Тёмный
No video :(

親鸞会は一念覚知の異安心ではない 

浄土真宗を学ぶチャンネル by 渡部隆志
Просмотров 3,1 тыс.
50% 1

【無料】電子書籍「浄土真宗まるわかり本」をプレゼント
learn.shinrank...
この1冊で「うちは浄土真宗」の意味がスッキリします
チャンネル登録はこちら
/ @jodoshinshu-ch

Опубликовано:

 

22 авг 2024

Поделиться:

Ссылка:

Скачать:

Готовим ссылку...

Добавить в:

Мой плейлист
Посмотреть позже
Комментарии : 27   
@user-np1rc8rt1z
@user-np1rc8rt1z 3 месяца назад
そもそも、救われたら救われたことがハッキリすることが大事であって、救われた年月日時は問題にならない。 ハッキリするというのは、救われてない人からすると、年月日時がハッキリするとしか思えないからこのような疑念が出てくるのだろう。
@ryo984
@ryo984 3 месяца назад
おっしゃる通りです。細かい時間だけでなく、日付も人間の記憶ですからね、忘れます。他力の信心を得ていてもボケて昔のことを忘れた方が異安心と言ったらおかしいですね。人間の記憶の有無で無くなったりする信心ではありませんね
@user-mm5er7jf7r
@user-mm5er7jf7r 3 месяца назад
しかし、自分や子供の誕生日、結婚記念日など、大事な日は覚えていますよね。人生の目的を果たした日を忘れるはずはないと思います。
@ryo984
@ryo984 3 месяца назад
@@user-mm5er7jf7r 痴呆になれば忘れます。記憶の有無で他力信心の有無を判別すること自体が愚かなことです
@user-qg2hh2pd5z
@user-qg2hh2pd5z 2 месяца назад
私の心がハッキリすることは、イコール信心ではないので、別に大事ではないですよ。それが信、不信のさかいであるように説くことが問題だと言われているのだと思いますよ。私の思いとは全く別に「今救う」の阿弥陀仏の呼び声があることを聞かせて頂くことが大事だと思います。 南無阿弥陀仏
@user-dg8oy4jx7h
@user-dg8oy4jx7h 3 месяца назад
「何時何分何秒」というのは極端すぎるかと思いますが、「ハッキリする」のであれば「何月何日頃」は覚えていてもいいのではないでしょうか? 逆に言えば、おおまかな日付すらも覚えていない=(親鸞会で仰る)「ハッキリ」していない=救われていない になるのではないかと思いました。 これも異安心になりますでしょうか?素人にはここが難しいところです。親鸞会の方に限らず本願寺派やその他の真宗に詳しい方の見解をコメントいただけると幸いです。
@user-qg2hh2pd5z
@user-qg2hh2pd5z 2 месяца назад
「時刻(実時)を覚えていること=信心」ということが一念覚知と理解しています。親鸞会はそのようには言われていませんし、そういう意味では一念覚知ではないと思います。 ただ、「ハッキリした(つゆチリの疑いない)こと=信心」と渡部さんは理解されいるのではないでしょうか? それは、形は違いますが、本質的には自身の心境を物差しに信の有無を計らっている状態であると感じます。その点で本質的には同等と思いました。 私の三業をどれだけ伸ばしても信心には至りません。 信心を頂けば、たしかに三業は変わるところがあると思いますが、それを基準に信心は推し量れないと思います。「ハッキリしているから信心、していないのは未信」と心のありようをもとに信心を推測すると、変わり通しの自分の心ばかりに注目し、心境の変化を追い求めて、一番大切な阿弥陀仏の仰せに耳をふさぐ形になりかねません。 親鸞聖人も蓮如上人も、妙好人と言われる方々も、それぞれお念仏にあわれて、その境涯を仰っておられますが、それは決して「条件」ではないと思います。阿弥陀仏のお約束はあくまで無条件のお救いであり、何らかの条件をつけようとしているのが自力と思います。それが「時刻を思えていること」が条件であれば一念覚知と言われるものですね。 時刻ではないにしろ、「私の方」に何らかの条件付けをされていませんか?そこが親鸞会に対しても指摘をされているところと感ずるのですが、いかがでしょうか?
@harutohkahri
@harutohkahri 3 месяца назад
他の方も言及されていますが、獲信した一念の仮時が分かるのであれば、当然実時も(ある範囲内で)わかると思います。例えば「蜂に刺されたとき」は「2024年5月9日12時頃」って普通にいえますよね。なんというか問題の本質を取り違えているように思います。そもそも獲信の瞬間がハッキリするかしないかに拘りをもっているところが親鸞会が「一念覚知の異安心」と言われるゆえんだとおもいます。
@user-eg1vq6mn9b
@user-eg1vq6mn9b 3 месяца назад
わたしも浄土真宗の僧侶ですが、高森氏が、日時の覚不をおっしゃっていないというのはよくわかるのですが、親鸞会の人がよくおっしゃる、はっきりする、はっきりしなきゃいけないというような表現が、誤解を生んでゆくんだと思います。結局はっきりするものをはっきりしてないじゃないかという批判というか、指導的な論調になりますし、はっきり自覚しなきゃいけないという口ぶりは、結局自分の当てにならぬ心を当てにしてしまうことになりかねません。だいたいわかる、聞くという方向では永遠にわからぬ教え、自から覚するという方向では出会えぬが、妙好人いわく、わからせてもらった、聞かせてもらったという教えであったといただいてゆくばかりとご教示くださいました。したがって自覚という言葉も、真宗でははっきりいって他(如来)によって知らしめる(覚)のであって、あんまりはっきりする、自覚すると強調されないほうがいいのではと思います。結局一念覚知の異安心への萌芽だといわれてもしょうがないのではと思います。はっきりせにゃならん、はっきりしてない人はいけないみたいな論調の延長には、どこまでいって機の心を当てたよりにしてしまう面から離れられないのではないでしょうか。もうすこし力みをなくしてゆかれたほうがよいのではと思います。自分でかためる心ではないのでありますから。ただ仏のかたよりの教えですから。
@yanfuru5323
@yanfuru5323 3 месяца назад
おっしゃる通りかと思います。 自分の気持ちをちゃんと言語化できない自分が、悲しいです。(>_
@goostudio2468
@goostudio2468 3 месяца назад
たしかにそうですね。
@user-cd6wn2sv7g
@user-cd6wn2sv7g 3 месяца назад
真宗の肝要の一念の話をしているのです そして親鸞聖人 覚如上人 蓮如上人のご聖教を通して渡部先生は説明されているのです 妙好人をだして論点をすり替えないでください 聖人一流の章の一念発起入正定聚の重要なところです ここは渡部先生の仰っしゃるとおりしっかり論じ 間違いはただしていかなければなりません 御聴聞されている人の後生がかかっているからです
@THE.Everestlist
@THE.Everestlist 3 месяца назад
@@user-cd6wn2sv7gちなみに豊田商事の社長のお墓には高森氏はお参りされたのかな?
@user-qg2hh2pd5z
@user-qg2hh2pd5z 2 месяца назад
仰る通りと思います 南無阿弥陀仏
@user-jo1lr3yp3u
@user-jo1lr3yp3u 3 месяца назад
ありがとうございました。
@user-lt3em7kz8h
@user-lt3em7kz8h 3 месяца назад
渡部隆志様 桜嵐坊様は、「布教使です」が、「住職ではない」かと存じますが・・・😅 「人間」誰でも勘違いがありますからね😂
@user-eg1vq6mn9b
@user-eg1vq6mn9b 2 месяца назад
​ @user-cd6wn2sv7g 論点をすりかえてなどしてませんが、弥陀につかまれるが信で、親の子を抱く心が信、だから阿弥陀様の心が信にほかなりません。だから、あれ(あみださま)に聞きゃええというのが真です。ましてや信心の有無など凡夫の沙汰にあらずです。親鸞さまのおっしゃるように面々の御はからいなりという言葉につきるかと。はっきりしなきゃいけないとは、まだ機の力みとしかおもえません。親に抱かれた子は、はっきりするとかしないとかいう意識はみじんもなく、ただ抱かれるままにまかせているのみです。その状態を信というのです。なもあみだぶつ。
@yanfuru5323
@yanfuru5323 3 месяца назад
信心獲得は一瞬ですから、何時何分に頂いたのかは当然わかると思うのですが…。 ただ、何時何分に頂いたかということを記憶/記録していなくても信心獲得が取り消しになることはないと思います。 議論の争点が、よくわからなくなってきました。 信心獲得しているお坊さんは案外少ないのだろうか?
@user-cd6wn2sv7g
@user-cd6wn2sv7g 3 месяца назад
論理的で筋の通った説得力のある尊い御説法有難うございました 真宗の肝要は 妥協することなく説ききる強い意思を感じました 阿弥陀様の本願の一念をボンヤリしたものと捉えていいみたいな本願寺の僧侶がいる事自体問題であり 門徒は救われません 渡部先生の御説法は真宗に光を与えてくれます
@user-qi1cu1qp7j
@user-qi1cu1qp7j 3 месяца назад
いつもありがとうございます。たのむ一念。聞即信。自力がすたって他力に入る。ここまで必ず聞くのだぞ。はい
@user-cy8oc6vm3z
@user-cy8oc6vm3z 3 месяца назад
信楽開発の一念は、時刻の極促だから、実時が分かるはずもない。分かる必要もなければ、記憶出来るはずもない。しかし仏智満入した明らかな不退転の大自覚まで、凡夫に分からないわけではなく、金剛の真心が徹到すれば、ツユチリ程の疑いもない大安心の明らかな自覚がある。渡部先生、よく分かりました。有難うございます。🙏😄
@117neko
@117neko 3 месяца назад
南無阿弥陀仏m(__)m
@barcahide360
@barcahide360 3 месяца назад
菊谷さんの名前は出さないでください。
@user-kv5ew8yr9z
@user-kv5ew8yr9z 3 месяца назад
南無阿弥陀仏
Далее
人生は思い通りにはならない
11:00
Просмотров 148 тыс.