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徳川家康はなぜ14年も豊臣家を滅ぼさず放置したのか 

ほのぼの日本史
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【動画の目次】
徳川家康はなぜ14年も豊臣家を滅ぼさず放置したのか 00:00
日本史の他の武家政権交代期には起こり、江戸幕府の開府の際に起こらなかったこと 01:26
関ヶ原の勝利から大阪の陣までの間は失業者対策期間だった!? 03:09
その間に家康が必死にやっていた地味な政策 04:54
まとめ:大阪の陣は残った浪人の一網打尽作戦? 06:12
戦国ライター YASHIROの独り言 06:43
いきなりですが、歴史好きの方々は、いくらなんでも徳川家康を怖がりすぎではないでしょうか?
家康のことが好きな人も、嫌いな人も、とにかく家康の事績については、「このときにこういう行動をとったのは、後にああいう行動に出るための周到な準備だったのだ」とみなしがち。
あなたは徳川家康はなぜ14年も豊臣家を滅ぼさず放置したのかについてどう思いますか?
💟参考になった皆様の考察・歴史感をコメント欄に固定化させていただきます。
※あなたの考察やご意見をコメント欄までお待ちしています。
【コメント欄についてのお願い】
いつも視聴者様には当チャンネルをご視聴、沢山のコメント頂きありがとうございます。
当チャンネルのコメント欄は、日本史に関する様々な意見や考えがあつまる場所です。他の人の見解や歴史感に触れ、多角的に日本史を楽しむきっかけの一つになればよいと思っています。歴史好きの視聴者が集う「ほのぼの日本史」だからこそ、より深く、日本史の魅力や歴史的事象を考察したり、視聴者の皆様と共有したいと考えています。
しかしながら時折、あまり好ましくない表現や議論の方向性のコメントが見受けられます。皆さまが末長く歴史の楽しさを語り合えるよう、乱暴な表現やコメント、参加者同士の不毛な争いが起こっている場合は、見つけ次第、非表示にさせて頂く場合がございます。
このようなコメントも、歴史を愛する気持ちが溢れ出た上であることは十二分に承知していますが、動画を視聴し、視聴者の皆様が気持ちよく歴史感を共有できるよう、ご協力・ご理解の程、よろしくお願いします。
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#徳川家康 #関ヶ原の戦い #大阪の陣

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13 июл 2024

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Комментарии : 147   
@user-pg1oi1nb2q
@user-pg1oi1nb2q 4 года назад
明智光秀を反面教師にしたからだよ 反抗勢力が各所に残存してるのにすぐに豊臣を討伐なんてすれば豊臣側が万一一族の一人でも逃がせば天下は再び二分されて関ヶ原の戦いをまたやり直しになる、天王山の戦いを参考にしてる 天下は民衆の認知も重要、家康が死亡したら?秀吉と同じになりまた家臣同士の内乱と残った重臣が対立するからね、歴史は繰り返す事を人生で痛感してる家康だからこそ待ったのだと思うよ
@user-it7pp7gf1w
@user-it7pp7gf1w 4 года назад
家康は人生経験豊富な人だから豊臣家が秀吉のカリスマ性だけで成り立っていたと見通していたんだろうね。秀吉亡き後は自然に自壊する、それまではナンバー2としておとなしくしていようと。ただ、将来に禍根を残さぬよう、弱りきったところで大阪の陣という荒療治を施した。ボスの病気を進行させ、その間に自分の力を蓄え、ボスが悶え苦しむ前に安楽シを与える。確かに、すぐにコロすよりも皆が納得する政権獲得の手段である。
@mop6178
@mop6178 4 года назад
いや、コメント欄で一番納得した。弟子にしてほしいくらい(冗談)。単なる知識があるだけではない筋の通った理論、軍師並みだ。
@ystszk9901
@ystszk9901 3 года назад
待てるだけの余裕があったのだろうか、戦国時代の英雄で病気で夢が潰えている武将も多い。 もう60歳前後になっている家康がどの位の猶予があると踏んでいたのか知りたいですね。 まあ秀吉の失敗は家康を江戸に追いやって朝鮮出兵を断る理由を与えてしまい兵力を温存させたから。 あと家臣達がこんなところには住めないと嘆いた大湿地帯の江戸の整備にめちゃくちゃ時間がかかったのもあるだろうね。
@rosan6179
@rosan6179 4 года назад
豊臣恩恵の大名が残っていたし、すぐ豊臣家を滅ぼそうとしたら彼らが一斉に反発する恐れがあったから あるいは秀頼が分別がつくようになるまで成長を待って、自分に従属するなら豊臣家を残そうと考えたからか 家康が信長のような性格だったら豊臣家をすぐ滅ぼしていたと思う
@user-bk3qf4xg8s
@user-bk3qf4xg8s 4 года назад
家康さん自身も、自分の年齢からして焦っていたとは思います。 しかし、大坂の陣は豊臣家の出方から充分予測された江戸幕府の事業の一環です。 おおよその作戦案は練られていたでしょうから、たまたま生きているうちにそのタイミングになった!だけで、もし寿命が尽きていても、秀忠さんと幕臣達で成し遂げられた!と、思います。 むしろ、秀忠さんにしてみたら、自分が準備してたのに、親父に美味しいところ持って行かれたなぁ、、等とボヤいていたかも知れませんね。
@user-hi7ug4rs7v
@user-hi7ug4rs7v 4 года назад
息子秀忠は戦は終始駄目だったが内政は結構できるとされた。完全に文官 そうすると三成も文官だったんだろうな…
@user-ko4cg2iq7o
@user-ko4cg2iq7o 4 года назад
名分無しに豊臣家をいきなりつぶすことはできないよ。
@hononi
@hononi 4 года назад
【動画の目次】 日本史の他の武家政権交代期には起こり、江戸幕府の開府の際に起こらなかったこと 01:26 関ヶ原の勝利から大阪の陣までの間は失業者対策期間だった!? 03:09 その間に家康が必死にやっていた地味な政策 04:54 まとめ:大阪の陣は残った浪人の一網打尽作戦? 06:12 戦国ライター YASHIROの独り言 06:43 あなたは徳川家康はなぜ14年も豊臣家を滅ぼさず放置したのかについてどう思いますか? 💟参考になった皆様の考察・歴史感をコメント欄に固定化させていただきます。 ※あなたの考察やご意見をコメント欄までお待ちしています。
@user-nn4se8nn3g
@user-nn4se8nn3g 4 года назад
秀吉にあれだけ臣従して秀頼を盛り立てると約束している 手前、子供の秀頼を殺害するのは天下の名目を失う。 秀頼が元服するまで待ったと言うのが本音じゃないかな?
@user-ln8wi9xz9b
@user-ln8wi9xz9b 4 года назад
関ヶ原の戦いは徳川対豊臣の戦いではありません。あくまでも、関ヶ原は豊臣家臣団同士の主導権争いです。なので、関ヶ原の段階ではまだ徳川は豊臣の家臣です。
@user-id3ob5zn6o
@user-id3ob5zn6o 4 года назад
まず徳川家康が征夷大将軍になったのが関ヶ原後の1603-1605 そもそも豊臣と戦う気はなく徳川幕府の体制固めと内政に全力だったのでは。
@user-yn6rs7yv2f
@user-yn6rs7yv2f 4 года назад
出来れば滅ぼさず勢力下に加えたかったから粘り強く交渉してたんですよね
@Prasident-gm4li
@Prasident-gm4li 4 года назад
僕はね名無しさんなんだ そりゃ、豊臣は箔があるからな。 家康は名家は滅ぼさない。
@user-ur7hl5ek6z
@user-ur7hl5ek6z 4 года назад
+僕はね名無しさんなんだ様 方広寺の梵鐘の「国家安康・君臣豊楽」の大人げない言い掛かりを付けてまで挑発したくらいですから 勢力下に加える気はなかったのではないでしょうか?そして豊臣は挑発にまんまと乗せられて逆賊の烙印を 押されてしまうと。
@user-wp9jn8fg4l
@user-wp9jn8fg4l 4 года назад
古澤修 方広寺事件のあれは挑発などと言われてますが完全に豊臣家が悪いですよ、言いがかりでもなんでもない
@user-wp9jn8fg4l
@user-wp9jn8fg4l 4 года назад
Präsident 0917 家康公名家大好きですからね
@73moto
@73moto 4 года назад
淀君も母親の実家で有る織田家が秀吉の配下に成った流れを受け入れて豊臣を公家として家を残せば良かったのに。
@user-fz8hq9gf9i
@user-fz8hq9gf9i 3 года назад
秀吉が関白となった時、源平藤橘に並ぶ豊臣氏が創設されました。昔は氏は姓や名字とは全く性質の違うもの。各大名たちは源氏、平氏、藤原氏などをを名乗っていたが、秀吉から豊臣氏を授けられ、ほぼ日本中の大名たち、榊原、大久保と言った家康の家臣、息子の結城秀康、徳川秀忠まで豊臣氏となっている様子。秀吉の妹を正室に迎えた家康も豊臣氏だったのかも?官位官職を受けるには、必ず豊臣朝臣○○守□□諱のような感じだったと思われます。関ヶ原で東軍が勝利した後も、豊臣氏を維持した大名は多いようです。建前上、関ヶ原は豊臣氏内部の戦い。豊臣氏長者の秀頼を討つ事は、それを授けた朝廷も敵に回しかねない。慎重にしなければ、徳川が朝敵扱いされかねない。うっかりすれば南北朝時代のような混乱に逆戻りの危険あると考えたのかもしれません。朝廷にしっかり根回しが必要だったのでしょう。大坂の陣の後は、豊臣氏を名乗る大名はいなくななります。豊臣氏長者の滅亡により、必要がなくなったからでしょう。高台院縁者の木下家が細々と豊臣氏を名乗ったようです。
@user-wk5pq8fn3h
@user-wk5pq8fn3h 5 месяцев назад
おっしゃる通り、豊臣政権時代は「豊臣家康」です。 ちなみに秀吉はずっと羽柴名字も配下に与えてましたが、秀頼は一度も羽柴を名乗ったことも与えたこともないそうです。
@taroyosimoto2681
@taroyosimoto2681 3 года назад
「 織田がつき 羽柴がこねし天下餅 座りしまま食うは徳川」 慌てないのが家康さん!
@user-zf2ur8pg8v
@user-zf2ur8pg8v 4 года назад
大変良い勉強でした😎 チャンバラの時代は戦が仕事みたいなものですが、平和な時代になると戦がなくなって国民も平穏にはなりますが、何かの形で、仕事を作ったり与えないと平穏な世の中にはなりません。 明治維新は、富国強兵や近代化があまりにも先に走り、士族に対しての慈悲、国民に対しての配慮が足りなく、士族の反乱や西南戦争が起きたのかなと思います
@tkyk716
@tkyk716 4 года назад
確かに経済的に見れば、浪人対策はあったかもしれませんね。 一方軍事面で見れば、関ヶ原の勝利は、危ない橋をなんとか渡りきっただけのことで、もう一度同じ事をやれば今度は負けるかもしれない博打でした。また、江戸の防備を固める時間も必要だったのだと思います。戦をするのに本拠地が脆弱であるというのは軍事的に大きな問題となりかねません。 さらに、征夷大将軍という称号が十分に影響力を持たなかったという事もあるかもしれないですね。
@user-zf2ur8pg8v
@user-zf2ur8pg8v 4 года назад
皆様、1983年大河ドラマ徳川家康を見た方いらっしゃるでしょうか? 今川義元の軍師太原雪斎が曰く 政治とは民の声を深く深く味わう事!民の声を聞くより他は真理が無いと! 現代の政治にも当てはまることでは無いのか? 無論、日本国内においては、日本国民の声を深く味わい日本国民の安泰のために政治を行わなければならない。 現在の政治は何かがズレていると思う😞
@Okuhiro.Ochiki
@Okuhiro.Ochiki 3 года назад
充分に有り得る話。勿論、他にも武家諸法度など法案の作成や、各大名への根回し、オランダとの貿易なども進めていた。豊臣家を滅ぼす事自体はいつでもできたと思われるので、家康は自分の死後の徳川政権の安定、いわゆる「終活」に力を注いでいた。そうして地道に礎を築いたからこそ、江戸幕府は200年以上も続いたのだと思う。
@pekadon_sevilla2008
@pekadon_sevilla2008 4 года назад
関ヶ原では東軍に従ってた旧豊臣側の大名も 再び寝返る不安定さも懸念されたからではないか? 秀吉が平定した世を数年でかすめ取られた気分となりそう。 豊臣討伐中に遠地の毛利、島津、伊達、上杉などが一斉に蜂起したら 大阪に集中出来なくなる。 ゆえに家康は地盤固めとして内政、政略結婚による内縁化を進め 憂いの無くなった頃合いで仕掛けたと予想。 (したたかに国替え案を前面に強調して。浪人が集結するのを規制せず一網打尽に)。
@user-tg6dn1zc5s
@user-tg6dn1zc5s 4 года назад
「関が原の戦いから」という基準がおかしい。 関が原は徳川VS豊臣ではない(代理戦争的はあるが)あくまで停職中の部長級石田が取締役の何人かを炊きつけ筆頭取締役たる徳川を追放しようとして失敗しただけ。 豊臣は実質経営権は無いけどまだ株の左右=徳川取締役の解任の可否の力は持っている。(調停から逆賊のレッテル貼られたら完全終了) 徳川VS豊臣に持ち込むのに時間を費やしただけ。 関が原から将軍任官まで3年近くかかることから形式を整えるのには時間がかかることが良く分かる。
@user-wp9jn8fg4l
@user-wp9jn8fg4l 4 года назад
最近じゃ豊臣家を勢力下に置こうとしたとも言われてますよ、秀吉が織田家を自分の勢力下に置いたのと同じように。
@user-wf4dq1eb9r
@user-wf4dq1eb9r 4 года назад
大阪の陣は残った浪人の一網打尽作戦?のフレーズで思い出したが 山岡荘八の小説:徳川家康で、真田幸村が 「平和な時代へ移すには残った浪人の力を一つに集めて一度爆発させてやらねばならん。そしてそれを集めるには大阪城がうってつけだ」という趣旨のセリフがあったな
@keitakimoto4146
@keitakimoto4146 4 года назад
西郷さんももしやそういう理由で西南戦争を、、
@R.S323
@R.S323 4 года назад
景気が良くなると戦争なんて言ってる浪人は空気読めない人達扱いされちゃいますね。最後を士族と共にした西郷さんは真田や後藤とシンクロしますね。サムライ(旧日本人)は泣けるほどカッコいい!
@shtkby
@shtkby 4 года назад
確かにそのような理由もあったとは思いますが、しかし最大の理由は、単純に「豊臣家を攻撃するための大義名分が無かったから」ではないでしょうか。 今も昔も、戦争を仕掛けるには大義名分が必要です。まして徳川は関ヶ原合戦にて、あくまで豊家に仇なす逆賊西軍を討ったというのがタテマエであり、形式上は、豊臣家は関ヶ原後も徳川にとって主家です。よってその主家を討つ(易姓革命)べく、全国の諸侯を納得させ大軍を動員するためには、相応の口実が必要となります。 関ヶ原後に事実上の統一政権となった徳川の統治機構を盤石なものとしつつ、統治機構が形骸化してゆく豊臣がヘマをして攻撃の口実を与える瞬間(方広寺鐘銘事件)を待ち続けたのが、この14年間だったのだと思います。
@user-pl7gn2hc7r
@user-pl7gn2hc7r 4 года назад
70過ぎたら焦ったという人が多いけど焦ったのなら幕府開いた時点で60越えの家康は「自分の目の黒いうちに豊臣家を滅ぼさなければ」と速攻で滅ぼしに行くのが普通なんだよね、少なくとも信長や秀吉なら長くても5年で滅ぼすか完全服従を迫ったと思う 豊臣恩顧の大名の力を恐れたという説もあるけどそれらが全て日和見せず豊臣家に合力するなんて絶対あり得ないしそれよりも家康が寿命でぽっくり逝く方が政権的にはリスクが高いので最初から豊臣を滅ぼすつもりならさっさと家康が元気な間に軍事行動起こした方が実はリスクは低いし外様大名を減らす口実にもなる 結局は豊臣家を残すつもりで時間を大量に与え他の外様に比べ優遇しつづけてやったのに豊臣家はプライドを捨てきれずにとうと堪忍袋の尾が切れたってことなのでは?
@tikkioono5097
@tikkioono5097 4 года назад
秀忠の方が滅したかっだ 領土もまともに運営できない秀頼 の坊ちゃんは秀忠で十分だと
@tikkioono5097
@tikkioono5097 4 года назад
秀吉は転封ごねた信雄を改易に持ち込んだよな、秀信は飼い殺しで 信包も失脚
@user-yl1zd7dq1f
@user-yl1zd7dq1f 2 года назад
句読点くらい付けろ
@xjcity
@xjcity 4 года назад
アプ主さんが言うように、14年経済対策が必要と準備をする期間と考えると納得です。
@user-dk8bm1wh9h
@user-dk8bm1wh9h 4 года назад
忍耐も大事ですね。形はどうあれ
@user-dp9rg7fg3i
@user-dp9rg7fg3i 4 года назад
家康、秩序を安定するために考えたんですね? 1983年放送の大河ドラマ徳川家康にも取り上げていますかね?
@73moto
@73moto 4 года назад
徳川幕府が大名に改易を命じる時は大名が江戸に居る時にして居たのは大名が領内で改易を命じたらヤケを起こして反乱を起こすのを防いだ。
@user-cp4ni4sn1l
@user-cp4ni4sn1l 4 года назад
家康からすれば明日にでも豊臣攻めをしたかったのだけど、なかなか踏ん切りがつかず、手出しできなかっただけなのでは?後継者の秀忠は完全に奥さんの尻に敷かれてたから、彼の代で豊臣を滅ぼすのは略略無理。深謀遠慮だったと言えば聞こえはいいけど、頭の中でいろいろリスクをシュミレートしては、悶々としながら14年間を過ごしていただけの話で、ただの結果オーライ、本人からすればまったく不本意な14年間だったと思いますね。 家康は「今日の自分があるのは、信玄と三成のおかげ」と述べていたけど、大坂冬の陣まで三成の役を演じる人物が出てこなかったのも大きい。 ただ秀吉の遺言とはいえ、可愛い千姫を秀頼に嫁がせたことからすると、当初は豊臣家滅亡までは考えてなかったかもしれないね。それは家康の善意ではなく、豊臣家の実力と親豊臣大名や野心的大名および浪人たちのことを考えてのリスクマネジメント的判断。 秀頼と千姫の間に子が(特に男子)がなかったのも豊臣にとって不運だった。幕末天璋院篤姫のおかげで仮想敵国薩摩は、なんとびっくり徳川の身内になって、逆に幕府から頼られる立場になってしまった(薩摩側はどう思っていたかはともかく…、幕府側にすれば篤姫の子家茂の死は不運)。秀頼と千姫との間の世継ぎがいたら、いろんな想像ができて実に面白い!(特に秀忠とお江は親バカ夫婦だしね😅)
@user-ok1py2ol8d
@user-ok1py2ol8d 4 года назад
なるほど、面白い こうゆう見方もあったか。
@user-gz7ce4rv6o
@user-gz7ce4rv6o 4 года назад
どうしても豊臣贔屓のオレだけど、庶民の立場から見れば徳川の世の方が暮らしやすかっただろうと思ったりします(^o^:)
@user-bh7lm7ri5c
@user-bh7lm7ri5c 4 месяца назад
大坂冬の陣のときに家康はお亡くなりになられた説もあられますね。どれが本当か私には分かりませんが歴史にはわからないというロマンもありますね😊
@user-km8sm1db4y
@user-km8sm1db4y 4 года назад
この動画前に見たことあるな。再アップですか?
@user-ql3lf4jt6q
@user-ql3lf4jt6q 3 года назад
この期間は僕も気になってたので ありがたいです! 家康の健康オタクっぷりが実りましたねw しかしこの説が本当だとしたら家光の頃 改易しまくって出た浪人たちが安定期に慶安の変を起こすのも皮肉ですねw
@Nis-vl6xg
@Nis-vl6xg 4 года назад
そう言えば、その頃の浪人の中には海外雄飛した。結構な数の浪人が日本を出ていった。と堺屋太一か誰かの本で読んだ気がする。
@user-wp9jn8fg4l
@user-wp9jn8fg4l 4 года назад
山田長政とかがいい例ですね
@kappago-go-9857
@kappago-go-9857 4 года назад
関ヶ原の後、家康が江戸に幕府を開き、豊臣家は一応、形の上では徳川家の 家臣になったわけですから、やはりこれを潰すには、それなりの大義名分が 必要だったんでしょう。そうでないと、豊臣恩顧の大大名、前田利家の反発 を買う、そしてなにより、利家の妻おまつと、秀吉の元妻ねねが生きている 間は、なかなかあからさまな行動が取りにくかったんだと思います。😌
@user-jf9tf6pe1n
@user-jf9tf6pe1n 4 года назад
家康公は豊臣を潰すつもりはなかったのではないだろうか? 秀吉公が自分の主家であった織田家を臣下とした様に、豊臣を徳川に臣従させようとしたのではないか。 滅ばそうとしていたのなら14年は時間を掛けすぎだと思う。😧
@user-wp9jn8fg4l
@user-wp9jn8fg4l 4 года назад
家康公は公家として生きるならば存続させる的な感じのこと言ってた気がします
@user-rg4qm7nk5j
@user-rg4qm7nk5j 3 года назад
これはおもしろい視点だ。 ゆっくり回り道をして着実に足場を固めていく、家康の性格にも合ってる。 ただ、もし秀頼が大阪城を退去して、家康にハッキリ臣下の礼をとれば。 家康も。地方の一大名として豊臣家の存続は、許したんじゃないかなーとも思う。 秀頼、淀殿の強情さは、後世からみると愚かな選択なんだけど。 でも当事者としては、当然の選択だったんだろうなあ。
@naojuv
@naojuv 4 года назад
秀吉の朝鮮出兵も失業対策という説がありますよね。
@user-oz7kw8iz5p
@user-oz7kw8iz5p 4 года назад
世界史だと国内を統一したら外国に攻めこむってのが常識なんだけど、それは多分に兵士の失業対策って面が大きいと聞いたこと有ります
@user-lr9jh7vu8z
@user-lr9jh7vu8z 4 года назад
信長の遺業ですからね それに武将たちは秀吉の子飼いばかり つまり勝つ気まんまんだったんです
@yasukobukuro
@yasukobukuro 3 года назад
褒美は計画的に。
@hidexie1971
@hidexie1971 2 года назад
正確には「唐入り」です。スペイン王国に明を取られる前に行動を起こした秀吉の日本防衛戦略です。
@user-qg9wx5lx8s
@user-qg9wx5lx8s 4 года назад
冒頭で家康が深大な計略を練っていたという説を否定しながら、 結局浪人対策という計略を練っていたという結論で草。
@TORUIROIRO
@TORUIROIRO 4 года назад
そう考えると、秀吉が北条の領地を関東に転封命じたのはそこまで見越したことだったのかも。秀吉の母大政所も秀吉の次は家康と読んでたみたいだし。
@bure8552
@bure8552 4 года назад
経済面から14年間放置していたというのはなかなか面白い観点ですね。傾聴に値するとは思いますが、私ははやり、1611年に浅野長政・堀尾吉晴・加藤清正が、1613年に池田輝政・浅野幸長、1614年に最後の砦であったで前田利長が死去、当初は秀吉との約束もあり、豊臣家と融和策をとりつつも、一方では武力策も着々と準備を進めていた徳川家康は、前田利長が死亡したあたりから豊臣家が危機感を持ち、兵糧や浪人を集め始めたことが大きいのではと思います。前田利長の死亡が1614年5月、大坂冬の陣が1614年11月。前田家の動向が豊臣、徳川両方の意志決定を後らしていた、徳川から見れば14年間放置していたという事ではないかと思います。
@takoyakimst777
@takoyakimst777 3 года назад
慶長16年二条城会見の段階でも、 まだ秀頼の方が立場うえですからね
@user-wk5pq8fn3h
@user-wk5pq8fn3h 5 месяцев назад
方広寺で揉めるまで大義名分が無かったんだとと思います。   豊臣は結局臣下の礼もしたし、関白職を他の摂家にしても従ったし、堺や金銀鉱山奪っても言うこと聞くし、江戸城普請させても、官位上がらないよう邪魔しても、どれだけ神社仏閣再建させても従っています。   結局は片桐から3か条突きつけたら怒って片桐追放したので、取り次ぎ追放=もう話し合いは拒否だよな? ってことで大義名分ができました。   正式に家康が3か条突き付けてたら、駿河に参勤とかで手打ちになってたかもしれませんね。もうどうせ二条城に赴いて頭下げているわけですし。   信雄のように新年の挨拶を求めただけで、秀吉の取り次ぎ役を○して挙兵してくれたら家康も楽だったでしょうが。   家康は最初から高台院などを通さず片桐に無理難題を突きつけれいれば、豊臣家臣団は容易に割れたでしょう。
@uotamickey4970
@uotamickey4970 3 года назад
自軍の犠牲を最小限に抑えるため豊臣一族の自己崩壊を辛抱強く待っていただけ
@user-wd9nk6vi4x
@user-wd9nk6vi4x 4 года назад
スピリチュアル的な視点から言わせてもらえば関ヶ原あたりから家康に仕えた天海の助言でしょう。アカシックレコードで家康や重臣の過去、それぞれしか知らない情報や豊臣方の情報など高い精度を教えてくれる円小角、安倍晴明、武田信玄クラスの霊能者が軍師であればその助言をきき入れて然るべき。
@user-bn7vl6bb3n
@user-bn7vl6bb3n 2 года назад
するどいねー でも家康事態にあったよ 徳川が欲した血、 建築技術と視える力 1300年に手入れた 徳川事態は建築技術の中の計算、今でいうExcel、頭の中で全部計算出来るよ!それと時計見ずに何時何分か分かる(家康の時には懐中時計出てたけど) 他の建築技術者家系(血縁者)集めて江戸造ってる 徳川じゃないと出来なかったよ 一般人と交わって血が薄れたけど自分もグラフだけ残ってる(笑)
@inahonetomi60
@inahonetomi60 4 года назад
当初家康は秀頼を公家として生き残らせる予定だったのでは?のちに幕府は、関白を傀儡として朝廷への監視役としているので、そのような役割を期待したのではないでしょうか?ただその調停が失敗したので、結局戦いになったというのが真相だと思います。それに仮にも先の関白家を滅ぼすわけだから、相当な大義名分がないと命取りになりかねないし、豊臣恩顧の大名家の力を弱めた後でないとやれないでしょう。家康にとっても大坂の陣はぎりぎりの選択で、賭けに近かったはずです。家康の死は大阪落城の約1年後。豊臣方に黒田官兵衛や真田昌幸並みの老獪な参謀がいたら、時間稼ぎで何とかなったかもしれません。そうした人材が枯渇していた時点で、豊臣家の滅亡は不可避だったのでしょう。もっとも家康亡き後完全に秀忠が単独で豊臣家の処分を決めていたら、天秀尼の助命も叶わず更に過酷な処分になっていた可能性もあります。
@user-fu9xg5zg9w
@user-fu9xg5zg9w 3 года назад
家康は豊臣を存続させる気で、滅ぼす気はなかったと思うぞ。 自分の孫まで秀頼に嫁がせた上に、冬の陣では許しているし。 北条が秀吉からどんな目にあったかを比較すれば、寛容だったと思いますよね。 家康が秀頼に要求したのも領土替えであって、家康自身も江戸に領土替えさせられているんだから、秀頼も応じるだけだったと思います。 それを、家康が豊臣を滅ぼそうと策を練っていたなどと、わざわざ想像する必要は無いと思います。
@user-jw2ic9je1m
@user-jw2ic9je1m 3 года назад
関ヶ原は徳川VS豊臣の戦ではありません。主君はあくまで秀頼であり、豊臣家の家臣同士の内紛です。 しかも徳川本隊は関ヶ原に遅参してしまい、秀吉恩顧の加藤清正や黒田長政、福島正則の活躍で東軍は勝ちました。 すぐ家康が天下取りできるような状況ではなかったのです。 ちなみに大坂の陣の後もお取り潰しによる浪人があふれ、1651年に慶安事件が起きています。
@user-rz1sc1nb1v
@user-rz1sc1nb1v 4 года назад
なんだかんだ言っても十四年は長かったと思います。
@user-el9qm4he5f
@user-el9qm4he5f 4 года назад
島津の強さの動画にも投稿しましたが、 私の父がたの祖母の祖先の“福岡の”秋月藩は、 あの西南戦争の前年「秋月の乱」で、 “日本初の警官殺し”‥も実はおこしていました。 (この説明の為に宮崎高鍋の秋月家の事も書いた筈だったかも(汗)‥) それと島津(薩摩)ですが、後の時代程、特に幕末 「他と比べ突出し多い武士の数」も、 その後勿論西南戦争も含めてやはり 大いに関係深かったのかもしれませんね。 但し、隠れ念仏(またすみません!)「一向宗」は おなじ薩摩で“もっとさらに多かった”と、 どこまで正確かわかりませんが全人口の 6割にも達したという話も聞かれる様です! 古代ローマのキリスト教が弾圧中も上流階級や (それこそ?)戦士の間にまで流行し続けてた 事実とも重なる様で、実際に 京セラの稲盛和夫氏なども御自身の祖先が 武家で隠れ念仏(一向宗徒)と 度々言及されてらっしゃいます。 ( 前述の様に人口構成で突出し多い時代の後だとしても。 ) 失業者という所謂表面的な数、だけにはとどまらず、 ようするに「社会構造の変化」がまずあって、 その結果としての人員の余剰なり何なりだと いう、とらえかたの方がむしろ余程的確なの かもしれません。数が多いだけならば、 社会構造等に合致さえしていれば騒乱も反乱も おきないか、あっても弾圧や鎮圧され終わるか? あるいは沈黙し自滅するだけかも? しれませんし…少なくとも 幾つかの天変地異や飢饉等もありながらもそれでも ある程度長期に「持続的に」社会が続く様な事も ありえない様な気もします。勿論、その背後には、 「声にもならない無数の」沈黙の叫び等も 絶対に続いていたと、してもです。 そうした人々の思いも一方であればこそ、 あのように明治維新直後の所謂廃仏毀釈、 正式には神仏判然令も間にはさみながらもまるで その前の過酷な弾圧もウソの様に、隠れ念仏が 即ち現在の浄土真宗が普及したんではないかとです。 (ただし、本願寺自体はというと、摂関家との  姻戚関係等も、続きましたし、一向一揆の  いわば頂点といえそうな本願寺顕如自身も  関白九条稙通の猶子で、その正室も…「妻帯」も  法然が、九条兼実の弟である天台宗の慈円の  弟子の綽空(のちの親鸞)に兼実の娘の玉日と  結婚をさせた昔から禁じられていなかったですが、  武田信玄正室三条の方の妹如春尼が正室でした。) #元和偃武
@user-wp9jn8fg4l
@user-wp9jn8fg4l 4 года назад
動画の内容とあまり関係ないんですが関ヶ原の戦いの時に豊臣家が東軍方に兵糧を送り西軍方に豊臣麾下1000名を送った理由分かる方いたら教えていただきたいです。
@KOUMORIish
@KOUMORIish 4 года назад
あと豊臣方に少しでも金を使わせること、豊臣方が持っている利権を削ること。大坂の陣でやった事を経済面でやったといえる。
@user-xk8gq7xm2k
@user-xk8gq7xm2k 4 года назад
論功行賞(と処罰)が済むまで、かつ外様の定着まで家康が待ったのは結果的には間違いないが、あくまでも豊臣方勢力による武力蜂起を待たねばならず、関ヶ原で西軍より少なかったとはいえ大軍勢を率いた徳川家に対峙するためには少なくとも15万以上の兵力の動員が必要不可欠だったことが、武力蜂起が遅れに遅れた最大の要因。
@user-xk8gq7xm2k
@user-xk8gq7xm2k 4 года назад
敵対勢力を集結させて一網打尽にする…、のは確かにとても有効ではあるが、戦わず味方に引き入れることで勢力拡大を推し進めた徳川としては、ほんの僅かながらも敗走する可能性のある合戦での決着は実際は避けたかったはず。で、なければ天下泰平の世を目指す志自体が揺らぐし、臣心も離れる可能性が生まれる。
@user-xk8gq7xm2k
@user-xk8gq7xm2k 4 года назад
要は大坂の陣自体、偶発的な合戦だったはず。ただし戦巧者の家康の最たるところは、大坂の陣や関ヶ原後の勢力図にも多大な影響を与えるほどの、『和議・講和で如何に有利な同意内容を引き出すか❓』を最重視しており、結果的にさも「家康には最初から~~という思惑があったのだろう」と思い巡らさせる条件を引き出すところ。大坂の陣も、冬の陣後の堀の埋め立てを引き出し、籠城反抗力を無力化した訳だし。
@tomoduca
@tomoduca 3 года назад
関ヶ原の合戦が、今思われているほどの、天下分け目の合戦ではなかったという話しもあります。なので、単純に徳川側が豊臣を討つのに十分な力を蓄えるのに14年かかったということだと思います。
@user-xw6zi4nt1h
@user-xw6zi4nt1h 4 года назад
由井正雪の乱とか小競り合い扱いですか...😅
@toaizenzen8074
@toaizenzen8074 4 года назад
当時江戸は数件の家があるだけの寂れた漁村それを山を切り崩したり運河を作ったり川の流れを変えたりを人力だけで完成させるだけで10数年はあっという間に過ぎてしまうだろう。 家臣団を引き連れて来たとはいえ家来の食料も人足も圧倒的に不足していただろう。結果から見れば浪人の失業対策と見えても実際は領地を守る為の兵力兵站増強対策。 近隣大名に弱いと判ればすぐにでも攻め込まれる危険が常にあった戦国時代国力の増強は何をおいても最初に取り組むべき課題だった。今の時代を基準に戦国時代を考えてはいけない。 また近隣諸国を考えれば今の時代に戦国時代は遠い過去の事と考えてもいけない。
@hs6352
@hs6352 2 года назад
豊臣恩顧の大名が多く残っていたことが原因だと思います。ただ家康も秀吉との約束を破ったので、地獄に落ちるかもしれないと思っていたみたいですね。
@user-om8kt7fs9b
@user-om8kt7fs9b 4 года назад
なかなか面白い考察ですなw 歴史と言う物は、浪漫ですわ。確実な口伝でも無い限り全ては推測。 ただ、その推測が楽しいんですよね(笑) 色々な説がある方が浪漫ですわw 突飛な説でも、考察に値すると思ってます。
@mitchokabe154
@mitchokabe154 3 года назад
「公共事業」は、仰る通りの失業者対策と言う一面だけでなく、有力大名達に巨額の出費を強いて弱体化させる」という一面もあったと思います。そうすることによって、戦争という手段を使わなくても「熟して実が落ちる」のを待てば良いのですから。
@octdan6648
@octdan6648 4 года назад
こう言う説好き。いかにも家康っぽくて。
@user-wp9jn8fg4l
@user-wp9jn8fg4l 4 года назад
色んな要因が重なった結果14年もの間が空いたんじゃないかなと思います
@user-ur7hl5ek6z
@user-ur7hl5ek6z 4 года назад
それと失業対策としての公共事業の予算は豊臣家や未だ豊臣に忠誠を尽くす大名に普請させていました。 14年の間に豊臣家の財力を削ぎ落とし、加えて豊臣に忠誠を尽くす大名が世を去り世代交代(Jr.など 徳川にビビって反逆する気も起こさないと踏んだのでしょう、真田信繫(幸村)というイレギュラーはいましたが) して孤立化させる事も狙ってたのではないでしょうか? そして落ち着いた所を見計らってかの有名な方広寺の梵鐘の「国家安康・君臣豊楽」の銘のイチャモン付けから 大坂の陣を起こすのです。
@user-wp9jn8fg4l
@user-wp9jn8fg4l 4 года назад
国家安康、君臣豊楽はイチャモンでもなんでもありませんよ、よく調べてください
@user-qt5ti9xk1v
@user-qt5ti9xk1v 4 года назад
えっ?逆に徳川家康がすぐに豊臣家を滅ぼせると想定していることにびっくり。 関ケ原の合戦の後も、福島正則や加藤清正、そして前田利家等の豊臣恩顧の大名が生きていたこと(もちろん、大阪の冬・夏の陣には死去している、あと解釈は難しいが黒田官兵衛もしかり)、その上で、動画でも言っている様に莫大な財産が有ったことで手を出せなかった・・が、通説だと思ったけど。様々な寺社等を秀吉の供養として補修・改修させ、財産を使わせたことも有名だし、だからこそ、方広寺鐘の銘事件が有った・・というのではなかったか?更には大阪城の存在も大きかったのでは?だからこそ、豊臣家の国替えなども命じてる~という話も有ったと思ったけど??また、大阪冬の陣ではかなり徳川方が実は劣勢で、味方の中から裏切り者が出ないか心配していた様だし、冬か夏の陣だか忘れたが、褒美も十分に出せないので、乱取り(近隣の村を兵士に襲わせて略奪、強姦などやりたい放題)させたのも屏風に書かれているのも有名だよね?
@user-bk8bo1zj6b
@user-bk8bo1zj6b 4 года назад
待った!「由井正雪」は
@user-ur7hl5ek6z
@user-ur7hl5ek6z 4 года назад
+秋山泰幸様 由比正雪は大坂夏の陣(1615年)の後(1651年)ですから無関係ですよ。 しかも事前に察知されて戦いを起こすことなく一網打尽にされました。
@user-zj4qd4xg1r
@user-zj4qd4xg1r 2 года назад
この動画で三国志ライターと名乗る所が👍
@torosmasa
@torosmasa 4 года назад
大河ドラマじゃ、2週間後だから、そんなに時間が経っていた、歴史バカは、驚きです、 ドラマ上年も同じくらいだから(俳優さんたち)、リィアリティーないんでそんなもんかと思ってた。
@user-rf7ii7jt2p
@user-rf7ii7jt2p 3 года назад
山田長政のようにタイに傭兵に出たひともおったようです。
@user-jg4zj3lp2q
@user-jg4zj3lp2q 3 года назад
西軍総大将毛利輝元がやる気満々で出陣してたら変わったかなぁ。関ヶ原の結果。 皆さんどう思いますか?
@user-jh1yq7km9m
@user-jh1yq7km9m 3 года назад
年を取って急激な変化を好まなかったのだろう。 そもそも江戸を首都にしたこと自体が理解しがたい。断崖と湿地帯で、風の通り道。真水が出ない、工事が必要で大変、利根川を付け替えたり、水道を整備して、坂だらけになった。筑波おろしで大火が続く。経済的にも大出血にもなっている。 秀吉に転封されたが、馴染んだ 岡崎でも浜松でも駿府にでも、はたまた名古屋にでも戻せた。事実、晩年は駿府で過ごしている。
@kobayashitommy6521
@kobayashitommy6521 Год назад
豊臣系に徳川でよくね。と思わせるまでに時間を使った
@done-s
@done-s 4 года назад
『秀吉の居ない豊臣家なんか、ちぇんちぇんダメよ』と日本全国に蔓延させる時間が結構かかった。
@jyankuro15
@jyankuro15 3 года назад
民心の感情が移動する時間
@suken1019
@suken1019 3 года назад
歴史上の人物も存命当時は普通の人間だしね 真相は案外普通だったということはよくあること
@user-jx4ou3ij1s
@user-jx4ou3ij1s 4 года назад
鳴くまで待ってたんだよね。先手に弱い家康さんは。
@CHAOS-qs5py
@CHAOS-qs5py 4 года назад
これは違うでしょ?だとしたら、家康の次の秀忠、家光の治世に何であんなに浪人が増えたのか説明がつかない。というより片っ端から大名小名を潰していったから尚更浪人が増えて、後に起こる島原の乱や由井正雪の乱の原因になったのだから。 家康の本音は豊臣家を潰すつもりはなかったのだと考える。何度も試みているように、徳川の家臣として存続させていくつもりだったのではないか。そのために時間をかける必要があった。特に厄介な秀吉の貯めた巨額の金と全国各地に散らばる豊臣恩顧の大名たちの処置。これは自分自らが対処する必要があった。この2つを片付けたら秀頼も自分の家臣になると思ったのだろう。 だけど現実はそううまく行かず、そうこうしているうちにも自分の寿命が尽きつつあることを悟り焦った。で、殆どいちゃもんのあの「方広寺」と相成る。 ま、要するに、単純に考えてすぐに潰すには豊臣家はあまりに巨大すぎた、と愚考する。
@user-wp9jn8fg4l
@user-wp9jn8fg4l 4 года назад
CHAOS 2017 全然イチャモンじゃないですけどね
@naojuv
@naojuv 4 года назад
秀忠・家光のころに浪人が増えたのは、幕府の脅威になりうる大名家に対して改易、つまりお家取り潰しをかなりの件数行なわれており、それが原因ではないでしょうか。 家光までの3代の間に100家以上が改易され、それだけの大名家の家臣が無職になったわけですから。(運よく他家に召し抱えられたものもいますが。) 由井正雪の乱を契機に幕府は改易処分が増えないよう対策を取っています。
@user-vh3rd5ju3f
@user-vh3rd5ju3f 4 года назад
ケインズ的な考え方を持ってたんですねー
@user-yj5hc9th3e
@user-yj5hc9th3e 3 года назад
人間年をとるごとに人間が丸くなる・・・やさしくなるものです。 ただ、権力者は、古今東西、残忍になるものが多い 自分の権力を守りたいと猜疑心が強くなる・・・ 家康もこのパターンではないかと・・・ 家康が、そこまで腹黒でなかったとするならば・・・ 関ヶ原は、なりゆきで、やむを得ずの結果だった。 当然、豊臣を滅ぼす気はない・・・ その気になれば、 たとえとよとみ恩顧の大名が逆らおうが やれたはず・・・ そもそも、関ヶ原の恩賞と称して あぶなそうな人間は遠方に配置し、 備えは万全・・・ 秀吉が織田を処分したように はなっから、権力を削ぐ施策をとってよかったはず・・・ (領地は60万石に減らしたけど・・・その後の追い込みはしない) それをしなかったのは・・・ 権力を固めるのに時をまったのか・・・ OR 当初は滅ぼす気がなかったのか? です。 茶々 おごう の縁もあるし・・・ さらに孫を送ることで、さらに縁を深めた・・・ 時をかけて、とよとみ家に自分らの立ち位置を 考えさせようという意があったのかなぁ・・・と けど、豊臣はそれに気づかない・・・ 伊達も妙な動きをする(本当かどうかはしらないですが・・・婿を 通じて、秀頼と・・・実際、この家康の6男は、長いあいだ幽閉されます。) で、家康はなんくせをつけて、 秀頼を追い込み・・・ (この時、絶対に逆らいませんという態度を見せられれば、  前田家のように、母親を江戸に送るとか・・・  すれば、話は変わったかも・・・) 滅ぼしていくという流れになったのではないかと・・・
@shinkikou
@shinkikou 4 года назад
家臣が主君の家を攻め滅ぼして自分が天下人になるなんてとんでもない話です。
@user-uy2fs5ii3u
@user-uy2fs5ii3u 3 года назад
豊臣家の財政を削減させ秀吉からの繋がりが希薄になるの待ってたんだと思います。
@yasukobukuro
@yasukobukuro 3 года назад
結論:家康の計算通り。
@user-jk8ix9gr3k
@user-jk8ix9gr3k 4 года назад
…なるほど、こんな自分なんかでも 権力者をガクブルさせられるのか なんだかやる気が出て来た♪(`・ω・´)
@uzukij9136
@uzukij9136 4 года назад
戦国武将のララバイだと侍稼業が嫌で 居留守を使い仮病を使い強い奴らには頭を下げてたら いつの間にやら勘違いされて我慢の武士だと謳われた とか歌われてたなあ
@user-pp3xg5sb6m
@user-pp3xg5sb6m 5 месяцев назад
経済力の構築のタイムラグだろう
@onep4793
@onep4793 3 года назад
なんだかんだと言って、結局家康遠謀説になってませんか。家康は豊臣秀頼が自刃したと聞くと怒って、指揮をとっていた秀忠にはあわずに帰ってしまったそうです。単に最後まで秀吉との約束にこだわったとみるべきではないかと思います。
@user-rt9uo7th1f
@user-rt9uo7th1f 4 года назад
あくまで推測だが関ヶ原が終わった時点で家康は息子の秀忠に実権を譲っていて、秀忠は豊臣家を滅ぼすつもりなかった気がする。織田家だって滅んでいない。
@mamepi5028
@mamepi5028 3 года назад
秀吉が亡くなってから石田三成という極めて人望の低い人物が実権を握ったこと、その彼も秀吉の側室・淀君をコントロールすることができなかった、跡継ぎの秀頼が病弱で取るに足りない人物だった。いろいろと要因はあると思いますが、家康としては天下人の家系である豊臣家を秀吉の死後すぐに攻撃することは不利と考えたのでしょうね。放っておけばいずれ向こうから懐柔してくるか、盾突いて来ればその時叩き潰せばよいと考えていたのではないでしょうか?やはり天下を取ろうとする人は相手を自分から攻める場合はそれなりの大義名分を必要としますので。少々物騒な話になりますが、アメリカが自ら北〇〇を攻撃しない理由もこれに近いような気がします。
@obunowagaseha
@obunowagaseha 4 года назад
そもそも今は家康が豊臣家を滅ぼす事を前提にしてたという説自体が疑問符持たれてますのでイマイチな動画でした
@uotamickey4970
@uotamickey4970 4 года назад
鳴かぬなら、鳴くまでまとうホトトギス
@user-vl2po1lh9u
@user-vl2po1lh9u 4 года назад
自家の政権基盤を固めるのに勤しんでた?、
@user-rr8dj9dr4f
@user-rr8dj9dr4f 3 года назад
大坂
@aranami-usagi
@aranami-usagi 3 года назад
建前上は征夷大将軍になった後でも豊臣家家臣だし、何の名目で滅ぼせるのよ?豊臣家は最後まで徳川に頭を下げなかったので家康の謀反の形で終わってしまった
@setsussai
@setsussai 3 года назад
武家の棟梁は征夷大将軍で、源氏平氏の家系でないとなれない。なので豊臣は将軍になる資格が最初からない。将軍は家康がなって、すぐ嫡男に譲位した。この時点で将軍は徳川家で確定してたのです。そして将軍は世襲します。 一方関白は天皇の代理的役職。秀次が讒言で取り除かれたが、公家は関白の世襲を嫌ったのではないか。世襲を許さないという暗黙の意思表示。将軍は侍者で下級貴族、地下人ですので天皇の権威を脅かすことはない。はっきりと身分の差があるからです。しかし関白はそこが怪しい。 なので豊家滅亡は信長暗殺と同様に、すでに密かに決められていたことだったのではないでしょうか。何にせよ、豊家が子々孫々栄えるシナリオは思いつきません。唐入りに成功すれば別ですが。明敏な秀吉ですから、きっとそれをわかって晩年の老醜を晒すことになったのではないでしょうか。日本でどれだけ頑張っても、ピンポイントリリーフで終わりになるのは目に見えてましたから。
@user-xp2qb8vf3h
@user-xp2qb8vf3h 4 года назад
なるべく豊臣を滅ぼさずに臣従させる方向にしたかったからでしょ。水面下では大名を臣従させて摘んだ状態にして、降参させたかったのに 淀がアホ過ぎて最後は仕方なく攻め滅ぼす方向にせざるを得なくなった。これだと思いますよ。関ヶ原の段階でも100パターンも想定して 100万石までの削減なら天下を獲れると試算してい訳だから 大坂の陣も100パターンくらい作ったシナリオの一つなはずです。でも、最も使いたくなかったやり方なはずですよ。 大坂の陣の前に家康は写経を何百枚と書いて、たまに南無徳川家康とか書いていたらしいですから。 涙を飲んででの大坂の陣だったはずです。 淀の生涯には同情する面もありますが、それでも情けだけかけてはいられないアホさもあるのでね。 何処かクレオパトラ、エジプトとオクタビアヌス、ローマと図式が重なります。
@user-vj9iz7ds5p
@user-vj9iz7ds5p 2 года назад
今の政治家にない話しですね
@user-vl2po1lh9u
@user-vl2po1lh9u 3 года назад
失業者対策?、今も昔も為政者の頭痛の種?、公共事業に励んでた?、
@user-vl2po1lh9u
@user-vl2po1lh9u 3 года назад
失業対策に明け暮れてた?、
@agtak1578
@agtak1578 3 года назад
なにより「豊臣」なんて姓が目立ち過ぎ。返上しましょう、羽柴に戻して。なんなら木下でもいいです、徳川の一大名として目立たず目立たず
@uraraharu3958
@uraraharu3958 2 года назад
歴史ファンはいろいろなことを言う・・・・あんたもな!
@mamito274
@mamito274 4 года назад
目からうろこ
@user-fu1ez6dx4t
@user-fu1ez6dx4t 3 года назад
豊臣家滅亡理由①正室ねねの裏切り理由②ねねの無能な親戚を用いた理由③恩知らずな福島政則、小早川秀昭を重く用いた為‼️まあ最終的には、ねねの女の嫉妬ですね‼️別に血の繋がりの無い秀頼がどうなろうと、どうでも良かったんじゃ⁉️
@DGsoldier
@DGsoldier 4 года назад
いーひとだからだよ。
@user-wp9jn8fg4l
@user-wp9jn8fg4l 4 года назад
家康公人情に富んでますからね
@user-dp9rg7fg3i
@user-dp9rg7fg3i 3 года назад
こうして見ると家康って、信長と秀吉に比べたら、武将としてはカリスマ性はないですが、政治面などなどでしっかりしていますね。
Далее
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