Тёмный

横須賀駅から観音崎へ(「昭和100年物語」より) 

高橋揚一
Подписаться 398
Просмотров 17 тыс.
50% 1

横須賀駅を出て左側に京浜急行と三浦交通のバス乗り場が並んでいた。
1番乗り場は観音崎行きで、京浜急行の緑と赤のボンネットバスが停車した。
乗降扉は中央に1ヶ所のみで、開閉は車掌さんが行った。
運転席の脇までビニールのロングシートが設えられ、左端は前面が見渡せる展望席だった。
国道16号線に出てEMクラブの脇を過ぎるとベース正門にさしかかり、金魚の池のある本町1丁目ロータリーに至る。
ウィンカーは折りたたみ式で、右折して大滝町大通りに入る。
さいか屋前を通って、みかさ銀座の脇からキリンの立体看板の立つ玩具店あかのれんと用紙の老舗の川嶋紙店を過ぎて横須賀中央駅前へ。
ここにもロータリーがあり、左折してすぐに右折して米ヶ浜通りに向かう。
米ヶ浜通りの終端には料亭小松のダンスホールがあり、そこを右折して料亭小松の門の前で再び国道16号線に。
漁船の並ぶ安浦港を左に見て三春町1丁目の中井パン店前を通過。
国道16号線を直進して大津の観光ホテルで左側の建物は終わり、岸壁沿いに道路が続く。
浦賀に至る矢津坂手前から左に分岐すると舗装から砂利道となり、再び左に民家が並ぶ馬堀海岸駅の下の細い道路となる。
狭い道路から左の民家が終わって右の山肌と左の海岸の間を小学校と中学校のある丁字路にさしかかり、左には岩場の手前の桟橋。
丁字路を左折すると道路はさらに狭くなり、素掘りのトンネルを2本抜けて伊勢町海岸に着く。
水源地の脇から坂道となり、左には猿島と遠くに富士山が眺められる。
御所ヶ崎前で右に急カーブの急坂を下ると一転して房総の山々の景色。
走水港の脇を通り、今では観音崎京急ホテルや横須賀美術館のある明媚な海沿いを道路は観音崎バスターミナルへと続く。
左の海岸沿いの小径は観音崎灯台へ、右は鴨居から浦賀方面へ。
中央のトンネルの先のたたら浜にはゴジラの滑り台が待っている。
現在は道路が整備されて快適なコースになったが、昭和30年代頃には砂埃を上げて悠然と走るボンネットバスの旅が楽しめた。
#昭和 #観音崎 #横須賀

Опубликовано:

 

20 дек 2021

Поделиться:

Ссылка:

Скачать:

Готовим ссылку...

Добавить в:

Мой плейлист
Посмотреть позже
Комментарии : 20   
@user-nx8yz8xk4w
@user-nx8yz8xk4w Год назад
昭和41年生まれです。旧EMグラブは覚えています。横須賀中央駅前のロータリーは流石に知りませんでした。料亭小松は火災で焼失し残念です。山本五十六の手形も燃えてしまったのでしょうか。防衛大学校走水ポンド近くにあった割烹「よう吉」もなくなり残念です。茹で蟹が最高でした。観音崎のゴジラ懐かしいですね。確か小学校低学年まであった記憶が。多々良浜にあった観音崎ホテルの1階にあった食堂で食べる刺身定食が懐かしいです。こんな素敵な想い出に誘って頂きとても嬉しく思います。
@hidekun1966
@hidekun1966 2 месяца назад
横須賀の1966年生まれです。川嶋文具店の右辺りにあったおもちゃ屋で「おもちゃ買って!」と母親に大声で叫んでいた自分を思い出しました。懐かしい写真をありがとうございます。
@user-ew7hm6gh2y
@user-ew7hm6gh2y 2 месяца назад
きりんの立体看板があった「あかのれん」ですね。
@harukikurogane9539
@harukikurogane9539 2 года назад
EMクラブ懐かしいです。😊
@user-nl8he9st2b
@user-nl8he9st2b Год назад
春は桜のトンネルが見事でした。走水の小学校の海でアサリ堀をした思い出があります。
@user-ij2mc2pu4m
@user-ij2mc2pu4m 2 года назад
ヨコスカボーイ 2 分前 横須賀中央駅前昭和20年代ですね 立花本店の看板があります。 今のプライムです。 コマツも無くなってしまい、変わらないのは中井のパン屋の看板ぐらい。 観音崎のたたら浜の海岸にあったゴジラの滑り台。 小学校の春の遠足はここでした。 いい海です。 この頃は京急は久里浜駅まででした。 なつかしい。
@eminegi8219
@eminegi8219 2 года назад
兄から聞いていたゴジラの滑り台の写真が見られて嬉しいです。
@user-kj5uo9ls7v
@user-kj5uo9ls7v 2 года назад
いい歌ですね。私の生まれる前の京急線
@akirag505
@akirag505 2 года назад
そうでしたね~大津のホテル海岸に立ってましたよね~馬堀までの16号線は海岸縁を走ってましたね 子供のころは多々良浜をゴジラ浜て言ってましたよ・・・赤のれんのおもちゃ屋さんはまだあるのかな~私が横須賀に住んでいたのは昭和49年頃まででしたから懐かしいです・・・・4年前に一度横須賀へ行きましたが、あまりの変わりようにまったくわかりませんでしたよ
@user-sn4ci5eh4z
@user-sn4ci5eh4z 2 года назад
かわしま、こんな昔からあったのですね。私より長生きさんとは
@user-ew7hm6gh2y
@user-ew7hm6gh2y 2 года назад
川嶋紙店は明治5年創業で今年は150周年だそうです。
@user-sn4ci5eh4z
@user-sn4ci5eh4z 2 года назад
@@user-ew7hm6gh2y 明治5年!西南戦争前じゃないですか!かわや版・・いや、新聞も創刊されはじめた時。私の祖父は明治43年生まれでした。
@agtak1578
@agtak1578 Год назад
横須賀駅裏のトンネル、現在は16号線上下それぞれに「横須賀トンネル」と「新横須賀トンネル」があるが、かつては横須賀トンネル一本でまかなっており、つまり16号線上下合計四車線がトンネル部分で二車線に減らされていたはずなのだ。新横須賀トンネルが完成したのが平成二年でその時の様子はよく覚えているのだけど、それ以前の道が上下急に狭まれる様子がなぜか思い出せない。無意識だったせいだろうか。是非ともその時の画像が見たい。
@user-ew7hm6gh2y
@user-ew7hm6gh2y Год назад
16号線東方立体交差ができる前は西方東方ともに南側の坂を登って「横須賀トンネル」に至っていたと思います。 さらにそれ以前は「横須賀トンネル」もなく横須賀駅前から太安堂本店前の踏切を通る道が16号線でした。 汀橋付近の道路はもっと狭かったかも知れません。 汀橋から南田浦までの西方東方の分離は私が生まれる前からありましたが、二車線に分かれていたのか否かは記憶にありません。 交通量が少なかったので二車線分の広い道路を右へ左へ勝手に走っていたのかも知れません。 当時は信号機もほとんどなく南田浦では台に乗ったお巡りさんが交通整理をしていました。
@user-bh3jb9vv6f
@user-bh3jb9vv6f 2 года назад
横須賀駅からバスで上町の深田台までは乗りました。京浜急行と横須賀線を時々使い分けしました。観音崎の海水浴場は岩場なのでちょっと残念です。走水に行くトンネルは一人で歩くと怖いです。
@masapom55
@masapom55 Год назад
地元民にはたまらないですね(^_^)覚えやすいメロディですが、次は是非とも歌入りであげてください🎤
@user-ew7hm6gh2y
@user-ew7hm6gh2y Год назад
有難うございます。 どなたか歌っていただけると良いのですが。
@masapom55
@masapom55 Год назад
@@user-ew7hm6gh2y ここまで来たらご本人の歌唱で是非🎤🎶
@user-ew7hm6gh2y
@user-ew7hm6gh2y Год назад
70歳の爺なのでもう声が出ません。 昭和100年までに歌の入ったバージョンを作りたいです。
@user-nx8yz8xk4w
@user-nx8yz8xk4w Год назад
@@user-ew7hm6gh2y 是非私からもお願い致します。素敵なメロディと詞ですね。親しみやすさの中にも遠き横須賀の想いが哀愁を誘います。私もあと10年早く生まれていればリアルタイムで感じることが出来たでしょう。
Далее
🤔
00:28
Просмотров 386 тыс.