Тёмный

致命的な欠点で大不評?最後の国産旅客機YS-11の仕組み・歴史を解説【ゆっくり解説】【航空工学】【飛行機】 

航空工学館【航空技術ゆっくり解説】
Подписаться 34 тыс.
Просмотров 111 тыс.
50% 1

#飛行機 #航空 #ゆっくり解説
◆チャンネルについて
このチャンネルでは航空機技術に関する仕組み、構造などをゆっくり解説していきます。
◆動画について
今回は今のところ最後の国産旅客機YS-11の機体の特徴や開発経緯、歴史などをゆっくり解説していきます。
◆Twitterアカウント
/ airmechanism
皆さんフォローよろしくお願いいたします🙏

Опубликовано:

 

26 окт 2024

Поделиться:

Ссылка:

Скачать:

Готовим ссылку...

Добавить в:

Мой плейлист
Посмотреть позже
Комментарии : 237   
@ワンダーセイウン
@ワンダーセイウン Год назад
当方熊本市に居住しています。 近くに熊本空港があり、子供のころ全日空のパイロット訓練のためにYS-11がしょっちゅう実家の真上を飛んでいました。 ダートエンジンの「びぃ~ん」という音で「ああ、またYS-11か」なんて思ってたのも時が過ぎ、いよいよYS-11が引退すると聞き及び、こりゃイカン!なんとか最後に乗っておかないと!! ・・・と、昼間の仕事の後にバイトしたお金でチケットを購入、滑り込みで搭乗した記憶がありますw 今回の動画を見ていたら、半ズボンにランニングで走り回ってたあの頃を懐かしく思い出しました。
@ねずみ色の猫
@ねずみ色の猫 Год назад
ANAでジャンボ機B747-400の機長まで務めた方は「クラウンに軽自動車のエンジンを積んだ感じで、とにかくパワーが無かった」と述べておられました。
@黒島正範
@黒島正範 7 месяцев назад
ロールスロイス社製のダートの出力が不足しているのではなく、欧米メーカーと比較して、機体の軽量化のノウハウが不足して、重すぎたからです。
@XQ3664G
@XQ3664G 7 месяцев назад
内田幹樹氏ですよね。
@ねずみ色の猫
@ねずみ色の猫 7 месяцев назад
さすが!ご名答です。早くに亡くなられたのは惜しかったと思います。
@junyamatsukawa
@junyamatsukawa Год назад
1977年3月、私が8歳の頃にTDAで羽田-帯広を1人で往復した時の機材がYS-11でした(お子様一人旅搭乗を格安で提供するTDAのプランがあったんです)。とにかく振動が激しく、さらに曇天で片道約2.5時間は子供の私には地獄の「乗り物酔い」でしたが、今から思うと貴重な体験だったんですね。当時の帯広空港は今とは違ってかなり狭い空港だったので、YS-11が最適だったんだろうと思います。いい思い出です。 8歳の初めての一人旅がいきなり1週間の北海道だったので度胸がついたらしく、その後も子供1人で日本中を廻っていました。現代では考えられないかも知れませんね。
@ヒマ人空港の
@ヒマ人空港の Год назад
亡きじいちゃんがまだパイロットなりたての頃この人力飛行機を飛ばしていたよ、夏場になるとパワーが出ないなど苦労したと言っていた、特に燃料搭載はかなりシビア、でもジェト旅客機に移行して機長になっても、確かにオートパイロットで操縦は楽になったし多少の悪天候でも飛ばせるジェト旅客機は操縦も楽だし乗り心地も良いけど、各機体に固有の癖があって、乗客乗員が歩く振動も微妙に操縦桿に感じるあの人間臭いYSが好きだと言っていたよ、因みにJALもYS11JA8717日本国内航空からあそ、という愛称をつけて日本航空塗装で一年間ウエットリースしていますよ。
@ShunRailwayCh
@ShunRailwayCh Год назад
私の父もYS11に乗務経験がありました。一般的な飛行機に比べるとやはりラダーが重いようですね。離着陸も難しく完璧に行ったと思えるのが無いとか(無論無事故です)でも頑丈で多少無茶しても安心して飛ばせる飛行機と言ってました。
@美幸-d8h
@美幸-d8h Год назад
片肺での離陸訓練時、ラダーペダルの何と重かったこと、正に踏み込んだ足が攣った状態。また、国産には間違い無いのでしょうが、コックピット内の装備品で日本のメーカー名が付いていたのは、キャビンとの連絡用のハンドマイク(東芝)だけでしたよね。あと、機体の重量に対してエンジンパワーの無さは、絶望的・・・
@honwakasin
@honwakasin Год назад
私の父は三菱航空機に入り、東条英機氏の息子さんの下で、YS11開発部所のとなりで他の航空関連の設計をやってました。早くに辞めて実家に帰って家業を継ぎましたが
@gbd003771
@gbd003771 Год назад
カーゴタイプに旅客として乗ったことがあります。客席というものがなく、軍用トラックのように窓際に横に置かれた木のベンチに、真ん中に網をかけられた荷物を見ながら乗りました。後にも先にもこれ一回きりだったので、良い経験(?)でした。
@snowpapua
@snowpapua Год назад
YS-11は羽田-和歌山間でよく乗っていました。離陸の時が独特で、まずタービン音が高まっていき、高回転になるとプロペラのピッチを変えて加速して行ったのです。ジェットエンジンより加速感があったことを憶えています。一度空に上がってしまえば振動もなく、ジェット機と変わりありませんでした。飛行高度が低かったので、窓から海を見るとイルカの群れがよく見えましたっけ。 動画で書かれていなかったYS-11の優れた性能といえば、高高度性能があります。1200mクラスの地方空港に離着陸できるだけではなく、標高の高い空港を利用できたのは、当時、同じクラスの機体ではYS-11だけでした。
@user-jl1ks9jg1r
@user-jl1ks9jg1r Год назад
所沢の航空公園に展示してある(懐) 客席とコクピットの間にドアがなくて、操縦してる様子が全部見えた。 飛行中は騒音が酷くてリラックスできず、飛行機を降りても圧迫感が消えなくて辛かった。
@eternitybeginner
@eternitybeginner Год назад
唯一乗った飛行機。札幌から釧路まで汽車だと4時間かかるのが、1時間もかからず驚いた。まるで羽ばたいて飛んでいるかの様な騒音と振動でしたが、実際窓から主翼を見るとかなり羽ばたいていてびっくりした思い出が。
@とらとら-x9x
@とらとら-x9x Год назад
今から45年位前学生の時、羽田でANAの地上支援のアルバイトをした時、社員からYS11は後部扉と救命ボートがシンクロしているので、扉の開放時にはワイヤーロックを外すして開ける様に厳重に注意された。一度開いたボートをたたんで、セットするのに当時のお金で100万円かかると言われた。
@user-tk9sb6gt9s
@user-tk9sb6gt9s 11 месяцев назад
へええええ
@齊藤信也-p8p
@齊藤信也-p8p Год назад
初めて乗った飛行機は空自のYS-11でした(入隊希望者の体験搭乗で) 今でも乗り心地は覚えてます 私としては思い出の飛行機ですが、色々問題はあったんですね… 確かに今の旅客機からみたら、狭いしうるさいしだけど、今でも印象の残る飛行機です
@地球帝国ゆっくり茶番劇
90年代あたりに小型機と空中衝突事故を起こしても損害軽微で普通に飛んで普通に着陸したらしいね 設計が軍用機だから旅客機としてはあれだけど頑丈なんだな
@ザ.グレート
@ザ.グレート Год назад
天下り役人ほど邪魔な存在はないね
@御隠居-b8z
@御隠居-b8z Год назад
小学生の頃、母の里大分に東京から里帰りするときはじめて飛行機に乗ったのがYS-11だった。当時は国内で航空機事故が年2回位起きていてあのプロペラ機の振動と騒音は逆にちゃんと飛んでいる感があって安心できた。プロペラ機なので遅く、雲とほぼ同じ高さを飛ぶので乱気流で良く揺れた。航続距離も短く燃料補給のため四国の高松空港に立ち寄るので日中一杯かかった。それでもそれ以前は寝台特急富士で丸一日かかったのを経験していたのでそのときは早いと思った。しかし帰りはB-727人生初ジェットだったのであっけないほど早かったのを覚えている。 後日談。 YS-11で大分から帰ってくるはずの母が予定便から降りてこないと父。途中高松空港で買い物や飲食に夢中になり、予定時間になっても戻ってこないので航空会社に荷物を降ろされバイバイされてしまった。恥ずかしすぎるので隠そうとしたが、父が羽田に迎えに来てることを知らず隠ぺい工作は失敗に終わった。生涯笑われ続けた母の黒歴史。
@kamesan-
@kamesan- Год назад
この荷物を乗せたままで戻ってこないお客というのは大変困る存在なのですよ。飛行機から荷物を下ろして荷物の山の鞄を投げて、慌ててその客の名前や番号が書いてある鞄を探すのです。飛行場に勤めている友人の話では、いくらそこまでお客の荷物を大切に扱っていても、こういう場合、お客さんの荷物を投げなければいけなくて、いくつかの鞄は壊れます。だから、日本の空港でも、飛行機に預ける鞄は粗く扱われて当然って思わねばならないそうです。 ちなみに、お客さんを残したまま、荷物を積んで飛行機は飛ばせません。それが爆発物等である可能性があるからです。(自分は死なずに飛行機を墜落させる事ができる)
@user-tk9sb6gt9s
@user-tk9sb6gt9s 11 месяцев назад
90年台に、石垣島にいくとき、すでに小型ジェットは就航してた路線で おもしろ半分にYSを選んで乗ってみましたが 隣の人と話ができないほどの、エンジン音と脳みそが電気アンマされるような 強烈な振動に驚きました
@mogeru1
@mogeru1 Год назад
川崎重工をリタイアされたご夫婦とバーで仲良くなり、若い頃にYS-11を設計されたお話を聞くことができました。 (職場結婚だそうです) 東條さんは厳格なリーダーでしたが、川重出身は土井さんやジュン・ツルタさんなど面白い人たちが多かったとのこと。
@manbows-ao
@manbows-ao 7 месяцев назад
丘珠-函館間など主に道内区間を、出張などで数回搭乗経験があります。 あるとき着陸の衝撃で自分の座席上のパネルが落ちてきて ケーブルのせいで目の前で宙ぶらりんの状態に… 後方から着陸準備のため前方へ急いでいたCAを呼び止めて 「これ、落ちてきましたよ」と言ったら 無言でバンッ!と元の場所にたたき付けてスタコラと前方へ行っちゃいましたw また不思議なことにその一撃で元通りになったんですよねw なんともおおらかな時代の思い出です、とはいえ1990年代でしたがw
@t038ge68eje
@t038ge68eje Год назад
子供の頃、祖母の家に行くために丘珠-函館便をよく使っていたのですが、当初はDHC-6だったのが、YS-11に変わって、トイレもあるしCAさんは居るし、時間が半分くらいに短縮されてとても感動した記憶があります。
@DoubleRawShiro
@DoubleRawShiro 8 месяцев назад
南西航空の宮古島→石垣島路線に乗った時、座席前のポケットにあった「うちわ」に、「これは機内備品なので持ち帰らないでください」と書いてあった。冷房があまり効いていない機内だったので、うちわが常備されていたらしい、、
@信実吉田
@信実吉田 Год назад
羽田から八丈島まで乗りました。 ギシギシと軋む機内と、窓のすぐ横でブンブン回るプロペラが怖かったです。
@釣りパパ-h4g
@釣りパパ-h4g Год назад
東京-八丈島間を釣りに行くのに利用したことがあります。 機内でスチュワーデスさんの写真を撮らせて貰った記憶も。 今より遙かにおおらかな時代だったんですね。 タラップで降りたとき、エンジン?に付いていたロールスロイスのエンブレムを見た事も思い出でしょうかね。
@thchomonolith
@thchomonolith Год назад
北海道で乗った。ジェット機よりも低空、ゆっくり飛んでいくので下界の車のかたちまではっきり見えた。 遊覧飛行みたいで窓から見る風景が楽しかった。 油圧を使わない操縦、人力操縦はたいへんだっただろうが、パイロットからは「飛行機を自分で操縦しているという感覚を楽しめた最後の機体だった」という声があるのも添えておこう。
@AF-kl6mw
@AF-kl6mw Год назад
私の父が若造のテストパイロットとしてYS−11の開発に参加してました。 海外に売り込みに行くデモ飛行にも行ってました。いろいろのエピソードを聞きました。客席潰して燃料積んでたとか。 開発が終わってすぐに民間航空会社に転職しましたが、日航製の末路がそんなに大変だったとは知りませんでした。
@ただのおっさん-y5b
@ただのおっさん-y5b Год назад
懐かしいね、20歳前に初めて搭乗した飛行機がYS-11だったよ。 北海道の帯広から羽田までだったがバイブレータの上に乗ったような気分だったが羽田に着いて 目の前に留まっていたジェット機を見て感激した。その後、成田空港、羽田空港、新潟空港などで勤務することになった。、
@yukihiro7116
@yukihiro7116 7 месяцев назад
馬力があろうと無かろうと、快適性があろうが無かろうが飛ばせる飛行機を作れた時代とそれすら作れなくなった今とどっちが先進国なんだろうかとか思う。
@黒島正範
@黒島正範 7 месяцев назад
確かに、YS-11には何度か搭乗しましたが、振動と騒音が酷かったですね。 脳天にズーン、ズーンと響いてきました。 それでも、短距離しか乗っていなかったので、二度と乗りたくないとまでは思いませんでした。
@ShunRailwayCh
@ShunRailwayCh Год назад
戦後の航空機開発が出来なかったのは致し方ないがターボプロップからジェットへの転換期に飛行機開発しなかったのは痛いよな…。 ブランクが空きすぎだよ。60年に大卒で入った人でも80代。生きてるかすら怪しいよ。技術なんて20年弟子がいなかったら消えるんだよ。
@kkKKkk-f6h
@kkKKkk-f6h Год назад
この当時から問題視されていた天下り問題が未だに続く悲劇 MRJも経産省が深く関わってたけどいろんな意味でYS11再びだったんだろうね
@c62c631-tg8fn
@c62c631-tg8fn Год назад
残念ながらMRJも引継いで旅客機を理解していなかった。型式証明もせっかくボーイングOBを派遣してもらっても現場は自分達が上と勘違いしてたし、外国人技術者を大量に入れて軌道修正出来たのにもかかわらず、対立しているし明治のお雇い外国人じゃないけど学ぶ姿勢がなかったのは残念。わかってる人はいたのに主導権を握れる立場になかった。
@speed32000
@speed32000 Год назад
なん十回か乗りました。 エンジン音、加速感、上昇する感覚、振動、何れも飛行機が飛んでいるの体感出来て、好きでした。 機体が小さいせいか、天候によってはかなり揺れます。 特に下降気流に入ると、急降下する感覚が三秒、四秒と続き、六秒くらい継続すると、あちこちの乗客からキャーと悲鳴が上がります。
@user-tk9sb6gt9s
@user-tk9sb6gt9s 11 месяцев назад
僕は1回でお腹いっぱいなのに 何10回乗ったって ツワモノですね
@508gou
@508gou Год назад
最初に造って大成功とはなかなかいかないので継続していくことが必要だったんでしょうけど 対応に追われそのまえに倒れてしまったのが残念ですね。2作目3作目で躍進できればよかったと思いますが。 HS-748という強敵がいたことも苦戦した要因ですかね。
@user-tk9sb6gt9s
@user-tk9sb6gt9s 11 месяцев назад
2作目3作目、ホントにそのとおり
@h9zel722
@h9zel722 Год назад
引退間近の時、女満別から道内便に乗ったのが最初で最後。離陸後すぐに雲に入ったのですが、視界が開けたとき高度が低くて驚いた記憶があります。
@BlackThunder20p
@BlackThunder20p Год назад
YS-11は今まで「ワイエス じゅういち」だと思っていました。(オリンピア という愛称が付いていませんでしたか?) 「戦後初の国産旅客機 YS-11」といった感じでテレビの特集でその歴史を紹介していた時は、 順風満帆で万事上手くいっていたように思いましたが、実際は苦労と困難の連続だったんですね。
@omioomino5771
@omioomino5771 Год назад
ありましたね。 東京オリンピックの聖火を運んだのでそう呼ばれてました。
@maajiiya
@maajiiya Год назад
うちの地元の空港からは、新しい空港が出来るまではずっとYS-11だけだったよ。 自分が小学生だった頃に、「ジュニアパイロット」っていうANAの子供向けのサービスがあって、みんなが乗る直前にコクピットとかを見せてもらったりしました。 飛んでる時は、音はプルプルうるさかったし、高さもジェットよりはだいぶ低かったみたいだけど、今思うと町の景色が近く見えて、いい思い出ですねー。新幹線の0系と共通するところが多かった。 ああ、昭和だ
@moto1269
@moto1269 Год назад
80年代は八丈島線でよくお世話になりました。YS11便は羽田便名古屋便合わせて一日6便くらいありました。 天候調査は日常茶飯だったし、悪天候でよく揺れましたね。 手荷物は前の座席下に収納しました。頭上の棚はコートや帽子を置きました。 2000年代になっても北タイのチェンマイ空港ではYS11がずっと駐機していました。
@axxx300
@axxx300 Год назад
航空機の強度試験をするときは、必要な強度まで壊れてはならないが、必要な強度を超えると壊れなければならない 壊れないのは無駄に頑丈すぎる機体を作ってしまったので、失敗なのだそうです。
@omioomino5771
@omioomino5771 Год назад
民間機としては失敗ですね。 まあ怪我の功名というか、そのお陰で自衛隊や海保で末永く使われることになりましたが。
@hanpeigugu2110
@hanpeigugu2110 7 месяцев назад
還暦の福岡市民ですが飛行機デビューはこのYS-11でしたよ。68年に福岡宮崎間でした。翌年に福岡鹿児間、そして最後は76年に福岡壱岐という現在廃止になった超短距離区間も乗りました。飛行時間なんと15分!離陸して高度が低いまま左旋回したら着陸(笑) 九州内でも昔は今ほど高速交通網が整備されていなかったので航空便は多かったです。 機内での思い出と言えばCAさんが配る飴でしょうか。中でも黄金糖はCMでもYS-11が使われていましたね。
@arcsaber10dx
@arcsaber10dx Год назад
エンジンは非力、昇る降りるも遅い、操縦系統が人力で重い... とANAと空自で整備されていたかたが口を揃えて言っていたなぁ...
@alfa24632000
@alfa24632000 Год назад
ネパールの国内線で乗りました。明らかに日本の中古機で、非常口と日本語で書かれていました。
@user-tk9sb6gt9s
@user-tk9sb6gt9s 11 месяцев назад
すごいなああ
@spgaisariasoland001
@spgaisariasoland001 Год назад
この機の頑丈さを物語るエピソードとしては、水槽に胴体を沈めて内圧の増減を繰り返す強度試験を行った所、 どこも損傷せずに試験装置が損傷して試験が終了した、というのがありますね。 そりゃ機体が重いわけだわ。 ちなみに設計に参加した土井武夫氏が設計した三式戦飛燕も頑丈過ぎて、 試験の継続が危険であるとして、破壊前に主翼強度試験を中止したというエピソードがあるそうです。
@takashizanngetsu1439
@takashizanngetsu1439 Год назад
世界初のジェット旅客機であるデハビラントコメットが高空、地上での圧力変化に耐えきれず機体が圧壊したためにイギリスが地上で巨大な水槽を作って実験した教訓を良い意味真似しただけで御座います。 大東亜戦争の敗戦処理でB50の圧力隔壁を米空軍の命令でチェックしていた旧日本陸軍第62対空無線部隊の一通信兵で敗残兵に成り果てた父と陸軍航空技術研究所で英米の鹵獲機を解析して捨て置かれた少年達には大東亜戦争後の日本の航空機が欧米に比べてお粗末極まりない代物で日本国民の血税さえ湯水の如く使いながら大失態をした三菱には呆れるばかりで御座いました。
@健久保田-x4k
@健久保田-x4k Год назад
ゼロ戦は強度を捨てて運動性能や航続距離を重視したけどなぁ そっちよりにすれば成功してたと思うけどなぁ
@spgaisariasoland001
@spgaisariasoland001 Год назад
@@健久保田-x4k 強度を捨てていた、というのは語弊があるかと。 設計者としては必要な強度は確保して設計をしました。 しかし過剰な強度を削って、安全率1.8を墨守した設計は、当時としては十分な強度を持っていた筈でしたが、 機体の高速化に理論が追い付いておらず、フラッターなどで想像以上に低速で分解事故がおきました。 当初は800km/h位出せる計算だったとか。 YSと零戦は、どちらも強度計算の経験が不足だったのですね。
@健久保田-x4k
@健久保田-x4k Год назад
@@spgaisariasoland001 現に急降下には耐えられないので相手の戦闘機を追う事はできません、防弾装置はついていません。 軽量化して運動性能と航続距離を重視した結果が零戦ですよ。
@SuperPi3.14
@SuperPi3.14 Год назад
@@健久保田-x4k防弾がないのは源田実のせいであって、設計者に責任はないような。
@平賀真也
@平賀真也 Год назад
YS-11の「ビィ~ン」というターボプロップ音が懐かしいです。大好きな「ヒコーキ」です!
@熊小-j3k
@熊小-j3k Год назад
下総基地のお祭りでハンガーに何機かのYS-11が駐機してあり海自に人に聞いたら、部品取り用との事、それで何とか運用していると言ってました、離陸するときのプロペラが空気をたたくバリバリ!音が大迫力ですね。動画の通り、名だたる大戦機設計者が束になって作った飛行機ですから、コクピットを見ても洗練と言う言葉のカケラ一つない正にスパルタンと言う表現がピッタリな飛行機でした。
@shiwohira-ct6gu7fs6w
@shiwohira-ct6gu7fs6w Год назад
今から30年前に、当時の南西航空が運用していた機体で石垣島⇔与那国島を飛びました。あの独特の振動とエアコンのない空調で乗り心地は最高とは言えなかった記憶がありますが、それでも今となってはイイ思い出になっています。
@user-tk9sb6gt9s
@user-tk9sb6gt9s 11 месяцев назад
トランスオーシャンエアだったかな? 90年台に僕は羽田 石垣島路線で乗りました まだ石垣空港の滑走路が短かったせいもあって 中型ジェットは就航してなかったように思います
@メカパイロット
@メカパイロット Год назад
茨城県常総市の広沢パークにあるYS-11にはAPUがあるんだよ。 あと、当時雨後の竹の子のごとくできた地方空港の滑走路はYS-11の離着陸滑走距離が基準となってるよ。
@鐵四騎
@鐵四騎 Год назад
YS-11が最初の国産旅客機と思われがちだが、実は戦前から旅客機は製造されていて中島AT-2や三菱MC-20等があった
@ogikubo15
@ogikubo15 Год назад
九七飛行艇を改造した大型旅客飛行艇もありましたね。サイパンまで飛んでました。要素技術は外国からの導入でもエンジン機体ともに国産で四発動機の大型機を一応定期航路として飛ばしていたのですから誇らしいです。
@abbtk14
@abbtk14 Год назад
YS-11の展示機の中を歩いた事はありますが、フライトはとうとう機会がありませんでした…。乗った事がある人によると、当時は振動とか騒音とかこんなものだと思っていたそうですが、後にジェット旅客機に乗って初めてとんでもなく騒々しかったんだと気付いたとか。
@遠藤修一郎-f5x
@遠藤修一郎-f5x Год назад
成田の恋空博物館のYS11の胴体の下で外板を上に押したところ、栓を抜いていないビール缶のようにわずかに弾力を感じ、華奢な作りなんだなと思いました。宿泊した磐梯のペンションのオーナーは元航空自衛隊にいた方で、食堂にはYS11のエンジンの燃焼室のパーツがありました。「ロールスロイス製ですね」と言うと「よくご存じで」ということでした。
@kikuchankawaii7702
@kikuchankawaii7702 9 месяцев назад
タイの田舎、バンコクから車で1時間くらいのところ ナコンパトム県にある Jesada Museum になぜかYS-11が放置されています。
@delta16v1991
@delta16v1991 Год назад
ちゃんとワイエスいちいちって呼んでくれるのが好き
@mosel1971
@mosel1971 Год назад
70年代から大阪(伊丹)-高知便は、高知空港の滑走路が短かったためYS-11での旅でした。滑走路が長くなっても、伊丹便はジェット機の発着枠の関係で高知行きはしばらくYS-11でした。最後に搭乗したのは1992年の八丈島便。独特のエンジン音とシンプルなフラップが好きでした。振動はそんなに感じなかったなあ。
@ひこ丸-r6w
@ひこ丸-r6w 5 месяцев назад
道内路線を2往復搭乗した事が あります。 エンジン横の座席にアサイン、胴体直径よりプロペラ と、甲高いエンジンサウンド を堪能した良き思い出😌
@taroukuma7125
@taroukuma7125 Год назад
高松に転勤、会議に東京へこのYS機で、、辛いのなんのって揺れるしあの騒音振動。フワフワスーッと落ちる、次は急上昇。高度が低いので地上からの気流のあおりをモロに受けながら、、。二度とイヤと思ったので大阪までジェット、しかし伊丹~高松はYS11しか飛んでない。この短距離だから更に低空飛行、六甲おろしをまともに受け怖いのなんのって揺れる揺れる。着陸も当時のあの飛行場とんでもない短い滑走路、上空窓から「ワーッあんなとこに降りるのか」、着陸時の緊張、滑走路末端はすぐそこ「ワーッ」、最後のつんのめる急ブレーキ、着陸する度に怖さったらなかった。 最後にこれに乗ったのは伊豆大島往復、いや最悪。揺れるしあの騒音振動、滑走路のあの短さ急ブレーキ、いや怖かった。
@kawasakikr-1s315
@kawasakikr-1s315 Год назад
たしか、石川県・能登空港にある 航空石川学校に4機のYS-11があって、実習や整備の機材だけど、その内1機は動体保存(飛ぶことの出来る機材)となっている
@gorotame1425
@gorotame1425 Год назад
ANAしか利用がない空港にJALの学校がある不思議⁇
@cuibapsano1043
@cuibapsano1043 7 месяцев назад
頑丈な機体と驚異的な定時就航率を考えると会社(経営者・運行管理責任者)からすれば傑作機だったはず。
@noriko-nm8vc
@noriko-nm8vc 6 месяцев назад
乗心地も大事だけどそれ以上に安全性は重要です😅
@showtime1217
@showtime1217 7 месяцев назад
幼稚園児の頃、一度も飛行機に乗った事が無かった我が家の家族4人で、宮崎→鹿児島間のフライト旅行をする事に。たまたま悪天候が続き、2日間宮崎で足止めを食ったが、何とか待望の初フライトを体験しました。凄く揺れたと言う思い出が残っています。半世紀も前のお話しでした。
@yamabiko8015
@yamabiko8015 Год назад
戦前戦中でも二式大艇とか開発してたから旅客機くらい楽勝で作れたと思ってたけどなあ・・・
@kousakuguma
@kousakuguma Год назад
その後も、小型機ならばMU2とかMU200とか、そこそこ成功した機体があったんですけどねえ。
@中野義明-u1b
@中野義明-u1b Год назад
二式大艇の後継機は、PS1、US1、US2です。
@浄門道場
@浄門道場 8 месяцев назад
下総基地から飛んでくるys11の独特のエンジン音が好きでした。
@toolbox3839
@toolbox3839 Год назад
鹿児島福岡便にだいぶお世話になりました、有明海を下に見て、東シナ海に沈む夕日をエンジンに反射しつつ飛ぶのは素晴らしいものでした。
@gorotame1425
@gorotame1425 Год назад
1990年頃、伊丹〜高知・徳島便にて幾度となく利用させていただきました。狭いし棚がないしうるさいし……けど嫌いじゃなかった。一度徳島〜伊丹便を団体利用の引率者としてチェックインした際に『搭乗者全員の体重を教えてください』と言われた事があるが、後にも先にもその様な事は無い。
@nightflyer1100
@nightflyer1100 Год назад
近所の自衛隊基地で未だに運用されているようです。独特の音がするので飛んでくると「あ!YSだ!」とすぐにわかります。白/赤の綺麗な機体です
@vabbm9695
@vabbm9695 Год назад
その赤白のYS-11FCは数年前に引退し、飾られること無く重機の餌にされてしまいました。 今残ってるのは、動画に写っている灰色のYS-11E系列の機体だけですね。
@ねこあつめ-h2q
@ねこあつめ-h2q Год назад
「あひる飛びなさい」のモデルになった。 戦後初の旅客機ということで、皆が期待したのだろうな。高度成長期。
@せいじん-y8t
@せいじん-y8t 3 дня назад
その昔、仕事で種子島へ出張する事が多かったので、鹿児島-種子島路線でよく搭乗してました。 初めて搭乗した時(1985年)は悪天候だった為、途中でシートから浮き上がる感じで機体の上下動が発生して焦った(汗) 搭乗してた時の感想はやはりエンジン音がうるさかったですねー。 鹿児島からの飛行時間(約30分)は何とかなったけど、搭乗便の都合で 一度、伊丹-種子島路線も搭乗しましたが、飛行時間(約2時間)中はエンジン音が少々苦痛でした。
@aran_t
@aran_t Год назад
1987か88年だったと思います。研修で長崎から高知までYS11で飛びましたw 後にも先にもYSに乗ったのはこの一回だけですね^^;
@user-denshikousaku_staygold
YS-11のダートエンジン型見たことあるけど 遠心式ターボプロップだから甲高くエンジンが 唸っててマジでカッコよかった… ちなみにダートエンジンも大概変な構造だけど 性能的には高性能だし目立つ欠点もないんだよな そうそう、「パワステがない」って動画内で 言ってるけど、コイツには「サーボタブ」と 呼ばれる「空力でパワステを行う」装置が あるから操縦に必要な腕力は単純な手動操縦 よりはマシだぜ
@江副伸広
@江副伸広 Год назад
展示機は国内に11ヶ所有る見たいですね、近くで見る事が有って近くで観察しますとパネルの合わせのビスとか板金精度、表面形状や接着方式など、余り航空機には詳しく無いけど古さを感じました。
@nekomimiz5559
@nekomimiz5559 Год назад
堀越二郎の片腕だった東條英機の次男坊が開発していた。 ゼロ戦の番組の出演して90超えてもタバコバカバカ吸っていた。
@sunami808
@sunami808 Год назад
父方地元ニュース帰る露川がYSだったな…でもうるさい揺れる椅子は狭いでその後DC9なった時は素直に嬉しかった
@taka-sp
@taka-sp 7 месяцев назад
'80年代の沖縄県内路線では使われてましたね。沖縄那覇からの宮古島路線。全便では無かったので、YS11に当たると嬉しかった記憶があります。
@ひっくり蛙
@ひっくり蛙 Год назад
昔、お盆シーズンでキャンセル待ちでやっと乗れたYS11には乗員含めて11名しか搭乗していなかった。 おまけに、座れる座席が通路側に限定されていて、荷物も預ける事が出来なくて、座席の下に置くようにとの指示があった。 離陸時になかなか離陸しないし、何時もより時間を掛けて目的地に着いたけど、着陸も何時もと違ってハードだし、着陸してからバックして誘導路に入るまでのぎりぎりまで滑走路を使用するし、とんでもない状況だったよ。
@海が好き-c7i
@海が好き-c7i 9 месяцев назад
生まれ始めて乗った飛行機が東亜国内交通YS−11、小牧と高知の往復だった。 あのエンジン音が好きでした。
@TheBikkuri
@TheBikkuri 7 месяцев назад
天下り、第3セクターやら公益法人、傘下団体などができて最初と翌年くらいは優秀なのが降りてくるけど、優秀な人材はフレッシュな団体に降りて数年経つと程度の低い人が来るようになる。この辺が大問題。「個室、秘書、車」とか恥ずかしくないのかって。
@田中一朗-s2c
@田中一朗-s2c 7 месяцев назад
MSJも似たようなものだったらしいよ
@毛利竜介
@毛利竜介 9 месяцев назад
私の実家が札幌にあったけど、中学生時代に家から自転車で札幌丘珠空港へ30分かけてよく見学しましたね!😊
@mograd
@mograd Год назад
エアロスバルもかっこよかったなあ。しかし戦後日本の航空宇宙産業はなかなか商業的に成功した例を見たことがありませんね。ホンダジェットだけが唯一の例外でしょうか。ガクッorz
@笠原哲郎
@笠原哲郎 Год назад
三菱MU‐2は一応成功したと言えます。
@smakocchann
@smakocchann Год назад
@@笠原哲郎 wikiで見て来ましたけど、評価が高い機体みたいですね。 開発経緯を見ると、「肩の力を抜いて、無理せずに作った、YS―11の派生機」みたいな印象を受けました。 「スペースジェットも、この機体のように無理をせずに手堅く作っていれば、もしかして成功していたのでは?」 そんな事をちょっと考えさせてくれる、知る人ぞ知る良い機体だと感じました。
@smakocchann
@smakocchann Год назад
残念ですが、ホンダジェットは、ホンダという多国籍企業が作った、「アメリカの技術を使って作られたアメリカ製の機体」です。
@popakuaku3473
@popakuaku3473 Год назад
コメント指示いたします。 ホンダは暗に解っていたんだ、日本という後進国内ではモノにならんことを。世界を見てきた技術研究所のセンスと地道な努力の成果だね。技術を駆使して設計する頭が日本人であったことに意義があるわけで、自前にこだわるモノとしての国産という物差しはもはや時代錯誤。FA-200, 米国では不人気だったけど展示曲技飛行は感激モノだった、ワクワクした。
@yukihiro7116
@yukihiro7116 7 месяцев назад
ホンダはそのうち日本の自動車メーカーから外国の飛行機メーカーになるかもね。今の日本じゃあ何もチャレンジできない。
@eisei-satou
@eisei-satou 7 месяцев назад
1962年 中学二年 初飛行 ニュースの度に視ていて、親に叱られた✈️🖤
@西方秀則
@西方秀則 3 месяца назад
私が初めて乗ったのは小学五年生の時、全日空のYSー11機でした、
@ほーじ茶-c2v
@ほーじ茶-c2v 7 месяцев назад
ブラジルで70年代後半に乗ったことがある、当時はVARIG航空だったかVASPだったかよく覚えていないが、リオ・サンパウロ間で活躍していたみたいだ
@WARASUBOFACTORY
@WARASUBOFACTORY Год назад
確証はありませんが、恐らくこの YS-11 と思われる旅客機に子供の頃に乗った事があります。まだ小学校前の幼稚園の頃で、まさに人生で初めての飛行機体験だったのでよく覚えています。当時の自分の記憶に強烈に残っているのは…「初体験がプロペラ機なんでダサい!乗りたくない!どうして隣に停まっている格好いいジャンボジェット機じゃないの~!!!」~というかなりネガティブな感情でしたね(笑)。 青と白のカラーロング(全日空)で双発プロペラ機だったので、年代的にも恐らくこのYS11だったと思います。実際の乗り心地が良かったか悪かったかは何も覚えていませんが…ただ音?はうるさかった様に思います。窓際の席だったので、プロペラが回転しているのがずっと見えていて、それに応じた「ブ~ンッ!」という音が大きかった様に思います。スチュワーデスさんが居たかどうかの記憶も曖昧です。また乗り降り時に、自分はてっきり映画などでよく見る様な「タラップ車」で乗り付けて、颯爽と乗り込むものだと期待していたのに。何か普通に空港建物内から通路を通ってそのままいつの間にか機内に連れ込まれた事も、当時の自分にとっては大きなネガティブ要素の1つでしたね(笑)。 空港は記憶は余りありませんが、当時開催されていた『沖縄海洋博覧会(1975年)』に家族旅行した際に乗った事は覚えています。当時は 福岡那覇間 の航路があったのかな?でも帰りは確かフェリーでの船旅でした。肝心の博覧会の記憶はほとんどありませんが、恐らく宿泊先の那覇市内?でのバス停の重石の上に巨大なアフリカマイマイが2匹居た事を今でも強烈に覚えています。無論、帰りの船旅も初体験だったので、こちらの方が凄く感動したのを覚えています。特に船内にカレーとかの食品自動販売機があり、ジュース以外の自販機を知らなかったので、それだけで凄く興奮していた事を覚えています(笑)。
@user-tk9sb6gt9s
@user-tk9sb6gt9s 11 месяцев назад
今思うと貴重な乗機体験でしたね
@cronoss416
@cronoss416 Год назад
西武新宿線航空公園駅前に静態保存されています。興味があればぜひ観光を。確か、過去には内部公開もされています。
@FilmOfSeitokaiProPlayer
@FilmOfSeitokaiProPlayer 2 месяца назад
そういや僕の大正生まれのじっちゃんは、YS-11は揺れまくって辛かったって言ってたな。万年筆がすぐ転げ落ちまんねん(笑)て言ってました。僕はYS-11自体には乗った事がありませんが、きっと新幹線300系よりも揺れが強かったんだろうな。特に山陽区間はあまりに強い揺れで駅弁の豆や豆腐がよく落ちましたし、お茶がよく鼻に入りました。
@ohnishimasaaki3481
@ohnishimasaaki3481 7 месяцев назад
アメリカ東南部で YS-11 を運行していた Piedmont Airlines では乗客に不安を持たせないように YS-11 という名称はおろか日本製であることも大ぴらにはしておらず「ロールスロイスエンジンのプロップジェット機」と呼んでいました。新聞広告にも機体のイラストとともに常にロールスロイスのロゴマークがデカデカと載っておりました。
@kazuya1958spk
@kazuya1958spk Год назад
旧千歳空港で働いてて〜到着したYS-11と貨物運送状‼️フライトポーチの受け渡しを〜 スッチーとしてました。
@1208071208
@1208071208 7 месяцев назад
最後の路線だった福岡-松山はよく仕事で乗ってた 写真撮ってる人多くて何なんだろうとしか思ってなかったけど後になって意味を知った 別に乗ってて特別乗り心地悪いとは思わなかったけどな
@makotosawada1043
@makotosawada1043 Год назад
YS-11は確かに揺れたが、海外のローカル飛行機より安定していたね。
@鉄道模型大好きおじさん
@鉄道模型大好きおじさん 8 месяцев назад
エンジンやプロペラはイギリス製なので、厳密には純粋な国産機ではないですね。 子供の頃は全て国産で賄ったと思い込んでました。 信頼性を高めるため、敢えて手動操縦にしたと言われてますね。 一度だけ乗りましたが、言うほど居住性は悪くなかったと思います。 勿論、ボーイングなど欧米製の機体には及びませんが…
@usyachannel
@usyachannel Год назад
旅客機としては機能性能や経営も含めて超微妙な飛行機でしたが、動画にもあるように軍用機然とした設計思想と耐久性が活きて、今でも軍用機として活躍してるのがおもしろいですよね。てか本当に自衛隊のYS-11E系って格好よくて本当に今でも大活躍していて、ちょうど先週も再販になったYS-11Eのプラモデルを買ったところでした。いつまでも長く飛んでいてほしいものです
@ちゃんミニミニ
@ちゃんミニミニ 7 месяцев назад
B737が就航する前に、八丈島にYS11で行ったな。最初で最後の搭乗だった。
@トラ猫コジロー-p7h
@トラ猫コジロー-p7h 7 месяцев назад
ジェットと違い運行高度まで一気に上昇出来ない 心許ない飛行機でした
@melonpanohji
@melonpanohji Год назад
子供の頃に何回か乗ったけど、エンジン音がうるさかった記憶しかない。
@siosyosyo
@siosyosyo Год назад
油圧系がなかったとは、知らなかった。深山の油圧系も安定化できなかったようで、伝統かな。自転車と同じ操舵系だ。船のチェーンラダーなら、ラットの回転数に対し、動く蛇角を少なくすれば軽く回せることになるが、、、。フィリピンに納入したのも売ったというより賠償で押し付けたってことでしょ。
@swaka843
@swaka843 Год назад
1985年当時定期運航されていたハワイでYS-11に搭乗しました。けっこう揺れて不安だった記憶があります。
@Pt-co4ly
@Pt-co4ly 8 месяцев назад
エアコンの設計ミスで海外に売れなかったなと
@雅久倉西
@雅久倉西 Год назад
お役所絡みの会社は経営が難しいね。😅経営のお役人気質に加えて、MRJやYS11はゼロ戦の成功の反動と旅客機の経験不足が技術的に足を引っ張ってしまったらしい。国産旅客機の夢が遠のいたのはとても残念です。😢
@hirorin15
@hirorin15 Год назад
2006年にJAC「ありがとう日本の翼」塗装機で福岡〜鹿児島〜屋久島 間を弾丸往復しました。
@三四三航空隊
@三四三航空隊 7 месяцев назад
自分の出身地の空港は昔、YS11しか飛んでこず、しかもけっこう近くにあったから時々家の真上を低空で通過して、テレビの音声が聞こえなくなる有り様でした。結局、一度も乗ること無く退役してしまいましたが今でも、墓場に行くまで「好きな旅客機は?」と聞かれると「YS11」と、答えます!ボーイング?エアバス?ボンバルディア?なんだそりゃ?って感じです!!
@origy009
@origy009 Год назад
九州で一度乗ったけど狭いのと騒音がすごかったな。
@user-tk9sb6gt9s
@user-tk9sb6gt9s 11 месяцев назад
それなあああ、後振動 ぶっ壊れてるかと思ってびびった
@1113joddy
@1113joddy 10 месяцев назад
客席のいろいろな表示が日本語メインだったろりたしか壁紙が西陣織で日本を感じられるようなものだった記憶があります 丘珠からの道内便で引退ちょっと前に乗った記憶がありますがDHC6のほうが記憶に残ってる
@ドライバーセレナ
@ドライバーセレナ Год назад
旅客機はYS-11戦闘機ならF-104Jに魅せられカメラ片手に方々出向いてました。ダートサウンド昨日のことように耳に残ってます。官民とも何度か搭乗しましたが悪い印象は残ってません?各言う私は5年前に36年勤務した陸自をリタイアしました。陸自唯一の固定翼部隊で通信整備員として勤務し地元の部隊へ転属してから航空局の無線従事者として勤務してました。LR-1で要務飛行に搭乗してたとき上空で見たYSは美しかったです。
@88番大窪寺
@88番大窪寺 Год назад
「あいち航空ミュージアム」でYS-11の実機が展示されています。
@照焼-o9m
@照焼-o9m 7 месяцев назад
結局、軍用機の延長からは抜け出せなかった感じ。事業性度外視。
Далее
МЭЙБИ БЭЙБИ - Hit Em Up (DISS)
02:48
Просмотров 428 тыс.
ITZY 예지한테 AI 메이크업하기💖 #shorts
00:23
DEMONS ARE ATTACKING BRAWL STARS!!!
09:08
Просмотров 11 млн
How does the Soyuz Spacecraft work?
15:26
Просмотров 5 млн
Plarail Gyro Monorail
14:59
Просмотров 512 тыс.
МЭЙБИ БЭЙБИ - Hit Em Up (DISS)
02:48
Просмотров 428 тыс.