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斎藤義龍が斎藤道三を討った本当の理由 

ほのぼの日本史
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【動画の目次】
斎藤義龍が斎藤道三を討った本当の理由 00:00
義龍の父が道三ではないという話は虚構 01:12
一色氏を名乗った義龍 02:47
六角承禎条書には道三の子と記録される 04:14
義龍が道三を討った動機 05:18
道三の罪滅ぼし、自ら義龍に討たれた道三 06:28
戦国時代ライターkawausoの独り言 08:09
2020年のNHK大河ドラマ麒麟がくるの主人公、明智光秀。
彼の前半生に大きく関わる人物に美濃の戦国大名、斎藤道三がいます。父子二代で成り上がり、天文年間には美濃の守護土岐頼芸を追放して下克上を達成した道三ですが、皮肉にも息子の義龍に討たれてしまいます。では、どうして義龍は父道三を討ったのでしょうか?
あなたは斎藤義龍が斎藤道三を討った本当の理由についてどう思いますか?
💟参考になった皆様の考察・歴史感をコメント欄に固定化させていただきます。
※あなたの考察やご意見をコメント欄までお待ちしています。
【コメント欄についてのお願い】
いつも視聴者様には当チャンネルをご視聴頂き、沢山のコメントも頂戴し、とても感謝しています。
コメント欄は、日本史に関する多様な意見や考えがあつまる場所です。他の人の見解や歴史感に触れることが、多角的に日本史を楽しめたりするきっかけの一つになると思います。それを日本史好きの視聴者が集う「ほのぼの日本史」だからこそ、より日本史の魅力や歴史的事象を多面的・多角的に考察する機会を視聴者の皆様と共有したいと考えています。
しかしながらコメントについては時折、あまり好ましくない表現や議論の方向性が見受けられます。皆さまと気持ち良く当チャンネルをきっかけに歴史の楽しさを語り合う・コメントに参加できるためにも乱暴な表現やコメントの参加者同士の不毛に近い争いが起こっている場合は、見つけ次第、例外なく非表示させて頂く場合がございます。
こうしたコメントも皆さまの歴史を愛する気持ちが溢れ出た上であることは十二分に承知していますが、動画を視聴し、視聴者の皆様が気持ちよく歴史感を共有できるよう、ご協力・ご理解の程、よろしくお願い申し上げます。
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「ほのぼの日本史」は、複雑な歴史もみるみるわかる。 暗いニュースを断ち切り、心も体も疲れ切っている現代人の「心に灯りをともす」をコンセプトにした歴史系エンタメメディアです。
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#斎藤道三 #斎藤義龍 #麒麟がくる

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14 авг 2024

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Комментарии : 104   
@user-vh4bx4ci8v
@user-vh4bx4ci8v 4 года назад
情報源が引用されていてとても説得力がありました。ありがとうございました。
@user-wp9jn8fg4l
@user-wp9jn8fg4l 4 года назад
家臣や領民が反乱を起こしてないのと義龍さん側に兵士が多いいのを見ると、美濃国全体が道三の支配が嫌だったのかな
@yamabiko8015
@yamabiko8015 4 года назад
道三は能力がありすぎてなんでも自分で決済し、国衆の意向を反映してくれなかった。義龍はむしろ国衆の意見を採り上げてくれていた。で、国衆に担がれて・・・と言う説がありますね。
@user-hw3ji1ih4e
@user-hw3ji1ih4e 3 года назад
情報源もきちんと紹介されていましたし、お話も分かりやすかったので良かったです。 実の息子に殺されるとは、戦国時代の厳しさに絶句しました。
@user-ms5rv2pt5r
@user-ms5rv2pt5r 4 года назад
斎藤道三って、よく分からない時がありますね。サイコパスなのかも。義龍は長良川の戦いで道三と信長の両方を撃退しているので、戦の才能はすごかったのかも知れませんね。
@kaznori16
@kaznori16 4 года назад
押入れの冒険 道三の首実検後、 大良河原で義龍は信長と 戦って撃退していますので、 そのことを言われているのでは?
@user-hs2tj8ec5f
@user-hs2tj8ec5f 4 года назад
深い。「麒麟が行く」ますます楽しみです。
@user-fz8cn3lw8j
@user-fz8cn3lw8j 4 года назад
出した文書や制度、そして朝廷とのつきあい等、道三より内政に優れていた様に見受けられるが、どうしても人気が無いですよね。 父親が『下克上』という日本人が好む事を成し遂げたことで相対的に下に見られる事や父親殺しという儒教道徳に反したことを殊更書かれたせいだとは思いますが、大河でも少し可哀想な描かれ方だなと感じます。 信長も彼が生きている間は美濃を取れなかった訳で、『戦国大名』らしい動き方をして国を統治した人物。 私は、少なくとも無能ではなかったと思える人物です。
@dindon1969
@dindon1969 4 года назад
麒麟がくるでも 高政の内政改革案を光秀が理解できてない様な印象がありますね。 領地替えなんて 信長は後々重臣たちに普通にやりましたからね。
@yamabiko8015
@yamabiko8015 4 года назад
道三が弟たち二人とも見舞いに向かわせた…というのは道三らしくないですね…案外本心は義龍を信頼していたのでしょう。「マムシ」も息子たちには甘かったのかも。
@user-wp9jn8fg4l
@user-wp9jn8fg4l 4 года назад
史実かどうかは分かりませんが龍興さんを主人公においた物語では好々爺として描かれてました
@user-ls6wm7gs1p
@user-ls6wm7gs1p 4 года назад
ほんとに蝮なら義龍撃ってますよね
@user-zr6go7gu5u
@user-zr6go7gu5u 4 года назад
見舞いに見せ掛けて…という予定だったが義龍が1枚上手だったのかも?
@tadataka4
@tadataka4 4 года назад
編集が親切にできあがっていてよかったですよ
@hirobook
@hirobook 4 года назад
日本史解説もいいですね。サイトのほうはよく見させていただいています。初代が偉大だと二代目が割を食うケースが多いですね。北条氏政、武田勝頼、今川氏真、上杉景勝、そんで斎藤義龍。無能ではないのに、後世凡庸に書かれていたり、無鉄砲に書かれて、信長の引き立てられ役に甘んじていたりと報われない扱われ方をしている。ただ様々な歴史書を見たり調べてみると、違ったケースがたくさん出てくる。それが楽しい。色々な人物や出来事をアップしてください。次は光秀=天海説についてかな??
@gen3207
@gen3207 4 года назад
義龍が家督を継いでからの体制がまるで某野球チームのGM付きの監督みたいに思える
@Victory72
@Victory72 4 года назад
本編とは無関係だけどOPの日本史verのはいつ作られるんだろう?
@user-ks4kg5wl5p
@user-ks4kg5wl5p 4 года назад
実際は甲斐武田の晴信・信虎親子みたいに 国人集の支持受けられなくなった先代が 次代に排斥されただけなんだよね。 戦国時代に戦国大名化出来なかったところ でよく発生してた事例っぽいし。
@user-zr6go7gu5u
@user-zr6go7gu5u 4 года назад
西美濃三人衆あたりが…都合よく国内でやりたい場合道三では不都合だったからでは? 義龍ならどうにか出来ると踏んでいれば彼に「土岐の血筋」と刷り込みしていれば…「下剋上」も「育ての親殺し」も正当性を持つでしょ。
@user-rt9uo7th1f
@user-rt9uo7th1f 4 года назад
道三は義龍に家督を譲ったが実権は握っていた。この関係は徳川家康と息子秀忠に似ている。家康は家督を譲った後に関ヶ原や大坂の陣が起ったからだ。 このため秀忠は凡庸と評価されがちだが、本当は家康が老害だったのではないか?
@user-wr9yi7fw3g
@user-wr9yi7fw3g 3 года назад
勉強に成りました。ありがとうございます。
@Gonta-xl5lz
@Gonta-xl5lz 4 года назад
麒麟がゆくの 高政という名前がなじまない。
@user-fz8hq9gf9i
@user-fz8hq9gf9i 4 года назад
この人名前がどんどん替わる。父が存命中は利尚、死後高政、永禄2年上洛して、一色氏になると義龍。一色氏は土岐氏より家柄が上。戦国時代でも親殺し、主殺しは避けた。親殺しの汚名返上の為に一色氏と名乗りたかったのね。よく母親は土岐賴芸の妾と言われるけど、どうも稲葉良通の姉で、れっきとした正室だったみたい。濃姫の母親は継室なのかも。
@u3suzuki44
@u3suzuki44 4 года назад
道三が美濃の譲り状を信長に残したって話は 織田家のプロパガンダナンかな?🙄
@user-gn7ci8me4f
@user-gn7ci8me4f 4 года назад
土岐氏の息子を名乗ったのは美濃守護の地位を狙っていた説もあるとか
@osakakawachi
@osakakawachi 4 года назад
武田信虎と武田信玄の親子関係と同じと見た方が良いかも知れませんね。 信玄による父信虎の電撃追放劇は平和裏に成功しましたが、 義龍と道三の場合はそうはいかずに最悪の結末を迎えてしまったんでしょうね。
@dindon1969
@dindon1969 4 года назад
義龍がなぜ道三を殺したのか?は いまいちよく分からないんですよね。 信長と連携される可能性を危惧したんでしょうか。 信玄は義元と信虎の隠居料の話をしてたそうですね。
@user-hz8cz2sh2l
@user-hz8cz2sh2l 4 года назад
六角氏の巻物 の文字が笑えた。  はんにゃらほんにゃらあじゃらかもくれん・・おしりかゆい  ユーモアがあっていいですね。
@user-ez2cx9zt3h
@user-ez2cx9zt3h 4 года назад
面白い❗ 分かりやすい❗ 次は光秀の本能寺の変かな~? (早すぎる❗)
@fullboccobokko7358
@fullboccobokko7358 4 года назад
何のかんの義龍も有能なんですよねぇ 道山を討った後存命中は信長に美濃への介入を許さなかったので
@user-jm2ze4ub9s
@user-jm2ze4ub9s 4 года назад
土岐家が足利幕府きっての武闘派、 その家臣団を引き継いでますから、織田家家臣団には荷が重いかも?ですね~ 平地での合戦であれば、兵力や新兵器、戦術の差で埋まりますが、山城に籠もられると、少数精鋭の方が有利ですからね~ 信長さんは、確か浅井家攻略の際もかなりの月日を消耗していますよね~
@user-uv4kx2if2w
@user-uv4kx2if2w 2 года назад
麒麟がくるの道三の最期に『父の名を申せ』と繰り返し言っていたのは泣けました 血のつながりがあってもなくても、 殺しはしないで相手から強みを盗んで自分の強みにするというのを義龍がしていたら、と思ってるやまないです
@laozionoff
@laozionoff 3 года назад
麒麟が来るでは、コロナのせいか、なんのエピソードもなく、いつの間にか義龍は死んでいた。
@user-bg4iw2vt3c
@user-bg4iw2vt3c 4 года назад
聞いた話だと義龍に味方したのは道三のやり方に不満があった商人(座)や古い考えの人達だったらしくて、その人達のご機嫌取りで道三亡き後に、道三の支配前に全て戻した結果、ご機嫌取りされた一部の人達以外は苦しみ、財政は傾き、追い討ちをかける形での浅井に大敗して国力低下。 個人的な意見ですが以上のことから義龍は「ピエロ」だったのではと思います
@user-wp9jn8fg4l
@user-wp9jn8fg4l 4 года назад
カエル17号 浅井に大敗って何て戦いですか?
@user-bg4iw2vt3c
@user-bg4iw2vt3c 4 года назад
@@user-wp9jn8fg4l すいません。戦ったのは息子の龍興でした。中山道関ヶ原野上というところで起こったといわれているゲリラ戦です。しかも大敗というか浅井長政500に対して1万の兵力で戦ってまるで弄ぶかのように暴れるだけ暴れて囲まれたら抜け出して帰ってていうまるで龍興を弄ぶような戦いだったというので大敗とは言えませんでした(ただ圧倒的有利なのに好き勝手暴れられてそのまま逃がしてただただ損害を出しただけだったので家臣からの信用はがた落ちになったようで) 義龍が侵攻しようとしていたという話とゴッチャになってしまっていました。すいません。
@asukas.7141
@asukas.7141 3 года назад
引退しても、先代がでしゃばりすぎたら、そりゃあ後継者はやりにくいですよね。 土岐の息子説については、苗字を変えても義龍って名乗っている時点で、自分はマムシ(道三)の子って主張してるのになぜ?と思ってたのですが、後世の創作でしたか。 泥水で育った蝮(まむし)は五百年にして蛟(雨竜)となり、蛟は千年にして竜(成竜)となり、竜は五百年にして角竜(かくりゅう)となり、角竜は千年にして応竜になり、年老いた応竜は黄竜と呼ばれる by述異記 龍(竜)はマムシの進化形(*^^*)
@shion-akechi
@shion-akechi 4 года назад
『麒麟がくる』での道三の最期を見て、アーサー王とモードレッドの一騎討ちを連想しました。
@hakuC.Railway
@hakuC.Railway 4 года назад
はじめまして(〃⌒ー⌒〃)ゞ 絵がかわいいですね(*>ω
@netscaper0220
@netscaper0220 4 года назад
単に弟たちがいると勢力を一本化できないと思っただけでは? 道三は息子たちの敵討ちの挙兵をしただけ 信長も信勝という弟殺してるしよくあったこと
@dindon1969
@dindon1969 4 года назад
孫四郎たちを殺しても家臣たちの離反は起きなかった。 親道三と思われる孫四郎たちには 元々支持家臣などいなかったのでは? だとしたら一本化説は無理があります。 支持家臣がいなくても暗殺は出来る。 義龍さえ死んでしまえば 家督相続の大義名分は自分たちにある。 と、義龍が考えてもおかしくはないですよ。
@user-jm2ze4ub9s
@user-jm2ze4ub9s 4 года назад
義龍さんは、事を成したあと母方の一色姓を名乗ったんだよね~ その事実から、私は単に従来の斉藤家の家臣と、義龍さんの下の一色系の新興家臣との権力争いの結果では?と思ってしまいますね~ ちなみに、子どもの龍興さんは浅井久政さんの娘が母親ですから、その後の織田・浅井同盟は、龍興さんにとっては寝耳に水。 浅井家は、京極→六角→織田→朝倉と、主従同盟関係をコロコロ変えているお家ですから、一番信用ならなかったのでは?すると、裏切られ危機一髪の目にあった信長さんの危機管理能力には疑問が湧きますね~
@user-ox9ht8px2g
@user-ox9ht8px2g 4 года назад
道三も、子供に対してはマムシじゃなかったみたい。普通の親だって思った。
@yh6146
@yh6146 4 года назад
土岐頼芸は追放後も生き続け、道三、義龍、龍興が亡くなった後も生き続け、本能寺の変の半年後に亡くなっている。亡くなったのは故郷の美濃らしい。
@shakikakitori5613
@shakikakitori5613 4 года назад
曲がりなりにも鎌倉から脈々と受け継がれる守護大名ですからね。 文化人としても名が知れる頼芸は意外にも人望があったのかもしれません。
@asukas.7141
@asukas.7141 3 года назад
土岐頼芸、大名としては微妙でも、血筋が良く美濃支配の名目にできる上、絵の才能もありましたからね。 敵対しなければ、ある程度の生活は保証しますというところかと。 以前、鷹の水墨画を見た事がありますが、普通にプロだと思った(^o^;)
@yh6146
@yh6146 3 года назад
@@asukas.7141 確かに美濃追放後は親戚や土岐一族の元を転々として最後は武田家の世話になっていて、武田家滅亡後に美濃に戻って亡くなった。武田家が面倒を見ていたのは後々に美濃を支配した後で名目上の国守にして美濃の統治を円滑にするつもりだったのかな?
@ikepiikepi0315
@ikepiikepi0315 3 года назад
なる程な…ザックリ言うと義龍に「俺の屍を超えてゆけ‼︎」って道三からのメッセージだったのね
@yoshidald
@yoshidald 4 года назад
大河ドラマ「麒麟がくる」では、エディプスコンプレックスですね
@netscaper0220
@netscaper0220 4 года назад
吉田弘一 難しい言葉を使われるので思わず調べてしまいました。 言い得て妙!
@yamabiko8015
@yamabiko8015 2 года назад
もし義龍が長生きしてたら信長の出る幕はなかった。歴史は変わっていただろう。
@user-ic4sn8vw8n
@user-ic4sn8vw8n 4 года назад
歴史大〜好きです。 早速チャンネル登録しました。 これからも楽しみにしてまーす👍
@user-iv3yw9nq9x
@user-iv3yw9nq9x 4 года назад
最近、美濃で鋳造直後の永楽銭が発掘されました。もしかすると、これに道三と光秀が関わっている可能性があります。つまり、道三と息子の対決も信長の美濃侵攻も永楽銭の発行権が絡んでいたのかもしれません。
@user-vl2po1lh9u
@user-vl2po1lh9u 3 года назад
斎藤道三氏、外征し過ぎて、家臣や領民から怨嗟の声が上がってたらしいんです、
@user-ng3ic1tj8l
@user-ng3ic1tj8l 2 года назад
信長公記ですか。一次資料としては十分信憑性のあるほうですね。それ以前に愛妾を賜るとは、大盤振る舞いですね。まして主君の子を宿していれば、名誉です。
@user-ti5sz8tn4j
@user-ti5sz8tn4j 3 года назад
徳川吉宗の隠し子の噂のある田沼意次みたい❗
@swdkenukigata9025
@swdkenukigata9025 4 года назад
道三が父さんだったのか。
@SuperOoyama
@SuperOoyama 2 года назад
流布本に書かれてる事実と称されてるのが後世に改ざん、付け加えられたものと知らされ、やはりかと納得してる。今は反論ができるネットがあって嘘がわかるようになった。TVの水戸黄門のようなものが歴史書の多くと思うようになった。以前は斎藤道三は一代で成り上がったのが通説で、今は父子二代と言われてる。藩史の研究者が、素人が自分の先祖に都合の良いように書き、出版本が、そのまま別人の歴史家の出版本の資料として嘘のまま記載され困ると嘆いていた。人は信じたいように信じると鎌倉時代の吉田兼好も述べてる。事実を確認することは難しい。
@SPECIALASQ
@SPECIALASQ 5 месяцев назад
たしか、よく聞くのは、「義龍公は、家臣や民から好かれるが、それは’気が弱いから他人に気遣ってしまう’という事だと。道三公は、そんな義龍公は、弱すぎて美濃をダメにしてしまうと心配してたとか。なんともやりきれない親子です。だが!弟たちを殺害したのは、’やりきれない’では済まされない事なので、父親の道三公が心配してた通り、家臣が仕切っていて、義龍公にはどうする事も出来なかったかもしれないです。その方が救われる気がします。
@user-gn7ci8me4f
@user-gn7ci8me4f 4 года назад
ただ、佐々木義賢は斎藤氏を快くは思っていなかったが息子の義治は斎藤氏と手を組もうとしていたらしい。
@user-oi5dt9tt8d
@user-oi5dt9tt8d 2 года назад
ナレーターが「姜えも~ん」の人だ(笑)。さて、「父が別人」説は義龍に限らず、秀吉の息子秀頼や秦の始皇帝等もその例だが、弟達を罠にはめて謀略は父道三譲りに見えてならない。道三を討った理由については、弟たちの存在のみならず父への「半人前扱いしおって」との憤りもなかったとは言い切れない。それよりも、義龍が若死にしなければ、信長の美濃平定は何年遅れたことだろう。
@user-xd4mj9gh9q
@user-xd4mj9gh9q 3 года назад
鶴山ではなく鷺山ではありませんか?
@user-pf4wn5un7i
@user-pf4wn5un7i 4 года назад
ほのぼの日本史と、チャンネルを分けたのだから「はじめての三国志」として動画を製作・掲載するのはどうかと思います。ロゴも三国志ですし。動画の内容はいいだけに残念です。
@user-qq2em5zg4z
@user-qq2em5zg4z 4 года назад
父の愛に飢えてたんやね 義龍🐉!
@user-eh9fe3yl5v
@user-eh9fe3yl5v 4 года назад
武力は知らんけど君主殺しが呂布みたいに人気がない理由かもね。
@user-xj8oz6kv8d
@user-xj8oz6kv8d 4 года назад
美談=信義みたいなところがありますからねー。
@giantnioinoba2023
@giantnioinoba2023 4 года назад
君主は既に自分がなってますから、なによりも不道徳とされる「父殺し」のイメージでしょう。
@user-vl2po1lh9u
@user-vl2po1lh9u 4 года назад
戦ばかりで不満たらたらだったて話しも伝わってますね。見方する兵が少ないのはね。
@dindon1969
@dindon1969 4 года назад
長男とは言え庶流の義龍を家臣団が担いだのは はっきり義龍が道三と対立していて なおかつ道三が嫌われていたからでしょう。 嫡流の孫四郎を担がないのは 親道三では当主としてアテにならない。 孫四郎と喜平次が暗殺されても離反が起きなかったのも そういうことでしょう。 もう1人の弟利治も美濃には残らなかった。 多くの状況証拠が親道三派の排除を物語っている。 道三が義龍に冷たく接していた理由は不可解ですが。
@giantnioinoba2023
@giantnioinoba2023 4 года назад
利治も、姉の帰蝶(というよりも、義兄の信長)を頼って、尾張に亡命。 信長に仕えるも、本能寺の変により二条御所に移った信忠と運命を共にします。 「麒麟がくる」では、いないことにされましたがw
@monaka104
@monaka104 4 года назад
道三と義龍の関係は武田信玄が父親を追放した事件を連想させますね。 義龍は信玄になりそこなったのかな。
@TheHaimani
@TheHaimani 4 года назад
義龍は病弱だったのでは? 能力はともかく肉体的に弱いから、道三は健康な弟達に期待したし義龍を頼りなく思ったのでは。 仮病で弟達を呼び寄せられたのも、病状で仮病に説得力があったから。そして道三の懸念通り、義龍は短命で信長の侵略を許す結果になったんじゃないかな。
@toshichika720
@toshichika720 4 года назад
義龍て本当に道三のこと嫌いじゃないだな信長の援軍がまにあってたら道三は生きてたかもね麒麟が来るの道三役の本木雅弘さんカッコ良かったな
@user-nh6wb9ml6i
@user-nh6wb9ml6i 4 года назад
あの時代にDNA鑑定があればね。
@sinjyu
@sinjyu 4 года назад
出生(しゅっしょう)と読みます…2分20秒
@ok1344
@ok1344 4 года назад
お疲れ様です。 こういう動画が増えてきつつあることを楽しみにしています。 私は史料を重視しすぎるのは問題だと思います。 史料そのものが実際の事実を横から見て書かれているわけではないと思うからです。 私は今の大河を見てその流れから、道三が織田家の内情や周辺諸国との関係性を地政学的に分析し(織田派)の道三(残りの兄弟)と(今川派)の高政との対立に決着を付けたという結論に達しています。 このときの信長は才能は見せていたでしょうが、今川の勢力は強大で、美濃と尾張の同盟関係をどうすべきか道三自身迷っていたのではないかと思います。 その中で斉藤家を残すために打った芝居が高政への家督の委譲ということになるのではないでしょうか? こういう事態は織田家の内紛や弟の殺害、真田家の兄弟分裂などいくらでもあった事案です。決して特別なことではありません。 ・家督を譲り高政との戦になっても織田家との同盟関係に禍根を残さない。 ・織田家には家督を継がせるという遺言状を本当に残した可能性もある(信長の将来も見据える) ・高政と戦って見せることで今川家への政治的アピールができる。 ・高政への権力集中を行うため、お家騒動を避けるため兄弟を分かった上で暗殺させる。 つまり高政政権を盤石にするための一連の流れであったと私は思っています。 土岐氏の血筋については本当であったのかもしれませんので否定はしません。それが分かったとしても生き残りの知恵の一環ではないかと思う次第です。
@user-koenji9818
@user-koenji9818 4 года назад
どうして義龍が今川派なんですか? 自分勉強不足かも知れませんが、初耳です。 史料一辺倒なのは自分も嫌いですが、何の根拠も無いよりはましかと思います。
@ok1344
@ok1344 4 года назад
@@user-koenji9818 義龍が今川派というのはテレビでも語られていませんでしたか? 他にも解説動画がありますからそれはそれで参考にしてください。
@user-koenji9818
@user-koenji9818 4 года назад
@@ok1344 テレビ?まさか大河ドラマじゃないですよね。あんなの根拠ゼロというか捏造ばっかですから。 他の番組でも知りません。 動画でも見かけたことないです。 ありがとうございました。
@ok1344
@ok1344 4 года назад
@@user-koenji9818 素人で地政学も政治の駆け引きも理解できないw ある意味新鮮な驚きだ。 若いのなら日本に希望はないな。
@user-koenji9818
@user-koenji9818 4 года назад
@@ok1344 いやいや、理解も何も根拠が知りたいだけなんで。 義龍が今川派って当時からはっきりしてなけりゃあなたの考察は全く意味ないでしょ。
@user-vl2po1lh9u
@user-vl2po1lh9u 3 года назад
戦争大好き道三さん?、お家騒動一歩手前?、さておき、外征にヒャッハーしまくってた道三さん?に、ご家来や領民も、文句たらたらだったって説、聞いては居ます?、
@v6w95fkucqpe1igfyzei
@v6w95fkucqpe1igfyzei 3 года назад
ネットに強そうな(?)顔してる…
@futamurateiiti
@futamurateiiti 4 года назад
家臣が唆したに違い有りませんね
@lm2449
@lm2449 4 года назад
全然ほのぼのしてない 殺伐日本史
@Hayato_Takezawa
@Hayato_Takezawa 3 года назад
人類の歴史なんて、大半が564合いの歴史だからなw
@expander8325
@expander8325 4 года назад
道三ロス
@tarezou3531
@tarezou3531 4 года назад
義龍は色白の大男で道三とまったく似ていなかったと言われていますがこの話の信憑性はいかに?
@taroyosimoto2681
@taroyosimoto2681 3 года назад
やはり土岐頼芸の子供なのでしょう
@fate8507
@fate8507 3 года назад
道三が頼芸の側室をもらう行為が命取りになってしまったな。😵💧(道三が頼芸の側室をもらう行為をしなければ頼芸の本当の子に殺されなくすんだのに。😥😥😥😥😥😰😰😰😰😰)
@dna4178
@dna4178 3 года назад
🍎どうして実の父を手にかけたか・・・その真実は「嫉妬」・・・道三が信長を褒め過ぎた。・実の息子である自分より他人の信長ばかりを褒める父に対して怒りが出てきた。嫉妬から怒りに変わって、打ちたいと思う対象が信長から父親に変わっていった・・・「どうした?義龍なぜこのようなことを…」「俺はあんたが大嫌いだ、何でもかんでも信長、信長、俺にもできる。俺にも、信長と同じくらいのことは出来る!わかったか!」・・・詳しくはチャネラーが関与して書き上げた本、「縄文を作った男たち信長、秀吉、そして家康~」にて。🍏
@TS-qi3dm
@TS-qi3dm 2 года назад
おじゃる丸みたいな絵だな。
@user-ti5sz8tn4j
@user-ti5sz8tn4j 4 года назад
明智光秀の孫の子孫に坂本龍馬がいる。 斎藤義龍の死は暗殺という説あり。
@user-wp9jn8fg4l
@user-wp9jn8fg4l 4 года назад
風魔忍者ぶきみ丸 坂本龍馬が日向の子孫とか俗説にも程がありますね、ただの百姓の子孫ですよ
@hononi
@hononi 4 года назад
【動画の目次】 義龍の父が道三ではないという話は虚構 01:12 一色氏を名乗った義龍 02:47 六角承禎条書には道三の子と記録される 04:14 義龍が道三を討った動機 05:18 道三の罪滅ぼし、自ら義龍に討たれた道三 06:28 戦国時代ライターkawausoの独り言 08:09 あなたは斎藤義龍が斎藤道三を討った本当の理由についてどう思いますか? 💟参考になった皆様の考察・歴史感をコメント欄に固定化させていただきます。 ※あなたの考察やご意見をコメント欄までお待ちしています。
@user-hh3mh1tu3q
@user-hh3mh1tu3q 4 года назад
ここまで、親子が、争ったのは、稀です。 行き渡った説をひっくり返すのは、どうでしょう。
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