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あと少し生きていれば歴史が大きく変わっていたであろう武将 

Japanese history path | Rekishi no hosomichi
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25 окт 2024

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Комментарии : 388   
@windowsme262
@windowsme262 2 года назад
今川義元が討たれていなければ、武田信繁が討たれていなければ、信玄がもう少し長生きして居れば・・・武田はかなり違っただろうに
@kichisaju6075
@kichisaju6075 3 года назад
豊臣秀次が生きていたら、という発想が自分は今までなかったのですごい新鮮でした! たしかに秀次が生きていたら関ヶ原は歴史とは異なってくる。そう考えると、秀吉は秀次を死に追いやったことで結果的に自ら豊臣家を滅ぼす一因となったのかもしれないですね。
@TAIRA_TAKAMORI
@TAIRA_TAKAMORI 2 года назад
秀次には前野長康はじめ、多くの有能な武将が秀吉から付けられていました。秀吉は彼らも一緒に罰してしまったので、豊臣家の人材的損害は相当大きなものでした。また千利休の処罰の理由も「秀次事件の処置に反対したから」という説があります。口に出さなくても利休と同意見だった者も多かったでしょうから、秀吉への忠誠心はそこでも大きく下がってしまいました。 ちょうど秀次に娘を嫁がせた伊達政宗はギリギリで連座を免れています。当然内心では秀吉への反発心が大きくなったでしょうね。
@イヒヒウフフ
@イヒヒウフフ 3 года назад
寿命・健康も武将の才能ということですね。それらも考慮すると家康が最も総合力がある
@小寺莉音
@小寺莉音 3 года назад
前田利家については本当にそう思う。 家康にとって利家は、他の残った武将の中でも 唯一自分に匹敵する格上の武将だったからね。
@じろう-i3e
@じろう-i3e 3 года назад
結局、最終覇者家康の勝因は 長生きでしたね。
@sugisinfkk
@sugisinfkk 3 года назад
輝虎は塩分摂りすぎ
@富岡-c1t
@富岡-c1t 3 года назад
あと酒も好きすぎな笑
@安西弘-t1o
@安西弘-t1o 8 месяцев назад
ですね。 真夏でも火を通して食べる。 秀吉から茶を出されても飲まない。(秀吉が気遣って自ら飲む) 老いても鷹狩りなどで運動する。 写経で心を落ち着かせる。 食事。毒。運動。精神。 実に気配りが出来てて現代人でも尊敬できるレベルです。
@PS-zf7we
@PS-zf7we 3 года назад
こう言う「たら れば」は面白くて良いですね♪ワクワクします😊
@usyachannel
@usyachannel 3 года назад
「死なぬなら 死ぬまで待とう 前田利家と小早川隆景」 家康
@クソえもん-f9w
@クソえもん-f9w 3 года назад
やっぱ秀長やろな。
@hirataz3
@hirataz3 2 года назад
たしかに秀長・蜂須賀小六・竹中半兵衛の死は痛い…木下藤吉郎時代からの心の拠り所を失いましたからね。
@Guarana_Kitano
@Guarana_Kitano 3 года назад
小早川隆景も納得過ぎるチョイス。流石です!
@おだ彦五郎
@おだ彦五郎 3 года назад
毛利家って、隆景が存命中は、 隆景が当主のような扱いで 輝元の影が薄くなりがち、、 関ヶ原ではようやく出番じゃ とばかりに総大将を引き受けたものの、気付けば足元に火が付いて 大坂を退去で約束は反古にされ 大減俸、、 大坂の陣では性懲りもなく 豊臣方と内通してましたね(^_^ゞ バレそうになったら内通者の一族を皆殺し、、 結構、身勝手な人、、
@いくみ-f5e
@いくみ-f5e 3 года назад
お兄さんの隆元も長生きしたら、どうなってたかわからんとおもう
@トリッサ
@トリッサ 3 года назад
斎藤義龍、尼子晴久が長生きしていたら歴史は変わったと思う
@山城弾正
@山城弾正 3 года назад
太原雪斎ももう少し長生きしたら今川家の衰退はなかったかもしれません。
@氷室将介-l6s
@氷室将介-l6s 3 года назад
桶狭間での敗北が無かったかもしれませんね もしくは桶狭間の合戦が起こらずそのまま清洲城へ進軍してたかも
@びびりきっず-i8m
@びびりきっず-i8m 3 года назад
太原雪斎が桶狭間まで生きてたら今川が負けることはほぼなかったと思うと、不思議ですな…
@柳家小ゑんざいむQ10
@柳家小ゑんざいむQ10 3 года назад
北条で言えば、幻庵がそうですね。小田原評定でズルズル籠城することなく、スパッと和議を結んで毛利のように大大名として存続したかも。
@柳谷慈彦
@柳谷慈彦 2 года назад
武田家の軍師の山本勘助も「今川家は雪斎なくてはならぬ家康」なんて言ったぐらいですからね。
@亜-t3r
@亜-t3r Год назад
やはり参謀を担っている知恵者が消えると没落していきますね、武田(信繁が討死したのもかなり大きいが)、今川、北条と3大大名がいい例です、豊臣も半兵衛、官兵衛と失い最終的には歴史の渦に散っていきましたね、
@大黒天-d7h
@大黒天-d7h 3 года назад
勉強になりました❗ やっぱりさおりさんのナレーションが良いですね
@kemukemu
@kemukemu 3 года назад
斎藤義龍がもう少し長生きしていたら、織田の美濃攻めも遅れたのではなかろうか?と思うことも。 息子の龍興だったからこそ、織田の勢力が伸びたと思うだけに。
@no-11.divertire
@no-11.divertire 3 года назад
私は、毛利隆元がもう15年生きていればと思います。隆元が輝元をしっかり調教出来ていたら、関ヶ原の没落は無かったと思います。 ただ、関が原で勝者側となっていても、広大な領地を有する毛利氏は勝者側に色々因縁をつけられて、領土を削られるか、勝者の血縁者を養子として当主に据える事により乗っ取られていたと思いますが・・・。
@雨宮雅人-u1s
@雨宮雅人-u1s 3 года назад
豊臣秀長が長生きしていたら、晩年の秀吉の狂気の行いは、起きなかったかも知れない。
@mmasaru0625
@mmasaru0625 3 года назад
存命中に秀長は挑戦出兵に大反対で、秀吉に直接何回も意見しています。 土地が欲しいなら私の領土を返上しますから、皆に分け与えてくださいとまで言っています。 しかし秀吉は聞く耳もっていません。 少なくとも、秀長が生きていても挑戦出兵は行われていますね。
@盆暗粕男
@盆暗粕男 3 года назад
秀次の切腹の無かった。
@もふもふ-x4p
@もふもふ-x4p 3 года назад
@@盆暗粕男 利休の切腹も無かったですね
@フォード-i1w
@フォード-i1w 3 года назад
狂気の行いというか「舐められたら○す」を地で行く典型的室町人だったというべきか(落書事件とか見ながら) 黒田官兵衛は吉川広家に「我等事は上様へのふそくもなく候世上ふのあしき殿にて候(我々は特に不満はないが世間では分の悪い→評判悪い殿だよ…)」と愚痴を漏らしてるという 本音とみるか含みと見るか(自分らも不満持ってたのか)
@Farting_old_man
@Farting_old_man 3 года назад
展開次第では秀吉派vs秀長派になったはずでそこで徳川が鍵を握る
@nagareboshi_v3
@nagareboshi_v3 3 года назад
今回の動画の中では、大納言秀長に大きく頷きます。しゃしゃり出ない足利直義みたいなイメージです。 豊臣家はもっと残ったことでしょう。
@evolutiongmr7389
@evolutiongmr7389 3 года назад
どちらも大河ドラマでは高嶋政伸さんの好演が光りました。
@73moto
@73moto 3 года назад
長生きしたら歴史が変わったのは武田信繁が川中島の合戦で戦死しなければ信玄が病死後に義信か勝頼が当主に成った時に信繁が後見人に成れば武田は史実より持った。豊臣秀長が長生きすれば秀次切腹事件は起きず秀長が秀頼後見人で居れば加藤清正、福島正則の武断派と石田三成、小西行長の文治派の対立は起きずに秀長に従って豊臣政権は安泰していた。真田昌幸が大坂の陣前に病没しなければ昌幸は武田信玄に使え徳川軍を幾度も破った実績が有るから豊臣側の所将は昌幸の作戦指示に従い徳川方は苦戦して長期戦になって心労で家康が陣没した可能性が有った。
@Farting_old_man
@Farting_old_man 3 года назад
秀長の粛清に変わる可能性もある。 秀吉は秀長に不正蓄財の疑いをかけていたし。
@酔狂-i9o
@酔狂-i9o 3 года назад
武田信繁に関しては、川中島で討ち死にしない場合、問題は義信粛清事件の際に巻き込まれないかですね。上手いこと着地点を見いださせることに成功すれば、史実より武田家の弱体化は避けることが出来たので、少なくとも史実夜ありある程度は武田家が長生きしたと思います。(上手く行けば、織田家に臣従する形で生き延びたかも?) ただ、逆に義信を庇って、逆上した信玄にセットで粛清されたとしたら・・・史実より更に武田家の内情がドロドロになって、信玄の代で内紛発生→武田家自滅と言う可能性もあったんじゃないかと思います。 豊臣秀長に関しては、健在であれば秀次ではなく秀長が後継者候補に選ばれる可能性が高かったと思うので、結局秀次の代わりに粛清された可能性が高いかな。晩年の秀吉の猜疑心は、それこそ身内で有能であれば有るほど、秀頼を亡き者にして取って代わりかねないと警戒したと思います。 真田昌幸の場合、その死が徳川家の警戒心を緩めて信繁が九度山から抜け出すことを成功させた要員にも成ったので、昌幸が健在だったら、下手すりゃ豊臣とこと構える可能性が出た時点で暗殺されるか、それがなくとも警戒が厳重化して、信繁すら大阪城に入れない可能性があったかと。 よしんば、親子で大阪城に入れたとしても、元大名で相応の実績を持っていた他の浪人衆の意見も殆ど入れられなかった点を考えると、あまり大勢には影響なかったと思います。
@武田信玄-f9m
@武田信玄-f9m 2 года назад
まさにその通り昌幸が実際に大阪に居たら老人家康箸が震えるどころじゃなくなるわ(笑)大阪の士気も上がるわな。実際昌幸は居なかったが、圧倒的有利な勢力なのに徳川の精鋭が幸村に蹴散らされ2度も自害を覚悟している。
@マルコエンリケヘロドトス
足利義輝様とか 室町幕府を盛り返せる力のあった唯一の将軍だったと思います
@テュルンテュルン
@テュルンテュルン 2 года назад
それは無理でしょうね。 長慶の影響があったとはいえ義輝に幕府を運営するだけの能力と責任感や決意があったかといえば疑問です。 実際考えなしの行動により京を追い出された事もありますし幕府の業務をできていませんからね。 というか室町幕府の運営を考えるのあればあそこまで長慶に反抗したのは変ですね。 客観的にみると幕府の仕組みを今までのように多くの有力者で運営していく仕組みではなく将軍家による運営に変えようとしたが失敗したとみるべきでしょう。
@波平-t5r
@波平-t5r 3 года назад
歴史のifを考えるのは楽しいですよね。その手の小説も好きです。 もしももう少し早く生まれていれば、という武将もアリかもしれませんね。
@浜野高伸-t9t
@浜野高伸-t9t 3 года назад
歴史好きなら何時間でも語れますね。伊達政宗が筆頭ですかね。ただ生まれた場所の影響もあるから厳しいかも。葦名盛氏相手だと簡単には勝てなかっただろうし。
@和浩-r7d
@和浩-r7d 3 года назад
もう少し早く生まれていればの代表は伊達政宗ですね❗
@scudetto0104
@scudetto0104 3 года назад
病気や寿命で亡くなった武将に対して「あと少し生きていれば」というのは理解できますが、 豊臣秀次や織田信長など、他の力が大きく影響している死についての「もし」を論じるのはなかなか現実的ではありませんね・・・。 秀吉の晩年の暴挙は歴史ドラマで見ててもちょっと見苦しいので、秀長にはもう少し生きてて欲しかったですねぇ。
@秋山繁樹
@秋山繁樹 3 года назад
最近、やっと「歴史にifはあり得ない。」という固定観念から私を含めて、みんなが開放されてきましたね。☺️
@largehill9736
@largehill9736 2 года назад
歴史から学ぶということは、ifをいろいろ考えて見るということだと思うのですね。
@秋山繁樹
@秋山繁樹 2 года назад
@@largehill9736 御意でござる。実相の歴史の意味も、ifの問いから浮き彫りになるかもしれません。
@junyanakao27
@junyanakao27 3 года назад
毛利隆元・長宗我部信親・三好長慶・三好義賢・十河一存・織田信忠も生きていたら、 相当展開は変わる可能性は高いでしょう。 特に、三好長慶(享年43)がもし後10年生きていたら、織田信長の京上洛も難しかったでしょう。 優秀な兄弟(三好義賢・十河一存・安宅冬康)も健在なら尚更です。 当時機内を支配していた三好一族に不幸が続かなかったなら、その後の織豊政権は難しかったと思います。
@雁宿伊都
@雁宿伊都 3 года назад
毛利による尼子攻略は毛利隆元の死によって頓挫しかけたが、そもそも尼子晴久の代ではほとんど領地の縮小は無かったというので個人的には毛利隆元が長生きしていた毛利vs尼子晴久が長生きしていた尼子による争いとかいうifがあったら面白いなとは思います
@TAIRA_TAKAMORI
@TAIRA_TAKAMORI 2 года назад
山中鹿之助の代名詞から「悲運の」が取れて、名将として大活躍するでしょうね!
@hypershine-do7fr
@hypershine-do7fr 3 года назад
・織田信忠(本能寺の変で死ななければ…山崎の戦いも、清洲会議も、賤ヶ岳の戦いも起きなかったかも。) ・龍造寺隆信(沖田畷の戦いで戦死してなければ…大友、島津との三すくみ状態が続いていたかも。) ・足利義輝(三好長慶に討たれなければ…室町幕府崩壊は先延ばし出来たかも。)
@sugisinfkk
@sugisinfkk 3 года назад
龍造寺だけは滅びるべくして滅びましたね
@sugisinfkk
@sugisinfkk 3 года назад
@オカズさん 信雄は惜しくない
@ふぉるーさん
@ふぉるーさん 3 года назад
@@sugisinfkk 龍造寺は武将としての器量がない政家じゃなくて、親父の戦国武将としての気質を継いだ家種か家信が継いでたらまた違ってたかもね
@SK-th2xh
@SK-th2xh 3 года назад
秀長、秀次どちらも生きてたら豊臣家も安泰だっただろうなぁ それに秀頼が生まれなかったらもっと磐石!
@sugisinfkk
@sugisinfkk 3 года назад
確かに。 茶々と秀頼で滅びましたから。
@フォード-i1w
@フォード-i1w 3 года назад
というより秀頼が生まれるのが遅すぎた 北政所の間に子供生まれてたらなってのはある
@TAIRA_TAKAMORI
@TAIRA_TAKAMORI 3 года назад
信長の子の於次秀勝が生きていたら、本能寺後も織田政権が続いていたかもしれませんね。
@永遠の15才
@永遠の15才 3 года назад
秀次が関白になる前に秀頼が産まれてたならってのは非常に気になるところ 後はやっぱり秀吉が認知症にならなかったらとか
@男の身体でいる事が嫌
@男の身体でいる事が嫌 2 года назад
秀吉があと五年というのも面白いと思います。 個人的には奥州藤原秀衡があと五年と考えると、頼朝相手でも奥州の地位を継続できたのではないかと思います。
@きらきら-e2v
@きらきら-e2v 3 года назад
利家の死は大きく歴史を変えたかと思いますね〜 信長は本能寺の変がなくても何からしら命は短かったような気がします!!
@藤田顕治-s8m
@藤田顕治-s8m 3 года назад
武田信玄、毛利元就、豊臣秀長辺りがそれに値すると思います。
@ムラムラ大王
@ムラムラ大王 2 года назад
毛利元就「いやもう隠居させて……」
@なむとむ-q2h
@なむとむ-q2h 3 года назад
個人的には羽柴秀長、武田信玄、上杉謙信、幕末の孝明天皇がもう少し生きていてくれたらどうなった?と思います❗
@柳谷慈彦
@柳谷慈彦 3 года назад
孝明天皇がもう少し長生きしてたら、安重根が伊藤博文を襲撃しなかったかもしれませんよ?安が伊藤をそうした理由の一つが「伊藤博文が明治維新の際に、自分達に都合のいい明治天皇を擁立する為にその父親の孝明天皇を暗殺した」という噂(伊藤にこの疑惑があるのは事実ですが)を真に受けた、との事なんです。それと、安は一応日韓併合前から日本の皇室を尊敬していた親日派だったんです。
@nagoyashimin569
@nagoyashimin569 3 года назад
武田信玄と上杉謙信は逆に早期に崩壊することもありうるでしょうね。
@まちかぶ日記
@まちかぶ日記 3 года назад
織田信秀(信長の父)と太上雪斎(義元の軍師)がもう少し長生きしたら信長、秀吉、家康の運命もまた変わったかもしれない。
@福田恒一朗
@福田恒一朗 2 года назад
そうですね。太原雪斎が生きていれば桶狭間では織田軍は大苦戦し、更に武田信玄の対策をきっちり計画を持って、今川氏は滅亡は無かったどころか尾張と伊勢に勢力を拡大しただろう。
@tongitto5273
@tongitto5273 3 года назад
歴史の「たら、れば」は必要なことだと思います。戦略的にこうすればこうなっていた、と言う思考を繰り返すことで、現代の進歩はあると思います。秀吉が朝鮮に出兵していなければ、西洋列強が日本に武力侵略を仕掛けていた、とか最近読んで感銘しました。
@福田恒一朗
@福田恒一朗 3 года назад
さおりさん今回の動画は素晴らしかったです。動画であげた武将の他にもそのような武将がいて、一人目は芦名盛氏でこの武将が10年は無理だとしても6年から9年まで生きていたら伊達家の台頭がなくなったどころか伊達家は滅ばされただろう。 二人目は朝倉宗滴でこの武将は後10年生きていたら織田家の実力を評価して、朝倉家の滅亡を避けられていたでしょう。 三人目は尼子晴久でこの武将が後10年長生きしたら勢力図が大きく変わっていただろう。 四人目は太田道灌でこの武将が後10年生きていたら北条氏の台頭はなかったであろう。 以上の四人の武将を知って頂けたら幸いです。
@watasi2004
@watasi2004 3 года назад
真田昌幸 物語的にはこの人が最高に面白いと思う。
@TAIRA_TAKAMORI
@TAIRA_TAKAMORI 3 года назад
大坂冬の陣前に幸村が大坂入りした時、家康が昌幸かどうかを確かめさせたそうですねw 大坂の陣の3年ほど前に亡くなっていますが、それさえも昌幸の謀略(虚報)だったのかと疑ったそうです。
@ブリキカイザー
@ブリキカイザー 3 года назад
@@TAIRA_TAKAMORI その話はほぼ間違いなく創作ですね、家康自身は昌幸と直接戦ったことはなく必要以上に昌幸を恐れる理由が無いのとそこまで恐れた相手なら助命嘆願があろうと聞き入れなかったでしょうし
@TAIRA_TAKAMORI
@TAIRA_TAKAMORI 3 года назад
@@ブリキカイザー さん さぁ、どうでしょう? 秀忠は上田でやられています。しかも大坂の陣の時点では秀忠は征夷大将軍であり名目上の総大将でもあります。まだ大阪城が健在のこの時点で秀忠隊が苦戦や敗走でもしようものなら、家康が苦労して立ち上げた幕府が揺らぐかもしれません。 実際、大坂陣中に上杉軍を叱責しようとしたことで、またも秀忠の軍略の乏しさが露呈してしまいます。家康は自身の寿命を考慮しても、秀忠にこれ以上汚点をつけるわけにはいきません。彼の性格上、不安要素は確実に排除したいところでしょうね。 昌幸/幸村の助命嘆願についても家康は拒否できなかったでしょう。功名をたてた信之の嘆願を拒否すれば、今後戦場で徳川のために戦う諸侯は減るでしょう。しかも本多忠勝までが本当に離反してしまったら、戦に勝って争いに負けたことになってしまいます。 それにしても、主君に諫言ができる臣下が存在することは幸せですね。半兵衛・小六・小一郎と助言者を先に失ってしまった秀吉はその点不幸でした。
@しろねこちゃんねる-d3u
@しろねこちゃんねる-d3u 3 года назад
家康に2度追いやった男、真田昌幸が中心になれば、信頼も知名度も高い、戦では指揮が重要。 昌幸なら勝つために茶々や、側近をうまく騙し誤魔化し、勝ち負け関係なく和平などを行い、歴史が変わったと思う! 幸村は知名度も低く、戦の経験がなかっため、信頼されなかった、優しすぎたのもあるのではないだろうか。 しかし、幸村も好きです。
@msn-04ii84
@msn-04ii84 3 года назад
もし秀吉の長男の石松丸秀勝が夭折せずに大過なく成人したら、豊臣政権の行く末も大激変してたかもしれない。
@お気楽ご酒楽
@お気楽ご酒楽 3 года назад
信玄が5年生きていれば、信長は包囲網で瓦解していたね それがわかっていたから信玄は西進決断したんだし 信玄が生きていれば、少なくとも信長は近畿と美濃のどちらか捨てなければならなかったでしょう
@おぼけん
@おぼけん 2 года назад
コメント欄で語ってないで動画作れば?笑
@あおいありんこ
@あおいありんこ 3 года назад
鎌倉幕府が守護地頭を置けず、室町幕府も守護(幕府の奏請、朝廷の任命による正統な)を置けなかった大和一国をおとなしくさせた羽柴秀長の功績は大きい。
@ホフマン2号
@ホフマン2号 3 года назад
歴史のif・・・をいろいろ考えると面白いですね。妄想が尽きません。 武田信玄、上杉謙信がもう少し長生きしていたら織田信長も討たれていたかもしれません。 ただ、武田家にしろ、上杉家にしろ、いずれは信玄、謙信が死んだ後、偉大すぎたが故にお家が滅亡まではしないまでも衰退していたように思えてなりません。徳川家康のように長生きし、存命中に将軍職を息子秀忠に譲り、組織体制を作り上げたことが長い徳川政権の礎になったのでしょう。
@george-gp2dm
@george-gp2dm 3 года назад
後だしジャンケンが歴史の醍醐味
@yh6146
@yh6146 3 года назад
信長は本能寺の変が無くても数年後に高血圧で亡くなったという説がある。
@TAIRA_TAKAMORI
@TAIRA_TAKAMORI 3 года назад
あまり酒は飲まなかったそうですから、その上での高血圧は重症ですね。
@ふぉるーさん
@ふぉるーさん 3 года назад
京の薄味料理じゃなくて尾張の濃い味料理が好みだったらしいからそっちからかな?
@hirataz3
@hirataz3 2 года назад
安国寺恵けい「信長の代か長く続くまい、公家などになり後に高転び仰のけに転ぶ」 …これが本能寺以前に予言されてた文面でしたっけ。
@松川さだゆき
@松川さだゆき 3 года назад
そやな・家康は利家を一目置いてたみたいやし。😎
@柳家小ゑんざいむQ10
@柳家小ゑんざいむQ10 3 года назад
結城秀康がもう少し長く生きてたなら、秀頼を守るため父親ににらみを利かせ、必死で淀殿を説得し、一大名として豊臣家を存続させるよう尽力してたでしょう。
@BronzyTetsuya
@BronzyTetsuya 3 года назад
結城秀康は秀吉の養子だった。だから感情的にはそっち寄りだったかも。 でも結城秀康は嫡男の座が当たり前のように弟の秀忠に行ってたり、徳川、松平姓(親族扱い)ももらえてなかったり。仮に尽力しても父に懇願程度だったと思うが。
@立待月物語
@立待月物語 3 года назад
源頼朝が長生きして源氏が滅びなかったら、後の歴史は一体どうなっていたやら。
@酔狂-i9o
@酔狂-i9o 3 года назад
その前に、平清盛が母親の情に訴えかけた説得に応じず、問答無用で源頼朝を切り捨てていたらどうなるかが興味深いですね。 良くも悪くも、源氏が武家政権として成り立ったのは、源頼朝が武士を貴族化させなかった点がデカイと思うので、彼以外の源氏が平氏を倒しても、武家政権にはならなかった気がします。
@風魔忍者ぶきみ丸
@風魔忍者ぶきみ丸 3 года назад
秀吉の長男・鶴松が元気で成人していれば、秀吉の朝鮮出兵はなかった。
@左近石田
@左近石田 3 года назад
結局、信長か秀長にいたるんだよなぁ
@yuramihama9911
@yuramihama9911 3 года назад
今川義元かな。桶狭間がなければ、その後の信長、秀吉、家康の運命もわからない。歴史は変わっていたかも。
@xyzxyz3234
@xyzxyz3234 3 года назад
武田上杉はそもそも跡目をきちんと指名しなかったのが没落原因なので長生きしてもかわらない 小早川隆景にしても生きてればそもそも関ヶ原の戦いが存在しなくなる
@sugatakarino3123
@sugatakarino3123 3 года назад
信玄は跡目をちゃんと決めていたけど。信勝が跡目で勝頼はあくまで陣代。 勝頼は一度諏訪家を継いでいるし信の字を継いでいない。信玄が長生きしていれば特に問題はない。
@sugisinfkk
@sugisinfkk 3 года назад
上杉は完全にそう。 御館の乱。
@Guarana_Kitano
@Guarana_Kitano 3 года назад
信玄公は、あと少し生きていたら……。戦国武将ランキング文句なし一位です!
@陸奥法斎
@陸奥法斎 3 года назад
義昭がいる以上、武田政権は作れないが三好や細川のような形にはなっていたかもな 問題は義昭の性格がそれを許す事は決してない事だけど
@熊野旭
@熊野旭 3 года назад
この動画に出てくる人達が生きていたら歴史がめちゃくちゃ変わったでしょうね
@おかポン太郎ー0kaponTarou
@おかポン太郎ー0kaponTarou 3 года назад
豊臣政権って言うのは隆景・利家が要となっていた政権だったといってもいいですよね。 毛利の後ろ盾は大きいと思います。
@TAIRA_TAKAMORI
@TAIRA_TAKAMORI 3 года назад
小物出身の秀吉の後ろ盾は、初め(信長存命中)は蜂須賀、後に前田、宇喜多、小早川(毛利)ですね。 ところが代替わり(小六、利家の死)によって豊臣政権中枢から離れていってしまいます。特に「織田家中最強」といわれた柴田家の旧臣をかかえた前田家は軍事的に大きい存在だったでしょう。家康も前田家には簡単に手を出すことができず、却って芳春院に借りをつくってしまいました。
@toshiy1953
@toshiy1953 3 года назад
今川義元・朝倉宗滴・毛利元就
@tですものまねとカラオケと特撮他
毛利元就は当時としては長生きの75歳まで生きたけどね
@SHOSHO319
@SHOSHO319 3 года назад
豊臣秀次はカリスマ性は無くても実際に政務能力はあったので、もし秀吉に言いがかりをつけられて切腹する事にならなければそのまま豊臣政権は続いたかもしれません。政務能力のある成人した関白が存在すれば、家康の政権奪取の隙は無かった筈ですね。何せ秀次死去後に秀次に仕えていた家臣団を家康が召し抱えた事で家康が勢力を拡大したんですからね。豊臣家の没落は、明らかに秀吉による自滅でした。 もし秀頼が生まれていなかったら……と思えてなりませんね。
@Tommy-hg8wk
@Tommy-hg8wk 3 года назад
個人的には毛利隆元ですかね?
@山城弾正
@山城弾正 3 года назад
毛利家は隆元・元春・隆景が関ヶ原の戦いまで、武田家は信繁と義信と山本勘助が信玄よりも長く生きてたら、長曽我部家は信親が元親より長生きしていたら、この三家は没落&滅亡を免れたかもしれません。
@ふぉるーさん
@ふぉるーさん 3 года назад
隆元(1523年生まれ)元春(1530年生まれ)隆景(1533年生まれ)この三人はそもそも関ヶ原まで生きてって言うのが無理ゲーなのよなぁ。今でこそ60や70まで生きるのが普通になってきてるけどあの時代は60や70まで生きたら十分長寿の部類だし
@hirataz3
@hirataz3 2 года назад
それをいうと「竹中半兵衛が秀吉より長生きしていたら」も該当ですな。三木の干殺しでの陣没が痛かった。
@枝豆-v4s
@枝豆-v4s 3 года назад
個人的には、前田利家が亡くなったタイミングが豊臣家存亡の、ある意味「最後の」ターニングポイントだったと思います。(秀長の死、秀次の死を第一段階、第二段階として) 利家は、五大老の中で唯一「信長の古参家臣」であり 秀吉とは主従関係でありながらも「同僚(戦友)」でもあったので 武将たちにとっては、やはり憧れの存在であり「この人であれば」と思われていてもおかしくありません。ただ、利家も結構世渡り上手というか、したたかな一面もありますので 家康と「戦う姿勢」は見せて牽制しつつも、実際は平和的に家康への政権交代をさせたのではと思います。 小早川隆景もホント絶妙なタイミングで亡くなっていますが 輝元よりも隆景の方が、元就の薫陶を受けていると考えると 「毛利は天下を望まず」の精神をより前面に出して、そもそも輝元が西軍総大将になる事を 絶対に承知しなかったと思います。
@酔狂-i9o
@酔狂-i9o 3 года назад
正直、巷で言われるほど前田利家に豊臣家への忠誠心って在ったのかな?って自分は思いますね。 実際の心情は当人しか判らず、証明するような試料を後世遺すわけもないので、想像に過ぎないですが、利家からすれば秀吉は後輩でありながら圧倒的さを付けた元ライバルですから、よほどの人格者でもない限り、含むものが全く無いということはないかなと。 あと、前田利家が律義者とが義理堅いなんてことは、まずありえないと思います。 根拠は賤ヶ岳における寝返り。かつて信長の勘気を蒙り、あわや切腹という状態だったのを執り成して、浪人時代も何かと面倒を見てくれて、親父殿と慕っていた柴田勝家をアッサリ見捨てる辺り、利家はどちらかと言うと合理主義者なんじゃないかなと思いますね。 その辺考えると、家康と正面切って戦っても得るものがないと判断した時点で、前田家の存続と繁栄を対価に、豊臣政権を家康主導に流れるように裏で協力したんじゃないかなと思います。 ※流石に徳川家が豊臣家を滅ぼすまでの流れは予想できなかったかと
@air5042
@air5042 3 года назад
信長は仮に本能寺がなかったとしても誰かに暗殺されていたとは思います。ただ信忠がそこそこ優秀であったと伝わっているので、彼が天下統一を果たした可能性は充分にあったとも思います。
@秋山繁樹
@秋山繁樹 3 года назад
信忠の遺児、岐阜中納言織田秀信が関ヶ原の前哨戦の岐阜城攻防戦の敗戦の折、「付いてきた家来各々に感状(手柄の覚書)を書くからしばしお待ち下され。」と、攻め手の軍勢に懇願し、「世が世なら、いかほどの天下人になったやら。」と、敵味方涙したと、言われています。 信長にはない「武将としてのまともな器量」が、孫子には備わっていたと思いたいです。
@PS-zf7we
@PS-zf7we 3 года назад
@@秋山繁樹 さん 恥ずかしながら初めて知りました。 有難う御座います🙇‍♂️勉強になりました。
@秋山繁樹
@秋山繁樹 3 года назад
@@PS-zf7we 岐阜城内の兵を巧みに配置し、粘り強く戦い続けたものの、いかんせんの寡兵により降伏したとの事。 秀信は家康により高野山に流罪になってすぐに亡くなりますが、「もしも」、何年か生きていれば、悪くても江戸幕府の高家に列せられたかもしれませんね。 お誉めに預かり、恐悦至極に存じ奉ります。😉👍🎶🙏
@忍者君-j5j
@忍者君-j5j 3 года назад
部下に命を狙われているのですから、いつか必ず殺られていたと思います。
@miyuki970
@miyuki970 3 года назад
以外と茶坊主如きの鉄砲で死にかけてましたからね。時間の問題だったかもですね。
@よよよ-r4s
@よよよ-r4s 6 месяцев назад
長宗我部信親かなあ😂
@adgjmpwtp
@adgjmpwtp Год назад
小早川は西につくか東につくか優柔不断で迷ったと聞いたが、肖像画を見て納得した、
@aya-ff1fl
@aya-ff1fl 3 года назад
蒲生氏郷は家康が嫌いだったそうですから 氏郷が生きていればどうなっていたのかなって思ってしまいますね
@スッタマン
@スッタマン 3 года назад
氏郷は千利休の養子、小庵の助命嘆願書を家康と連名で秀吉に出してるから二人の関係はそれほど悪くはなかったと思われます。 家康はケチだから天下人には向いていないと言ったとか、 家康が野心を出して上洛をしようものなら、私が後ろから尻に噛みついてやると言ったとかいう逸話があるからそう思われがちですけどね。
@スッタマン
@スッタマン 3 года назад
ただ蒲生氏郷があと数年長生きしてたら、歴史が大きく変わっていただろう事は間違いないですね。 氏郷が生きていれば上杉の転封もなかったでしょうから、後の上杉討伐も発生しないだろうし。
@aya-ff1fl
@aya-ff1fl 3 года назад
@@スッタマン さん ありがとうございます そうかもしれませんね 確かに奥州仕置きでは 氏郷と家康が連絡を取りあって対処したそうですもんね 氏郷の会津92万石で上杉征伐は無くなるでしょうね
@郎敏-i9d
@郎敏-i9d 3 года назад
蒲生氏郷の場合、実力に加えて「信長の娘婿」という背景がありますからね。そんな彼が前田利家を推す以上、家康は苦しいかもしれません。
@浜野高伸-t9t
@浜野高伸-t9t 3 года назад
氏郷の会津転封は徳川、伊達の連携を遮断する為だと聞いたような。氏郷亡き後は上杉にその役割を任せたとか?いずれにせよ家康は状況に応じて天下取りに向けて動いていたでしょうね。
@上総介-r8j
@上総介-r8j 3 года назад
長宗我部元親、斉藤義龍、加藤清正、徳川信康、長篠で死んで行った武田の重臣、織田信忠も気になる
@もふもふ-x4p
@もふもふ-x4p 3 года назад
みんなタイミング良く死に過ぎなんだよな… 絶対誰かに殺されてると思う
@永遠の15才
@永遠の15才 3 года назад
個人的には織田信忠と松平信康辺りが長生きしてたらどうなるのか気になる 後長生きじゃないけど豊臣秀頼がもっと早く(具体的には秀次の関白任官前)に生まれてたらとか秀吉が認知症にならなかったらとか興味は尽きないな
@前田慶次-i3t
@前田慶次-i3t 3 года назад
やはり、安心のさおりさん
@イスマフィード
@イスマフィード 3 года назад
利家秀次より秀吉自身がもう少し長生きして唐入りに協力的でなかったことを理由に家康を(畿内の大和辺りに)国替えさせてたら面白かったかもねw
@越野秀男
@越野秀男 3 года назад
武田信玄や上杉謙信については甲州や越後の兵の強かったことを考えると、私は戦国時代と呼ばれるものが長くなったと思います。二人は寺社勢力の巨大な利権に対して制限を掛けられず、台頭した武士階級の不満の受け皿には成り得ないと思うからです。二人が出家していなければもっと違った展開が有ったでしょうね。
@Dosan-ry9se
@Dosan-ry9se 3 года назад
司馬遼太郎の関ヶ原では家康が利家を夜分遅くに訪問してその心を掴んだって描写があったから利家が存命していても家康にうまく手懐けられていた可能性もありそう。
@user-motoitiitimoto
@user-motoitiitimoto 3 года назад
上杉謙信が跡目をしっかりと定めてから亡くなっていれば歴史は変わっていたかもしれない
@おだ彦五郎
@おだ彦五郎 3 года назад
◯三好長慶 畿内を信長に あっさり押さえられることは なかった、、 ◯長宗我部元親 戦わずして 所領没収はなかったのでは。 てな感じですかねー
@ふぉるーさん
@ふぉるーさん 3 года назад
晩年の元親は信親が死んだショックでだいぶ耄碌してたからなぁ。長宗我部の場合は元親よりも信親の若くしての戦死が悔やまれる
@おだ彦五郎
@おだ彦五郎 3 года назад
@@ふぉるーさん 晩年の元親は、盛親を当主にするが ために息子たちや一族を相次いで 幽閉、粛清してますね。 盛親は家督を継いで一年程で 関ヶ原を迎え、それで家中を纏めるのは無理がありますよね。 余談ですが、信親と共に戦死した 十河存保は、跡継ぎが居たのに 所領没収され、いたたまれません、、 最後の三好一族だったのに、、
@ふぉるーさん
@ふぉるーさん 3 года назад
@@おだ彦五郎 そうですね。せめてまともな補佐がいれば……補佐があの久武じゃね…… 十河はどうも世継ぎが認知されていなかったようで(「嫡子千熊丸はまだ秀吉との謁見が済んでいない。自分が死んだら必ず秀吉に謁見させ、家名を存続させるように」と家臣に遺言している)、それが故の所領没収みたいですね。 その嫡子は入ってきた生駒の下で養育されたけど、鼻紙代と称した3000石しか与えられてなかったようです。酷いですね、生駒。秀吉も千熊丸への生駒の扱いに相当ご立腹だったようですよ。 なお、彼の次男?の存英は大坂の陣で長宗我部盛親とともに大阪方として戦い、摂津尼崎で戦死したそうです。父は長宗我部の当主とその長男と肩を並べて戦って、息子は四男と肩を並べて戦う。不思議な縁ですね。
@deliserosacossette6556
@deliserosacossette6556 3 года назад
自分の思っていた面々は皆書かれていたのでそれ以外で言うならば蒲生氏郷
@鈴木光博-s6t
@鈴木光博-s6t 3 года назад
さおりさんありがとうございます。さおりさんの声は素晴らしいのでうれしいです。
@石塚正司まさし
@石塚正司まさし 3 года назад
たら!れば、!?🤔いいですねー💪🏾武田幕府は可能性があったのでは…何故そこまでして?😂謙信公と戦わなければ無かっのか?真実が知りたいです🙄思うに2回で止めれば🤭信玄公にも🇯🇵チャンスがあった!!…のでは💤サオリさんー素敵ですよ💦📳登録しました(笑)!✌️
@sugisinfkk
@sugisinfkk 3 года назад
正直時間と資源の無駄遣い。
@hiroshionoyama8726
@hiroshionoyama8726 3 года назад
信長が足利将軍を擁しての天下平定の成功過程を見て、“あの若造にできるなら俺にだって…”と色気を出したのではないでしょうか。“武田幕府”を開く気があったならもっと早くから行動起こしてるでしょう。ましてや、足利家と同じ“源氏”の出自なのですから、血統としては申し分ないですし…。
@TAIRA_TAKAMORI
@TAIRA_TAKAMORI 3 года назад
信濃で最も肥沃な善光寺平を完全確保したかったのでしょうね。個人的には駿河進出を早めるべきだったと思いますが、よほど父親の助言を聞きたくなかったんでしょうw
@sugisinfkk
@sugisinfkk 3 года назад
@@TAIRA_TAKAMORI 京都が近くなって海が手に入ってメリット大きい
@酔狂-i9o
@酔狂-i9o 3 года назад
武田家は本拠地の距離・中世から脱却できていない支配体制など、どう頑張っても中部地方で覇を唱えるくらいが限界かと・・・ そもそも、武田家は最盛期でもせいぜい120万石、信長は尾張・伊勢・美濃・近江を抑えた時点で250万石、更に貨幣経済的には勝負にならないレベルで織田家が圧倒的有利な上に、困ったら朝廷動かすという掟破りが有るので、信玄が多少長生きしても、滅亡までの期間が多少前後する程度しか影響はないと思います。むしろ、信玄没後の最悪とも言える対外関係の中、勝頼はむしろよく持ちこたえたほうかと。
@nomoney8296
@nomoney8296 3 года назад
信玄と謙信を同時に高く評価するなら信玄の長生きは一番のデメリットが生じるから正直微妙 信玄が死んだから織田上杉の亀裂が発生して謙信が信長の敵になったわけで、信玄長生きは謙信が信長に手紙で書いていた織田上杉(徳川)連合軍に武田攻めの未来をどう切り抜けるかという地雷も発生するわけで 下手したら早死にした方が信長謙信の衝突が早くなり武田にはいい未来の可能性も
@yasuyasu4624
@yasuyasu4624 3 года назад
信玄の実力なら天下をとっていたかもしれないけど、信玄が死んだあとは続かなかったと思うなぁ。 家康は武田、織田、豊臣の終いを見て自戒し、存分にお家存続維持に活かしただろうし。 でも信玄が上洛ついでにきっちり信長、秀吉、家康殺してればその後3代くらいは続いたかも。
@カッシングメルヴェイユ
…『もうひとつの可能性』を許さぬ『運命』を感じて、家康による秩序は本当に日本にとって最も大切だったのかどうか気になります。信長などの武将による異なる運命で作られた日本は、危険だったのでしょうか? ありがとうございました。
@hiroshionoyama8726
@hiroshionoyama8726 3 года назад
信長は最終的に大坂を居城とする腹積もりだったという説がありますし、秀吉のやったのは信長の亜流だったとも言われています。新し物好きである上に、目先鋭く物流に関して理解のある信長が天下統一したら、海外交易が盛んになって、経済的により発展してたかもしれませんね。
@六原六
@六原六 3 года назад
武田信玄に関しては、完全に過労死。 山梨長野から県外へ移動するのが最大の敵。 なにしろ領内移動が峠越えだからなあ…(それも複数)
@終末のロキ
@終末のロキ 3 года назад
前田利家が存命で、前田vs徳川という形で関ヶ原の戦いが勃発したとしたら、逆に力が拮抗して正に天下を二分する大戦になってしまい、応仁の乱程ではないにしろ世が乱れて戦乱が長引いてしまった気もします。 平和になったと考えるなら石田三成で良かったのかもしれませんね。
@TAIRA_TAKAMORI
@TAIRA_TAKAMORI 3 года назад
前田vs徳川なら福島正則以下の秀吉子飼い大名が徳川方に付くことは無く、小山評定で多くの武将が帰ってしまったでしょう。
@hirataz3
@hirataz3 2 года назад
@@TAIRA_TAKAMORI そうなれば家康の出る幕もなく前田利家が征夷大将軍になり金沢が幕府になったかなぁ。
@TAIRA_TAKAMORI
@TAIRA_TAKAMORI 2 года назад
@@hirataz3 さん ごめんなさい。↑ではああ書きましたが良く考えると、利家存命なら福島達が「三成襲撃未遂事件」を起こさなかっただろうし、三成が佐和山に蟄居することもなかった。上杉征伐も行われなかった(即ち「小山評定」も起こらない)から、新領国経営が軌道に乗った景勝は再度大阪に戻るから謀反の嫌疑も晴れ、家康に口実を与えることもなかった。つまり関ケ原戦はおこらなかったでしょう。 とはいえ利家も不老不死ではありませんから、あとは利家が存命中に三成派と福島派がどう和解できるかがカギですね。 利家の前田家は「源」ではなく「菅原」を本姓にしていますから、征夷大将軍就任は難しいかもしれません。菅原道真に倣って「右大臣」にはなれそうです(信長も存命中は「右大臣」でしたね)。また、利家が天下の実権を握るか?といえば、自身は秀頼の後見人であり、もしそんなことをしたらおまつ様(北政所と仲良し)に離縁されるので、あくまで秀頼を補佐し続けるでしょう。 上記のように「利家存命なら関ケ原戦が起こらないだろう」というのが私の予想ですが、そうすると第二次上田合戦もおきないので、残念ではありますw
@浜野高伸-t9t
@浜野高伸-t9t 3 года назад
太原雪斎が長生きしてれば桶狭間は無かったかも。そして信玄の上洛も無かった。その後家康が取って変わるというのは同じかもしれないが。
@tomas8851
@tomas8851 3 года назад
大きく変わった、と呼び難いがもう少し長生きした世界線を見たかった武将を。 松平清康 毛利隆元 加藤清正 真田昌幸 長宗我部元親
@暇柱
@暇柱 3 года назад
蒲生氏郷が長生きしてたら、関ヶ原は起きてなかっただろう あと信長より信忠が生き延びてたらどうなっただろう。秀吉、家康は大人しく従ったのだろうか?
@黒猫-o2v1e
@黒猫-o2v1e 3 года назад
やはり秀長ですかねえ 秀吉のストッパー役というのは身内以外成しえなかった。寿命通りであれば秀吉の後継者をよく補佐したであろうし、諸大名とのアプローチもまた違っていた。三成のような官吏が意志決定するようなこともなかっただろう。返す返すも残念。
@hirataz3
@hirataz3 2 года назад
たしかに同属家臣の少なさと木下藤吉郎時代の有力家臣が少なかったのは弱点やった。有名な蜂須賀小六や竹中半兵衛が秀長より先に亡くなってましたね。
@kimkimniyan2
@kimkimniyan2 3 года назад
1.明智光秀 秀吉の中国大返しからの初戦を持ちこたえ、家康と合流していた場合、秀吉や他の織田家臣と対峙していた各国の大名とどういう連携を取ったのか?織田家臣が一致団結して明智を潰しにかかろうとしたのか?内紛が起きたか?など、気になりますね。中でも、光秀の謀反情報を秀吉に横流しした細川家臣・松井康之や細川藤孝との関係性もどうなるのか? 2.森可成 尾張統一前から信長に付き従い、信長が上洛して第一次信長包囲網の際の最中に戦死した(信長が三好三人衆と石山本願寺と戦っている背後を突こうとした浅井朝倉連合軍の進軍を、寡兵ながら食い止めた)。 武芸だけでなく、政務面でも信長から多大な信頼を得ており、この頃の織田家臣の中では、随一の信頼感があった。 可成の死の後の近江統治を受け継ぐことになったのが、同じ土岐一族の明智光秀だったが、可成が戦死していなければ、明智光秀の人生も違っていたものと思われます。
@doramaru1582
@doramaru1582 3 года назад
確か眉村卓の「時空の旅人 とらわれたスクールバス」という小説で信長が本能寺で殺されなかったら、日本はどういう歴史を辿っていたか、書いていましたね。
@昌樹ニニ三
@昌樹ニニ三 3 года назад
小早川隆景が生きていたら、西軍に加担しようとする毛利輝元をぶん殴ってでも止めてたやろなあ。それで西軍は成立せずに、三成の挙兵も未遂に終わるといった感じになると思います。
@hirataz3
@hirataz3 2 года назад
これは武将に限らず軍師にもいえる話、名だたる大名にブレーンとなる名軍師あり!ですから。 中でも死後の影響が大きかったのは山本勘介・宇佐美定満・朝倉宗滴・大言雪斎・竹中半兵衛の5名と予想しましたよ!?
@山下龍吾
@山下龍吾 3 года назад
長宗我部信親、武田信繁、豊臣秀長は確かにって思うね。個人的には竹中半兵衛も。彼が生きていたら残酷な城攻めは無かったかもって思うね。
@DAITYASO
@DAITYASO 3 года назад
φ(゜゜)ノ゜…平清盛もあと少し生きてたら…
@佐藤樹脂
@佐藤樹脂 3 года назад
たらればですが、秀頼を総大将にすれば三成は勝利していたかもしれないですね。
@マヤ平
@マヤ平 3 года назад
足利幕府の4代将軍義持の息子がもっと長く生きていたら5代目になって違う幕府になっていたかもしれません
@gjzo1201
@gjzo1201 3 года назад
経済が兵站がどうのより狩られたた終わりなのが戦国時代 信長にしても今川に奇襲戦で勝利し気運をつかんだだけで最後は本能寺で奇襲うけてオワコン そういう戦略を得意としていたのが謙信であって少ない兵力で戦果を挙げる方法でひとつ抜けていたのが 謙信であり信長もへいこらしていた相手が謙信なわけでw
@hirataz3
@hirataz3 2 года назад
謙信が19年長生きしてれば北陸や飛騨は上杉領と化して柴田勝家や前田利家の出番はなくなる。後の憂いも途絶えて後北条との戦いになり版図はもっと広がったと思う。
@吉瀬誠司
@吉瀬誠司 Год назад
武田信玄・北条幻庵・真田昌幸がもう少し長く生きていたら時代は変わっていたでしょうね。信玄生きてれば織田家は滅亡していた可能性高いし、幻庵生きてれば秀吉の天下統一はなかったかもだし、昌幸いたら大坂で徳川幕府負けていたかもしれない
@プリンス-t9r
@プリンス-t9r 3 года назад
小早川隆景、豊臣秀長には同意かな〜 織田信長はどの程度長生きするかですね。
@megane-tetugaku
@megane-tetugaku 3 года назад
前田利家が後1年生きていても関ヶ原がその分ずれ込むだけだと思います。 五年ならわからないけど。 小早川隆景が関ヶ原まで元気なら、毛利本家は動かさず、小早川のみ大阪城へ入っていたでしょう。 そうすれば少なくとも負けた時、本家は責任を問われることはないはず。 それか、家康とは争わずにことを治めるでしょう。
@hirataz3
@hirataz3 2 года назад
「あと3年遅れていれば」なら関が原は起きても家康の征夷大将軍は阻止できたかも。 加藤清正・浅野長政もあと3年長生きしてたら大阪の陣は止めれて豊臣家は生き残ったかもしんない。
@1100GSXR
@1100GSXR 3 года назад
のぶさんが生きてたら国内事情はさっさと済ませて海外行ってるよねw キリスト教が神道にかわっていたのかもしれない・・・(´・ω・`)
@yt_waffle_01
@yt_waffle_01 3 года назад
吉川元春、元長が関ケ原の時に存命なら、お弁当は起きなかったかもですね
@オヤジくま
@オヤジくま Год назад
信長と龍馬が生きていたら…は、黄金看板やね。
@松本悠佐
@松本悠佐 2 года назад
小早川隆景がいたら吉川広家とともに 徳川についたと思います。秀長…この人が長生きしていれは秀次を取りなし豊臣は滅亡していなかったと…。
@damedakorya1972
@damedakorya1972 3 года назад
7:21・・・この人と同様、武田信玄の弟信繁も、実力者の優秀な弟としてあげられることもあります。 彼が川中島4回戦で討ち死にさえしなければ、その後嫡男義信を幽閉→死亡という流れは発生せず、武田家は当時の常識通り正室の嫡男が継ぎ、信玄以来の重臣が主君を半ば見限ったような状況になる事なく国内も纏まり、たとえ信玄没が史実通りでもその後の武田の領国経営も大きく変わり、天目山のような惨めな結末には至らなかったかもですね。
@hirataz3
@hirataz3 2 года назад
川中島4thがなければ信繁のほか山本勘助も生きてたと思う。この両者が他国の知略を見抜いてもっと武田家有利にことが進んでたんやないかな、もっとも謙信との戦いが増えて国力が疲弊した可能性もあるが。
@砂漠のマグロ
@砂漠のマグロ 3 года назад
江戸初期におきた猪熊事件について特集してほしいです
@TAIRA_TAKAMORI
@TAIRA_TAKAMORI 3 года назад
足利義輝、武田信繁、武田義信、松平信康も生きていたら歴史の展開が変わったかもしれませんね。北条氏康も50代で亡くなっています。
@S_McQueen
@S_McQueen 2 года назад
圧倒的に謙信。 織田北陸軍を敗走させてるからな、 あのまま越前になだれ込まれたら、 織田の主力は近江釘付けになってのではないだろうか
@deadby15
@deadby15 3 года назад
関ケ原後、あの結果で吉川広家が腹を切らなかったというのはアリエナイ
Далее
NAH UH
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