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藤原隆家復活の真相 道長に取り入ることで伊周をよそに瞬く間に復帰する【光る君へ】 

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参考文献
関口力『摂関時代文化史研究』
amzn.to/3UMc49G
倉本一宏『藤原伊周・隆家:禍福は糾へる纏のごとし (ミネルヴァ日本評伝選)』
amzn.to/3TDUNzP
下玉利百合子『枕草子周辺論: 続篇 (笠間叢書 283)』
amzn.to/3Rm4i5u
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藤原隆家は、恩赦からわずか半月で帰京していますが、これには有力貴族の協力者がいると見られており、かつて流罪時には藤原実資を通じて減刑を歎願して認められるなど、周囲と良好な関係にあった隆家だからこそできたスピード帰京でした。
以降も、燻る伊周をよそに順調な復帰を果たしていきますが、道長に追随する姿勢に一条天皇は失望し、隆家を周囲と敵対しながらも敦康親王を守る姿勢を見せた伊周の意志を継ぐ者とは見なさず敦康親王を後継者にすることを諦めてしまいます。
ですが、伊周の死後、中関白家を代表する立場になった隆家は、道長に追随する姿勢を改め、藤原実資とともに道長とは一線を画す存在として周囲にも認められていきました。
今回は、道長には好意的に受け止められるも一条天皇は評価しなかった、隆家の復帰の過程について紹介します!
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【画像引用】
大河ドラマ光る君へ公式サイト
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#光る君へ #藤原隆家 #大河ドラマ

Опубликовано:

 

17 июн 2024

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Комментарии : 15   
@rekishock
@rekishock Месяц назад
隆家も道長と同じように兄を支えるポジションで、好意的に見るなら自分は兄にはできない他の貴族との関係づくりに勤しんでいたと言えます。 隆家が伊周の代役を担うのは道長以上に難しいですね。
@vianeplus
@vianeplus Месяц назад
よくある兄弟の話なんだけど 弟は兄の失敗を本能的に分析して同じ轍を踏まない っていう説があったなぁ。
@iwaoushjima5928
@iwaoushjima5928 Месяц назад
隆家は長徳の変以後、大人になった感じですね。自我を押し通すだけでなく、道長と協調しながら、骨のあるところを示す。粘り強く、強かな人柄を感じます。
@user-jj6nl2up5x
@user-jj6nl2up5x Месяц назад
紫式部のお話に刀伊の入寇をどこまで絡めるのか楽しみにしてますが、やはり隆家をどこまで描くのかに掛かってますね。 周明の存在はその為の仕掛けだと思って楽しみにしてます!
@ae3779
@ae3779 Месяц назад
何だかんだ言っても、中関白家の最後の頼みの綱となったのは、よかったと思います😊  「さがなもの」(乱暴者)としてだけではなく、兄・伊周とは違い小野宮流実資(実頼・師輔・師氏三兄弟の長男・実頼の孫。同じく公任は従兄弟に当たる)と同じく、しっかり阿諛追従をしない人物。  刀伊の入寇をおさめた人物として、磯田道史先生が司会をする番組で、習いました。最も、その前から文庫本の平安時代で、知ってはいましたが😊  「さがなもの」隆家が、少し大人になって、何としても子孫を残すのだ、というのと、同じくらい、大宰大弐として目の治療として来た際、地方の武士と友好関係を結んでいたのが後になってみれば、怪我の功名、いや国難の対処法が出来たと言えますね😂
@cancan5892
@cancan5892 Месяц назад
隆家の深堀り、とても面白かったです。実資とは特に仲が良かったことが、大いに彼の生き方に良好に作用していますね。実資とは性格が正反対のようですが、かえってそれが馬が合った理由かもしれません。伊周は周囲と衝突を繰り返し急激な昇進でも妬まれている上に、性格的にも我慢ができず正面から突破型なのに対し、隆家は母の危篤の際も無断入京などせず祖父を通じて嘆願し、周りと協調しながらも自身の主張も通すという対称的な二人を見ていると、やはり周りとうまく交流していくのは処世術としては重要なことが分かります。こういう性格であったから復帰後は道長に接近し可愛がられるはずで、影子は敦成親王を出産するまでは良好な関係であったのが、それを機に変化する。元々敦康親王を後継者にしたかった一条帝も、伊周亡き後の隆家では十分な後ろ盾として不適格であり、諦めざるを得なかった。中関白家の継承の点では、隆家はあまりにも不甲斐なく映っていたのでしょう。それでも道長に追い出されるような扱いを受けた敦康親王と脩子内親王を自邸に引き取った処置には、胸がすく思いです。周りと強調しながらも、ここぞという時にはちゃんと動く、いかにも武人気質を感じます。だからこそ道長と対立していた三条天皇にも、実資と共に対抗できる反道長の(何でも道長に同調せず、物申す姿勢のある)公卿として信頼されたのだと感じます。道長に警戒されても恐れず立ち向かう隆家、ちょっとカッコいいヒーローのようですね。
@user-ye4pm9zu3w
@user-ye4pm9zu3w Месяц назад
意外にも伊周を評価する向きもあったのですね。二度にわたる呪詛事件が冤罪とすると道長のしたたかさに敗れた悲劇の貴公子、として描くことも可能なのかな?
@theshowmustgoon5760
@theshowmustgoon5760 Месяц назад
レキショック様 隆家は単なるやんちゃ坊主ではなく、海千山千の九州武士を纏める能力はあったのだと思います。もっと評価されて良い人物だと思います。
@user-fl2lo4nt3q
@user-fl2lo4nt3q Месяц назад
もしかしたら秀吉より前に武家関白として活躍したかもしれないな。 藤原隆家は…
@stofyuki3875
@stofyuki3875 13 дней назад
西郷どん「おいどんの御先祖様凄かね」
@user-dg4bc7by2y
@user-dg4bc7by2y Месяц назад
安倍晴明に、隆家はあなたのお役に立つと言われていたから大丈夫かあと思ったけど。 道長は受け入れたのでは!
@user-jy4fc2pm3m
@user-jy4fc2pm3m Месяц назад
隆家の太政官での地位はとても低い。中納言で終わった。だから、道長政権では、生き残る事ができたかもしれないが、一条天皇からの信頼を失ってしまった。この後、中関白家からは、大臣は出ない。摂関家の庶流扱いになる。私は、とある歴史の先生から、一条天皇は伊周、隆家が嫌いだったと聞かされていたが、考えてみると、彼らを疎んじてしまっては、敦康親王の即位の道が閉ざされてしまうんですよね。
@user-jy6nk4gh8w
@user-jy6nk4gh8w Месяц назад
大臣になれなかったとしても 明治まで羽林家として大納言まで 昇ることができる家として続き 明治時代の華族制度て子爵の家として終戦まで続いたことはすごいでしょ 中納言というのは会社でいえば 常務クラスでは? 大臣→副社長クラス 大納言→専務クラス 中納言→常務クラス そんなこといったら小野宮流はどうなる? 鎌倉時代には家は 残ってないよ
@user-jy4fc2pm3m
@user-jy4fc2pm3m Месяц назад
@@user-jy6nk4gh8w 敦康親王が天皇になれば、中関白家は、隆家が復興する事ができた。つまり、摂関家は彼の子孫が代々次ぐ事ができた。なるほど、実頼、頼忠二人の摂関経験者が出たが、小野宮家は天皇に娘を入内させる事ができたが、後継ぎになる皇子が生まれたかな?これが、平安時代の身内政治の最大の権力の源泉です。
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