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邪馬台国の謎 

葛木御歳神社 -MitoshiJinja- 公式Channel
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葛木御歳神社の宮司が、邪馬台国の謎について語ります。まずは魏志倭人伝の記述がちょっと変!
ヤマトでも九州でもないような不思議な記述について。
邪馬台国は「女王国」と呼ばれます。古代日本には多くの「女王国」が存在していた!?
最新の茶臼山古墳を始め、遺跡からわかること等々・・・ぜひご覧ください。
葛木御歳神社公式HP www.mitoshijinja.jp/
葛木御歳神社 神道講座案内↓
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9 сен 2023

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Комментарии : 185   
@tamachan8587
@tamachan8587 Месяц назад
虫の声のBGMが心地良いです。 和辻哲郎氏が大和政権の出自が九州(日向)であることについて記紀編纂時に正史として記載する事項であったことは、畿内の銅鐸文化が九州の剣・鏡・勾玉文化に移っている考古資料と矛盾しないと語っています。また、2~3世紀半ばの考古出土資料について大和地方と九州地方を比較すると圧倒的に九州地方が魏の国と交流していたと思われる出土物が発掘されていることを纏向を発掘した関川尚功氏語っています。また、統計学を以て考古資料を分析している安本美典氏も詳細に出土物を比較された著作があります。私は邪馬台国九州説を支持します。
@mitoshijinja
@mitoshijinja Месяц назад
良いですね! どちらにも、決定的な証拠がなく、どちらにも矛盾があり、だからこそのロマンですね🍀
@haruyukihayashi3796
@haruyukihayashi3796 2 месяца назад
三角縁神獣鏡はすでに500枚を超えている。しかも日本にしかない。
@landwalker6941
@landwalker6941 5 месяцев назад
鬼道と桃の関係性やヒメとヒコの分担など、新しい知識が紹介されていて非常に参考になりました。いわゆる精神的な尊厳を示すシラスと統治する権力を示すウシハクとの関係がヒメとヒコの関係のように思われました。邪馬台国がどこにあるかは私にはよく判りませんが、なんとなく北部九州なのかなと思っていました。理由は卑弥呼の墳墓が径百余歩とあるので円墳ではないか、大和王権の象徴が前方後円墳でその先駆けが箸墓古墳なので、もし卑弥呼の邪馬台国がここにあったのなら古事記や日本書紀に卑弥呼について詳しく語られていなければならないのではないか、頻繁に大陸と交流していたのであれば、後の世でも防人を配したり元寇に備えたように、北部九州が適地なのではないか、といったようなイメージです。ちなみに私は仁徳天皇陵のある堺市出身にもかかわらず、なんとなく北部九州かなと思っていました。本当のところは判らないのでもっと色々な情報に触れたいです。
@mitoshijinja
@mitoshijinja 5 месяцев назад
私の動画「邪馬台国の謎」では、卑弥呼は倭迹迹日百襲姫としました。 ヒミコは姫巫女から来ていると思います。百襲姫は託宣をおろし祭祀女王のような風格です。
@nekono_mimikon
@nekono_mimikon 9 месяцев назад
江戸時代になっても庶民は裸足である事を好んだので、その記述は日本の歴史と合致していると思います。 泥濘も木靴などでは歩きにくいですが、裸足なら問題無く歩けます。 履物で深い泥濘を歩く場合は脛まで覆えるブーツや長靴でなければ、隙間から泥が足裏と靴の間に入り込んで非常に不快でしょう。 またいわゆる魏志倭人伝では倭から絹五十匹が献上された旨も書かれていますので、現に遺跡から絹が出土している事でむしろ正確性が伺えると思います。
@ugo3943
@ugo3943 5 месяцев назад
魏志倭人伝が複数の伝聞をまとめたものとする説には共感です。 邪馬台国までの道のりを距離表示から途中で日数表示に変わるところなどは当に頷けるところですね。 あとは、魏からの何かしらのモノが遺跡から出てくることを願いますね。 鏡も材料分析してどこの国の材料で作られているかを探って欲しいですね。 とにかく、あとは証拠ですね!
@bluemoutain5675
@bluemoutain5675 6 месяцев назад
侍女千人は嘘。と思う。江戸時代の大奥だってそんなにおらんだろ。
@mitoshijinja
@mitoshijinja 6 месяцев назад
確かに多すぎるかも?
@bluesky-yq2xh
@bluesky-yq2xh Месяц назад
貫頭衣、裸足、手づかみは一般庶民つまり農民じゃないですか? 農作業は大変な重労働で風通しが良い服、すぐ脱げる服が必須😮です。頭には汗拭きの手ぬぐい布を巻くのも普通です。 また農作業では靴や草履は邪魔で裸足の方が効率的。田んぼでも畑でもその方が歩きやすいのです。 だいたい10時、3時に軽食を取り、12時に昼食を取りますが10時、3時は甘物の類、お昼は春秋は握り飯、夏は腐敗を避けて押し寿司の類で皆手づかみです。時間に余裕がある時は川魚を串焼きで食べることもありますがもちろん素手です。 以上昭和40年代の日本の農村の風景で倭人伝の描写に何の違和感もありません。 農作業は主に春から秋までで大変な肉体労働なのです。寒冷期といっても海は今よりも内進していたのでむしろ今よりも暖かかったのでは?要するに農作業の衣服として寒いはずはありません。たぶん上半身はすぐ裸になっていたのではと思う程です。 ちなみに田んぼ作業は湿地なので食事は丸太の椅子に高槻みたいな持ち歩ける軽量の食台を使用していました。これも昭和40年代の話です。
@user-on1nb9wy9h
@user-on1nb9wy9h 6 месяцев назад
昔、沖縄や九州あたりでは、東=アガリ、西=イリ、南=ハイ、北=ニシと呼ばれていたそうですが、このせいか今でも方角と地名があべこべになっている地域があるみたいですね。ニシが北になって伝えられてしまったのか、日本が時計回りに90度回転して描かれてる混一 歴代国都之図などもありますからねえ。そうすると九州より南にあったと書かれてても間違ってないのかもしれませんねえ。知らんけど。
@mitoshijinja
@mitoshijinja 6 месяцев назад
なるほど〜面白いですね❗️ アガリ、サガリ、のぼり、くだり、色々な言い方があると混乱しますよね。 もっと南なら習俗的にも問題ないですね😅💦
@kenn8438
@kenn8438 10 месяцев назад
古代の日本に多くの「女王国」が存在していたとの意見には全面的に同意します。 ただし魏の文官はその事実を正確には把握していなかったでしょうね。
@mitoshijinja
@mitoshijinja 10 месяцев назад
コメントありがとうございます。 ですね~なので、日本の文献と齟齬が生じるのでしょうね。
@junjun4919
@junjun4919 6 месяцев назад
●中国語の「王」は王様の他に「行動や様態が、一番やチャンピオンであること」の意味があります。 ●『新唐書 日本伝』では「日本、古倭奴也」(「日本は、かつては倭の者どもだった」)とあります。阿蘇山の噴火のことなどの表記でも類推できるように、「倭(国)」は九州にありました。つまり邪馬台国の元は九州で起こりました。(「国」を使っていないので、まだ国家としての形態をなしていなかったかもしれません) その倭が東方に移動して、畿内に住居を構えると、畿内土着の地主(単なる勢力かも)との間に紛争が起こります。倭は漁業で生活していたので、入墨などがあり、地元の人とは見かけも大きく異なっていたからかもしれません。紛争での死者も多くなったので、両者で協議し、神に裁可をお願いすることになった。 選ばれたのが卑弥呼(巫女。つまり結婚せず、子供もいないので中立的な立場)。彼女は日が昇る直前に太陽に向かって、神の声を聞き、それを一般人に伝えた。朝の太陽の光でライトアップされた彼女は神々しく輝いて見えたでしょう。特に漁業では朝の天候で漁の出来不出来が決まり、波の状態が死に直結するので、毎日の仕事として、神の声を一般人に伝えた。それで紛争はなくなった。後に「倭」(読みは「やま、あるいは、やまと」)は自分たちを「日本」(読みは「やまと」)に改名した。 卑弥呼の死後、再び紛争の世になったが、卑弥呼の一族の13歳の少女を「日の巫女」に据え、毎日神の声を聞けるように戻して紛争は収まった。 ということではないでしょうか。 日の巫女が太陽を拝む風習は、簡略されて、朝に太陽が昇る時に拝んだり、初日の出で太陽が昇る様子を見る風習として今でも行われています。
@user-sc8is4ux3x
@user-sc8is4ux3x 6 месяцев назад
邪馬台国は沖縄だと思う。服装、イレズミ、生野菜を食べる、裸足、シャーマニズムからして沖縄意外に考えられない。沖縄は戦前までは刺青をしていた歴史があります。沖縄は太古の昔から女王国です。 実は今でも皇族の方々は沖縄の久高島を訪ねています。大昔からの慣例と聞いたことがあります。皇族の方々に聞いてみたらいいかもしれません。
@user-iy6mq3fm4m
@user-iy6mq3fm4m 6 месяцев назад
違うよ…邪馬台国との交流はありましたが、江戸時代までアイヌ(旧倭人)は交流していました。 現代日本人は、3世紀頃に渡来した渡来人と旧倭人の混血だそうです。 DNAの研究によりほぼ間違いありません… 三国志の影響って凄すぎ…です
@user-gi2eu4ou3r
@user-gi2eu4ou3r 5 месяцев назад
九州で、今使われている ◯◯たい ◯◯どー ◯◯へー 等は沖縄語です。 倭 国以前から使われています、万葉集にも沖縄語が散見しますね、昭和50年頃でも裸足や入れ墨が身受けられました。 沖縄発祥の祭祀文化は日巫女を配し、九州の久留米吉野ケ里辺りに、卑弥呼系列の一大率国を置いていた。 琉球語は日本語の祖語だと英国の言語学者◯◯チエンパレン公が説いています。西日本東北全国で使われていたんです。 万葉集琉球語。 かなしい-愛しい とじ-妻 てさじ-手拭い 等などまだ有りますね。 言語学者は奮闘してもらいたい。 倭国以前のアマ国(皇祖島)琉球弧は歴史から消されています。 南島に歴史が有ると不味い人々、武力(鉄剣)渡来系が大勢います。 15:50
@1632takahashi
@1632takahashi 9 месяцев назад
出雲口伝ではヒミコは豊国の王ですね。全国王とさとられないようにぎからの使者を来させなかったそうです。
@asa01053
@asa01053 5 месяцев назад
知りませんでした!やはり大分県ですか
@majesty164
@majesty164 10 месяцев назад
倭迹迹日百襲姫の迹迹日は恐らく鵄などの鳥の意味に見えます。 桜井茶臼山古墳の別名、外山(とび)茶臼山古墳も同じ語源かもしれませんね。 所在地は鳥見山ですし。 唐古・鍵遺跡で見つかった土器からは鳥装の女性シャーマンと見られる絵があり、 これも上記の百襲姫のイメージにぴったり合う様に思えます。 唐古・鍵遺跡の周辺はかつての大和郷であり、 更に弥生後期から吉備地方の影響を強く受けていた様なので、 最終的に出雲・吉備・大和などの諸国の集合体として纒向に新たな都市を築いたのでは無いかと。 (いち小地域だった最狭義のヤマトから狭義のヤマトへ) 百襲姫の時代〜崇神帝によるヤマト王権の確立 (狭義のヤマトから広義のヤマト・オオヤマトへ) 辺りの出来事こそ卑弥呼〜男王の時代と最も矛盾なく一致する様に思えます。
@mitoshijinja
@mitoshijinja 10 месяцев назад
コメントありがとうございます! 同感です♪ 纏向遺跡には、出雲、吉備、高志などから運ばれた遺物が出土してるので、 畿内だけではなく、もう少し広範囲の連合政権の都の可能性があると思います。 そして、記紀にも崇神天皇の頃から四道将軍として、北陸、東海、西道、丹波に派遣したと記されているので、さらに広義のヤマト王権へ移行するのではと思っています。 そう考えると奈良県内に争った痕跡が少ない理由も説明がつきます。 また、日本書紀には崇神天皇の時代に人々の半分以上が死んで騒乱が起こったと書かれているので、崇神天皇初期にも何かしらの騒乱があったのではと思っています。 鳥装のシャーマン!鳥は葬送儀礼にも関係し、あの世とこの世を行き来するシャーマニズムには必要だったと思います。
@majesty164
@majesty164 10 месяцев назад
@@mitoshijinja ​ ご返信ありがとうございます! まさに崇神在位前期のゴタゴタこそ卑弥呼没後、男王即位時の混乱其の物と見ています。 恐らく両勢力には元々対立関係があったのでは無いかなと… 百襲姫の不名誉な最期のエピソード、 その後豊鍬入姫に笠縫邑へ天照大神を祀ったという流れも、 男王崇神が諸国の反発に対する妥協案として旧来の祭祀を 宮外で行う事にしつつ、娘をその立場に据える事で祭祀王の影響力縮小を図った、 こんなストーリーを描いています。 余談ですが、こんにちの"大和"のアクセントって畿内方言そのものなんですが、 あまり意識されている方がいない様に思います^^;
@mitoshijinja
@mitoshijinja 10 месяцев назад
返信ありがとうございます。なるほど〜です!確かに百襲姫の最期のエピソードは謎ですね。 あるいは、崇神天皇がそれまでの祭祀ー八咫鏡を宮中で祭る祭祀ーを続けることができなくなったのかも?とも思っています。 何かしら神々からダメ出しされたのかも?とか💦 色々混乱の時代だった気がしています。
@user-zm6iw4cl2z
@user-zm6iw4cl2z 10 месяцев назад
百襲媛の様々な謎は考察しがいのある存在ですね。 忘れがちではありますが、百襲媛の若い頃の逸話は無視されがちですが、瀬戸内海でとても聡明な媛として活躍していた点も無視出来ません。古い村上水軍なんかは百襲媛を始祖として扱っていたなんて話もあります。 日本書記にある箸墓逸話は不思議な話ではありますが、あれは百襲媛より大物主を小さな白蛇だと嘲笑している点が重要な点ではないでしょうか? ヤマトの古い神の価値を下げる目的だったのではと思います。
@mitoshijinja
@mitoshijinja 10 месяцев назад
@@user-zm6iw4cl2zさん、 百襲媛は瀬戸内で若い頃育つんですね! これは調べてみます❗️ 葛城にゆかりのある私なので、葛城鴨氏との関係で考えると、神武天皇からしばらくは后が鴨氏関係でたぶんシャーマン的な立場であったと思っています。 それが、崇神天皇からしばらく后が鴨氏と無縁になります。百襲媛はどこの出自なのかと思っていました。 その後、神功皇后からはまた葛城氏ゆかりの時代になります。百襲媛、もう少し追ってみたいです❗️
@Simainokke
@Simainokke 4 месяца назад
視聴させていただきました
@user-dc6qf7cp7c
@user-dc6qf7cp7c 10 месяцев назад
仰る通りでしょうね。大変理に適ったお話だと思います。
@mitoshijinja
@mitoshijinja 10 месяцев назад
ありがとうございます❣
@kazuomoriya348
@kazuomoriya348 9 месяцев назад
簡単に納得するのは危険です。
@horus3226
@horus3226 10 месяцев назад
卑弥呼の士官として登場する伊支馬(いくめ)=イクメイリヒコ(垂仁天皇)、彌馬獲支(みまかき)=ミマキイリヒコ(崇神天皇)って話もあったりしますよね
@mitoshijinja
@mitoshijinja 10 месяцев назад
名前が似てますよね^^ただ、長官を伊支馬、次官以下を弥馬升・弥馬獲支・・・なので、10代崇神天皇より11代垂仁天皇が位が上になっているのが、気になりますが^^
@user-zm6iw4cl2z
@user-zm6iw4cl2z 10 месяцев назад
邪馬台国の官名にはイクメ ミマキ、ミマカキ ナカテとありますね。 これは後年に奈良の地名、生駒、牧、額田となる可能も指摘しておきます。
@nihontaro9
@nihontaro9 6 месяцев назад
イクメ大王第11代垂仁天皇のお名前のイクメはシナの司書に書かれてた官位からというより、第二次物部東征で大和に東征した際に、長く生駒山に陣取って留まったイコマ山に因んでイクメと後付けで呼ばれたお名前の様ですね。
@user-zh7rw3go2d
@user-zh7rw3go2d 10 месяцев назад
習俗に関しまして私見では中国からの使者が倭国に来たのは当然夏場で、冬場朝鮮半島を経て海を渡り来るのは当時としては難しいでしょうから、 夏場なので東南アジア系の衣類と着て暮らしてたのかなと思いました😅私タイに以前行きましたが夏場の日本と気温はそんなに大きく変わらないと思った記憶があります😅
@mitoshijinja
@mitoshijinja 10 месяцев назад
コメントありがとうございます^^確かに冬は難しいですよね。ただ、靴を履いていないのも遺跡とも合わないですし、主食は雑炊のように米を炊いていたと考えられていてそれを木のスプーンで食べていたとか、色々な習俗が違います。また、近年は日本は熱帯化していますが、このころは、寒冷期になるので、ちょっと考えにくいかと思っています^^
@user-zh7rw3go2d
@user-zh7rw3go2d 10 месяцев назад
たしかにw魏志倭人伝の中に裸国黒歯国という国の記述もありましたから作者の陳寿が倭国を現在の日本ではなくもっと広範囲で捉えてたかもしれませんね😅
@kei.suzuki
@kei.suzuki 10 месяцев назад
・纒向型前方後円墳の全国展開(関東から九州まで) ・3世紀前期から中期とされる庄内式土器の分布(畿内から各地に人が流入) ・出雲、吉備、大和の連携(特殊器台などの土器分布から見て明らか) ・巨大古墳を築造できるほどの人数を動員、管理できる ・唐古・鍵遺跡のような弥生環濠集落が一斉に消えて環濠が無い新しいスタイルの纏向遺跡が登場 これらの事実から、3世紀前期には既に大きな勢力が奈良盆地にいた事が分かります(唐古・鍵遺跡は在来勢力で、纒向遺跡は吉備と関わりのある新興勢力)
@mitoshijinja
@mitoshijinja 10 месяцев назад
コメントありがとうございます^^吉備は重要ポイントですよね^^ 色々な歴史に吉備が関係しているきがしています!
@sunsun2181
@sunsun2181 9 месяцев назад
いやいや、だって3世紀なんて、すでに大和朝廷ができていて、畿内で国作りしてます。纏向は、出雲の支店か、大和朝廷でしょうに。
@user-ze6gh3iy7z
@user-ze6gh3iy7z 10 месяцев назад
初めまして、これって倭の人じゃなくて、日の本の人じゃないかって⁇? ぱっと見思ったんですが、日の本の人達にしては男の人が刺青入ってないしなぁって。最近良く邪馬台国や宮下文書やホツマ伝え何かを、RU-vidで見るようになりました、最終的に近畿で落ち着いたと考えています。それまでは西日本を(九州、四国を含め)移動してたのかその時の政権で重要な地だと思われる地域に都を置いたので各地に伝説が残っているって考えています。そんで自分は邪馬台国の卑弥呼とアマテラスさんは別と考えていますがどうなんでしょうか? まだ最後まで動画を見てないんですが、ついコメっちゃいました。もっと言うと俺は邪馬台国卑弥呼伝説は出雲系の神話?伝承⁇実話⁇?って考えるようになりました。アマテラス系が入ってきて、我は天皇なり〜これからはわしらが全てをおさめる〜ッとか言って、邪馬台国神話をパクったか、乗っ取ったって考えるようになりました。これ自分の考察なんで間違えたいて当然でしょうけど〜
@mitoshijinja
@mitoshijinja 10 месяцев назад
天照大御神と卑弥呼は別だと思っています。刺青は畿内説のウィークポイントですね。ですが、そもそも裸足だし、服装も日本的ではないので。 卑弥呼はヒメヒコ制で考えるとわかる気がしています。記紀神話編纂の天武天皇の時代、ヒメヒコ制を軽んじていた(というより、言いたくなかった^^)のでは~と思います。
@haruyukihayashi3796
@haruyukihayashi3796 2 месяца назад
養蚕をしているので絹のないところに邪馬台国ははない。
@mitoshijinja
@mitoshijinja 2 месяца назад
三世紀の奈良県で、最近の発掘で絹が見つかっていますよ^^
@haruyukihayashi3796
@haruyukihayashi3796 2 месяца назад
生産はしていない。わずかに出た程度。調べて。
@mitoshijinja
@mitoshijinja 2 месяца назад
少し後の茶臼山古墳では、鏡が絹布で包まれています。畿内で生産をしていないと考えるほうが不自然な気がします。気がするだけですが~(^^; 今後出てくると信じています^^
@kazupon1967
@kazupon1967 10 месяцев назад
ヒミコはヒムカ=日向にいた ヤマト国は九州と近畿両方にあった(神武東征で宮崎〜近畿に遠征して制圧) 魏国の使者は北九州にある出先機関の役所(太宰府周辺)にしか行ってない かと
@mitoshijinja
@mitoshijinja 10 месяцев назад
コメントありがとうございます^^最近両方にあった説!結構よく聞かれますね^^ 可能性はあると思います!
@KeCN
@KeCN 9 месяцев назад
正始元年(紀元240年)に、詔書印綬を奉じ銅鏡100枚を 携えて魏使・梯儁を派遣したとの記録がある。帯方郡の武官であった張政は、正始8年(247年)に邪馬台国が狗奴国と紛争になった際、和睦を促すために魏から派遣された。張政は、卑弥呼の後継者争いに巻き込まれ20年近く邪馬台国で過ごし泰始2年(266年)に帰国したとされる。 大宰府は九州王朝時の7世紀前後に作られた日本最初の条坊制の都であり3世紀にはその機能は無いと思う。
@masamasaict7312
@masamasaict7312 7 месяцев назад
インド王じゃない。沖縄説ありえる。アマミキヨ族。海洋国家で呉に対して大月氏国くらいの影響力がある。まず呉服の起源を知りたい。全然、動画が出てこない。西日本は稲作や呉服など長江流域からの勢力範囲だとすると果たして交流があるだろうか?常陸国=日高見国説が面白い。出雲、越、常陸国、東北が連合して女王国の範囲。
@mitoshijinja
@mitoshijinja 7 месяцев назад
長江流域が起源のミャオ族(苗族)との関係もよく云われますね。アマミキヨは海から尊い方がやってくるので、もしかしたら、琉球の建国にヤマトが関わるのかも?ですね。
@ernest-tachibana
@ernest-tachibana 5 месяцев назад
邪馬台国の男性の服装についてですが、恐らくそれは大嘗祭の神事の中で天皇陛下がお召しになる鹿服(あらたえ)と同じタイプの衣服だと思われます。 鹿服は丈の長い一枚布を体にグルグルと巻き付けて衣服とする、ちょうどインドの女性たちが着ているサリーと同じ種類の服です。 古来から天皇が即位する度に行われる大嘗祭で、新たな天皇として即位した人物がこの鹿服を身に纏い皇室の秘密の儀式に臨んできました。 今でこそ大嘗祭の様な極めて特別な場合でしか着られない衣服ですが、邪馬台国時代においては一般的な服装だったんじゃないでしょうか? 少なくとも魏志倭人伝での倭国の習俗は南方のソレとゴッチャにされている・・という訳では決して無さそうです。魏志倭人伝はかなり正確な文献だったと言えるでしょう。
@mitoshijinja
@mitoshijinja 5 месяцев назад
コメントありがとうございます。大嘗祭の御召し物についての情報は、私は全くの初耳なのですが、もし、よろしければ情報ソースを教えて頂けませんか? 一般の認識は、宮内庁発表の通りなのですが。。。 以下リンク貼っておきます。宮内庁がかなり詳細にネットに情報を入れています。 www.kunaicho.go.jp/kunaicho/shiryo/tairei/pdf/shiryo301219-2.pdf こちらは國學院大學の教授のお話です。 www.kokugakuin.ac.jp/article/167233
@ernest-tachibana
@ernest-tachibana 5 месяцев назад
@@mitoshijinja 「三木家・あらたえ」でググってみて下さい。色々とヒットするはずです。 魏志倭人伝は決して南方の習俗と倭国の習俗をゴッチャにするようないい加減な文献じゃありませんよ。 事実、魏志倭人伝に記された邪馬台国時代の倭人の服装が皇室行事の中でしっかりと保存されていた訳ですからね。
@mitoshijinja
@mitoshijinja 5 месяцев назад
麁服(あらたえ)については、神職で知らない人はいないと思いますが、ぐるぐる巻きに着せるというのが聞いたことがないのです。和服(にぎたえ)麁服(あらたえ)は神様へのお供え物としての反物の認識です。ぐるぐる巻きにして陛下に着せるというのが腑に落ちないです。
@ernest-tachibana
@ernest-tachibana 5 месяцев назад
@@mitoshijinja あれはちゃんとした衣服です。。 サリーの着方について紹介されている動画をご覧になってみて下さい。着方がわかります。
@ernest-tachibana
@ernest-tachibana 5 месяцев назад
三木信夫氏も鹿服とは身に纏う物だと認識されているようです。 動画中でも解説されていますが、鹿服を纏う時というのは正に悠紀殿・主基殿の中で神事を行う時で、その際に天皇の他に采女が共に入るのは アラタエを纏う際には手伝いが必要だからでしょう。
@user-eo1oj9uh1z
@user-eo1oj9uh1z 10 месяцев назад
祝詞の、竺紫の日向の橘の小戸の阿波妓原は阿波ですよ~~神主さんはどう解釈してるのだろう??
@mitoshijinja
@mitoshijinja 10 месяцев назад
一般的な解釈で言うと、宮崎県宮崎市阿波岐原町に江田神社(えだじんじゃ)が鎮座しています。まさしく祓詞の「筑紫の日向(宮崎県)の阿波岐原」になります。 今は川が少し遠くになりますが、古代はすぐ横に川が流れていたとのことで、その名残の池が境内にあります^^また、近くに小戸神社があり、こちらも祓詞の小戸であると伝わっています。史実的には江田神社のほうが有力だと思われています^^
@user-eo1oj9uh1z
@user-eo1oj9uh1z 10 месяцев назад
@@mitoshijinja 古事記では漢字が竺です 福岡の筑紫とは違います。
@user-eo1oj9uh1z
@user-eo1oj9uh1z 10 месяцев назад
@@mitoshijinja 日向も確かに宮崎県を指しますがもともとの意味が日の向かう方で東の端の意味で九州の東の端だから日向で、阿波四国の東の端も日向です。
@user-eo1oj9uh1z
@user-eo1oj9uh1z 10 месяцев назад
@@mitoshijinja 宮司さん、神主さんはそう理解してるのですね~~
@user-eo1oj9uh1z
@user-eo1oj9uh1z 10 месяцев назад
@@mitoshijinja あと~江田神社は式内社ですが、小戸神社は式内社でもなく、日向にはたった4つしか式内社がありません。
@user-pg2yu3wz9g
@user-pg2yu3wz9g 10 месяцев назад
大嘗祭の時に徳島から千年以上にわたって運ばれ、天照大御神が憑依していると言われるアラタエと、大嘗祭で大正時代までは、徳島からしか運ばれなかった食材(ミケ)等を見れば徳島に、重要な何かが有ると思うのですが、そのへんは宮司はどうお考えですか?
@mitoshijinja
@mitoshijinja 10 месяцев назад
阿波はとても気になります^^近々訪れたいと思っているところです。 アラタエは、阿波一宮が大麻比古神社ですし。最初に国生みした淡路島も近いですものね^^
@user-pg2yu3wz9g
@user-pg2yu3wz9g 10 месяцев назад
@@mitoshijinja 返信ありがとうございます。最近話題になってきている、邪馬台国阿波説が腑に落ちて仕方ありません、宮司の立場でぜひ調べてほしいです
@user-zm6iw4cl2z
@user-zm6iw4cl2z 10 месяцев назад
まあ阿波は重要な場所ではあるが邪馬台国とは別物。そもそも七万戸の国が規模的に不可能なのと鬼道=神獣鏡の出土、痕跡が畿内に比べて圧倒的に少ない。鏡作神社も奈良の田原本にあるしね。そこは百襲媛の出生地でもある。 阿波は邪馬台国=ヤマトを形成した豪族の基盤の国だというポジションでしょう。
@user-ze6gh3iy7z
@user-ze6gh3iy7z 4 месяца назад
お日差しぶりです😂6ヶ月前の動画であえてコメントさせて下さい。葛城の宮司さんだからと言って出雲と何か関係が有りますか???。コメがちょっと長くなるかもですが、ここ最近色んなyoutuberを見て勉強しました、正直九州説や阿波説ヤバイです。何故かと言うとアマゾンで出雲口伝に関する本を買いました、その出雲口伝とムーと言う雑誌の編集長三上さんの話でほぼ邪馬台国は近畿大神神社だろうと言っています。出雲口伝の内容は凄すぎます。記紀とは違いすぎますが、記紀等の編纂がふ○○ら家が関わっていると知りなる程ですよね。あの家系は宮下文書や春日鹿島の歴史もイジっているようですし。俺もまだ1回しか出雲口伝を目を通してないので、まだ頭がホワ〰ホワ〰って感じです。紀元前600年とか700年前にインドから北を通って日本の東北へ来たクナトの大神一族が起ち上げたのが古代出雲族だそうです。じゃインド人が日本の起源かってツッコミたくなりますが、これに関してヒロシ林さんと言う方が10年くらい前の動画だったかな~言っている話が有るんです。それはキリスト教より前の宗教でゾロアスター教がキリスト教の起源だと、そしてその一族は後にミトラ教となってインドを経由してモンゴルまで来ているって話です。クナトの大神一族とカブリますよね。しかもクナトの大神に猿田彦がいるし、出雲口伝か出雲族では猿田彦とその両親が古代出雲族の元になり西の神門のオミケ東の富家となって行くらしいです。初代大国主様が西の神門家で事代主スクナヒコ様が東の富家。西家と東家で大国主様と事代主様が順番に入れ替わる様な事が書かれていました。この話の続きが、可也…そうとうショッキングな内容なので絶対に口伝の本を読んだ方が良いです😂 卑弥呼様何ですが恐らく初代の卑弥呼様がクナトの大神の母様か、初代大国主様の奥様だろうと思います。なので出雲王家の女性か姫が祭祀王。サイノ神信仰でしたか??? ン〰ヤバイ俺の頭の中がコメントだけでもフワ〰っとして来た😂 頼り無いコメでスビバゼン〰😅 是非是非出雲口伝の本を読んで下さい。読んでYou Tubeへ動画を上げて下さい~😂
@mitoshijinja
@mitoshijinja 4 месяца назад
出雲口伝の本、奨められて今読んでいます^^ 時々強引だなあと思うところもありますが、なるほど~と思うことがたくさんあります^^ 出雲口伝については多くの方が語っていますので、その方たちにお任せかな~笑
@user-ze6gh3iy7z
@user-ze6gh3iy7z 4 месяца назад
俺的には3回渡来してきたあの人、強引どころじゃ無いと思ってます。なので九州説阿波説をヤバイと😅​@@mitoshijinja
@user-iy6mq3fm4m
@user-iy6mq3fm4m 6 месяцев назад
そもそも烏丸鮮卑東夷伝(魏志倭人伝)・旧唐書の解読が間違えています。 百余国の一つである倭国は、鹿島神社のある茨木地方です。太陽信仰の姫巫女(卑弥呼)はここにいました。 その後、倭国(茨木)・日高見国(一部千葉?)があわさり邪馬台国が出来ました。 239年、魏に朝貢したため鳥丸鮮卑東夷伝に邪馬台国の女王卑弥呼として記載され、宣伝されました。 邪馬台国の歴史研究の始まりは江戸時代です。無理矢理九州の地名に当て嵌めたことが間違いの始まりです。 300年頃、九州・中国地方・畿内北部を中心に国内を統治したヤマト王朝(朝廷)が誕生しました。 初代天皇は縄文・弥生人の末裔と旧渡来人の混血と思われます。
@mitoshijinja
@mitoshijinja 6 месяцев назад
茨城地方という論拠が抜けているのですが、地名からの類推ですか?
@user-iy6mq3fm4m
@user-iy6mq3fm4m 6 месяцев назад
鳥丸鮮卑東夷伝を無理に地名を当てはめず、たどると… 壱岐、島根、鳥取、能登、長野、群馬、東京、千葉、茨木が邪馬台国です。 太陽信仰の姫巫女=卑弥呼 小国の邪馬台国が239年に朝貢したため、鳥丸鮮卑東夷伝に載ってしまい、宣伝されました。後に滅亡 九州には上陸していません…戦乱中 九州・中国地方・畿内北部が大勢力だったのは間違いありません。 後のヤマト王権 旧唐書は…よくわかりません…
@asa01053
@asa01053 5 месяцев назад
邪馬台国奄美大島です!
@mecom3450
@mecom3450 10 месяцев назад
古事記の舞台は徳島 そこから考えていくといい
@mitoshijinja
@mitoshijinja 10 месяцев назад
徳島、最近アツイですね^^
@user-dz9qn1ru3k
@user-dz9qn1ru3k 10 месяцев назад
ねーぇ
@kazuomoriya348
@kazuomoriya348 9 месяцев назад
残念ながら事実と推測が入り子になっていますね。 大和説の不合理な点は山ほどあります。合致点、不合致点を比較することが大事ですね。その上で推測をしてみたらどうでしょうか。
@mitoshijinja
@mitoshijinja 9 месяцев назад
推測こそ邪馬台国の謎ときの醍醐味~^^その前提で話しています^^
@zen-chan9732
@zen-chan9732 10 месяцев назад
中国と日本、両国に似たものがあれば全部中国から伝わった事になるのがいけ好かない。 中国より古いものもいくつか見つかってるのにね。
@mitoshijinja
@mitoshijinja 10 месяцев назад
同感です^^最近、考古学的な遺物の中で、例えば沖ノ島の祭具など、中国製だと思われたものの多くが日本国内製であったとの見直しがなされて嬉しいです!
@kei.suzuki
@kei.suzuki 10 месяцев назад
@@mitoshijinja というかチャイナに孤島での祭祀の例ってあるんですかね? ちょっと聞いた事がない チャイナは陸の国なので海に関する文化というのは乏しい気がします
@user-mc4lv4zx2j
@user-mc4lv4zx2j 10 месяцев назад
素朴な疑問。「やまとととびももそひめ」が卑弥呼なら何故「記紀」ではそのことに全く触れていないの?あの時代、中国と交流があったなら大威張りで主張すべきことでは?全く別の政権だったと私は思う。「魏志倭人伝」はおかしいと言うけれど、奈良だと思っているからおかしいのでは。九州なら冬に生野菜を食べていても、一年の大部分があの服装でもおかしくない地域はある。鳥取にスプーンがあっても、九州の一般庶民が使っていたとはきめられない。「倭人伝」私はそんなにおかしいとは思えない。「倭人伝」がおかしいと思う前に倭人伝に書かれているような場所を探すべきでは?九州人の思い込みですかねぇ。それぞれ地元びいきになるのはしかたがないかなぁ。
@mitoshijinja
@mitoshijinja 10 месяцев назад
モモソヒメの記述がないのは、後半に話したヒメヒコ制を記紀は言いたくなかったのだと思っています。女性シャーマンの占いで決められていたという事を天武天皇の時代の外交文書では語りたくなかったからかと。 邪馬台国の時代は、縄文後期の寒冷化が続いているので、今より寒かったかと。雨も多いですし、裸足であのスタイルというのは違和感です。 お米は煮ていた事が土器から分析されているので、雑炊のような状態だと考えられています。それを手づかみで食べるというのも違和感かな。
@kei.suzuki
@kei.suzuki 10 месяцев назад
500年も前のことなのでその過程で伝承が変化してしまったんじゃないですかね 3世紀の時点でも女王から男王に戻そうと試みているわけですし 後継者の13歳の少女に実権があるわけなく、周りの大人達が政治を動かしていたのでしょう
@kobamoto
@kobamoto 9 месяцев назад
うーん、魏志倭人伝の都合の良いところしか言っていない。情報操作が多すぎる。卑弥呼がいた時代は邪馬台国は北九州と考える方が理に叶うことが多いのです。奈良は別の王朝で、卑弥呼の邪馬台国とは違いますね。 魏志倭人伝の方向を間違った解釈をしてしまうと、奈良ではないか!ということになってしまうのです。方向を間違えずに魏志倭人伝を読み解かないといつになっても邪馬台国には辿り着けません。
@3140451
@3140451 10 месяцев назад
阿波で千年京都で千年 奈良は?、、、奈良も阿波の飛び地ヤマト伊勢まで
@mitoshijinja
@mitoshijinja 10 месяцев назад
魏志倭人伝の云う邪馬台国は、卑弥呼の時代、台与の時代までなので、二代の女王の時代になるので、案外短期の連合政権だと思われます✋️
@hidetoshitakimoto9977
@hidetoshitakimoto9977 10 месяцев назад
前方後円墳は四国が一番古い紀元前3~4世紀頃。九州も畿内も新しすぎるから魏志倭人伝の「邪馬壹国」の時代には九州でも畿内でもない。これは事実で何を言おうと覆らない。 「卑弥呼」は名前ではなく、UP主のおっしゃるとおり「ひのもとのみこ」と記するときに卑下的な文字で「卑弥呼」上から目線で書いただけ。「倭」も同じく「順々に従う者」という「倭」を当て字にした。多分「やまと」でもなく「ひのもと」と方角で名乗ったのではないかと思う。聖徳太子が「日出ずる国から」と書いたように国名では無く方角で(多分概念自体なかったかも)そう名乗ったと考えるほうが自然ではないかと思う。知っておられる方も多いかと思うのですがこのときの「ひみこ」には本名がちゃんとあるらしいですよ。
@kei.suzuki
@kei.suzuki 10 месяцев назад
紀元前3〜4世紀は弥生時代で古墳ではなく弥生墳丘墓では? 前方後円墳の起源は吉備の楯築墳丘墓、出雲の四隅突出型墳丘墓、阿波の円形墓(萩原墳墓群)などでしょう これらは全て西暦紀元後の築造です
@hidetoshitakimoto9977
@hidetoshitakimoto9977 10 месяцев назад
@@kei.suzuki いえ前方後円墳です。それも魏志倭人伝に記されている「倭」の小国に沿う形で古墳群が各地に点在しています。事実なのでググって調べてみてください。
@kei.suzuki
@kei.suzuki 10 месяцев назад
⁠​⁠@@hidetoshitakimoto9977 西暦紀元前に前方後円墳はありません 学術的には西暦紀元前の弥生墳丘墓を古墳とは言いません 弥生墳丘墓と古墳は区別されており、前方後円墳は古墳時代(3世紀以降)のものを指しますので何か勘違いされていると思われます 具体的な遺跡名を教えて下さい
@hidetoshitakimoto9977
@hidetoshitakimoto9977 10 месяцев назад
@@kei.suzuki sありません。とか言っていいの?あなたがどう言おうと、現在発掘されている傘置峠古墳という前方後円墳は2400年前の時代特定されていますし、その他にj発掘されずにいる古墳らしきものも数多く存在し、それらは魏志倭人伝の小国軍の地名も合致しています。それから数百年後の古墳が整った形をしていたり、やたらバカでかい古墳だったり、当たり前ではないですか?とにかく上がってる資料などもおおくあるし、調べてソレから否定してください。
@kei.suzuki
@kei.suzuki 10 месяцев назад
笠置峠古墳を調べましたけど、推定4世紀築造だそうですが 阿波の萩原墳墓群より新しいですねこれは
@user-nz9fw9xc2t
@user-nz9fw9xc2t 9 месяцев назад
日本人の感覚で、シャーマン が理解出来ると思っているのかしら⁉️😱👎
@mitoshijinja
@mitoshijinja 9 месяцев назад
古代日本にはシャーマンが確かに存在していましたよ。 コメント主さんが、シャーマンをどう捉えておられるか不明ですが😅💦
@user-jk6mi7sm5h
@user-jk6mi7sm5h 10 месяцев назад
いつまでも、畿内説、九州説なんて言ってないで、早く阿波徳島に来て、調べてくださいね!(笑)
@mitoshijinja
@mitoshijinja 10 месяцев назад
私は奈良県の住人なので、やはり畿内説推しではあります(笑)! でも、阿波は邪馬台国だけではなく、色々気になります^^
@user-jk6mi7sm5h
@user-jk6mi7sm5h 10 месяцев назад
@@mitoshijinja さん 阿波から奈良に移行したのです! 最近は、阿波説のYou Tubeが たくさんあります! 参考にされて、徳島に起こしください おもしろいように、証拠が残っています 纒向遺跡より、古いのは、鳴門市にある萩原一号墳墓です
@Rekisi.Wo.Tadase
@Rekisi.Wo.Tadase 10 месяцев назад
九州だよ 葦は履物にも使えると思いますよ。 邪馬台国は北九州のほうにあったのは明らか うそをまき散らすなよーーーー
@mitoshijinja
@mitoshijinja 10 месяцев назад
九州説もとても根強いですよね^^ 九州説として読み取れる部分が多いのも確かですよね。
@zen-chan9732
@zen-chan9732 10 месяцев назад
確定してないのに嘘もなにもないでしょ😅
@Rekisi.Wo.Tadase
@Rekisi.Wo.Tadase 10 месяцев назад
@@zen-chan9732 いやうそだから嘘 歴史書から紐解くのが正道
@user-zm6iw4cl2z
@user-zm6iw4cl2z 10 месяцев назад
邪馬台国九州説、特に北部九州説は100%不可能だと思いますよ。 魏志倭人伝だけではなく魏志韓伝読んだ事ありますか?邪馬台国は七万戸の国で、当時の馬韓国十万戸より少し小さい位の規模です。 当時の馬韓国は九州島と同じ位の規模なんで、投馬国五万戸よりも先にある邪馬台国は行程論的に九州より遥かに遠方の場所です。
@Rekisi.Wo.Tadase
@Rekisi.Wo.Tadase 10 месяцев назад
@@user-zm6iw4cl2z おまえだれやねん?
Далее
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