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山の中に消えた街 築別炭砿第2編 

RaRa-ch
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1970年の閉山依頼 半世紀以上の間 人が住んでいない街があります。
かつて山の中の都会と言われた「羽幌炭鉱」。
今回は、前回御送りした前編に続き 第2編となります。 前編と後編に分けて投稿する予定でしたが 第2編としたのは 今回も動画が長くなり 第3編も作成する事としました。今回は 辰巳橋を渡った 橋向の街 末広町の想い出や エピソードをお送りいたします。半世紀前の 「山の中の都会物語」 第2編の始まりです。

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6 сен 2024

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Комментарии : 27   
@user-fk6dg2fg5m
@user-fk6dg2fg5m 8 месяцев назад
炭鉱紹介動画のなかでも、豊富で詳しい映像が使われていて、 炭鉱の暮らしや歴史をいきいきと垣間見ることができる貴重なチャンネルです。 いつもおすすめに出てくるため、3日に1回は見てしまいます。
@Ch-oe4os
@Ch-oe4os 8 месяцев назад
沢山見て下さりありがとうございます。今年は「築炭最終章」で動画投稿は終わりました。お世話になりました。新年は少し充電をして再開いたしますので宜しくお願いいたします。「2024年」良い新年をお迎えください。ありがとうございました。
@user-cu3ll3ti8p
@user-cu3ll3ti8p 8 месяцев назад
当時の暮らしぶりがよく分かる貴重な映像の数々ですね。 道北の山中にある炭鉱街(ヤマ)とは思えないほど住環境が整備され、レジャーもスポーツも盛んだったことに驚きました。 そして、何より皆さんが楽しそう!! スキー大会の優勝カップ、これからも大事にして下さいね。
@Ch-oe4os
@Ch-oe4os 8 месяцев назад
ご視聴頂きありがとうございます。今思うと 当時子供だった私達は この地で育てられて幸せだったと思います。本当に自然相手の遊びが楽しくて 大人に成り 更に歳をとった現在まで 野遊びやスキーが好きなのは 当時の事が忘れられないからだと思います。たったひとつの 優勝カップは 想い出一杯の宝物です。コメント頂きありがとうございます。
@user-ol7nk6jm6s
@user-ol7nk6jm6s 5 месяцев назад
閉山前ここ第5百貨店で働いていました懐かしい映像を有り難うございます
@Ch-oe4os
@Ch-oe4os 5 месяцев назад
大五百貨店に勤務していたと言う事は 築炭の多くの人が=@user-ol7nk6jm6s様と顔見知りなのですね! 多分私もお会いしていたのでしょうね! 現在は建物跡も残っていませんが 裏手にあった公衆トイレが残されていました。此処に大五百貨店が在ったと云う目印に残されたのでしょうか? もう辰巳橋は通行禁止に成ってしまいましたので今年はドローンで近辺を撮影したいと思っています。ご視聴下さりありがとうございます。
@Su----
@Su---- 8 месяцев назад
高松宮殿下のご来山はてっきり、戦後復興の要であった石炭産業の視察かと思っていましたが、まさか趣味のスキーつながりだったとは! 昭和32年という飛行機さえ珍しかった時代に焼尻島からヘリで来山。しかも夜の17時から2時間近く斜坑に入って、炭砿に宿泊までされたとは相当な特別待遇ですね。帰りは車で下山されたとのことで、その先は羽幌駅から羽幌線の汽車で次の巡幸先に向かわれたのでしょうか。 そして前動画で気になっていた「大五デパート」の大五の由来が、まさか札幌の大通西5丁目にあったのは驚きです!
@Ch-oe4os
@Ch-oe4os 8 месяцев назад
ご視聴ありがとうございます。大五の意味を今日まで内緒に出来て良かったです。少し前まで札幌で走っていた「大五タクシー」も 前身は 羽幌炭鉱でした。父が 札幌本社にも籍が在ったので 当時数度 父に連れられて 大五ビルに来た事がありますが 山奥から出て来た私には 衝撃的な最新のビルに見えていました。炭鉱閉山後 社会人に成り 大通りに事務所が在る会社に勤めたのですが その時見た大五ビルは 周りのビルに比べて 小さくて古びたビルに見えて 別の意味で衝撃を感じ ました。
@user-zf8lf3bf4f
@user-zf8lf3bf4f 8 месяцев назад
宮様が来られた年に生まれたので、もちろん記憶はありませんが、ヘリが着陸したのは、太陽中学校の横の野球場ですね。中学校も2棟写っていますね。授業中、このグランドに落雷があり、火花のようなものがあがり、一瞬明るくなったのとものすごい音がしたのを覚えています。
@Ch-oe4os
@Ch-oe4os 8 месяцев назад
雷の件 私もなんとなく覚えています。結構⚡発生率高かった記憶もあります。小さい頃 向かいの家の屋根付近に ハッキリと稲妻が見えて それが人生初の⚡を見た瞬間だった事 鮮明に覚えています。
@user-zf8lf3bf4f
@user-zf8lf3bf4f 8 месяцев назад
@@Ch-oe4os 野球場に落雷したとき、管理人さんは教室の窓側で壁に耳をつけていたそうで(なぜそうしたのかは不明?)、鼓膜が破れそうになったと言っていましたよ!雷は多かったような気がします。特に冬も。入道雲=雷=夏のイメージだったので、冬の雷は不思議な気がしました。
@terrazo
@terrazo 8 месяцев назад
当時の映像、貴重ですね😊
@Ch-oe4os
@Ch-oe4os 8 месяцев назад
ご視聴ありがとうございます。今年最終映像は12月30日夕刻に投稿します。昔の映像もありますが 皆様へ年末の挨拶も投稿していますので 宜しかったら覗いてみて下さい。 ありがとうございました。
@user-qh9wl8qc9q
@user-qh9wl8qc9q 8 месяцев назад
今では全く当時の面影ありませんね🏡
@Ch-oe4os
@Ch-oe4os 8 месяцев назад
コメントありがとうございます。羽幌炭鉱は国有地を借用して開発された炭鉱でした。 国へ変換するに辺り 閉山決定後直ぐに 空家の取り壊しが始まりました。閉山後数年で殆どの民家は取り壊された様です。我が家も まだ住んで居る時に お役所から派遣された人が 状況を見に来て「 この柱は使える」とか「 此処は使えない」とか 査定が始まっていました。多分転居後直ぐに取り壊されたと思います。国に返還する為に早急に取り壊した説と もう一つは 熊 等の獣が空き家に住み着かない様に 早急に取り壊したと云う説がありますが 何方にしても 原野に戻されるのが早かったです。
@user-zf8lf3bf4f
@user-zf8lf3bf4f 8 месяцев назад
@@Ch-oe4os 築炭が閉山して数年後、「空白の山」という番組がありました。NHKだったと思います。ビデオがまだまだ普及する前だったので、録画できなかったのが残念ですが、その中の一場面で上古賀町の住んでいたころの炭住が見る影もなく取り壊されていたのを、寂しい思いで見ました。コンクリート構造物以外はあっという間に壊されたのですね。
@Ch-oe4os
@Ch-oe4os 8 месяцев назад
私がまだ「築炭」に住んで居る時に取り壊しが始まりました。初めて投稿した動画の後半に写真をのせていますが 私の家の隣の同級生の家が壊された時 本当に「築炭」が無くなるのだと実感し寂しい思いになりました。今でも民家の解体現場を見ると 当時の事を思い出します。
@user-zf8lf3bf4f
@user-zf8lf3bf4f 8 месяцев назад
築炭会館の二階の手前側は、畳でしたね。ゴジラシリーズと大魔神は欠かさず見ました。マタンゴは・・・未だに夢に出てきます。ところで、白黒写真に色を付ける技術は、どのように?当時の服の色はどうやって再現したのですか?
@Ch-oe4os
@Ch-oe4os 8 месяцев назад
今の世の中進歩していますね! AI技術で 白黒の度合いで色を判断して色付け出来る様です。逆に カラー写真を白黒にしたり 色々出来ます。写真好きの父が生きていたら腰抜かす様な技術ですよね。AIのアフレコもそうですが 同級生に 映像を届けたいと 昔から揃えだしたPCソフトが 今 役に立っています。
@user-zf8lf3bf4f
@user-zf8lf3bf4f 8 месяцев назад
@@Ch-oe4os なるほど、AIですか。便利にな世の中になりました。お父上もさぞや驚かれたことでしょうね。幕末、日本を訪れた西洋人が、白黒写真に色を付けてお土産写真にすることが流行っていたそうです。それを思い出しました。
@user-zf8lf3bf4f
@user-zf8lf3bf4f 8 месяцев назад
発電所で思い出しまたが、長い停電がありました。小6の頃でしょうか。夕方突然、電気が消え、すぐにつくだろうと思っていたのですが、なかなか復旧しません。外へ出ると雪があったので、冬の時期。雪明りで思ったほど外は暗くはありませんでした。暖房は豆炭だったので、特段影響はなし。そうこうしていると、パートをしていた母がお寿司を買ってきて、ロウソクの明かりの中で食べました。その頃電気がついたのですが、またすぐに消えて、結局復旧したのは、真夜中だったとのことでした(もう眠っていました)。原因は何だったのでしょうか。その時は特に思いませんでしたが、炭鉱の中で作業していた人たちには影響はなかったのでしょうか(多分、緊急用の自家発電があったのでしょうね)。
@Ch-oe4os
@Ch-oe4os 8 месяцев назад
北海道は 数年前の「胆振日高地震」で全道が一斉に停電して大変な思いをしました。会社のセキュリティーシステムも 電話も勿論会社のパソコンも全て使えず2日間を過ごしました。まだ温かい季節だったので救われましたが 真冬だったらと思うと大変な事になっていたと思います。我が家は 災害に備え 小型バッテリーと ガスストーブを用意しました。
@user-zf8lf3bf4f
@user-zf8lf3bf4f 8 месяцев назад
@@Ch-oe4os当時、この時代、2日間も停電なんて、と思いました。ご苦労様でした。こちらでも、千葉県で高圧鉄塔が倒れて復旧にずいぶん手間取っていました。意外と盲点ですね。
@user-co2pr3gh6c
@user-co2pr3gh6c 8 месяцев назад
管理人さんや出世頭さんの記憶力には、何度も何度も驚かされます。 私の様な“運動バカ”には、ついて行けない高度な話題です… スキー場ロッジハウスでは、小5〜6年生のころ、ポン太や中居らと卓球をしたり、管理人の土佐犬に右足大腿部を咬まれて筋肉が抉り取られL字型の表皮がめくれてサーモンピンク色の筋肉が見えていましたが、不思議と出血がありませんでした。 咬まれた部位より上の大腿部に紐かベルトを巻いて締めて出血が出ない様にしましたね。 歩いて母親の職場に行き、その後、病院でした。ましたが、卓球中1で、いきなり50m級ジャンプ台を飛ばされて恐怖と快感が… いい思い出です。
@Ch-oe4os
@Ch-oe4os 8 месяцев назад
全日本チームも練習した あのジャンプ台を 中学生で飛ぶとは…当時のス ターでしたね! 中居君とは 太陽小中学校併合後も 少しの間一緒に通学していました。元気で暮らしているのかなー・・・と思い出す事があります。「ポン太」は誰? 色々な想い出を振り返る事出来ました。ありがとうございました。
@user-co2pr3gh6c
@user-co2pr3gh6c 8 месяцев назад
@@Ch-oe4os 本多朗君です。 ビーバーのようで可愛い男子です。 🏓卓球を教えてもらいました。
@Ch-oe4os
@Ch-oe4os 8 месяцев назад
本多君ですか! 最後に手紙をもらった時は 札幌手稲だった記憶があります。もう20年以上前だった気がします。
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