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京都・不思議な不思議な氏子区域【前編】 

京都買いますちゃんねる
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今年も祇園祭が始まりましたね。
祇園祭の続きもやるつもりですが、その前に氏子区域という不思議?な存在について考えてみようと思い、作成しました。京都の人間にとって氏子区域はあたりまえのものなので、かえって疑問を持たたないんだ、と改めて実感した次第です。
他にもリクエストを頂いた件がございますが撮影の都合上もうしばらくお待ちください。
#京都 #ゆっくり解説 #祇園祭 #日本三大怨霊 #今宮神社 #北野天満宮 #上御霊神社 #下御霊神社 #八坂神社 #伏見稲荷 #松尾大社 #藤森神社
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【参考文献】
京都の歴史(学芸書林)京都市編
京都の神社と祭り(中公新書)本多健一著
寺院神社大事典(平凡社)平凡社編
中世京都の祭礼と空間構造(吉川弘文館)本多健一
【資料画像】
Wikipedia
【お借りした素材】
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Опубликовано:

 

16 сен 2024

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Комментарии : 17   
@nakagomihiroshi1266
@nakagomihiroshi1266 2 месяца назад
「丸竹夷」というわらべ唄が、なぜ丸太町から始まって上京区の通り名を含まないのかも祇園社の氏子区域が元だとするなら納得できるかも…。あと下御霊社の氏子区域が戦国末期の鉄アレイ状の二極都市にシュリンクした頃に都市機能【氏子区域】が残っていなかった可能性もありますね。
@kaimasu_kyoto
@kaimasu_kyoto 2 месяца назад
Nakagomi Hiroshi様 コメントありがとうございます。 「丸竹夷」の童歌と氏子区域との関係ですが、下御霊神社と八坂神社の境界線は二条通なので、直接関係あるのかは、わかりません。ただ、かつてあった「少将井御旅所」は車屋町通夷川、がっつり下御霊神社の氏子区域に食い込んでいるので、不思議ですね。
@kaimasu_kyoto
@kaimasu_kyoto 2 месяца назад
ちなみにうぷ主も丸太町以北生まれなので、生家の近所の通名が言えませんw不便だなあと思っていました。童歌は亡き母に習いましたが、母は中京の人なので「便利やろ」と言ってましたがw
@nakagomihiroshi1266
@nakagomihiroshi1266 2 месяца назад
@@kaimasu_kyoto コメント返しありがとうございます。「少将井御旅所」は秀吉によって廃されたとのことですから、その頃の京都は下御霊社氏子区域すべてが町衆の住む上京でも下京でもなく上長者町から姉小路までは町並みは室町通りだけであった頃に当たるからではないでしょうか。
@shibamofumofu4983
@shibamofumofu4983 2 месяца назад
広大な氏子地域を持つ神社の地域住人は、その神社を氏神様と呼び、町内の神社を土地神様と呼んで上手に区別しています。 このような地域では、年に2回(大体は春と秋)お祭りがあり、御神輿巡幸が催されます。 御神輿の飾り付けや組み上げを覚える機会が他より多いので、技術継承しやすいと思うのですが、どこの神社も後継者不足で悩んでいます。特に伏見稲荷は神社と氏子地域が離れているので大変です。
@kaimasu_kyoto
@kaimasu_kyoto 2 месяца назад
shiba mofumofu様 早速のコメントありがとうございます。 「二重氏子」状態の町について詳しく教えてくださり、大変助かりました。 伏見稲荷と氏子区域については後編で考察していますので、ご意見をお聞かせください。
@憲太郎近藤
@憲太郎近藤 2 месяца назад
今回わーなかなかの労作で霊夢ちやんーありがとうございます。知らないことばかりで、大変勉強になりました。祇園祭も後祭りに入りお二人とも楽しまれましたでしょうか。私わ棒振り踊りお、youtubeで拝見致しました、演者さんの凄い迫力に、圧到され、下がる時の所作の、美しさに、都の雅おー教えていただいたように思えました。お礼申し上げます。
@kaimasu_kyoto
@kaimasu_kyoto 2 месяца назад
近藤憲太郎様 コメントありがとうございます。先祭りの巡行は近年では涼しく、霊夢と魔理沙、にゃんちゃんで楽しんできました。(うp主はお留守番です) 楽しい催しが目白押しですね!チャンネルのコミュニティも更新しています。オリジナルマスコットのにゃんちゃんもよろしくお願いします。 南禅寺別荘群は資料確認と撮影できる日が限られているのでしばらくお待ちくださいませ。
@憲太郎近藤
@憲太郎近藤 2 месяца назад
早々のご返信恐れ入ります。京都でわ蝉わ鳴いておりますでしょうか。蝉が鳴くと梅雨明け、と言いますがーー早く明けるといいですね。南禅寺別層群の、お話、覚えておいでて恐縮です。私わ何時までも、焦らずお待ちしております。にやんちやんに、よろしくお伝えいただきたいです。暑い夏お、お元気でお過ごしください。
@kidaore13
@kidaore13 Месяц назад
平安京北西角守護として祀られた大将軍堂に由来する大将軍八神社の氏子です。 今は大将軍八神社の氏子地域は東西は御前通〜馬代通(一部馬代より西含む)、南北は今出川通〜仁和寺街道の少し南です。 しかし昔はもっと広い地域の氏神として崇められていたらしく、北野天満宮の勢力拡大に伴い領地を取られるが如く今の氏子地域になったようです。 (その昔は北野社《地主神社》の辺りまでが大将軍の氏子地域だったとか) さらに近年、北野天満宮の方が仁和学区を氏子地域と見なすようになり、御前通〜西大路あたりまでは二重氏子のような状態です。 方や年に一度の大祭で縁日が出る大将軍、方や毎月25日に縁日が出る北野天満宮、やはり毎月の参詣者に経済的に支えられた商店なども多かったことと思います。 この件については、大将軍の氏子としては、なかなか歯痒い思いもしているのですが、氏子地域というものも、いろいろなパワーバランスや時代と共に変容してきたのかなと思うところです。
@kaimasu_kyoto
@kaimasu_kyoto Месяц назад
冨山祐充様 コメントありがとうございます。 町奉行所の「覚書」には北野社の氏子区域の中に「大将軍村」を含んでいるようですね。 そもそも大将軍八神社が記録に出てくる最初が「山槐記」の1178年(治承2年)とあり、本当の創建年は不明です。残念ですが、北野社より確実に古い、という根拠は見つけられませんでした。氏子区域の変遷については今後の勉強課題です。 縁日の話ですが、それを考えてみると、繁栄している伏見稲荷の社前町は全て藤森神社の氏子なんですよね。僕が稲荷神ならば「誰のおかげで食べさせてもらってるんだ」と愚痴が言いたくなります(笑)
@user-etesuke
@user-etesuke Месяц назад
氏子区域の空白区ですが、西院の春日さんと壬生の元祇園さんが埋めていると思うですが、 元祇園さんは今の祇園に引っ越ししたんで解りますが、春日さんが上げられた8社と違いが 明確に分けられる理由が解らんので、何れ解説していただけるとあり難いです。
@kaimasu_kyoto
@kaimasu_kyoto Месяц назад
えてすけ様 コメントありがとうございます。 氏子区域の空白に関しては、将来完全版の地図を作成するつもりですのでお待ちください。
@ユニコーン-z4i
@ユニコーン-z4i 2 месяца назад
京都市内に住んでいると平安神宮のお札が町内会で購入される?平安神宮よりも、八坂神社さんが好きなのに、天神さんも好きだったけど、映画の撮影で追い出され嫌いになった。上七軒はかわいい舞妓さんがいるから天神さんも許す?上七軒で遊ぶ人ているの?祇園、先斗町、宮川町はお客様がいっぱい、一見さん御断り。
@user-ql2vc3qy5w
@user-ql2vc3qy5w 2 месяца назад
上七軒は西陣関係の旦那衆とか北区あたりの社長さんとか多い気がします もちろん一見さんお断り 平野神社の近くの銭湯には姐さんがたの名入の団扇が何枚も飾ってありました、
@rikyumochi7371
@rikyumochi7371 2 месяца назад
昔、祇園祭の山鉾巡行が烏丸松原から、寺町松原、松原通り寺町で辻回しし、寺町を北に上がっていったと聞いています。 そして、松原通りに八坂神社と伏見稲荷の氏子区域の境があり、松原通の町内は両方の祭りに参加するとも聞いたことがあります。。明治以前、松原橋が本当の五条大橋で、牛若丸伝説は松原橋であったこと?らしい。。松原通りこそ、清水寺の表参道ですから、 松原通には、きっと有力な町衆がたくさんすんでいたのですね。両方の氏子やっても余裕ある家がたくさんいた。 納得です。 市電が通る前の四条通は、今の半分の道幅しかなく、お旅所を境にクランクになっていて、それを市電が通れる幅にするため お旅所より西は、南側の民家が、お旅所東側は、北側がセットバックしたらしいです。。
@kaimasu_kyoto
@kaimasu_kyoto Месяц назад
rikyu mochi様 コメントありがとうございます。 1955年(昭和30年)まで、さきのまつりの巡行は烏丸あたりから四条通を東、寺町通を南、松原通を西、東洞院で解散だったそうです。松原通は八坂社と伏見社の氏子区域の境界ですね。 松原通の南側も祇園祭に参加していたとは知りませんでした。 巡行ルートの変更で縁は切れてしまったのかもしれませんね。
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