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自己中心的すぎて貴族全員を敵に回した嫌われ者 藤原伊周の生涯【光る君へ】 

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参考文献
倉本一宏『藤原伊周・隆家:禍福は糾へる纏のごとし (ミネルヴァ日本評伝選)』
amzn.to/3TDUNzP
山本 淳子『枕草子のたくらみ』
amzn.to/3STfuaF
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藤原伊周は20歳の若さで大臣となるなど破格の昇進を遂げましたが、強引な昇進は多くの貴族の反感を買うこととなりました。
伊周自身も自分の考えばかりを主張し周りの貴族と対立するなど傲慢なところがあり、身内の道長や詮子にも嫌われ、道隆が急氏した後は一転して逆風に晒されます。
花山法皇に矢を射掛けたことが原因で流罪となり、程なくして復帰を果たすものの再び道長と対立して再び失脚に追い込まれるなど、道長に完膚なきまでに押さえつけられることとなりました。
今回は、若くして破格の昇進を遂げたゆえに周囲と上手くやることができず、道長を前に自滅していった藤原伊周の生涯について紹介します!
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【画像引用】
大河ドラマ光る君へ公式サイト
www.nhk.jp/p/hikarukimie/ts/1...
#光る君へ #藤原伊周 #三浦翔平 #大河ドラマ

Опубликовано:

 

16 мар 2024

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Комментарии : 28   
@user-ye4pm9zu3w
@user-ye4pm9zu3w 4 месяца назад
この兄弟さえしっかりしていたら定子があんな結末を迎えなくても済んだのに、と思わざるを得ない。定子が亡くなった時遺体を抱きかかえ泣き続けたそうだがまわりはそんな伊周をどんな目で見ていたのだろうか?伊周と定子の中身が逆だったら名政治家として歴史に名が残ったかも?
@season3555
@season3555 4 месяца назад
道隆パパがもっと謙虚になるよう教育すれば周りに嫌われずに道長に負けなかったのに
@YS-ci4tj
@YS-ci4tj 4 месяца назад
いや、環境が悪いから無理でしょ()
@user-op8pe4jg2l
@user-op8pe4jg2l 4 месяца назад
百人一首での母親の歌が一番好きだった。 意味が分かりやすいのが最大の理由だったけど、恋の未来の不安を詠んだ歌なのに、何か人生の未来を暗示してるように見えるんだよナ。好きになった時は考えず好きになったんだが? 敦康親王を、彰子サイドが引き取ったせいもあり、妹(四女)が天皇の子を宿した際は期待してたみたいだけど亡くなり、周囲の女を不幸にする何かがあると思ってしまう。
@stofyuki3875
@stofyuki3875 4 месяца назад
伊周の子孫は歴史の狭間に消えてしまいますが、弟の隆家の子孫は後鳥羽天皇の外戚になって再び立場が良くなりました
@KokonTouzai-Rekisi-Channel
@KokonTouzai-Rekisi-Channel 8 дней назад
伊周の娘の血筋は五摂家に継がれてるよ
@chi-ki0
@chi-ki0 4 месяца назад
6:20 伊周の傲慢ぶりが際立った出来事と言えるでしょうね。 伊周の有力貴族を次々と追い越す急速な昇進が+になる道隆に大納言の席に戻されるのは余程の事だったと推察します。 伊周の超がつく傲慢な性格を踏まえると、道長の栄華は運による要素が大きいと考えます。
@user-ti1cj7bq3p
@user-ti1cj7bq3p 4 месяца назад
伊周は、時期を待っていれば自ずと望みの地位につけたのに。一方和歌等文学の才があっても政治は別物、信頼できる部下を見つけたり、育成するほどのマネージメント力はなかったんでしょう。
@user-tz7gv8hj2s
@user-tz7gv8hj2s 4 месяца назад
隆家は、大宰府で刀伊の入寇を防いだんだが、評価低いよな。
@user-gb6dk8el5t
@user-gb6dk8el5t 4 месяца назад
戦国時代ならすぐ切腹、出家なのを比べたら甘々に感じるな
@KokonTouzai-Rekisi-Channel
@KokonTouzai-Rekisi-Channel 3 месяца назад
貴族は穢れを嫌ってたから殺したりできんのよ
@kurita1201
@kurita1201 4 месяца назад
藤原伊周と石田三成は自分磨きと自分の性格と向き合う、見つめ直すを怠ったんですね。まあ、俺も言えないですけど😅
@cancan5892
@cancan5892 4 месяца назад
伊周にとって道長は、年も近いだけに必要以上にライバル視してしまう相手だったのだろう。父の地位の継承、他から抜きん出た高い教養、そして強気な性格が、彼の人生の行き方を方向付けてしまったと思う。年齢不相応な昇進は当然多くの反感を生むのだから、謙虚であり過ぎるくらいで丁度いいのに、傲慢さが敵を作り事態を悪化させる。道綱くらいの気楽な生き方ができれば、生まれの高さからももっと生きやすかったのではと思う。そんな伊周を絶賛する清少納言の存在は、人により同人物の評価の変わることの不思議を感じる。やはり類稀な教養の持ち主であり、魅力もあったのだろう。頭が良い人なのに、自分を好人物に演じるメリットを知らなかったのは意外でもある。 道長はその点、さすが抜かりがない。自分の娘影子が子(敦成親王)を産むまでは、伊周方の敦康親王を尊重し伊周とも協調しているが、敦成親王が生まれると、次第に敦康親王と疎遠となり、伊周とも再度対立する。伊周の死が、”小右記”や”権記”にすら軽くしか触れられていないのは、切ない気持ちにさせる。こういう生い立ちの人物と知っても、三浦翔平さんのイケメンぶりに可哀想に感じてしまう。
@m.sakurai9519
@m.sakurai9519 4 месяца назад
なぜこんなに許すのか、甘いのかというと、過去に法皇が院政を敷いていた頃、無実な皇太子を、その母と一緒に幽閉し殺し、その後、不幸が度々襲ってしまい、きっとこれはかの方たちの怨霊だとなった事件が続いたことで、そこまでの徹底的なことはできなかったと思われる。、摂関政治は院政に比べたら、合議を重んじ、面倒ではあるけど、道長にとっても、それで良かったと思う。
@murt2286
@murt2286 4 месяца назад
高校の古典で枕草子をやったときの登場人物たち。誰の言葉かを敬意表現で見抜くとか・・・途中から追えなくなって寝てたわ。
@user-dq3tn3mg2i
@user-dq3tn3mg2i 4 месяца назад
伊周は若くして昇進をする
@loveyoona7
@loveyoona7 2 месяца назад
何時の世も高慢は自滅を招くという典型
@vianeplus
@vianeplus 4 месяца назад
家康が居たなら同じ構えの屋敷を拵えて東と西に分けてず~っと憎みあう関係にしてしまうんだろうなぁ。
@YS-ci4tj
@YS-ci4tj 4 месяца назад
定子(貞子)…成程。まぁ、血は争えんな。爺や親父があれなら…。
@user-zl7sq2jf5z
@user-zl7sq2jf5z 4 месяца назад
伊周は将来的に天皇の外祖父として、祖父のように頂点に立ちたかった所でしょう。
@rekishock
@rekishock 4 месяца назад
大河内年齢だとまだ12歳ですね
@user-pt3yj5ex9u
@user-pt3yj5ex9u 4 месяца назад
伊周の二十代での内大臣就任はそれ単体で見れば非難されて当然かもしれないが、その後道長が息子頼通を、(年齢自体は伊周より上とはいえ)同じ二十代で摂政にしていることを考えると、殊更に叩かれるのは釈然としません。頼通の方がよっぽど強引では?
@user-lb8vc8it6z
@user-lb8vc8it6z 4 месяца назад
定子のお兄ちゃん!
@user-mo7gu1rb9m
@user-mo7gu1rb9m 3 месяца назад
36歳は若いですね😂
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