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築別炭砿「橋向こう」の想い出 

RaRa-ch
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27 окт 2024

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Комментарии : 30   
@珠江斎藤
@珠江斎藤 7 месяцев назад
いつも懐かしく拝見させています私が小学校の担任の小林先生でしたが留萌で結婚し子供が小学生の時の担任が同じく小林先生でした家庭訪問で子供の話より昔の話を懐かしく話してたこと思いいつも拝見させて頂いていますこれからも頑張ってくださいね
@Ch-oe4os
@Ch-oe4os 7 месяцев назад
コメント頂きありがとうございます。自分の担任の先生がが子供の担任と成ったのは凄い事ですね。 @user-ol7nk6jm6s 様の担任の頃は、まだ若い先生だったのでしょうか? 私も大人になってから 太陽中学校の時の担任の先生に 札幌の街中で声を掛けられた事があります。先生方ってチャント生徒を覚えていてくれるんだと 感動した事を思い出しました。皆様からのコメントを読むたびに色々と昔の事思い出します。ありがとうございました。
@珠江斎藤
@珠江斎藤 7 месяцев назад
見て頂き有り難うございますその子もいまはバアちゃんになりました時代の流れをつくづくかをじますね今年も主人が都合を見て炭鉱に連れて行ってもらう予定です後数回しか行けませんが元気でいる間は数回でも行けるように頑張るつもりでいますこれからも懐かしい映像をお願いしますね
@Ch-oe4os
@Ch-oe4os 7 месяцев назад
羽幌炭砿が閉山して来年で55年です。皆、バアちゃんやジイちゃんになりましたネ! 羽幌炭砿で生まれた子供も最低でも55歳…そう考えると時の流れは速すぎますネ! 私もあと何回行ける事やら・・・。1年に数度行かないと伝えたい映像追いつきません。将来、行けなくなってしまったらと考えると私の父の様に撮り貯めて置きたいと考える此の頃です。炭鉱跡に行く時は、十分「熊」と「交通事故」に注意して下さい。コメントありがとうございました。
@Meteor.shower.wand.
@Meteor.shower.wand. Год назад
18歳まで北海道に居た元道産子です。 父の仕事の転勤で苫小牧近くの安平町→日高町→旭川近くの沼田町と色々行きました。 私の生まれが1981年で、私が生まれた頃には炭鉱がほぼ閉山してましたが今年で42になり、故郷の歴史を知りたくなり今北海道で栄えていた各炭鉱を調べてます。 ららさんの動画、本当に貴重で上げて頂き感謝致します。 どうかご自愛くださいませ。
@Ch-oe4os
@Ch-oe4os Год назад
コメント頂きありがとうございます。42歳ですか。まだ若いのに炭鉱の歴史を調べているとの事、感心すると同時にお礼申し上げます。私の世代よりもっと前の世代の人々が命がけで働いていた炭砿です。日本の産業の発展を支えて来た産業だと思っています。その歴史を後世に残せたら良いですよね。私は、昔を懐かしんで動画を投稿しているだけですが少しでも、参考になれれば嬉しいです。
@ゆきさん-j9z
@ゆきさん-j9z Год назад
行きたい…
@元お転婆娘
@元お転婆娘 Год назад
6年生の時、室田先生に直訴して演劇部を作ってもらいました。 体育館のステージで劇を披露したことが懐かしいです。 学芸会のことは全然覚えていませんが😅
@Ch-oe4os
@Ch-oe4os Год назад
室田先生は、羽幌炭鉱を愛して下さっているみたいですね。「羽幌炭砿ファンクラブ」の代表もやられています。太陽小中学校にも、最後までいらっしやられた記憶があります。演劇部私も入っていた様な記憶があります。「ネズミの相撲取り」など上演した記憶が微かにあります。懐かしいですね。
@うみはらゆうやま
@うみはらゆうやま Год назад
くまがでてきたというより石炭掘らなくなったらくまが出てきやすくなったのでは
@Ch-oe4os
@Ch-oe4os Год назад
ご視聴頂きありがとうございます。最近、札幌のド真ん中でも熊が出没していますね。熊が人を恐れなくなってしまった様です。山奥の炭鉱でしたから、全盛期でも熊の出没はありました。特に天の沢坑の在った付近は、頻繁に出ていた様ですが、熊が先か、人間が先かと言えば、元々は、札幌も含め熊が先だったのでしょうね。人が使わななく(住まわなく)なって彼ら熊が戻って来ただけなのかもしれませんが、お互いの為に鉢合わせをしない事が一番だと思っています。小樽の我が家の近くでも、今年も熊出没したと言っていました。昔に比べ、鹿と熊が多くなり過ぎなのか?人が少なくなり過ぎなのか?
@なんちゃん-k5c
@なんちゃん-k5c Год назад
クマは川を泳いで渡りますね ワタシは石狩市生振村に畑を持っておりますが近くの石狩川で泳いでいるクマを見掛けた事があります そのクマはその後札幌市東区あたりで大暴れしたクマだったと思います
@Ch-oe4os
@Ch-oe4os Год назад
あの大暴れした熊を見たのですか? 熊は、水泳得意そうですね。数年前に稚内方面から利尻島まで泳いだ熊が話題になっていましたね。畑作業の時も、十分注意して下さい。
@ウミガラス-p6t
@ウミガラス-p6t Год назад
0:23にばんけい橋を小学校側から古賀町側を見た写真があります。改修前の古い木橋で、小学校3年生頃、現在の鉄筋コンクリート橋に架け替え工事をが行われました。車道と歩道を欄干で分けている構造は、今見ると珍しいですね。あと、後方の土手の上に古賀町駅のホームが見え、上へ登る階段、踏切を渡るバスが見えます。懐かしいですね。鉄筋コンクリート建ての新校舎には小学校4年から卒業まで約2年半通いました。給食を2階と3階へ運搬するエレベーターがあり、いたずら小僧が乗って先生に怒られていました。ピンク色の校舎は、羽幌町の小学校共通の色でした。体育館は本当に残念ですが、仕方ないのでしょう。他の校舎もだんだん朽ち果てていくのでしょうね。寂しさを感じます。
@Ch-oe4os
@Ch-oe4os Год назад
太陽小学校を卒業して太陽中学校へ通い、中学校が閉校となり、2年の3学期から中学3年の5月末迄(小学校の閉校式の日迄)また、太陽小学校の校舎にお世話になりました。同級生が去って行き、後輩の小学生達と遊んだ体育館の想い出が鮮明に記憶に残っています。あの後輩たちは今どうしているのかと思う事があります。本当に想い出の体育館が倒壊してしまった事は、残念でたまりません。
@なんちゃん-k5c
@なんちゃん-k5c Год назад
1981年 太陽小学校跡が「はぼろ緑の村」で活用されていた頃 親戚でジンギスカンをしたあとにあの体育館でいとこ達とバスケットボールで遊んだ記憶があります 倒壊した年の冬は記録的な暖冬で湿った重たい雪が多かった 経年劣化で老朽化していたとは言え あのガッチリした鉄骨のドームが倒壊していたとは全然信じられなかったです 山奥で無住地なので羽幌町も解体・撤去は不要不急であると判断してそのままにしているようです
@Ch-oe4os
@Ch-oe4os Год назад
体育館の倒壊もそうですが、鉄筋アパートの屋根も現在は無くなっている事を思えばアパートも、小学校もいずれあと何年、何十年後には、倒壊してしまうのでしょうね。
@ウミガラス-p6t
@ウミガラス-p6t Год назад
@@Ch-oe4os 長崎の端島(軍艦島)のコンクリートアパートを思い出しました。海にさらされているので、山の中より劣化の進行は早いのでしょう。コンクリートは100年以上持つと言われていますが、何しろ結果を見た人は未だにいないと思われるので、本当のところはわかりません。ただ、岩石の風化と同じように、少しづつ少しづつ崩れて、やがては土に還るのでしょうね。見ることはできませんが。
@なんちゃん-k5c
@なんちゃん-k5c Год назад
RaRa-chさん おつかれさまです 今回の動画も興味深く見させていただきました 鉄筋アパート近くにあった公衆トイレ跡は大五百貨店に隣接していたのですね! ワタシの「ノート」の「30年後」のページに昨年・一昨年 そして今年に撮ってきた写真とRaRa-chさんの動画や築別炭鉱・羽幌炭鉱の文献 ネットのブログなどを検索しながら「橋の向こうの地図」を作成し始めました 確かな情報・不確かな情報 いろいろ混在しているのですがRaRa-chさんの動画が一番の真実なのでそれを踏まえております 30年ぶりに「ノート」と向き合っております ちなみに写真はスマホで撮った後に使い捨てカメラで同時に撮ったものを現像してノートに貼り付けるという30年前と同じ手法にしております いつか見てくださるのを楽しみにしながら鋭意作成中です😊 by「なんちゃん」
@Ch-oe4os
@Ch-oe4os Год назад
いつもコメント頂きありがとうございます。私も昔の写真見る度に「この施設なんだろう?」と思う事が沢山あります。炭鉱で暮らしていた時には、生活に関する施設には興味がありましたが炭鉱施設には、さほど興味を持っていなかったのが事実です。逆に「なんちゃん」さんの資料で教えて頂ける事も沢山あるかも知れません。完成したら是非 見させて下さい。ちなみに 私は今年、もう一度羽幌へ行くつもりです。炭鉱跡がメインではなく、周辺の風景も もう一度ゆっくりと眺めたいと思っています。大好きな築別高台の風景とか、癒されて来たいと思っております。
@なんちゃん-k5c
@なんちゃん-k5c Год назад
@@Ch-oe4os RaRa-chさん ありがとうございます ワタシも今年は雪が降る前にもう一度 羽幌に行ってみたいと思っております 5月に行った時に郷土資料館で購入したDVDやRaRa-chさんの動画で見た昔の街 その現状と位置関係を確認したい場所が多くて😅 来年まで待てません💦 行こうと思えば日帰りでも行けるのですがやはりゆっくり泊まりで行きたいで😊 5月に行った時は冨士屋旅館さんに泊まりましたがお部屋も御料理もとても素晴らしく宿泊料金もリーズナブルでした また行きたいです 冨士屋旅館さんの2階には羽幌炭砿鉄道株式会社から寄贈された大きな鏡が健在で さすが老舗旅館だと思いました😊 by 「なんちゃん」
@Ch-oe4os
@Ch-oe4os Год назад
富士屋旅館さんは、昔からありますよね。確か、私の姉が高校受験の時に猛吹雪となり、炭鉱へ帰れなくなった時に泊ったのが富士屋さんだったと思います。
@赤い稲妻-e6k
@赤い稲妻-e6k 7 месяцев назад
エネルギー革命により石炭から石油に切り替わったのは間違いないですが、それで炭鉱が閉山したわけではないです。 その証拠に閉山後も石炭の使用量は増加してます。 1番の理由は大規模露天採掘による安い輸入炭に価格で負けた、が正解です。 道内炭の品質も瀝青炭や亜瀝青炭で石炭としては質は悪くない。 羽幌炭鉱にはまだ3000万トンの石炭が眠ってる。 いつか採掘技術がめざましく発展した時にはまた復活するかもしれない。 それは道内炭鉱全て可能性は秘めてる。 産業用に石炭、家庭用に亜炭を使ってた時代は懐かしい戦後の記憶として残るでしょう。 亜炭、褐炭を含め石炭は資源の少ない日本にはいざという時に自国で唯一賄える貴重な資源。 石炭は温暖化の原因と言ってる人も居るけど金星並みに温暖化させる程の二酸化炭素は人類では出せない。 高効率で低公害な日本の石炭火力発電技術はまだまだ現役で動くでしょう。 道内で数カ所露天採掘はまだ稼働してるし坑内採掘も釧路コールマインで稼働してる。 生き残った炭鉱を末永く維持して技術を絶やさないことがこれからの課題でしょう。
@Ch-oe4os
@Ch-oe4os 7 месяцев назад
詳しいコメント・解説頂きありがとうございます
@すてこちゃん
@すてこちゃん 7 месяцев назад
私はここで生まれたのです
@Ch-oe4os
@Ch-oe4os 7 месяцев назад
コメントありがとうございます。此処を故郷としている方が懐かしんで観て頂ける事がとても嬉しく思っています。これからも宜しくお願い致します。ご視聴下さりありがとうございます。
Далее
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