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加藤清正の生涯 戦働きではなく事務能力で出世した神格化された男の実像【どうする家康】 

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参考文献
山田貴司『加藤清正 (織豊大名の研究2) 』
amzn.to/3tFwas4
光成準治『九州の関ヶ原 (シリーズ・実像に迫る018)』
amzn.to/472qYNm
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加藤清正は賤ヶ岳の戦いや朝鮮出兵で活躍した武辺者のイメージがありますが、大名になるまではほとんど戦功は立てておらず、秀吉からも有能な財務官僚として大名に抜擢されていました。
小西行長との対立や地震で秀吉の元に真っ先に駆けつけ処分を解かれるなどの逸話の多くは創作だったと考えられています。
家康とも関ヶ原の戦いの時は自身の失態から関係が悪く、戦後は豊臣家とも友好関係を維持しながらも、家康に近づき、徳川家との関係を第一に熊本藩の確立に尽力しました。
今回は、菩提寺が「清正公」として庶民に布教したことで信仰の対象となり、軍記物での印象が定着し実態とかけ離れたイメージが付けられることとなった加藤清正の生涯について紹介します!
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【画像引用】
大河ドラマどうする家康公式サイト
www.nhk.or.jp/ieyasu/
#どうする家康 #日本史 #歴史

Опубликовано:

 

25 окт 2023

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Комментарии : 36   
@rekishock
@rekishock 8 месяцев назад
9:22 往時の返還→王子の返還の誤りです。
@kamenriderlove
@kamenriderlove 8 месяцев назад
16:43 明治時代の西南戦争で西郷隆盛率いる薩摩軍は加藤清正が築いた熊本城を包囲した。熊本鎮台の司令長官・谷干城の抵抗、田原坂の政府軍の勝利もあり薩摩軍は撤退した。去り際に西郷は「新政府軍に負けたのではない、清正公に負けたのだ」という内容を言い残したといわれている。
@user-sr9jb6jw4n
@user-sr9jb6jw4n 8 месяцев назад
荒々しいぶこつもののイメージしか無かったので意外でした!
@kunaishouyu
@kunaishouyu 8 месяцев назад
加藤清正も世間のイメージと史料上の人物像が大きく異なる人物ですよね 賤ヶ岳の七本槍と虎退治の逸話の印象が大きく、ともすれば猪武者のように語られがちですが、逆に言えば華々しい武勇伝はその2つくらいで基本的に行政をやってる人というね
@rekishock
@rekishock 8 месяцев назад
蔚山城の戦いなど戦の才があったのは確かですが、石田三成なんかも奉行のトップではなく前線指揮官として出されていれば同じくらいやれたのではと思いました。 秀吉子飼いトップ層は文武両方に長けていて、どっちかしかできないというのはなさそうです。
@WearstFaker
@WearstFaker 8 месяцев назад
朝鮮進軍に関して、奥地にしっかりと侵入出来て帰ってくるあたり。地元の人を無理強いさせなかったんだろうし、兵糧が続いているところからも、補給線を考えた戦闘ができる人間。 関ヶ原では冷静に自分の立場を見極めるところも有能だと思う。 熊本藩政にしても、借金はあってもうまく経済を回しているあたりやり手。 若いころから上からも下からも色々言われて鍛えられた経営者って感じで好感が持てる。
@user-gq7ph4vw5b
@user-gq7ph4vw5b 8 месяцев назад
三成と吉継は、半島出兵での先鋒ですよ。賤ヶ岳でも然り。 文武両面で凄かったから、家康に狙われ真っ先に潰されたんだと思います。
@nullpo1887
@nullpo1887 6 месяцев назад
個人的には、関ヶ原の九州にいたのは謹慎説は言い過ぎな気がします。 清正は結果的に伊集院支援に失敗してますし、伊集院支援に成功してる伊東氏はお咎めも上洛禁止もされてません。九州のほかの大名も上洛不要とされています。 また、会津征伐前に清正は家康に直に会ってます。なのにその場で拘束することも無く謹慎もさせず、監視も付けずに最も兵力を動かせる国許に戻している。これを事実上の謹慎と称するのは無理があるように思えます。 有馬氏に上洛阻止を命令したというのも島津家文書でしか言及されてないし、監視させるなら黒田家や細川家など周囲の大名に命令していないのは不自然であるように思えます。 また、そこまで関係が拗れてたのなら、伊達政宗のように領土加増の約束自体が反故にされることがあったとしても、戦後論賞で(年貢や軍役の計算の対象外となる)無役高として優遇して加増されるような事にはなっていないのではと。
@user-gq7ph4vw5b
@user-gq7ph4vw5b 8 месяцев назад
こりゃぁ、歴史モノのほとんどが、書き替えを余儀なくされそうですね。 江戸時代の講釈師が、装飾し過ぎているようです。
@user-dp7jh6dl8x
@user-dp7jh6dl8x 8 месяцев назад
公明正大な加藤清正の解説に感服しました。 私も昔から清正のイメージはこれだったので、我が意を得たり!という感じで拝聴しました。 築城の名手というだけで実務能力の高い官僚系に近い大名だと分かりますしね。
@user-wh9yx2xb8s
@user-wh9yx2xb8s 7 месяцев назад
加藤清正と福島正則は、猛将のイメージがあるのに、なぜか武勇伝がないから、疑問に思ってたが、後世の脚色だったんだ😮
@katsumi-na1198
@katsumi-na1198 8 месяцев назад
榊原康政と親戚関係もってよっしゃこれで幕府内でも安泰やろからの改易、予想外過ぎただろうな
@nullpo1887
@nullpo1887 8 месяцев назад
近年では清正の残した課題が原因、というよりも清正時代の功績(天下普請への貢献や婚姻政策)で普通の家なら改易になる不祥事を起こしても「寛大な配慮」によって許されるも、忠広の政治センスの無さと統率力のなさ、清正亡き後の家臣団の危機感の無さと無力さによって自ら改易の原因を作ったのが真相とか。 1代で急速に発展した寄せ集めゆえの脆さが2代目で現れた感じが。2代目が有能ならどうにかなったのだろうけど、2代目が無能だった故に…
@kazu-k1947
@kazu-k1947 8 месяцев назад
地図に色分け、武将の肖像画も有って内容が分かりやすい。 でも何で最後、熊本城を燃やした西郷さん?😂
@nullpo1887
@nullpo1887 8 месяцев назад
地震加藤については戎光祥の加藤清正で無かったのでは説が唱えられ、肥後加藤家改易の研究で反論がされています。 ・豊臣姓無断使用、部下による講和妨害、小西との不和などで、訴えられて失脚していたこと ・(清正召喚時に緊張が見られないとあるが)当時は講和交渉中であり、主戦派と認識されている清正の処分が漏れてしまうのは相手を利するので伏せられてたはずで、加藤家以外の史料に見られないのは当然であること ・帰国した際、国元に自身の謹慎を覚悟し、指示が届かなくなることを想定した書状が送られていること ・綿考輯録の細川忠興の目撃証言(忠興が最初にたどり着いて次に清正が着いた) ・(無かった説の根拠になってる)書状の冒頭を読み下すと「伏見で地震に遭遇し秀吉やねねたちの無事を確認し自分たちの無事を伝えている」ように見えること ・伏見の屋敷がなかったから助かった、ということから伏見に居なかったことは見いだせないし、大阪にいたから助かったとも書いてないこと ・監視の目が届きにくい大阪や京都の屋敷より伏見の指定された寺や家に謹慎させられたと想定すれば書状の内容に矛盾しないこと ・(無かった説の根拠になってる)書状の宛先は蔵入地のいち奉行であり謹慎されたとか許されたなど書くとは思えないこと ・「誤りが多い」として清正記の後に加藤家遺臣によって書かれた続撰清正記には地震が起きた後の清正らの行動について追記(大名家の屋敷とは思えない掘っ建て小屋から倒壊寸前で脱出、倒壊した伏見城を見て絶望、太鼓の音を聞いて無事を確証したことなど)されており、創作であればわざわざ追記されるとは思われないこと といった論点から反論がされているようです。あった説を取るにせよ、講談もので書かれている真っ先にたどり着いたの部分は後世の創作でしょうね。
@subuya428
@subuya428 8 месяцев назад
個人的には武辺者は福島正則のイメージ
@hiropon9
@hiropon9 8 месяцев назад
福島正則も領国経営は上手かった
@user-ww3lc7bi6b
@user-ww3lc7bi6b 28 дней назад
@@hiropon9 内政は上手かった・いい意味で家臣に丸投げ気味だった。 外交及び徳川幕府の情勢に関しては読みが甘かった。
@essauouo5251
@essauouo5251 8 месяцев назад
庄内の乱で伊集院忠真を支援したのも、状況からすると、当初忠恒の行為を支持していた家康への追従というか忖度というかでやったことと考えたほうが自然ですよね。少なくとも、伊東氏みたいに島津氏との間に因縁があったとかはないですし。 そこらだけをみていても、主君のいうことをこなしていく石田三成に近い人だったんじゃないかという気がします。
@nullpo1887
@nullpo1887 8 месяцев назад
公儀体制への支持・不支持もありそうです。 秀吉から朱印状を貰っていた伊集院氏を殺害したことで大坂の陣の前の片桐且元への暗殺未遂と同じ状況になっていて、軍事制裁を想定して関与するも、家康が後付けとはいえ、伊集院殺害を認める立場になってしまったことで怒りを買うことに。 朝鮮出兵でのたまりにたまった不平不満と共に、惣無事令違反への制裁ができなかったことで豊臣家の「公儀体制」への支持が無くなったのでしょうね。
@nullpo1887
@nullpo1887 4 месяца назад
朱印状が充てがわれてて、取次していた伊集院を殺害したこと自体は公儀への宣戦布告と同じような物ですからね(大阪の陣のきっかけとなったのが取次だった片桐且元の暗殺未遂)。庄内の乱の時は後付とはいえ家康が伊集院の排除を認めたことで、結果的に清正の行動が家康の面子を潰すことになってしまった。 庄内の乱以外の清正の行動は徹底して家康派です。
@ABT098
@ABT098 8 месяцев назад
鶴岡の話も!
@rekishock
@rekishock 8 месяцев назад
子孫話については過去に作っていますので、もしよろしければ! ru-vid.com/video/%D0%B2%D0%B8%D0%B4%D0%B5%D0%BE-d-Vf02QVE1k.html
@ABT098
@ABT098 8 месяцев назад
@@rekishock 早速拝見しました。こちら動画も素晴らしいですね。
@masao750
@masao750 7 месяцев назад
清正は主計守
@user-ln8lv7ut2u
@user-ln8lv7ut2u 7 месяцев назад
秀吉が亡くなった、清正、家康の家臣になればよかったですよ、以下に豊臣家を守るかじゃなくてどうやって豊臣家が滅ぶのを防ぐかですよね。豊臣家と徳川家が戦するとしら清正板挟みですよね。それに秀頼に味方するのもやりづらいだろうし、幕府側に付くだろうな。
@nullpo1887
@nullpo1887 6 месяцев назад
豊臣家が生き残るには、加藤家が徳川家と融和したのと同じように豊臣家が徳川家に融和するしか道は無かった(恐らく二条城で家康が加藤清正と浅野長幸に期待してた役割はコレ)と思われます。 実際に、清正は関ヶ原後に秀吉に断絶させられた阿蘇家を武家としてではなく宮司として復興させてます。 清正が豊臣家蔵入地を解体せずに残してたのは、もしかすると秀頼を大阪城から退去させた後に小大名として存続(あるいは改易)させ、武家ではなく公家として復興させる計画だったのかもしれませんね。
@user-zu6tc9mb7s
@user-zu6tc9mb7s 8 месяцев назад
加藤清正 浅野長政 前田利長…が立て続けに世を去っていく…偶然か…?暗殺か…?この伝承についての動画も1つお願いします🙇
@rekishock
@rekishock 8 месяцев назад
彼らがいなくなったから大坂の陣が行えたというわけでもなく、むしろ領国を不安定にさせるだけなのであまり動画で取り上げる気にはならないんですよね… 茶々密通説も同様なのですが…
@cancan5892
@cancan5892 8 месяцев назад
これまた、現在まで伝えられている加藤清正像とは、かなり違いますね。典型的な武闘派で、実務とは無縁の人だと思っていましたが、むしろ実務能力の高い官僚であり、初期は主計頭で三成と同じような立場だったとは、意外でした!彼には、後世作られた創作話が多いですね。それだけ、軍記物では欠かせない人物だったのでしょう。東京都港区にもある清正公前という地名も、彼を信仰する教えが全国に広がった影響なのですね。出身地でもないのに、どうしてかなあとずっと不思議に感じていました。9:22往時 は、王子 ですね。
@rekishock
@rekishock 8 месяцев назад
ご指摘ありがとうございます!訂正いたします。
@user-ub7tt4gl8y
@user-ub7tt4gl8y 8 месяцев назад
万能でなまじなんでも出来過ぎたから家中は「命じられた事を完璧にこなせる」家臣はいても、自分の頭で考えて行動できる者はいなくて改易後に最就職に困った藩士が多かったとか… 忠広時代は藤堂高虎に後見されながらの支城の廃止からの(元城持ちの)重臣達による合議制…あっ(察し)(お家騒動) 幕府は清正警戒で加藤潰したかったとか言われるけど実際はかなり論議に論議重ねてなんとか潰したくないと必死だったみたいね→紀伊徳川と縁戚だから御三家にも影響する
@nullpo1887
@nullpo1887 6 месяцев назад
徳川三代で多くの家が改易されて浪人も多数発生している状況では加藤家でなくても再仕官に難儀したのでしょうが、「危機感を持たず何もしなかった無力さから主家が改易された」という負の実績ができてしまった旧加藤家家臣団がより苦労したのは想像にかたくない。 朝鮮出兵の時から家臣団の危機感の無さ、緊張感の無さに危惧する様子があったそうです(清正発行文書に見られる沙汰の限りとは、緊張感のなさに対して向けられたものだったという指摘も)。 関ヶ原の後には和歌や能楽、茶の湯を利用して家臣団統制と緊張感を持たせようとするも、皮肉なことに清正自身が貿易で莫大な利益を上げてしまったり土木治水で実績を上げてしまったことで清正に対する依存が出来てしまったようです。 清正の死と同時期に大木兼能、下川又左衛門、森本一久といった実務担当者が相次いで死亡しても危機感の欠如と当事者意識のなさが改善されることがなく、牛方馬方騒動で改易されなかったことでさらに家中に油断が産まれたという指摘もあります。 そんな状況でまともに統治できる家臣が育つ訳もなく、清正死去数十年も経っているのに清正が最後に検地した1608年のままで実態にそぐわない課税が行われ、天下普請の負担も相まり強圧的な徴収が行われて統治機構が壊れていった様子が報告されてます。 改易の決定打となった忠広の愚行(秀忠の死去時に側室と子供を無許可で国許に返させた)を止めれなかったことも併せて考慮すると、忠広の統制力不足と家臣団の無力さが改易の理由でしょうね。
@vianeplus
@vianeplus 8 месяцев назад
ず〜っと武の人だと思ってました。(最近はチョッチュネェが口癖の人化してるけど) あと両肺に鍼を打たれて窒息したって説は眉唾ですかね? 清正タヒ後は生駒家と一緒で藤堂高虎が後見をしてたんですよね。
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