクの長篠の戦いの考察が面白かった。
@nekono_mimikon
@nekono_mimikon 2 года назад
長篠の戦と言えば(馬防)柵ですが、日本でも紀元前より柵はもちろん逆茂木や乱杭で敵兵の接近を阻害していますし、それまでに付城を多数築いて土木技術を磨いた織田信長とその軍団が特に武田の騎兵突撃を警戒して築いた柵な訳ですので、復原されたような「ただの柵」などでは無かったのは間違いないでしょうね。 また背後の丘陵部分に万を超える軍勢が陣を構える以上は相当な範囲で木を伐り倒さなければならず、その大量の木材を消費する為に柵の他に逆茂木・乱杭など極基本的な防衛設備も整えた筈です。 輪番射撃に関しては織田信長による村木砦攻めで既に実行しているような記述が見られるので、その20年余り後の長篠でも行われた可能性はあるでしょう。
@yamajiro
@yamajiro 2 года назад
村木砦攻めのご教示ありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします。
@dabiken09
@dabiken09 Год назад
ドローン動画、最新の説を盛り込んだ素晴らしい作品です。山縣三郎兵衛討死之図をみていると竹柵が飛び散っている絵があるので、現在の復元された馬防柵のようにしっかりと基礎を打込んだものではないのではと感じていました。火縄銃についても後ろに隠れる山があるので馬柵での警備兵くらいにみせかけて武田兵が突進してきたら次から次へと兵が現れ乱れ撃ちをしたのではと思います。三段撃ちでは号令のタイミングのズレによっては空白が空きすぎて突破されます。 各猛将は勝頼を逃がすため敵陣深くに入り込み攪乱したのでしょう、そこそこに墓石がありますね。大変参考になりました。
@yamajiro
@yamajiro Год назад
ご視聴ありがとうございます。ここで数万の大軍が激突したとは思えないですね。それを感じてもらえればと思って作りました。
@skuway
@skuway 2 года назад
大量の弾薬と火縄を、どうやって湿気らせずに長距離運搬出来たのかも不思議です。長篠合戦は雨季の6月で前日まで雨だったというし、信長さんが火縄銃を主戦力として考えていたとしたなら、何かまだ知られていない秘策があったのかもしれませんね。決戦当日雨が止み、信長が火縄で行くぞと家康に告げ、それを聞いた家康がマジで?みたいな反応があったのかもしれません、、なんてね。
@yamajiro
@yamajiro Год назад
火薬の管理は本当にどうしていたんでしょうかね。不思議ですね。
@ひーばあちゃん
@ひーばあちゃん Год назад
お疲れ様です。 大変勉強になる動画をありがとうございます。 長篠設楽原は現在木が生えて山にようになっているところも小高い丘のような土地の採草地だったようです。 遠い甲斐の国からわざわざ遠征するのは大変だったろうなといつも思います。 そして、長篠合戦図屏風を見ると馬防柵の外にも鉄砲隊が出ているところを見ると、今テレビなどで再現されているのとはちょっと違う方法だったのかもしれないとも考えます。いろいろと考える事が増えると頭がついていかないので途中でやめますが。笑
@yamajiro
@yamajiro Год назад
奥平昌信、よく300人程度の軍勢で武田の大軍を前に持ちこたえたと思いますね。鉄砲の数や使い方もかなり昔とは違った見解が出てきていますね。実際にどのように使われたのか、解明されるといいですね。
@峻-k5k
@峻-k5k Год назад
遠い甲斐からわざわざ遠征した。 それも最初は家康の長男信康が城代を務める大岡弥四郎が家康に不満を持ち、武田に内通して武田軍を岡崎城に迎え入れる謀略があったからだった。 ところが大岡の謀反が露見した事で頓挫、ならば三河と遠江を分断しようと今の豊橋にある吉田城の攻略を狙ったが失敗しての長篠城攻めになった。 ここでもし織田軍が来たからと言って何の戦果も無しに撤退したら、三河や遠江の国人領主達の離反は更に加速する。 甲斐や信濃の国人領主達も信玄の時代から度重なる戦や金山の枯渇などによって財政的に厳しい中遠征してきているのに何の恩賞もなしか、戦っていれば勝てたのにと不満を持ち、勝頼を当主の座から引き摺り下ろそうとするかもしれない。 それどころか史実よりも早く織田・徳川に寝返り、武田家が史実よりも早く滅んでいたかもしれない。 裏切った領主を討伐しようとすれば、それを阻止しようとする織田信長が出兵して来る事が考えられる。 そうなった時に戦いを選べば長篠の戦と同じ結果になる可能性が高いし、戦を避けて兵を退けば、更なる権威の低下につながり、悪循環が加速するだけ。 仮にもし長篠で決戦をしないで撤退して、家臣や国人領主達の離反が加速しなかったとしても、織田家は石高、経済力、兵の動員力と全てにおいて武田家を上回っている。 また仕切り直ししようとしても、その時の織田家は石山本願寺を倒して畿内を完全に平定し、長篠以上の兵力で武田領に侵攻してくるかもしれない、更に家康もこれに呼応して攻めてくるだろうか信濃方面、遠江方面に援軍を送るのは難しく、次々に城を落とされ、武田家滅亡は避けられないと思います。
@船木祥啓
@船木祥啓 2 года назад
この地域は訪れると陣城を彷彿とさせる造成された地形があちらこちらに見て取れます 私は、長篠戦いと第四次川中島の戦いはダブって見えてしまいます。特に酒井忠次の鳶が巣山砦攻略はキツツキ戦法のようで 伝承では佐久間盛信等に内応させたふりをさせ軍議の内容を武田方に伝えさせ、軍議の場では散々にこの提案をけなしたとされますが 実際には行われましたし、より多くの戦果を挙げるに至った。 土地柄だけでなく、様々な情報戦により勝頼は決戦を挑まざる終えなかったのかなと感じさせます。
@kingofmarty
@kingofmarty 2 года назад
蓮吾川、現地に行くとすごい小さい川ですよね! 忠次の行動はめちゃくちゃかっこいいので、来年の大河すごい楽しみです笑笑。 センゴクという漫画ではまた違った長篠の戦いの描き方してましたよ! 武田側を誘い込んで鉄砲で包囲殲滅するって感じでした! 次回更新待ってますー
@yamajiro
@yamajiro 2 года назад
いつもご視聴ありがとうございます。本当にこんな狭い所で数万の軍勢が戦ったのかと信じられないです。
@natu3791venefit
@natu3791venefit 2 года назад
陸自、長篠合戦古戦場へ見学に来ると聞いたことがあります。
@9lives90
@9lives90 Год назад
陸自の夜間行進訓練のルートですしね
@milacleyan
@milacleyan 2 года назад
最近の研究というなら織田も相当な被害出してる、武田の損害の大半が鉄砲ではなく追撃戦によるもの あたりにも触れてほしかったですね
@yamajiro
@yamajiro 2 года назад
ご教示ありがとうございます。不勉強で申し訳ございません。出来る限り頑張って今後の動画に生かしていきたいと思います。
@g2peta823
@g2peta823 Год назад
現地に行って歩いて来ましたが、武田側から見ると、徳川・織田陣地はかなり小高い所にあります。寡兵による城攻めの体であり、かつ陣容が見えにくいことも考えると負けるべくして負けたのでしょう。ただし、ワンサイドゲームではなかったのだとも思います。
@yamajiro
@yamajiro Год назад
コメントありがとうございます。戦闘に対して全く詳しくないのですが、何故武田軍は馬防柵のない南側まで回り込まなかったのか、不思議で仕方ありません。酒井忠次が鳶ヶ巣山砦を奇襲することに比べれば、全然簡単な事のような気がするのですが。力攻めで落とせると思って後に引けなくなったのか、どうなんでしょうね?
@g2peta823
@g2peta823 11 месяцев назад
​@@yamajiro 長篠合戦図屏風にも描かれてますが、信長本陣は柵よりもうしろにあります。寡兵による鶴翼からの包囲を狙ったが、兵力差がありすぎて失敗だったんじゃないですかね?
@red9.Leon.s
@red9.Leon.s 2 года назад
学校の歴史の教科書ってどこに配慮してるのか、はたまた製作者が知識に乏しいのか分かりませんが、「合戦」や「戦争」の記述があまりにも少なすぎてその時代の情勢が深く理解できないんですよね。しかし今やRU-vidの時代。教科書で知り得ない情報を知れるので本当にありがたいw
@rokuemu114
@rokuemu114 Год назад
近隣諸国条項
@masao750
@masao750 2 года назад
武田方が一斉突撃したのではないと初めて知りました。 勝頼公も相手が悪かったです。 信長、家康とも数々の負け戦を経験して謂わば百戦錬磨の武将。 野戦陣地も鉄砲隊運営も本願寺や数々の戦でお手の物。 信長は兵力を後方に上手く隠した。勝頼も信長は畿内の戦で忙しいからこれ程信長が兵力を集中していたとは読み切れなかった。 筒井や細川の鉄砲隊も5日程で会戦前日に到着しているから兵站線も整備していたのでしょう。 勝頼も此の後上杉謙信や北条と同盟しているので領国は安定していたが、謙信の死により運命は暗転した。
@rwdpostqan390
@rwdpostqan390 2 года назад
鉄砲の三段撃ちは雑賀衆発案の戦法と言われてますね。 雑賀が織田と対峙するのはまだかなり後なので、否定されるのも分からなくは無いです。
@ムスカ大佐-i7q
@ムスカ大佐-i7q 2 года назад
研究が進めば歴史小説の内容も変わっていくし、大河ドラマの内容も変わっていくのかもしれないですね。
@yamajiro
@yamajiro 2 года назад
ご視聴ありがとうございます。私たちが見聞きする戦国時代の合戦などは、江戸時代の軍記物の脚色されたものを見ているのではないでしょうかね。そのフィルターを剥がしていくと、史実に近づけるのではと思います。これからも結構定説とされている史実も変わっていくかもしれませんね。
@八和-g9d
@八和-g9d Год назад
私見ではありますが、長篠の戦いには織田・徳川連合には多くの幸運が、そして武田方には不幸があった戦いでありました。 則ち1575年という時期は、前者にとっては対本願寺戦線の優勢化や越前一向一揆の内紛の発生により、以前より対武田方面への投射戦力を増加する事が出来たタイミングであったこと。 そして後者にとっては、攻勢計画がことごとく失敗したことで当初放置した長篠城を最終戦略目的に変更させざる負えなかったこと。 この2点です。 しかして本動画の、特にドローン撮影によって写された古戦場は、私めが考えていたような戦略的考えでは異常と言えるほどの超近距離での対峙と戦闘出会った事を改めて実感しました。 これほどに狭い戦場で多くの将兵が亡くなったこと。 そして、これほどまでの近距離戦闘を是とした両軍の将の決断。 今までの自分の考えでは想像できなかった様々な当事者たちの感情に、わずかながら近付けた様な気がします。
@yamajiro
@yamajiro Год назад
ご視聴ありがとうございます。この場所で数万の軍勢が戦闘を繰り広げたとは本当に信じがたい気持ちにさせられますね。この動画を製作する上では、そのことを伝えたいというのも大きな要素でした。
@moriritz9715
@moriritz9715 2 года назад
勝頼「野戦だと思ってたら攻城戦だったでござる」
@ミックスミッキー-z2g
@ミックスミッキー-z2g 2 года назад
耕地整理された谷津田は、古い地図見ると信じられないくらいに川が蛇行してる。長篠の土地も多分ごちゃごちゃしてるはず。
@すけたま-k3p
@すけたま-k3p 2 года назад
そもそも、鉄砲が主力武器になってからは、騎馬で突撃する事は減り、戦場では下馬して戦う事が多くなってたんですけどね。 ただ、長篠では徳川方の記録で少数の騎馬部隊が馬上突撃をしてきたと書かれているので、数十程度の騎馬隊の突撃は、戦術として実際に武田家で使われていたようです。
@村上智彦-q3u
@村上智彦-q3u Год назад
山県昌景や馬場信春ら宿老級の重臣の多くは設楽原での決戦には否定的だったという説もありましたね。 滅亡の切っ掛けは長篠の戦いでの大敗もそうですが、高天神城落城で多くの国衆の支持を失ってしまったのも大きかったですね。
@yamajiro
@yamajiro Год назад
仰るように、高天神城の対応と、御館の乱の対応とが決定的だったかもしれませんね。
@峻-k5k
@峻-k5k Год назад
逆に重臣達が決戦に賛同したという説も最近では言われてるみたいです。 武田家の家臣達は名門意識が強い。 そんな彼らが素性の知れない織田・徳川の城さえ落とせず、後詰の軍に怯えてノコノコ逃げるような事を進言するのかと。 撤退していたら、信長と家康は武田は織田・徳川軍が来たら戦わずに尻尾を巻いて逃げたと喧伝し、三河や遠江の国人領主達の離反が加速するだけだと思います。 甲斐や信濃の国人領主達も信玄の時代からの重税で財政的に厳しい中わざわざ軍を出して遠征したのに何の恩賞も無しか、戦えば勝って略奪できたのにと不満を持ち、勝頼を武田家当主の座から引き摺り下ろそうとするかもしれない、それどころか史実よりも早く織田・徳川に寝返り、史実よりも早く武田家は滅亡したかもしれないです。 撤退して仮に国人領主達の離反が加速しなかったとしても、武田と織田の国力差は開く一方。 この場で撤退して仕切り直ししようとしても、その時はこの時以上の兵力で徳川の援軍に来るかもしれない。 それどころか畿内を織田が完全に平定したら織田の方から武田領に侵攻してくるかもしれない、それに徳川も呼応するだろうからそうなったら勝ち目はないです。 武田と織田の国力差が開く一方なのは武田家重臣達も理解していた事でしょう。 まだ織田が本願寺勢力と戦っているから、武田相手に全軍は向けられない今のうちに痛手を与えるべきだと考えて決戦を進言した可能性もあると思います。
@a.itheanswer6502
@a.itheanswer6502 16 дней назад
映像が素晴らしい 450年後の人々は争うことなく平和に暮らし、分断されていた領地も高速道路でひとっ飛びだと教えてあげたくなる
@yamajiro
@yamajiro 15 дней назад
ご視聴いただき、またお褒め頂き、ありがとうございます。またチャンネルに遊びに来てくださいね!
@みなみこうちゃん
@みなみこうちゃん 2 года назад
長篠・設楽原の戦いで、勝頼が織田・徳川連合軍の軍勢を見てさっさと撤退していたら、その後の戦国史の展開はどうなったんでしょうね。
@otaru6042
@otaru6042 2 года назад
それもよく言われますが、退路が登山コースになるので織田徳川連合軍の追撃をうけて大打撃をうけていただろうというのが一般論ですね。実際、朝倉氏はそれで滅亡しましたので。
@峻-k5k
@峻-k5k Год назад
撤退していたら、織田信長が出てきたら勝頼はすごすごと撤退したという事になるので、武田家は織田家には敵わないという事がはっきりしてしまう。 これは、武田家の権威の大幅な低下につながり、特に徳川と境を接する三河・遠江の領主らは武田家から織田・徳川に寝返る事を考えるでしょう。 これに手をこまねいていれば、武田家の勢力は衰退の一途を辿る。 かといって裏切った領主を討伐しようとすれば、それを阻止しようとする織田信長が出兵して来る事が考えられる。 そうなった時に戦いを選べば長篠の戦と同じ結果になる可能性が高いし、戦を避けて兵を退けば、更なる権威の低下につながり、悪循環が加速するだけ。 甲斐や信濃の国人領主達も信玄の時代から度重なる戦や金山の枯渇によって財政的に厳しい中わざわざ遠征したのに、何の恩賞もなしか、戦っていれば勝って略奪できたのにと不満を持ち、史実よりも早く織田・徳川に寝返り、史実よりも早く武田家が滅亡した可能性もあるかもと思います。
@抹茶ココア-p4u
@抹茶ココア-p4u 2 года назад
桶狭間の戦いもそうですが、近年の研究によってこれまで習ってきた内容と違うものになりつつありますね この戦は鉄砲が一つのポイントになってますが、戦場跡の発掘調査を行っても肝心の鉄砲の玉が僅かしか出てこないという謎も残されてます もしかしたらこれまでの常識を覆すような調査結果が出てくるかもしれませんね
@ロクエモン
@ロクエモン Год назад
教科書に載っている織田信長の有名な合戦はどちらも彼の緻密な戦略による勝利で天下目前まで上っていった。
@高田健一-l7l
@高田健一-l7l Год назад
信長は戦争の天才。 常に地形や状況を分析してそれに合った戦い方をし、 同じ戦法を二度使うことはなかった。
@yanyo-kc5zy
@yanyo-kc5zy 4 месяца назад
学校の歴史の時間に習った「鉄砲隊の掃射で勝った」という古い知識で凍結してたんですが、現在はかなり研究されていて事実とは異なる可能性が高い事をこの動画で知りました。ありがとう御座います。個人的には、この古の時代に土木作業による陣地構築を重視し、鉄砲隊を前面に出した点が、日本の歴史の中では目新しい部類ではないかと思われます。ちょうどその頃、世界的に見ても鉄砲と築城技術に向上により塹壕の有用性が高まり始めていた時代でもあるらしく、そのセオリーを日本で最初に実践して見せたのが織田信長なのかもしれませんね。
@yamajiro
@yamajiro 4 месяца назад
やはり着眼点・実行力共にずば抜けていたのではないでしょうか。
@mutekikantai
@mutekikantai Год назад
やはりトップの力量で勝敗は決するんだな。信長恐ろしや。
@yamajiro
@yamajiro Год назад
勝頼も普通に優秀な武将だったと思いますが、相手が凄すぎた気がしますね。
@健太郎安武
@健太郎安武 4 дня назад
長篠城も根城や荒砥城の様に発掘調査から建物を木造復元して欲しいです。
@yamajiro
@yamajiro 3 дня назад
少しでも復元整備が進むといいですね。
@kenchang101
@kenchang101 Год назад
強右衛門のエピソードを聞くと、自分たちの進退がかかる局面で他者に運命を任せるようなことを武田がしてしまったのが悲しくなりました。
@yc5084
@yc5084 Год назад
新研究では、長篠の戦いは、織田・徳川連合軍の鉄砲3000丁と、武田軍の鉄砲1000丁の戦いだったようですね。勝敗を分けたのは、連合軍はまるで城のように柵を3重にして武田軍の突撃をある程度防いだことにあるとの事です。つまり即席の篭城戦ですね。
@yamajiro
@yamajiro Год назад
ご教示ありがとうございます。武田も結構鉄砲を持っていたんですね。うまく使いこなせなかったという事でしょうか。
@yc5084
@yc5084 Год назад
@@yamajiro 長篠の戦い【最新研究】NHK 新研究の結果です。武田鉄砲1000丁 vs 連合軍鉄砲3000丁 ru-vid.com/video/%D0%B2%D0%B8%D0%B4%D0%B5%D0%BE-XO4Y_T2pf6I.html ru-vid.com/video/%D0%B2%D0%B8%D0%B4%D0%B5%D0%BE-wD22chXbikQ.html
@又兵衛-y2o
@又兵衛-y2o 13 дней назад
長篠の戦い前に何度も小競り合いを繰り返し、信長は『武田は10倍の兵力でも向かってくる』事を知る。 敵が壊滅するまでは武田は何が何でも突撃を繰り返す事を信長は知ってた。 そこを逆手に取って馬防柵に湿地帯で大量の火縄銃で打ち砕いた。 武田の強みを弱点に変えた信長の勝利。
@yamajiro
@yamajiro 10 дней назад
ご教示ありがとうございます。今後の参考にさせていただきます。
@MrYoshichan
@MrYoshichan 2 года назад
武田方が織田・徳川連合軍の戦力を見誤ったのが敗因だと思いますね。思い通りに事が進んで勝頼も油断したんでしょう。
@百合丸錬
@百合丸錬 Год назад
やはり騎馬隊対策はされていたのか。 湿地なら人でも足場が悪くて戦いにくいし、徒が戦場では主力だから馬云々でもないし。
@usiwaka14
@usiwaka14 Год назад
武田勝頼すき
@umakara55
@umakara55 5 месяцев назад
設楽原の現地は、勝頼推しでも信長推しでもなく、圧倒的に鳥居強右衛門推しだったでござる(強右衛門絡みの掲示が多い)
@yamajiro
@yamajiro 5 месяцев назад
そうでしたか。今度行く時には、注意してみてみようと思います。ありがとうございます。
@rescue911usa
@rescue911usa 10 месяцев назад
鉄砲の数の割には、弾の出土が少ないから、実際の鉄砲の数は少ないと言われてる。
@yamajiro
@yamajiro 10 месяцев назад
発掘調査で見つかるものは、腐らずに残ったものだけですし、そもそも鉄砲玉は小さいので見逃す可能性があるので、出なかった、少なかったから当時あまりなかったとは言いにくいかと思います。
@nitro2525k
@nitro2525k 6 месяцев назад
勝頼を引きずり出して殲滅する信長のすごさ
@黒猫-r7z
@黒猫-r7z 2 года назад
最新研究というわりには少し古い感じかな(三段撃ちに否定的なのは随分前からだし)。騎馬での突撃もなかったんじゃないかな?鉄砲構えた敵陣地前の湿地帯に突撃なんてしたらどうなるかなんて子供でも分かりきった事だろ。戦い慣れた人たちがやる事ではないよ。また武田軍も鉄砲は沢山持っていたが、弾薬が不足していたって研究があるはず。朝方は盾とかで防ぎながらじりじり前進してたんじゃないかな?でも弾薬不足で昼頃にはマトモに戦えなくなった可能性がある。そうするともう撤退するしかない。でも敵前での撤退は最も危険な行為なので被害が大きくなったんじゃないかな?
@堀水英則
@堀水英則 2 года назад
この戦で甲斐武田軍は壊滅し、生き残ったのは総大将の武田勝頼公と直属の護衛僅か数名。具体的証拠文面として、拙宅祖先が勝頼公より賜りたる由緒書が在りました。内容は「甲州下山内七拾貫文、南部内五拾貫文、古開郷開四貫五百文事。右夏以来駿州先方走廻候間、所々宛行有不可相違状件如。天正三年拾弐月拾日、土屋右右衛門尉是奉」なる文言でした。
@unomasjp66
@unomasjp66 Год назад
信長公の緻密な戦略立案能力と本能寺の変での判断ミス。 このギャップが埋まらない。。
@yamajiro
@yamajiro Год назад
ちょうど大河でやっていますね。大河の設定では、自分しか信じられないとなっていますが、逆に信じすぎてしまう性分で、それが本能寺の変で裏目にでてしまったんでしょうか。
@相撲ハットン
@相撲ハットン 2 года назад
最新の研究はどこにあるんだ?
@kazumasaotu6016
@kazumasaotu6016 Год назад
信長本隊の鉄砲が3000丁ではなく1000丁だったとすれば、迂回して武田の後ろをとらせる酒井忠次に500丁の鉄砲をつけてやると 馬防柵の火力が3分の1も減る。 すると、武田の突撃の圧力が小出しだと予想し、それよりも、武田の退路を断つほうを重視した感じかな。 信長にとってアウエイの戦場なのに、現地の詳細な地理情報が分かるものなんですね。 馬防柵の設置場所や、湿地の地形、酒井が迂回攻撃するなど、楽観的な勝頼よりも綿密に計画している印象。
@yamajiro
@yamajiro Год назад
信長が設楽原に布陣したのは、家康の情報が大きかったのかもしれませんね。しかし、いくら織田・徳川連合軍が丘陵の後にいて見つけにくいとはいえ、武田方の索敵能力はそんなに低かったのか、不思議で仕方ありません。
@kazumasaotu6016
@kazumasaotu6016 Год назад
@user-de1my6jw9y 6月11日付の下記記事によると、 武田も鉄砲の威力を信長と同程度に理解しており、鉄砲の数も多かった。 しかし信長は当時の日本の経済、流通の中心を支配し、弾や火薬を豊富に準備できたので、 弾幕のように武田を撃ったかもしれない、とのこと。 現在の軍隊や警察でも、銃より弾の管理がはるかに厳しいですから もっともな着眼点かと思います。 革新的なイメージの強い信長ですが、他の大名やスペインでやって上手くいったものを 日本一の財力と職人集団で大規模にやってみせたところがすごいのかもしれません。 武田勝頼は鉄砲をナメていたから負けたのではない…教科書が教えない「長篠の戦いで信長が勝った本当の理由」 news.yahoo.co.jp/articles/3891cd6551f9174defab26c511364e3f1bfae42d 太平洋戦争中のガダルカナル島で、1942年8月、一木支隊が壊滅しますが、 何となく、武田軍に似ているような気がします。 一木支隊は、一人あたり弾丸250発、食料一週間分の軽装備。 一方、米軍は正確な情報と、圧倒的な火力の布陣で待ち構えていました。 一木大佐は、敵戦力の全容を終始把握できておらず、また長い戦闘ができないので 繰り返し攻撃して全滅しました。 武田が撤退できなかったのは、後ろの酒井忠次の有能な働きでしょうが、 酒井の任務は、長篠城救援と武田本隊牽制と、大変複雑なので、 当時の歩兵部隊でよくタイミングも合わせられたものだと思います。 後年、小牧長久手の戦いで、家康が迂回攻撃を見抜けたのは、長篠で酒井に迂回攻撃させた経験だったから?
@mazenta08413
@mazenta08413 Месяц назад
@@yamajiro 勝頼としては 信長公 家康公を 討ち取る 討ち取れる という 考え 判断が 山縣や 真田 馬場など 失うことに 兵数も 織田・徳川連合軍の方が はるかに? 北条との戦いを 続ける中で 織田と和睦しようとして 高天神城を 見殺しにしたことで 人心が 離れたことが 滅亡の 原因のようです 天正10年(1582年) 高遠城の仁科盛信が 自害(首は 美濃にいる 信長公のもとに届けられる) 勝頼父子は 天目山で(滝川一益の軍勢により)
@野依梅太郎非効率研究
@野依梅太郎非効率研究 4 месяца назад
実弾は経験者のスナイパーだけにして、大半の鉄砲初心者は空砲をぶっ放した。
@NORIOOBATA
@NORIOOBATA 2 года назад
「鉄砲の三段撃ち」なんて無かったんだよ、って訳知り顔に言う人が多いけど、1キロ足らずの戦線に1000丁以上の鉄砲隊を配置すりゃ、それらがきれいに横並びで一斉射撃したなんて考えられません。隊列が重複してしかも槍隊や自軍の騎馬隊を邪魔しないスペースに密集すれば、結果として2段3段の列で弾込め休止を挟んでの交互射撃になり、かつてない密度の弾幕が形成されて個別に突撃してくる武田の隊列を各個撃破するという、それまでの戦国史にない戦いだったと推測できると思います。勝因は、戦場に可能な限りの兵力を集中し、鉄砲隊を主として強力な打撃力を実現した織田徳川連合軍の戦略にあったというのは、その通りだと思いますけど。
@shinyama7321
@shinyama7321 Год назад
なんや鉄砲のたまが見つからんからほんまに鉄砲の戦闘があったのかと言ってますね。どうなんやろ
@yamajiro
@yamajiro Год назад
鉄砲の玉は数はわかりませんが見つかっていますよ。資料館にも展示されています。発掘調査で鉄砲の玉のような小さいものを見つけるのは至難の業だと思いますので、よく見つけたと思います。
@克盛
@克盛 2 года назад
鉄砲の数も撃ち方も疑問だらけですね。 実際の場所でも鉄砲玉の数も沢山発見されてませんしね。 いっせいに射撃するにも号令ごとどきませんよね。
@克盛
@克盛 Год назад
@松尾浩一 そうですよね。 よく言われてるような場面は無いですよね、騎馬隊なんて無いに近いし鉄砲もせいぜい1000ぐらい。 信長公記にも打ち方は、さんざんな打ち方と書いてありますからドラマの影響力は凄いです。
@克盛
@克盛 Год назад
@松尾浩一 古戦場の広さは2〜300mぐらいの幅で川がありますからね。 馬防柵有ったにせよ何キロにわたって造るのは無理が有る。 ドラマも出来る限り史実にそってやっねもらいたいです。
@wtgajdmgt
@wtgajdmgt 7 месяцев назад
酒井らの奇襲は素晴らしいが、その後なんで退路で待ち伏せしなかったか?
@yamajiro
@yamajiro 7 месяцев назад
私は、これだけの大迂回の奇襲が成功するのならば、なぜ勝頼は馬防柵を迂回して攻撃しなかったのか、不思議で仕方ありません。
@堤一喜-l9x
@堤一喜-l9x Год назад
この戦場の狭さでは、馬防柵と言うより兵防柵と言った方が良いかも知れない。
@yamajiro
@yamajiro Год назад
本当に驚きの狭さですね。この決戦場の狭さを知っていただけるだけでもと思って製作しました。
@buniverse1996
@buniverse1996 Год назад
Salam dari indonesia.banzaiii
@phoenixgold3593
@phoenixgold3593 2 года назад
いずれも実力あるものどうしの戦いであり、5分の戦力の激突ならただの消耗戦で終わるので、この戦はなかったはず。にもかかわらずこの結果だったので、武田側が午前中じわじわと押されまくって、昼過ぎあたりに総崩れになったのか。まあ信長の作戦と徳川の命懸けの戦い勝ちといったところか。まあ勝頼も勝てる見込みもないのによく戦ったとも思う。にしても余りにも事前調査が甘かった感が強い。まずは相手の立場になり切る~基本のはずだし、「山は動かんぞ」の選択肢もあったはずだが。やっぱ無茶だったよね。
@phoenixgold3593
@phoenixgold3593 Год назад
@user-de1my6jw9y やっぱ武田軍は相当強く消耗戦だったが、織田・徳川が押し切った?まあ長篠城陥落がなければほぼ五分ということで両者にらみ合いだけで終わったかもね。あと、ふと思ったが勝頼も信玄が父とはいいながら諏訪の人質として生き抜いた強さがあり、自刃前の妻への配慮など優しさもあった。素晴らしい武将だったと思いますよ。むしろ信玄の方が冷酷打算だけのクソ男だな。
@峻-k5k
@峻-k5k Год назад
@@phoenixgold3593 最近では長篠城の抑えとされてきた兵で長篠城を落とし、勝頼の本隊は対峙している織田・徳川軍を牽制しようとしていたんじゃないかという話もあるようです。 織田・徳川軍を牽制しておいて長篠城を落とし、退路を確保しようとしていたんじゃないかと。
@laracroft1997
@laracroft1997 7 месяцев назад
ru-vid.com/video/%D0%B2%D0%B8%D0%B4%D0%B5%D0%BE-VBbVmBsQ0Xc.htmlsi=Ncv-dX_ZZDSHZaS6 そんな長篠の戦いの跡地で 合戦をテーマにした和太鼓があるみたい!
@yamajiro
@yamajiro 7 месяцев назад
そうなんですね。ご教示ありがとうございます。
@-chitoitu-3076
@-chitoitu-3076 2 года назад
信長の3段撃ちはなかったと言われますが、現代に新たな3段撃ちシステムが生まれました。 A(犯罪者兵) ↑ B(一般市民の動員兵) ↑ C(軍人 正規兵) Aが逃げたらBがAを撃ち、Bが逃げたらCがBを撃つ。
@yamajiro
@yamajiro 2 года назад
ちょっと戦の切迫感が足りなさそうですかね(笑)? 皆さん一生懸命やっていただきましたので、ご容赦ください(笑)。
@近藤サトし
@近藤サトし 2 года назад
武田氏は山岳でのゲリラ戦をするスキルを身につけていなかったのかな。これができれば後方に撤退すると見せかけて迎撃できただろうに。
@pontarou01
@pontarou01 2 года назад
親父の信玄も、信州攻めで2回大敗してるからね。
@KN9260
@KN9260 2 года назад
三方ヶ原のリベンジ。
@フクたん
@フクたん 19 дней назад
ただ敗れただけでなく優秀な歴戦の武将を失いすぎたのが不味かったとおもうな…
@yamajiro
@yamajiro 17 дней назад
その通りですね!
@みっくすけん
@みっくすけん Год назад
歴史はおもろい。
@新城直衛-d6r
@新城直衛-d6r 2 года назад
三段撃ちは実際にやってみると効率が悪いので否定的な意見がメインになってるけど 時間当たりの投射量は落ちても、短いサイクルでの発砲による射撃で士気の低い相手なら 効果的ではと思うように・・・現代の機関銃等の制圧射撃的な感じにはならないかな(´・ω・`)
@あなたのために-d1j
@あなたのために-d1j 2 года назад
鳥居さんの磔の刑は『逆さ磔』と表現して欲しかったでつ
@yamajiro
@yamajiro 2 года назад
金子先生の本では、「最近の研究では逆さ磔ではなく、普通に立った状態だったことが判明した」とあったため、触れませんでした。色々な説があるようです。
@たぬたぬ-r6b
@たぬたぬ-r6b 8 месяцев назад
合戦場に、普通に住んでんのw 織田軍 『すんませーん、おトイレ使わして  下さい_(^^;)ゞ』 武田軍 『ごめーん、すぐでる』
@yamajiro
@yamajiro 8 месяцев назад
武田軍「織田軍には絶対に貸さん! 」だと思います(笑)。
@食い詰浪人
@食い詰浪人 Год назад
江戸二百六十年続いたけど亡びたな 因果ほうおう。
@nobunagasama
@nobunagasama 2 года назад
信長はメイウェザーみたいな戦い方するんやな
@みるぷろ
@みるぷろ 4 месяца назад
日本赤軍の奥平くんとは関係あるのかな
@yamajiro
@yamajiro 4 месяца назад
わかりません(笑)。
@y元気です
@y元気です Год назад
力攻め、戦いは、指揮官次第です、イギリスト、フランスの戦い足場、地形を無視して、敗北。
@smura777
@smura777 4 месяца назад
織田信長は、堺の自治を解放させました。これは、軍資金だけでなく、輸入拠点を奪い、日本では作れなかった 火薬 を織田信長が独占することになります。 武田方も鉄砲は持っていたものの、火薬の入手が困難だったため、使えなかったという方が適切なのかもしれませんね。堺の街は、本能寺の変の時に徳川家康が滞在していましたが、大坂冬の陣で、大砲を用いて攻略していますので、徳川家康自身も 火薬や海外技術の入手がいかに重要か? を承知していたように思えます。
@yamajiro
@yamajiro 4 месяца назад
おっしゃる通りだと思います。信長は堺を押さえることの重要性を熟知していたのではないでしょうか。それを見ていた家康も、それに倣ったのかもしれませんね。
@ジュン福田
@ジュン福田 2 года назад
平山優さんの「武田氏滅亡」❗️
@i4095
@i4095 2 месяца назад
宇連川と寒狭川が合流して豊川 鳥居強右衛門を殺したので子供の頃から武田のイメージ悪い。
@yamajiro
@yamajiro 2 месяца назад
ご教示ありがとうございます。今後の参考にさせていただきます。
@user-pw3tk4dx4b
@user-pw3tk4dx4b 2 года назад
伊勢宗瑞じゃん 北条氏康じゃない😂
@yamajiro
@yamajiro 2 года назад
誰かがツッコミを入れるんじゃないかと思っていましたが、やはりきましたね(笑)。氏康の著作権をクリアできる画像を作っていないので、これでお茶を濁しました。ご容赦ください。
@AMX014DOVENWOLF
@AMX014DOVENWOLF 2 года назад
大賀弥四郎です。
@yamajiro
@yamajiro 2 года назад
ご指摘ありがとうございます。今回参考にさせていただいた金子先生の『長篠の戦い 信長が打ち砕いた勝頼の覇権』では、史料によって大賀とも表記されるとして、大岡弥四郎として説明されていましたので、それに従っています。
@AMX014DOVENWOLF
@AMX014DOVENWOLF 2 года назад
@@yamajiro すみません。 私は歴史群像シリーズ⑫を読んでの人物名なので古すぎたかも知れません。
@momosuki8372
@momosuki8372 2 года назад
あのね!三千丁の鉄砲は秀吉が捏造した嘘話。いい加減にしよう!
@片岡学-j5t
@片岡学-j5t 4 месяца назад
嘘馬鹿サイトが多い中にこのサイトは良い。武田騎馬隊が突撃に対して3000丁の3段撃ちは全てが間違いで江戸時代の作り話である。武田騎馬隊、織田鉄砲隊3000存在していない。 確かに鉄砲は多く使用され織田方で約1000丁、武田方で約500丁の戦い。一進一退の激戦であっが、最後は兵力3倍の織田方の勝利であった。漫画的には武田軍が一方的な敗北であるが 実際は武田約10000、織田約7000の戦死者で激戦であった。
@yamajiro
@yamajiro 4 месяца назад
ありがとうございます。流石に3段撃ちはフィクションであるというのは浸透してきていないですかね?
@剣道六段女子
@剣道六段女子 2 года назад
武田勝頼の能無しぶりが良くわかりました!剣道四段19女子の土屋右衛門尉昌続子孫より
@yamajiro
@yamajiro 2 года назад
どうなんでしょうかね? 私は勝頼は決して無能な武将ではなく、普通に有能な武将だったのではなかとおもっています。ただ、相手が信長や家康といった凄すぎる武将だったことが、勝頼にとって、運が悪かったかもしれませんね。
@CHOCOBOLIA
@CHOCOBOLIA 2 года назад
剣道で「片手1000人斬り」 いけるかも!
Далее
Battle of NAGASHINO SHITARAGAHARA
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